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88話 最強の矛と最強の盾

「ごちそうさま」


「もういいの?」


 母はもっと食べたら? と勧めるけど、私はすでに腹九分だった。これ以上食べたら、明日に影響が出るかもしれない。使った食器を流し台に持っていき、水に浸ける。夕食を切り上げ、二階の部屋へと上がる。


 スマホ片手にベッドへ寝転ぶ。ひっきりなしにおすすめされる動画たちを、なんとなく眺める。食事中リビングに流れていたテレビのバラエティもそうだけど、どこか入り込めない


 部員たちが投下したメッセージの通知が連続的に来る。みんなもこんな気持ちで、今という時間を過ごしているのだろうか。明日のことを考えると、気持ちが高ぶったり、心が不安を覚えたり。リラックスに努めようとしても、穏やかには遠く、体がそわそわする。


 胃がある程度夕食を消化した頃をみはかり、バットを持って外に出た。駐車スペースの空いた場所でバットを振った。


 目の前の道路を散歩をする夫婦らしき男女二人組が通った。女の人のほうが私に気付くと、「あれ、桜希ちゃん?」と言った。


「こんばんは」


「こんばんは。あっ、今日準決勝だったっけ。勝ったの?」


「はい、なんとか」


「そっか、じゃあ明日決勝?」


「そうっす」


「そっか、頑張ってね、影ながら応援してるから」


 昔から知っている近所の人だった。二人が去ったあと、また一度集中し直し、明日のことを考える。


 今日の昼行われた兵庫県大会の準決勝、明石女子との試合は6-2で千庄の勝利だった。


 先発した奈桜先輩が4回1失点、あとを受けた綾乃が2回1失点。綾乃の調子が今ひとつに見えたのは懸念材料だが、二人とも纏まった点は許さなかった。


 打線は初回、三回、五回と二点を奪うという効率的な攻めを見せた。ちなみに私は二打数二安打二四球と、初戦から続いていた連続出塁記録は一応、途切れなかった。


 千庄は一度も相手にリードを許さなかった。完勝と言っていい。ただ明日への好材料になるとは思っていない。決勝の相手、神戸海稜は、これまでの相手とは文字通りレベルが違う。


 明日、海稜のマウンドに立ち、私たちの前に立ちはだかるであろうエース、上橋沙音璃。彼女の姿を至極明細に思い浮かべる。長くスラリとした体躯がマウンドに現れる。見下ろさせれる感覚。

 

 彼女は大きく振りかぶる。右足を体にくっつくぐらいに上げる。ダイナミックなフォームで、彼女のブロンドの髪は揺れる。彼女の右手を離れた白球は私を襲う。「ファウル!」と球審が言ったのが聞こえた。想像の中でも捉えきれなかった。


 夜の八時を回った住宅街はとても静かで、スイングの風切る音が辺りに何度も響く。何回対決しても打てない。


 ストレートは速いだけでなく、回転数が多く、浮き上がるように感じる。スライダーは狙っていても当てることができるか分からないほどの、切れ味。高校生を飛び越して、大人含めても日本トップクラスかもしれない。


 イメージ上の対決を四打席したのち、スマホが鳴った。メッセージの通知でなく、私への電話のコールだった。


「もしもし」


「あっ、桜希。今何してる?」


「今? 今は、あなたのことを想ってたところ」


 イメージしていたまさにその人、沙音璃からだった。


「えっ! 想ってた、ってどういう意味なの? もしかしてあたしのこと……」


「別になんもない。ただ、あなたをイメージして、素振りしてた」


「あっ、そう……で、そのイメージのあたしを桜希は打てたのかな?」


 明らかに私を煽る口調だった。挑発には乗らないよう努める。


「三打席で2三振、ピッチャーゴロ一つ」


「へえ。今日のあたしの妄想よりは桜希にとっては良い結果じゃん。あたしの中では三打席全部三振に打ち取ったから、桜希のこと」


「はぁ」


 直接対決を明日に控えても、相変わらずの大言壮語で、なんだか安心感を覚える。


「なんでいつもそんな、おっきなこと言えるの?」


「ええー、なんでとか言われても本音言ってるだけだし……強いて言えば、自分にプレッシャーかけるのと、口にすることで目標を明確にしてる」


「ふーん。凄いね」


「桜希は、あんまり言わないよね、そういうこと。この前のインタビューでも、将来の夢聞かれても、はぐらかしてたし」


「それは……ホントにないだけだよ。夢なんて言われても、わかんない」


「……前々から思ってたんだけど、桜希って、なんで野球してるの?」


「なんでって……」


「あんまり桜希から野球への情熱を感じたことないんだよね」


 痛いとこ突かれたからか、私の口は返しを紡げなかった。


「まあ、なんでもいいけどね。あたしは楽しい勝負ができたらいいし。桜希が良い感じにあたしの踏み台になってくれたら」


 沙音璃は私の返しを待たず、「さてと」と言って、


「去年君にやられた右手、あの借りを明日返すつもりだから」


 彼女の軽かった声のトーンが、深みを帯びた、妖艶なものへと変わった。背筋が、ゾクリとして、圧迫感を全身に覚えた。


「君はあたしになんか言うことないの?」


「……沙音璃は、明日先発?」


「うん、最初から最後までマウンドに立ち続けるつもり。それだけ?」


「う、うん……」


「あらそう。じゃあ、また明日。楽しい勝負をしようね」


◇◇◇◇


 纏わりつく重たい空気を振り払いたくて、何度もバットを振った。大粒の汗をかいた。そのあと風呂に入って、髪を乾かしたりしたりしてたら、時刻は10時半を回ったころだった。


 スマホの通知はこなくなった。常に誰かが明日の試合について呟いてた状態だったけど、日菜子先輩が「スマホを置いて早く寝ましょう」という指令を出したことで、みんなのメッセージは止まった。私は最後、“相手の先発上橋沙音璃だそうです。”とだけ送った。


 あとは歯磨きさえすれば就寝に入れる。明日に向け、早く寝るべきなのはわかっているけど、やっぱり気分がそうさせてくれない。


 明日葉の声が聴きたい。スマホに手が伸びる。あとタッチ一つで明日葉との電話がつながるところまで来る。だけども、あっちがもう寝ている可能性に思い当たり、二の足を踏む。


 “起きてる?”とメッセージを送ろうと考えた。ところが、ちょうど打ち終わり、送信しようとした瞬間、スマホが鳴った。


「も、もしもし!」


「あっ、起きてた?」


「うんうん!」


「どうしたの、なんかテンション高いけど」


「なんか眠れそうになくて、ちょうど明日葉の声聞きたかったから。ちょー嬉しい」


「ふーん」


「明日葉は、なんか私に話でも?」


「ん……いや、別に。ただ……桜希の声が聴きたくて」


「そっか、奇遇だね」


「うん、奇遇」


 明日葉の声を、そのすました声を聴いていると落ちつく。心地よさが血液と一緒に全身を巡っていく。


「じゃあ世間話でもする?」


「うん。お題は?」


「えーと、うーん。毎日話してるから、話してないテーマをなんも思いつかない。明日葉が決めて」


「えー。じゃあ、最近の巨人について、でもいい?」


「なんでもいいよ」


「今巨人は阪神ヤクルトと首位争いしてる。キャプテンが結構好調で、打線を引っ張ってる」


「巨人のキャプテンって、確か明日葉ん家の犬の名前の元ネタだっけ」


「そう」


 明日葉の巨人談義は続いた。去年からいた外国人投手が166キロの日本プロ野球新記録をマークするなど覚醒し、抑えとして大活躍しているとか、いくつか話を聞いた。だけど私のプロ野球の知識は薄いので、


「なんか、桜希に話しても反応薄くて面白くない」


「ご、ごめん……」


 仲間から浮くレベルでプロ野球の知識が無かった私は、今年の春からは意識して情報を仕入れるようにしていた。とはいえそれは付け焼き刃だし、部活で忙しかった最近は全然、終えていない。


「まあわたしも、最近全然試合は見れてないけど、結果ぐらいしか確認してない」


 プロ野球に限らず、私は野球に関する知識が薄い。2時間前に沙音璃に言われた一言を思い出す。


「ねえ明日葉」


「なに?」


「私は、野球への情熱が足りないと思う?」


「どうしてそう思うの?」


「さっき、沙音璃に言われたから」


 沙音璃との電話の内容を、明日葉へ話した。すべてを聞き終わり、明日葉は、


「そんなこと気にしてどうするの」


 と、きっぱり言った。


「気にしてるというか、そう言われて急に不安になったんだよ」


「それを、気にしてるって言うの」


「……沙音璃には、負けたくないと思ってはいるけど、根本の部分、野球への情熱で負けているじゃないかって、正直図星だった。今まで流されるままに野球してたから。自分の夢を自信満々に大きな声で言える沙音璃に比べると、私は、目標も、野球をする理由も、なんにもない」


 沙音璃への反論はつっかえて出てくれなかった癖に、ネガティブな言葉たちは淀みなくすらすらと出てくる。めんどくさい奴。


「わたしが今、なに考えてるかわかる?」


 明日葉は言う。私が「えっ」と戸惑うと、


「今桜希が目の前にいたら、抱きしめてキスしてあげるのに、って」


「っ……変なこと言わないでよ」


「変なことじゃないよ。ホントに思ってること。それで、二つ言わせて。まず一つ、上橋沙音がああいう言動をできるのは、メンタルが強いからじゃないと思う」


「どういう……」


「あいつはたぶん、弱い人。今だって、わたしたちに打たれることにビビってると思う。あいつが自分を大きく見せようとするのは、弱い自分を隠すため。虚勢を張っていると言っていい」


 思い当たる節がないわけではない。去年の夏の兵庫県大会決勝、今年の選抜決勝、いずれも沙音璃は負けたあと、泣いていた。


「もう一個言うと、桜希はちゃんと野球への情熱を持ってる。他の人よりずっと。上橋沙音璃にも負けないぐらい」


「なんで……?」


「一番近くで見てきたんだもん、それぐらいわかるよ。10歳の頃からわたしは桜希を知ってるけど、桜希はいつも楽しそうだった。高校入ってからもだよ。

 はっきりと言葉にはしないし、将来はまだ形できないかもだけど、でもわたしは知ってる。桜希はちゃんと野球が大好き、あと、わたしはそんな桜希が好き」


「……私、今明日葉が目の前にいたら、胸に飛び込んで泣いてると思う」


 今年の決勝の舞台は割と近場だ。去年のように宿を借りたりしない。宿舎だったら、こうして距離を隔たれることはなかったのに。


「面と向かってなら、さすがに恥ずかしくて、そこまで言わなかっただろうけど」


「また明日、おんなじこと言って」


「嫌、恥ずい」 


 でも、明日葉のさっきの言葉が対面じゃ聞けなかったのなら、まあいいや。


「そろそろ寝る」


 時計の短針は11時を回っていた。そんなに長話はしていないつもりなのに、時間が経つのは早い。


「うん、ありがと。おかげでよく眠れそう」


「こっちこそ、じゃあ、おやすみ」


「うん、おやすみ。明日、頑張ろ。沙音璃の奴を、ぎゃふんと言わせてやろ」


「もちろん」


 電話がプツリと切れた。でも、寂しくなかった。


◇◇◇◇


 決勝当日、睡眠は上々で、目覚めは悪くなかった。朝ご飯を食べ、身支度をし、前日に準備済みの荷物を抱え、家を出た。


 学校に到着した。明日葉は親に送ってもらっていて、すでに来ていた。


 みんな揃ってバスに乗り込み、球場へと向かった。目をつぶって音楽を聴いている内に球場に着いた。


 外でアップをして体を温め、球場の中へと入った。今日は一塁側ダグアウトだ。光沢ある内野の黒色な土で、外野の芝生は青々としている。視界の先には、バックスクリーンが大きくそびえていた。


 何度もプレーしたことのある球場だけど、この舞台に足を踏み入れると、気が引き締まり、体に力が入る。


「先輩。さっき思ったんですけど」


 ダグアウトに荷物を皆で置いていく中、美月が言った。


「上橋沙音璃ってこの大会、一本もヒットを打たれてないんですよね。で、先輩は未だ全打席出塁してる。これって矛盾ってやつじゃないですか。最強の矛と最強の盾みたいで、わくわくします!」


 美月に緊張している様子は見られない。こういう人が、メンタル強いというのだろうか。


「厳密にいうと違うでしょ。バッターが出塁することと、ピッチャーがヒットを許さないことは矛盾しない」


 明日葉が美月へ言った。ちなみに朝、誰も見られない場所でキスした。


「あっ、そっか。ですよね」


「沙音璃は絶対四球を出せないつもりだろうけどね。曖昧な決着を嫌がるだろうから」


 三塁側には神戸海稜が陣取る。紺色の集団の中で、沙音璃は一段と目立つ。宿敵の姿を目にし、またも体に力が入る。決戦はすぐそこに迫っている。

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