89話 兵庫県大会決勝VS神戸海稜①
まさに野球日和だった。雲ひとつ無く、晴れ渡った夏空が彼方まで広がっている。カラッとした空気は打球音をどこまでも運んでくれそうだった。
後攻めの私たち、千庄高校のシートノックが終わり、グラウンド整備が行われた。私はバットを振って、試合開始までの時を過ごした。
内野スタンドには両校の関係者はもちろんのこと、一般の観客もたくさんいて、空席がないほどだった。
「やっぱ決勝だけあって、お客さん多いんですね……緊張してきました」
隣でバットを振っていた一年生、綾乃が言った。綾乃は今日、六番ライトでスタメン出場で、ピッチャーとしては先発の乃愛の後をリリーフする予定だ。
「別に綾乃を見に来ているわけじゃなくて、観客みんな桜希先輩を見に来ているんだから、余計な心配しなくていいから」
同じく一年生、美月が手を振って茶々を入れる。準決勝までと同様、美月は九番サードでの出場で、明日葉と私へのつなぎ役として、大いに期待がかかる。
「いや、どっちかというと私じゃなくて、沙音璃の方じゃないの」
「まあ、両者のファンの半々ってところですね。あたし昨日ネットで調べたんですよ。桜希派と沙音璃派どっちが多いか。そしたら綺麗に五分五分でした」
私があきれて何も言えないでいると、明日葉が、
「ずいぶんと暇なのね、あなた」
と言った。
「ちなみに、明日葉派もちょっといましたよ」
「あっそ」
二人のやりとりに、綾乃がくすくすと小さく笑った。決戦を前にしても相変わらずな美月ではあるけど、美月が普段通りでいてくれるだけで、張り詰めた空気が和らぐ。
グラウンド整備が終わった。千庄部員たちは、日菜子先輩を中心に小さな円を作る。少女たちの体温が一点に集まり、辺りの空気を暖めていく。
「去年の決勝では、私たちは海稜相手に完全に挑戦者でした。相手に、見下ろされる立場だったと思います」
日菜子先輩が熱っぽく言う。五番でキャッチャー、そしてキャプテンとして、チームを引っ張ってきた。
「でも私たちが勝って初めて、全国に行きました。それから近畿大会、選抜と経験を積んで。もちろん、相手もその間に選抜準優勝したり、実績を積んだけど、でも、決して私たちも見劣りするものじゃないです。
去年と違い、もう千庄と海稜は対等。びびらず、気持ちで負けず、これまでやってきたことを全部出して、勝とう!」
「はい!」
みんながさらに密集し、小さく屈む。
「優勝して、全国行くぞー!」
「おー」
皆の声が揃った。一塁側のスタンドからも部員たちを鼓舞する、たくさんの拍手がやってくる。気持ちがいよいよ、試合へと向かっていく。
「桜希、明日葉」
すみれ先輩が私たちを呼んだ。先輩は三番センター、私たちの後を打つ。
「作戦通り、積極的に走ってよ。きっとチャンスは多くないだろうから」
「了解です」
審判四人が慌ただしく球場に入ってきた。両部員は一列を作り、試合開始の整列を待つ。その時、目の前に並ぶ明日葉が、私の左手を取った。
「どうしたの?」
「桜希の緊張度をチェック。わたしはあなたのメンタル担当だし」
どうやら、私の脈を計っているみたいだった。
「確かにそうだけど……で、どうだった?」
「大丈夫だと思う。安心して」
「そっか。なら安心だ」
自分でもわかる。わくわくから来る高揚感と、緊張から来る不安と、しっかりと準備を重ねてきたという自負から来る冷静さが、いい感じに均衡している。体も動く。ベストコンデジションだ。
「じゃあ私も、明日葉の」
私が明日葉の右手を取った瞬間、テンポのいい明日葉の脈を感じることができた。
「うん、大丈夫」
「どうも」
審判団の準備が整ったみたいで、球場の雰囲気が変わった。審判がホームへと駆け出し、両チームもそれに続く。選手たちがホームを挟んで整列する。
相手の列で一段目立つ、上橋沙音璃と目が合う。笑みはなく、くっきりとした瞳が強く私を指す。
日菜子先輩の言うとおり、去年の私たちは完全に見下ろされていたと思う。特に沙音璃は私のことを完全に舐めていて、試合開始の整列では私へ笑顔を見せたりしていた。
でも、去年とは違う。両者にとって、絶対に負けられない。視線をぶつけられても、絶対に逸らさなかった。なにか球審の人が喋っていたけど、あんまり入ってこなかった。
お願いします、と両チームが微妙にずれて言う。少女たちが作る二本の線が解けてゆき、散っていく。決勝戦が始まった。
◇◇◇◇
『守ります千庄高校。ピッチャー、末広さん』
球場にアナウンスが響き渡る。背番号9、乃愛が一球一球マウンドの状態を確認しながら、投球練習を行っていた。
「後先考えず、全力でいくつもり。後ろに綾乃が控えてるしね」
「スプリットは?」
「もちろん使うよ。この試合のために今まで隠し通してきたんだから」
満を持しての先発で、抱えきれないくらいのプレッシャーを抱えていてもおかしくないのに、乃愛は試合前、どこか飄々としていた。
『ショート、青見さん』
千庄ナインの名が呼ばれていく。その度に、一塁側スタンドから拍手が上がる。ライトの綾乃の名がアナウンスされて少し経つと、乃愛の投球練習は終わった。
「しまっていこー!」
「おー!」
日菜子先輩の掛け声に、みんなが答える。
『一番センター、中嶋さん』
神戸海稜の一番打者が、右打席に入ると、三塁側スタンドからも歓声が巻き起こる。ブラスバンドはいなくとも、大所帯の部員たちの声と、太鼓の音で球場を活気たてる。
「プレイ!」
バッテリーのサイン交換が一瞬で終わる。乃愛はバッターとにらみ合った後、セットポジションから第一球、
「ストライク!」
試合開始直後だけあってか、球審は声を張り上げていた。たった一球でも、一塁側スタンドは盛り上がる。キャッチャーからの返球を受け取った乃愛は、すぐに構え、テンポ良く二球目を投じる。
少し中に入ったスライダーだった。バッターは振りにいき、真芯で捉える。快音が鳴った。
「アウト!」
幸運にも、飛んだ先には結衣先輩がいた。足を止めて先輩はボールを掴み、最初のアウトを取った。
結衣先輩から私へ、私から乃愛へボールが渡る。最初のアウトをラッキーな形で得た乃愛は、安堵の表情を浮かべていた。
『二番セカンド、佐藤さん』
小柄な左打ちの佐藤さんは、粘りが持ち味の二番だ。次の沙音璃の前にランナーは出したくない。簡単に片付けたいところ。
一球目、ストレートを佐藤さんは見逃し、ワンストライクとなる。二球目、バッテリーはカーブで簡単にストライクを取った。佐藤さんはなおも振ってこなかった。
以前の乃愛なら、空振りを取りにいきたい時は、スライダーを選択するしかなかった。しかし今はスプリットがある。そのどちらかで、勝負を決めにいくだろう。
しかし、バッテリーは私の予想を裏切り、内角へのストレートを選んだ。おそらく佐藤さんも一球外してくるか、またはスライダーを予測していたのだろう。完全にバットの根っこにボールを当て、力の無いセカンドゴロになった。
「ツーアウト!」
乃愛は右手にきつねを作り、守備陣へと声を飛ばす。スプリットがあることで、余裕が生まれ、今のような意表を突いた勝負ができる。新しい武器を持ったことによる相乗効果で、乃愛は、ピッチャーとしてのレベルを格段に上げていた。
『三番ピッチャー、上橋さん』
今日一番の歓声が球場を包む。ゆったりと歩き、高校球児らしからぬスピードで沙音璃は右打席に立つ。まるで歓声が止むのを待って打席に立つ、プロ野球のスター選手のようだ。
沙音璃はバットを高くに掲げる。長身と相まって、ピッチャーを見下ろすような、異様な威圧感がある。乃愛は少し間合いを持ち、一球目を投じた。沙音璃は左足を高く上げて、ボールを呼び込む。
ボールは横へ滑っていく。スライダーだった。ストレートを待っていたのか、沙音璃はピクリともしない。まず、乃愛がストライクを先行させる。二球目、
「ストライクツー!」
またしても、スライダーだった。これも沙音璃の裏をかいたか、振ってこない。追い込んだ。
三球目、日菜子先輩は高めのボールゾーンへ構えた。乃愛の投じたストレートは、要求よりも少しだけ低い。沙音璃は、高めの直球を迎え撃った。
「ファウル!」
バットはボールの下を叩き、真後ろへボールは飛んでいき、バックネットに突き刺さる。球場のあちこちから、感嘆の息が漏れる。真芯で捉えていれば、バックスクリーン直撃のホームランになっていたのではないかと思わせるような、豪快なスイングだった。
ともあれ、ここが絶好のタイミングだ。海稜が乃愛のことをしっかり調べ上げているならば、あれ? と思っているはず。決め球であったはずのスライダーを、ストライクを取りに行く、カウント球として使っている。それは、スプリットがあるからだ。
四球目、乃愛は、満を持してスプリットを投じた。沙音璃のバットは空を切った。
「ナイスピッチ!」
三者凡退、それも沙音璃を空振り三振に取った。千庄ベンチが活気づかないわけがなかった。
◇◇◇◇
乃愛が私と明日葉へ言った。
「先取点、頼むよ」
最高の形で最初の守りを終えた。これで先取点を奪えれば、試合の主導権を完璧に握れる。
『ピッチャー、上橋さん』
マウンドの、沙音璃は投球練習を軽めに行っていた。これじゃ調子を判別することはできない。
「とりあえず、あいつの調子見てくるわ」
投球練習が終わり、明日葉がバッターボックスに向かう。一番セカンド関長さん、というアナウンスを受けながら、右打席に入る。
「プレイ!」
沙音璃が両腕を振りかぶる。右足が、体にくっつくほど高くへあがる。豪快な準備動作で蓄えられたエネルギーが一点に集約する。全身から腕へ、腕から手へ、そして指へ、ボールが放たれる。
「ストライク!」
ストレートがキャッチャーミットに突き刺さる。速い。球場が大歓声に湧く。
二球目、またしてもストレート。明日葉は振りにいったが、打球は前に飛ばず、後ろへのファウル、追い込まれる。
三球目、外へのスライダーにバットが空を切った。空振り三振、沙音璃は大きくガッツポーズした。三塁側だけでなく、球場全体が揺れるような歓声をあげる。
明日葉は三振にも動揺する表情を見せず、小走りでベンチへ戻る。すれ違い様、
「残念ながら、絶好調みたい」
と言った。確かに、まだ一人にしか投げてないけど、私が今まで見た沙音璃の中でも、一番かもしれない。
『二番ショート、青見さん』
沸き立つ球場の音を背に、私は左打席に立つ。一年ぶりの、沙音璃との対決だ。




