16話 陽子先輩
妙に頭が冴え、眠れなかった。
神戸海稜の決勝進出を見届けた私たちは宿舎に帰り、表面上は落ち着いた夜を過ごした。
夕食、その後の軽い運動、最後のミーティング、お風呂、みんなリラックスしていたように見えて、実はどこかそわそわとした、足が地に着かない様子が垣間見えた。
私の心も、なんだか、モヤッとしたものがこびりついている。ふとんを被って寝る体勢に入っているというのに、意識はなかなか消えてくれない。
ふとんを持ち上げ、体を起こす。部屋は豆電球で、暗闇のなかでも、若干の明るさがある。
同じ部屋の四人、乃愛と明日葉、あと同級生二人は、寝ているみたいだった。
ちょっと落ち着こうと、部屋の外を歩くことにした。
鍵を持って扉を開けると、暗いところにいたせいか、廊下の照明がやけにまぶしい。
とりあえず、適当にその辺を歩いてみる。みんな寝てしまっているのだろうか。自分の足音がはっきりと耳に入ってくるほど、閑静な空間だった。
部屋を出て、右へまっすぐ進んだ先に、自販機や椅子が置いてある、開けた場所がある。そこには、私のよく見知った部員の一人がいた。
「陽子先輩」
「青見ちゃん」
陽子先輩は、壁に接しているいすに腰を下ろし、イヤホンを耳にはめ、浸るように目を閉じていた。上はTシャツ、下はジャージ姿の先輩は、とても新鮮だった。
「なに聞いてるんですか?」
「波の音」
私が先輩の横へ座ると、先輩は「ほら」とイヤホンを片耳だけはずし、私へ渡した。つけてみると、本当に波の音が聞こえてきた。
「波……ですね」
「うん、波。目をつぶってこれ聞いてると、海の様子が浮かんできてリラックスできるの」
目をつぶってみる。ひたすらに波が砂浜を打ち付ける音が続く。
だんだんと海のイメージが明確に浮かび上がってくる。鼓動のリズムが波の音に溶けこみあい、気持ちがゆったりとしてきた気がする。
「確かに、リラックスできたような感じしますけど。先輩って、変ですね。波なんて」
「そうかな?」
先輩はポケットからスマートフォンを取り出した。画面をタッチすると、イヤホンからの音は消える。
「先輩も眠れない感じですか?」
「うん、ちょっと歩こうと思ったら、ここにたどり着いて。誰もいないから居心地よくてさ。青見ちゃんも?」
「そうですね。同じです」
「そっか」
イヤホンを返すと、先輩はそれをポケットに突っ込んだ。
「ちょっと愚痴吐いてもいい?」
私がうなずくと、先輩は、「ありがとう」って言って、淡々と話し始めた。
「……去年の夏、海稜には準決勝で1ー8で負けたってミーティングでも言ったけど、あれ、私のせいで負けたの」
先輩は、私へ肩を寄せた。
「光が頑張ってくれて、五回までは一点差だったけど、ショートを守ってた私のエラーから崩れていっちゃって。試合後は泣きまくっちゃったなあ」
その後の先輩の話、引退した先輩の先輩たちや仲間たちに励まされ、主将として頑張ろうと決意したこと。去年秋の県大会では海稜にあとちょっとの差で負け、次こそはと思ったこと。
「秋には互角だったけど、どうだろうね。あの一年生ねえ、どうしてこの県に来てくれたのかしら」
あの一年生が指し示すのは、昼間の試合で圧倒的なパフォーマンスを見せた上橋沙音璃のことだろう。
明日の決勝では先発してくることも大いにあり得る。彼女をどうにかしないと私たちに勝利は無い。
「ごめん、不安がらせるようなこと言っちゃって。話はこれでおしまい。ありがとね、聞いてくれて」
その時、先輩はなにかに気づいたように、私の後ろの方を見つめた。なにがあるのだろうと私は振り返ろうとしたけど、それは叶わなかった。先輩が、私を抱き締めたから。
「えっ」
「……時々思うんだ。あなたが私の先輩だったらいいのにって。そしたら、こうやって甘え放題なのにって」
あんまり状況を理解していなかった私だった。先輩の体は、ほのかに熱を持っていて、私の無防備な体を暖めた。いつものさわやかな汗とは違う、甘い、大人の匂いがした。
「甘えても……いいですよ。私は別に」
「そう?」
先輩は、ちょっと離れた。私とのゼロ距離を少しだけ壊した。でも顔は、私の目と鼻の先で、息がかかりあうほどに近い。先輩は私を全身で包む。背中をさする。聞こえてくる鼓動の音は、さっき聞いた波の音みたいにゆっくりじゃなくて、私の鼓動よりも早かった。
しばらく無言のまま先輩と体温を分けあったあと、先輩は体を離した。暖かさが、糸のように切れていく。
「さて、そろそろ寝よっか。関長ちゃんもあなたのこと待ってるだろうし」
「な、なんで関長……さん?」
「あっち。さっきいたの」
先輩は私がやってきた廊下の先を指した。
「ほんとですか?」
「うん。きっと、青見ちゃんのことが心配だったんだよ」
「まさか」
私たちは立ち上がり、自分たちの部屋に戻る。ちょうど私の部屋の扉の横、明日葉が背を壁によりかかるようにして立っていた。
「二人ともおやすみなさい。明日、頑張ろうね」
そう言って陽子先輩は、自分の部屋へ帰っていく。私たちは静かに、「おやすみなさい」と頭を下げて見送った。
「なにしてんのよ」
明日葉は言った。
「こっちのセリフなんだけど」
「“ガソゴソ”音たてて部屋出て行く人がいたから、ついていったら、二人が座ってて。しかもわたしを見た瞬間にあの人、あんたに抱きついてさ。変なもの見た。あんたのせいで、目が冴えちゃったじゃない」
明日葉の目は、その開きがいつもより小さかった。私はゆっくりと明日葉に迫った。
「ごめん。これで眠れる?」
私は目の前の子に抱きついた。自分の体を重ねた。自分のより小さな体を覆った。
「は、離して……」
しかし、明日葉の手はぶらんと垂れ下がったままで、なんの抵抗も示さなかった。私と明日葉の心臓が五回ぐらい鳴った後、抱擁を解いた。
「さ、寝よっか」
「意味わかんない……」
扉を開け、自分たちの部屋へと戻る。真っ暗な中、慎重に歩を進め、自分の布団へと入る。
「おやすみ」
明日葉からの“おやすみ”はやってこなかった。
目を閉じる。安心感が、全身を満たしている。
なぜハグをしようと思ったか。はっきりとした理由はないけど、ただ、そうした方がいい気がした。
◇◇◇◇
翌日の目覚めは快いものだった。決戦が着々と近づいているのを胸で感じながら、バタバタとした朝の時間を終え、試合会場に向かった。
球場は昨日と同じなはずなのに、まったく違った雰囲気を感じた。
決勝というせいか、それとも上橋さんのおかげか、昨日よりも観客席のにぎわいは大きい。両校の応援団はもちろん、一般の観客の姿も多く見える。
昨日と同じように夏真っ盛りの空は、どこまでも青色が続いている。風は無く、立っているだけで汗をかいてしまうほど暑かった。
「ショート!」
試合前、千庄のシートノックの時間、ノッカーである芹沢先生が打球を放つ。
素早く回り込む。ボールを捕ると、すぐに右手に持ち替え、手首のスナップを効かせ、美羽先輩に送球する。先輩もすぐに一塁に送球し、ダブルプレーが完成した。
「ふー」
体は申し分なく動いている。心はいい感じにざわめいている。
次の明日葉も、問題なく打球を処理した。いつもの涼しげな様子で戻ってきた明日葉は、じっと私の顔を見つめた。
「調子いいみたいだけど」
「おかげさまで、よく眠れたから」
私の調子はすごく良かった。心は軽く、思い通りに体がコントロールできた。
「わたしは、気分悪くて眠れなかったんだけど。わたしの気分を害しといて、今日の試合でへましたら許さないから」
よくわからなかったけど、明日葉なりのエールだと思った。
「……うん」
私は、小さくつぶやいた。それっきり私たちは、ノックに集中した。
◇◇◇◇
「集合!」
両チームのノックが終わり、試合開始まで秒読みの段階に入った。陽子先輩の声が、三塁側ダグアウト前に響きわたる。
「はい!」
返事をして、ダグアウト前に向かう。部員たちが集まってきて、陽子先輩を頂点に円が作られる。
「いよいよだね」
陽子先輩が、そう切り出す。注がれる部員たちの視線は、一点の曇りもなかった。
「相手は強い。だけど私たちも強い。これまで培ってきたものを思いだし、全部ぶつけよう!」
「はい!」
「それじゃあ、いきます!」
みんなが手を伸ばし、輪の中心に寄っていく。一つの場所に部員たちの手が重なり、それは何重にも積み上げられて、塔のようになった。
やがて、キャプテンが大きく声を張る。
「絶対勝つぞー!」
「オーー!」
一つになっていたみんなの手が、天へと向かっていく。部員たちは手を大きく掲げ、人指し指を空へと伸ばした。
円陣後、私たちはダグアウト前に一列に並び、中腰で構える。相手、一塁側の神戸海稜も同じように試合開始を待つ。
試合開始まで幾ばくの時間もない。心臓が高鳴る。
審判団が号令をかけた。両チームがそれに呼応し、かけ声を上げながらホームへと全力で駆け出す。
一塁側に神戸海稜、三塁側に千庄、互いに整列して対峙する。
「では、神戸海稜高校と千庄高校の試合を始めます」
その列の一人、一際目立つ彼女に目が吸い寄せられる。
上橋沙音璃。周りのものを凌駕するオーラを全身にまとっていて、見ているだけで気後れしてしまいそうだった。
目鼻のはっきりとした顔の造形は、絵画に描かれたかように整っている。少しウェーブのかかった金髪は、ライオンの鬣のようにも見える。
私の視線に気づいたのか、上橋さんも私の方に視線を寄越し、目と目が合った。宝石のようにきらきらとした碧い目が、こちらを向いていた。
すると突然、上橋さんはそのすました表情を崩し、目尻を作り、口角を上げ笑った。その天使のような満面の笑顔は、完全に、私へと向けたものだった。
な、なんだ?
「礼!」
「お願いします!!」
両チームは帽子を取って礼を交わし、綺麗な列は解けて、辺りに散っていく。
試合が始まった。




