92話 兵庫県大会決勝VS神戸海稜④
「あいつ、マメ潰してるんじゃない?」
六回の表ワンアウト、強烈な一打を放ち、二塁を陥れた沙音璃は、私へ言った。一瞬、意味を理解できなかった。だけども、頭の中で何度も繰り返すのち、言葉が真実味を成していく。
今日一回目の守備のタイムを、日菜子先輩が取った。私たち内野はマウンドに集まる。
「右手、見せて」
日菜子先輩に言われ、乃愛は自らの手を突き出した。先輩はそれを見て、
「やっぱり……」
沙音璃の言うとおり、乃愛の右手にあるマメが潰れていた。中指の真ん中の皮が剥がれ、皮下の赤みが生々しく露出している。
「いつから?」
「五回から潰れそうでやばかったですけど。上橋さんの打席中、ついに」
乃愛は「ごめんなさい」と頭を下げた。
「謝ることじゃないわ。あなたはよく投げてくれた。綾乃の準備も万端だし、あとは任せて」
「どうですかねえ。綾乃には、できるだけ負担をかけたくなかった。きっと海稜は、綾乃ばっか研究してたでしょうから。ノーマークなわたしが、いけるところまで……せめた回の途中で代わるのは、避けたかったですけど」
「いいからいいから。今日のあなたを、誰も責めることなんてできないから。ね?」
日菜子先輩が内野陣へ同意を促すと、皆一様に頷いた。選抜準優勝、神戸海稜相手に、六回途中まで無失点なんてナイスピッチングとしか言いようがない。
「だったらいいですけど……綾乃には、“ごめん、あとは任せた”って言っていてください」
乃愛は治療のため、ベンチ裏に下がった。内野陣は「ナイスピッチング」と言って送り出した。
「あいつ、相当悔しいみたい」
明日葉が乃愛の方を見つめ、言う。
ライトにいた綾乃が一回ベンチへ戻り、グラブをピッチャー用に変え、マウンドへと上がった。
「いきなりピンチだけど、頼むよ。あと乃愛が“ごめん、あとは任せた”だって」
「は、はい……」
終盤、一点差、ランナーを二塁においての登板、並の人間でも心臓が圧迫されるほど緊張してしまう場面である。
ましてや、並の人間より心臓が小さい綾乃であれば、この場に立っているだけですらきついのかもしれない。川面にうつる淡い光のよう、瞳が揺れる。日菜子先輩がボールを受け取るそのグラブも、微妙に震えていた。
「大丈夫。もし打たれても、全部あいつのせいだから。こんな場面で降りるなんて、無責任だわ」
明日葉はグラブで口元を隠し、綾乃へ顔を近づけ、言う。
「桜希もそう思うでしょ?」
「うん」
明日葉が本気でなく、ただ綾乃の気持ちを楽にするために言っていることはわかっていたけど、とりあえず頷いた。
「はい……」
曖昧にそう返した綾乃は、投球練習を始める。私たちの言葉が効いたかどうかはわからない。
治療を終えた乃愛が勢いよくライトへと走っていき、球場全域から拍手を受ける。乃愛と綾乃のポジションが入れ替わる旨のアナウンスがされ、一塁側スタンドから綾乃への激励の言葉が湧いてくる。
「どうしてわかったの?」
「投げ方が、指のつぶれたマメをかばうような投手の、典型的なそれだったから。きっと、スプリットの投げすぎ」
私たちのタイム、さらに乃愛の治療をずっと二塁ベース上で待っていた沙音璃は、綾乃の投球を静かに見ていた。
「ようやく、あたしたちに流れが来た」
不敵な自信が、沙音璃の口元にわずかに漏れていた。
「ずっとあたしたちは、森下綾乃に照準を合わせ、練習してきた。だから末広乃愛にここまで苦戦した。あいつの成長も理由にあるけども」
乃愛も同じようなことを言っていた。やはり海稜は、綾乃の方を決勝の先発と想定し、マークしてきた。
「そして、神戸海稜打線にとって、森下綾乃はたいした敵でない」
「なっ……」
「だって、投球スタイルを考えてみてよ。森下なんて、完全にあたしの劣化版みたいなものじゃない。普段からあたしの球で練習している人にとっては、脅威じゃないでしょ」
恵まれた体格から奮われるストレートに、決め球のスライダー。沙音璃と綾乃は多くの共通点を持っている。そして多くの点において、沙音璃の方が上だ。
沙音璃の理論は筋が通っていた。だけども、断言的で、独善的な、棘を宿った口調に、腹が立つ。
「それにほら、なんかあの子、ハートが弱そうじゃない? こんな場面で出させられて、大丈夫なのかな?」
「プレイ!」
投球練習を終え、試合が再開する。一点差ワンアウト二塁、打席には海稜の四番、西川さんが右打席に立つ。
ランナーの沙音璃は俊足だ。長打がある四番といえども、ホーム生還を防ぐため、外野は前進隊形をとる。
セットポジションから、ランナーの沙音璃を目で牽制したあと、左足が上がり、第一球、
「いっ!」
瞬間、バッターの悶絶する声がここまで届いた。球審が一塁を指さす。デットボールだった。
「ほら」
“言ったとおりでしょ”と沙音璃は私へ微笑む。
「この感じだと、この回、うちが逆転する。それで裏に、君と“あしたば”を抑えて、この試合は終わりってのがいいな。どう?」
青がかった瞳は妖しく光る。
「そんな簡単にはいかないよ」
「ふーん」
ワンアウト一二塁と代わり、左打席に五番、森さんが入る。一球目はカーブが甘く入ったが、バッターは様子を見ようとしたか、振らなかった。二球目、低めに制球されるはずだったストレートが、高めに浮く。
バッターは振り抜いた。守備陣にはどうしようもなく、白球はセンターへと抜けていく。捕球を処理したすみれ先輩は、バックホームできない。二塁から本塁まで、沙音璃が一瞬にして駆け抜ける。三塁側からの歓声が、球場全体へ広がっていく。
1-1の同点、試合終盤にして振り出しに戻る。いや、振り出しとはとても言えない。ここにきて追いつかれた千庄と、やっと追いついた海稜では、事態への受け止め方が違う。メンタルにずっしりと来る、一点だった。
「綾乃、落ちついて!」
制球の定まらない、気の動転した可哀想な背番号1へ、明日葉が声を掛ける。が、負のスパイラルは終わってくれない。六番の松田さんを歩かせ、ワンアウト満塁と、千庄は崖っぷちに追い詰められる。
『七番ショート、大島さん』
七番への初球は、相変わらず甘く、誘き出されるよう、ストレートが高めに向かっていく。嬉々として迎えにいったバッターだったが、打ち損じる。フライとなって、空中をふらふらと舞う。
歓喜したが、直ちに感情は裏返る。悪い予感が全身を駆け巡る。
打球の予測落下地点は、明日葉と乃愛の間、ちょうど中間だった。内野と外野にポトリと落ちるヒットを想像し、心臓が縮まった。
「オーライオーライ!」
明日葉が両腕を回し、自分が捕るとアピールした。グラブを掲げ、空からのボールを待つ。ホッとした瞬間、再び絶望が帰ってくる。同じく打球を追っていた乃愛がまだ、ボールを追っている。当然、二人は重なる。
明日葉がボールを捕球した瞬間、乃愛が突っ込み、二人は衝突する。
「ああっ!」
しかし明日葉はボールを離さない。ちょっとバランスを崩すも、すぐに体勢を立て直した。タッチアップ――ホームを狙った三塁ランナーは、スタートを切るも、状況を見て、即座に帰塁した。
「あっぶな……」
一塁側スタンドからは安堵のため息、三塁側からは失意のため息が漏れる。やらかし未遂の乃愛は、必死に明日葉に謝っていた。明日葉は適当に右手をひらひらと振り、あしらっていた。
「冷静になって」と一喝したいところだけど、乃愛の気持ちも理解できる。きっと乃愛は、このピンチを自分がもたらしたと責任を感じ、気持ちが先走ってしまったのだと思う。
「ツーアウト!」
日菜子先輩が綾乃へ声を掛ける。満塁というピンチは変わらずとも、アウトカウントは増えた。ツーアウト、あと一つだ。
海稜の八番が、左打席に立つ。
『八番キャッチャー、与田さん』
一球目は外角低めへとバッチリ決まる、ストレートだった。球審が力強くストライクをコールする。今日初の、良い球かもしれない。アウト一つ取ったことで、気持ちが落ちついたのか。
そんな期待もむなしく、二球目のストレートはまたも真ん中付近へと向かってしまう。バッターは思いっきり踏み込み、引っ張る。キィンと気持ちのよい音を立て、打球はライト線付近へと落ちるヒットとなった。
乃愛が回り込み、前へ出ながら、ボールを取る。三塁ランナーは、余裕でホームを踏めそうだ。二塁ランナーも三塁を回り、ホームへ向かうんだろう。
乃愛は間違いなく、ホームへの送球を試みる。それも中継役を必要とせず、直接、日菜子先輩へ送球を届けようとする。
乃愛の位置からホームへの距離は結構ある。それでも乃愛の肩なら届くと思う。ただ、送球は逸れる可能性は高い。普通でも正確な送球はなかなか厳しい距離だし。乃愛の右手はマメが潰れている。絆創膏やらテーピングしているとしても、送球に影響は必至だ。
タイミングはギリギリで、仮に正確な送球でなければ、二塁ランナーをアウトにはできない。
私はこの瞬時のうち、思考をめぐらせ、次の行動を決めた。
ホームへ向けて走り出した。乃愛がボールを思いっきり、遠投する。それは私の予測通り、乃愛から日菜子先輩へと繋がる直線から、外れていた。私はボールの予測到達地点に向かって、なおも走った。
日菜子先輩は三塁側へと逸れたボールを追いかけ、ホームベースを留守にしようとしていた。
「日菜子――そのまま!」
私の声を聞き、先輩は、乃愛の送球を追うのを止めた。二塁ランナーは本塁手前まで来ている。このままだと、ボールは逸れ、ランナーが本塁を踏む。でも、そうはさせない。
逸れたボールを、勢いよく走ってきた私は捕る。そしてすぐに持ち替え、バックトスで本塁へ。日菜子先輩が捕り、スライディングしてきたランナーにタッチする。
「アウトッ!!」
球審は、思いっきり右腕を振り下ろした。海稜の三点目が阻止され、球場に割れんばかりの大歓声が起こる。
「さ、さっちゃん、何してんの……!?」
日菜子先輩は、事態をはっき呑み込めていないのか、ポカンと私を見つめていた。
私がやったことは、乃愛の逸れた送球を、ちょっと軌道修正しただけ。確実に捕る、即座に持ち替える、正確で速いトスをする。全部を完璧にこなさなければ、アウトにはできなかった。
「上手くいってよかったです」
ベンチに戻る途中も、戻ってからもみんなにもみくちゃにされた。千庄はお祭り騒ぎだった。逆転された直後だというのに、まるでこっちが逆転したチームみたいだ。
「桜希~!」
叫びにも似た声が聞こえ、ライトから一目散に走ってきた乃愛が、私に強く抱きついた。
「助かったー、ありがとー。大好きー!」
「どうも。でも乃愛、痛いって」
「あっ、ごめん」
「もう、気持ちはわかるけど、もっと冷静にね」
「うん」
私たちの様子を見ていた日菜子先輩が、突然私を指さし、
「そういえば。さっきあなた、私のこと、“日菜子”って呼び捨てに……」
「あっ……あれは咄嗟で、“先輩”ってつける余裕なくて」
「そんなこと言って、影では呼び捨てだから、咄嗟に出たんでしょう」
「そんなことないですよ。ね、乃愛?」
同意を求めたが、乃愛は首をかしげ、何にも返してくれなかった。
「ちょっ、否定してよ!」
周りから笑いが漏れる。逆転されたというのに、全然悪い雰囲気にならない。まだまだいけると、感じた。
◇◇◇◇
六回裏の千庄の攻撃は打順よく、一番の明日葉から始まる。
「さっきの桜希、今までわたしが見てきた桜希で一番かっこよかった」
「そう?」
明日葉はバッティンググローブを手にはめ、バットを持つ。無駄話をしているうちに、沙音璃の投球練習はほとんど終わっていた。
「とりあえず同点、ね」
「うん」
「行ってくる」
明日葉が打席に向かった。遠くのスコアボードには、大きな“2”という文字が刻まれた。スコアは1-2、私たちに残された攻撃は二回だけ。私たちから始まる攻撃で、最低でも同点にしたい。
『六回の裏、千庄高校の攻撃は、一番セカンド、関長さん』
明日葉が右打席に立つ。海稜のマウンドはもちろん変わらず、沙音璃が立ち続ける。両者にらみ合った後、沙音璃は腕を大きく振りかぶり、第一球を投じた。
最後の桜希のプレーのイメージ。MLBニューヨークヤンキースのデレク・ジーターが2001年のポストシーズンで見せた伝説のプレーです。
https://youtu.be/ApoJk9X7Vto
ライトからの送球を補助した感じ。ちょっと現実離れかもですけど、いつか書いてみたかったプレーでした。まあ、フィクションということで……。
それにしてもやっぱりジーターは凄いです。このプレーの凄さは“何でそこにショート(ジーター)がいるの!?”というのと、ポストシーズンの一点差リードという大事な場面で成功して、同点となるのを防いだ、ということですね。
詳しく知りたい方は“ジーター The Flip”で検索してください。




