53話 キャッチボール
微睡みの中、うっすらと目を開ける。目覚まし時計は六時過ぎを指していた。
今日は平日だ。登校の時間まではまだまだ時間がある。もう一眠りしようと布団を被ってみたけれど、すでに体は目覚めに入っていて、なかなか再び意識を落とすことはできなかった。
とりあえず一階に下り、洗面台にて顔を洗った。適当にジャージに着替え、バットを持って外に出た。家の駐車場の空いたスペースで素振りを始めた。
とても静かな朝の住宅街に、スイングの空気を裂く音が響く。外はまだ太陽の支配が弱い。うっすらと暗いし、大気も冷たい。
私にできる時間潰しの手段など、バットを振るぐらいしか無かった。スイングを重ねていく内に、徐々に体が暖まってきた。
たまに出勤の人だろうか、車が目の前の道を通り過ぎていく。朝早くからご苦労様です、なんてことを思っていると、前方から人が走ってきた。それは、見知った顔だった。
「おはよう」
乃愛だった。びっくりしたけども、一応「おはよう」と返した。
「ランニングしてんの?」
「そうだよ」
ジャージ姿の乃愛は頬が赤くなっている。息が上がっているのか、呼吸間隔は短く、その度に白い気体が口から出ていく。相当の距離を走っているのだろう。
「桜希も、朝から感心だね」
「いや、私は早く目覚めすぎて。でも、やることが無かったから」
「そうだ。暇なら、ちょっとキャッチボール付き合ってくれない?」
◇◇◇◇
乃愛の提案にはもちろん乗った。家に戻り、グラブを持ってきた。乃愛の家に寄り、あっちもグラブを持ってきて、その先の公園へと行った。
公園には誰もいない。ここは結構広い。遊具が一カ所にまとめて設置されていて、いつもは子供たちとその親の憩いの場である。
「なんか、キャッチボールするの久しぶりじゃない?」
私は言った。最初は数メートルの距離からボールを往復させていく。
「だって、桜希はいつも明日葉ちゃんとしかしてないじゃん」
高校入った当初の練習では、乃愛とキャッチボールをすることが多かった。しかしあるときからポジションが隣だった美羽先輩と組むようになった。今は明日葉と組むことがほとんどである。
乃愛も最近はバッテリー陣、日菜子先輩や奈桜先輩、舞香とキャッチボールをしている。たぶん、この先も乃愛とすることはほとんど無いのだろう。
肩が暖まってきて、距離がどんどん伸びていく。ピッチャーらしい綺麗な回転がかかったボールは、ほとんど私の胸の当たりに正確にやってくる。乃愛は昔からコントロールが良かったけども、ピッチャーをやり始めて、さらに正確性を増してきたような気がする。
私が初めてキャッチボールをした相手、それも乃愛だった。小学校低学年、友達になったばかりのころ、いきなり乃愛は、「キャッチボールやろう!」と言った。
野球の“や”の字も知らない私は、正直嫌だった。でも、そんなこと言えなかった。そのころ私は友達がいなくて、やっと仲良くなれた子に嫌われたくなかった。
ボールが怖かった。でも、乃愛が投げたボールはちゃんと私の捕りやすいところにやってきて、目をつぶり必死に差し出した左手のグローブに、入ってくれた。
「ナイスキャッチ!」
私が投げ返そうとボールを右手に持ち替えたとき、ボールが重たいと感じた。小学生が使う、軟式球でも一番軽いボールだから、そんなはずは無いのだけど、その時は大きな石のような重量を感じた。
乃愛が待っていた。見よう見まねでえいっ、と必死に右腕を振った。今思うと完全にたまたまだけど、ボールは乃愛の胸へと向かい、ちゃんとグローブに収まった。
「ナイスボール!」
乃愛はホントに嬉しそうにそう言ってくれた。それが、私の野球人生の始まりだった。
◇◇◇◇
たぶん、三十分ぐらいはずっとキャッチボールをし続けた。いつもは練習のとき、部員たちの声が飛び交う中でやっているから、小鳥の声ぐらいしか聞こえない中でやるのは新鮮に感じた。
私たちはその場を後にした。横を通り過ぎる車の数も、ランニング中の人の姿も増えた。すっかり朝の光景となった道を歩いた。
運動した後の朝の空気は、格別にすがすがしい。乃愛は、気持ちよさそうに両手を天に伸ばしている。その姿へ、私は問いかけた。
「ランニング、いつもしてるの?」
「んー。まあ、最近は」
「頑張るなあ」
「ちょっとこの冬ね、下半身を集中強化しようと思って」
乃愛はまだ左手につけたままのグラブに、右の拳を打ちつけた。パン、と乾いた革の音が鳴った。
「この前、上橋さんが“もっとスタンスを広げた方がいい”って言ってたでしょ。やっぱあの人凄いわ。実践してみたらさあ、確かに球の質は良くなった。
でも下半身の負荷が強くなりそうだし、それに耐えれるよう鍛えないとと思って。この前の大会ではスタミナ不足も実感してたし、徹底的に走り込もうと」
口調から、熱い想いが伝わってきた。その熱さに触れたい。感化されたい。
「乃愛はさ。今、目標とか、ある?」
「うーんと、まずはチームでエースになりたいかな。やっぱり背番号1ってかっこいいよね」
きっぱりと宣言する姿は、私の知らない乃愛の姿だった。
「そう言えばあの後、沙音璃が、乃愛はピッチャーの見込みあるって言ってた」
「なーんか、乃愛って変わったよね。昔は、そんなあっついこと言わなかったのに」
「えー」
昔の乃愛はあんまり目標とかを公言する人では無かった。少なくとも表面上では軽い感じを装っていて、真剣な様子を他人にあんまり見せなかった。しかし、ここ最近はどうだろう。
「もしかしたら、知らない内に人格を誰かに改造されたのかも」
それはいつもの、軽い感じの乃愛だった。私たちは「また学校で」と言って、そこで別れた。その後食べたご飯と味噌汁と目玉焼きは、運動してすっきりとしたせいか、とても美味しかった。
◇◇◇◇
私はあることを決めた。自分にあったバッティングフォームを見つけ、反復し、完成させる。それを、この冬の目標とした。
そんな中、練習のフリーバッティングで、乃愛と対戦することになった。乃愛は、質の伴ったボールを次々と投じてきた。沙音璃のアドバイスは、かなり効果があったみたいだった。
でも、そう簡単に抑えられるわけにはいかない。全力で迎え撃った。
足を高く上げる。そこでほんの一泊置いた後、すぐに加速し、体のためを作る。ぎりぎりまでエネルギーを蓄え、一気に解放し、バットの芯に全てを乗せる。ボールは、センター奥へと消えていった。
「ちょっとは手加減しろ!」
マウンド上からそんな声が聞こえた。昨日ネットで、たくさん野球選手のスイングをずっと見ていた。そしてその中で私に合ってそうなのを試してみたけど、なかなかしっくりくる。スイングが、素直に出てくれた。
「あんまやり過ぎないで欲しいんだけど、うちの大事なピッチャーが自信無くしちゃう」
すぐ後ろ、キャッチャーを務めていた日菜子先輩が言う。
「いえ、このまま打ちまくります」
なにかを掴めそうな私のために、そして乃愛のために、手加減してはいけない。宣言通り、私は打ちまくった。ただ、最後のスイングは、ただのストレートを捉えきれないどころか、ボールの下を空切ってしまった。
「あれ?」
「ナイスボール!」
日菜子先輩は喜んでいた。マウンド上の乃愛も、嬉しそうにグラブを一回叩いた。私は「ありがとうございました」と頭を下げた。大げさだろうと思ったけど、それ以上に、今の球の切れ味に驚いていた。
「フォーム変えた?」
自分の番を待っていた明日葉が寄ってきた。
「うん。まだまだ試してみた段階だけど、昨日、ネットでいろんな選手の動画見てていろいろ変えよう、と思って」
「なんか前のフォームで凄い結果出てたのに」
「うん、そうなんだけど……なにか、私も真剣に取り組もうと思って。もちろん今までも自分なりに一所懸命野球に取り組んでたんだけど、やっぱり、明日葉とか乃愛とか、みんなに比べると適当だったというか。だからこれからは、もっと一つ一つの細部に拘ってプレーを磨いていきたい。で、一番改善の余地あるのはバッティングフォームかな、って」
「……適当でも、今まではあれだけできました、って自慢に聞こえるんだけど」
実際、今までは何かを大きく変えることなくプレーしてきた。でも、それじゃ駄目。もっと上を、一番高いところを目指すのなら、何かを変えなきゃ駄目なんだ。
「末広さんも、なんかピッチングのフォーム変わってない?」
「ああ、あれは沙音璃が――」
沙音璃が乃愛に、ピッチングについてのアドバイスを送ったことを明日葉に話した。ピッチャーとして見込みがある、と言っていたことも。
「だからあいつ、最近やけに楽しそうに練習してるのね。敵の言うこと真に受けて、単純な人」
「私たちのことは、“日本一の二遊間”って言ってた」
「……だから敵の言うことは信用しちゃ駄目よ」
無愛想な言葉を吐きながらも、明日葉の瞳は、一瞬、驚いたように見開かれた。
◇◇◇◇
朝、目覚ましが鳴り、身を起こした。時計を止めると、六時半、想定した通りの起床時間だった。
一階に下り、洗面台にて顔を洗った。適当にジャージに着替え、バットを持って外に出た。家の駐車場の空いたスペースで素振りを始めた。
「おはよう。今日も早いね」
今日もランニングをしていた乃愛と会った。「また学校で」と言い合って、乃愛は去っていった。私は素振りに戻った。




