弟(おとうと)弟子(でし)セア
大妖術師エレクの邸宅で、一番弟子トルムと共に修業しているのは、エレクの一歳年下であるセアだった。帝国人らしい茶褐色の髪と目をしている。トルムと同じように戦火の中エレクに助けられた孤児であり、妖術師見習いとしてエレクとトルムに学んでいた。師匠と兄弟子が不在の場合は、他の孤児たちの面倒を見るのも役目だった。
トルムがユクドを連れて帝都へ出向いて丸一日以上経過していた。いつもはその日のうちに戻ってくるトルムである。何かあったのではないかと一瞬不安になったが、邸宅の中庭に大きな鷲が降り立つのが窓から見え、セアは抱いていた赤子を籠型の寝台へ寝かせると外へ出た。
「トルム、お帰りなさい」
鷲の体を風の渦が包み、元の姿に戻ったトルムは、
「セア、ただいま」
と言いながら膝を地面についた。
「どうしたの? 何かあったの?」
「少し、面倒な事がありました」
走り寄ったセアの手に捕まり立ち上がる。トルムより少しだけ背の高いセアは、
「トルムが変身して帰ってくるなんて珍しいね。いつもはできるだけ術を使わないのに。馬車賃、けちった?」
「そうではありません」
「お土産は?」
セアの問いかけに、トルムは何も持っていない自分の両手を見て、
「………忘れてきました。せっかくいただいたのに」
「ええっ! 本当に? いただいた物を忘れてきたの?」
兄弟子らしかぬ所業にセアは、責めるではなく、
「お茶を入れるから、入って休んで」
と、気遣ってくれた。
セアが台所でお湯を沸かし、温かいお茶を入れた杯を持って居間に入ると、トルムはローブを脱いで仮面も外し、背もたれ付きの長椅子に座って赤子をあやしていた。
「ピトは夜泣きをしませんでしたか?」
赤子はトルムに抱かれてご機嫌である。
「ちょっとだけ。でも、トルムがいつもしているように抱っこしながら散歩したらすぐ寝たよ」
「よかった」
トルムは赤子を籠型の寝台に寝かせ、セアから杯を受け取ると、口をつけ、
「ああ、おいしい」
やっと落ち着く事ができ、トルムは肩から力を抜いた。正面の長椅子を見れば、トルムが口を開くのをセアが黙って待っている。
(さて、どのように話をしようか)
クロードがどう出るかわからないが、帝都へ居を移す事にはなるだろう。ただ、側室うんたらの話はセアには言えない。
トルムはまず、各都市の門が閉められ帰宅できくなった事と、宮殿のモウトーリを頼った事を説明し、
「そのさい、モウトーリ様から宮殿付き術者の師範として宮殿に上がるよう、命を受けました」
セアは目を見開いて驚き、
「いつから? 家はどうなるの?」
トルムはモウトーリが帝都に邸宅を用意してくれる事と、子供たちも共に転居する事をセアに話した。
「エレク様はまだご存じではない話だよね?」
「いや………以前から打診があったようですので、エレク様もご存じだと思います」
「そうなんだ。帝都かぁ」
「まだ日取りは決まっていませんが、少しずつ荷物を整理しておかないと」
「わかった。僕たちは自分たちでするから」
「お願いします。私は…」
「夕飯まで少し休んで。下ごしらえはもう終わっているし、そろそろ日も暮れて、皆も戻ってくるだろうから」
頼りになる弟弟子の言葉に甘え、トルムは自室で休む事にした。着替えもせず、そのまま寝台に倒れ込む。かなり疲れを感じていた。
「どうしたものか」
エレクはまだ戻ってきていなかった。早く会って相談したい。モウトーリの命令と、クロードの事を考えると頭が痛かった。
寝台の上で倒れていると、部屋の外から帰宅してきた子供たちの声が聞こえてきた。
「トルム、帰ってきたの?」
「トルムは休んでいるから、お前たちは早く夕飯の支度を手伝ってくれ」
「トルムのお部屋に行っていい?」
「駄目。ほら、お前は早く汚れた手を洗っておいで」
セアと子供たちの会話が楽しい。聞いているだけで、笑みが浮かぶ。
今いる子供たちは、自分とセアを除いて皆十歳以下だ。年齢が若いうちに、ユクドのように里親を見つけるようにしているからだが、自分とセアは幼い頃から妖術師としての適性をエレクに認められ残っていた。
「さて、と」
起き上がった。そろそろ手伝わないと、セアだけで子供たちをまとめるのは大変だ。
旅衣装を脱ぎ、普段着に着替えると部屋を出た。仮面もローブもつけていない。
「あ、トルムっ」
ここへ来て一年経つ女の子が走り寄ってきた。その後を、
「トルム、お帰りなさい」
「トムル、ただいまって言って」
「トルム、ヨークが昨日おねしょしたよ」
「トルム、バナがまた学校で先生に怒られた」
「トルム、トルムのご飯食べたいっ」
抱きついてくる子供たちに、それぞれ言葉を返し、連れだって食堂に入ると、セアと年長の部類に入る子供たちが食器を長机に並べていた。
「トルム、ご飯出来たよ」
「ありがとう、セア」
食事時は戦争である。礼儀には厳しいエレクの元で育ったが、子供が二十人以上もいれば、それはそれは騒がしいものだ。
トルムは赤子のピトに山羊の乳を飲ませながら、隣の子の分を取ろうとしているヨークを止め、セアはまだ匙がうまく使えない子にトウモロコシの汁物を飲ませながら器用に自分の食事をしている。
大家族の食事風景に、トルムはふとユクドが言った事を思い出した。
『トルムは僕たちのお母様だから』
(そうすると、セアがお父様かな)
想像して笑ってしまう。
「何を笑っているの? トルム」
セアへ、
「ユクドに、私がお母様のようだと言われたのを思い出して。私が母なら、セアがお父様かなと思いました」
「トルムがお母様で、僕がお父様? 確かにそうかもね」
セアは自分の食事をさっさと終わらすと、トルムの腕からピトを抱き上げ、
「ほら、トルムも食べて」
「ええ。ありがとう」
慣れた手つきで赤子をあやすセアに、
「どちらからと言うと、セアの方がお母様かもしれませんね」
「やだぁ。セア怖いもん。トルムの方がお母様だよ」
ヨークがそう言うと、他の子も同調した。
「トルムがお母様で、セアがお父様」
「それでエレク様がおじい様」
「そうそう」
言いながら笑う子供たちに、トルムの気持ちは和らいだ。
「家族って、いいですね」
そんなトルムに、
「いいよね」
セアも同意する。
食事が終わり片付け、子供たちを風呂に入れて寝かしつける頃には、子育てに慣れているトルムもセアも疲れを隠せない。
年長者二人だけで居間の長椅子に座り、温かいお茶を飲みながらお互いを労うのが習慣だった。
「今日もお疲れ様です、セア」
「トルムもお疲れ様。体、大丈夫?」
セアがそう聞いてくるのは、理由があった。
トルムは頭と顔だけではなく、全身を幼い頃に負傷していた。頭と顔以外は傷跡が残らなかったが、体中に痛手は残っていた。疲れがたまると、全身が痛くなり動けなくなる。
風呂が好きなのもそのせいだった。風呂に入り、体が温まると楽になるのだ。
「お風呂、温め直そうか」
宮殿と違って、この邸宅の風呂はマキで沸かさなければならない。
「まだそんなに冷めてはいないでしょう。大丈夫ですよ」
「じゃあ、お風呂の前に少し体を揉もうか?」
そのありがたい申し出には、素直にお願いする。
長椅子に寝ころび背をセアに押されながら、トルムは思っていた以上に自分が疲れていた事を実感した。
「トルム、背中堅いよ」
「うん。…ありがとう、セア」
「僕はいいけどさ。あの、トルム」
「どうしました?」
「帝都で、他に何かあった? 様子が変だよ」
セアは勘が鋭い子である。
「…帝都の街中で、狼の妖術師だと騒がれました」
嘘ではない。
「それは大変だったでしょ!」
「ええ。あんなにも騒がれると思っていませんでした」
「どうやってやり過ごしたの?」
「老人になって逃げました」
「そっか。お疲れ様、トルム」
セアはより力を込めてトルムの背を押す。腰の辺りも念入りに揉んでくれる。さらに、太ももと、ふくらはぎも揉んでくれる。
「それで今日は変身して帰ってきたんだ」
実は違うが、
「ええ、馬車でも目立ちそうだったので」
と、これは嘘をついた。
「この十一都だと、昔からトルムの事を皆知っているから、そんなに騒がれないけどね」
「そうですね。他の都市、特に帝都の場合は、緑のローブは着ない方がいいかもしれません」
セアの手が気持ちよく、目を閉じてそう言うと、
「それは残念ですね。あなたによく似合っているのに」
セアとは違う声が答えた。
慌てて起き上がり、居間の入り口を見れば、
「クロードっ」
黒の軍服姿の騎士は、帯刀したままそこに立っていた。その赤みの強い茶褐色の髪は、ランプの灯りでさらに赤く見えた。目も同じように赤く見える。その目は真直ぐにトルムに向けられていた。
「呼び鈴を鳴らしましたが、誰も出ていらっしゃらなかったので、勝手に入ってきました。申し訳ございません。これはあなたがお忘れになった本と焼き菓子です」
騎士は持っていた包みを差し出した。
「どなたですか?」
セアの誰何に、
「私はエント家のクロードと申します」
セアはクロードの家名に戸惑い、トルムを見た。
「トルム、この方は」
「私の上官であり、皇帝陛下の遠戚でもあらせられる方です。セア、クロード様を客間へご案内してください」
「はい」
「いえ、こちらで結構です。座ってもよろしいですか?」
トルムは仕方なくクロードに椅子を勧め、セアはクロードから包みを受け取り一礼すると居間を出て行った。お茶でも用意しに行ったのだろう。
居間の扉が閉まるなり、クロードは椅子から立ち上がってトルムへ近づき、
「今、あの青年と何をされていましたか? 狼の妖術師様」
「何を、と言いますと」
「あの青年に押し倒されていたのでしょうか」
「違います!」
クロードが何を疑っているのかが分かり、トルムは、
「あの子は私の弟弟子で、私の体を揉んでいてくれただけです。私より背が高いですが、まだ成人前です」
「弟弟子に、どうして体を?」
自分の体が痛む事を説明すると、クロードは、
「それでしたら、今後は私があなたの体をほぐして差し上げましょう」
「いえ、結構です」
「遠慮なさらないでください。これから我が家で共に生活するのですから」
「共に生活? どういう事ですか?」
クロードは一通の書状を取り出すと、
「これは、侍従長モウトーリ卿から、妖術師エレク様への書状です。中身は、あなたが宮殿付き術者の師範として宮殿へ上がる事と、私の邸宅へ居を移す事が書かれています」
「どうしてそんな事に!」
「モウトーリ卿には話をつけてきました。モウトーリ卿も、我が家であれば問題もなく、むしろ好都合だと喜ばれていました」
「そんな………」
「どうされました、トルム。顔色が悪いですよ」
「どうもこうも………そんな………」
「引っ越しの準備は、我が家の執事が手配いたします。あなたは明日にでもわが家へお越しください。いや、私としては、今夜でも構いません」
クロードはずっと笑顔である。
クロードの行動の速さと手際のよさは予想外だった。まさか今夜彼が動くとは思わなかったのだ。
(もう少し猶予があると思っていたのに)
エレクが戻ってきていれば、どうにかなったかもしれない。でも、もう遅い。
「せめて、明日まで待ってください」
「いいですよ。私も今夜はこちらで休ませてください」
「えっ」
「私も今日は疲れました。あなたが飛び去ってから、一度帝都へ戻ってモウトーリに会い、そのまま師団長の所へ行き軍へ休職願いを出し、我が家に帰り執事へあなたの部屋を用意するよう指示してからこちらへ参りました」
労ってほしいと言わんばかりの言い様である。トルムは一歩二歩と後ろに下がり、
「では、お部屋を用意いたしますので、私は失礼いたし………」
言い終わる前に腕を掴まれた。抱き寄せられる。
「私はあなたと同じ部屋で、同じ寝台でいいですよ」
「いやです」
「駄目ではなく、いや、ですか」
「ええ。いや、です」
ランプの灯りを映す赤い目がトルムを見つめる。その視線が怖くて、トルムは顔を逸らした。
「クロード、私たちは友人ですよね」
「そうですね、今は」
「今もこれからも、友人でいてくださいますね」
「それはお約束できません」
クロードはトルムを抱きしめる手に力を込め、
「言ったでしょう? 私はあなたと心を交わしたいのです。まずは友人、そしてその後は…」
「その後は何もありません!」
「心を交わしたら、体も繋げたい、と思いませんか?」
「思いません!」
クロードの手を逃れようと体をよじるが、騎士の力に妖術師が敵うはずがない。
「困りましたね。気持ちが通じていた方がいいかと思ったのですが。………実は、モウトーリ卿から極秘の任務を拝命いたしました」
「極秘の任務とは」
嫌な予感がした。
「なんですか、それは」
「皇太子の側室となるあなたの、性技指南役を務める事となりました」
トルムは目の前が暗くなったような気がした。
「殿下もあなたも経験がないままですと、うまくいかない可能性が高い。支障なく円滑に事が進むよう、あなたに手ほどきをと、モウトーリ卿のご指示です」
「それは、それは、どういう事でしょうか…」
震える口で問えば、クロードはトルムの右耳に口を寄せ、
「あなたと褥を共にするのですよ、私が」
クロードの吐息が耳をくすぐり、トルムは背筋が凍りついた。
「あなた本来の姿のままでも、女に変身した姿でも、どちらでも私は構いません。むしろ、どちらでも大歓迎いたします。あれ、トルム、どうされました? 震えていますね。寒いですか?」
「いえ、いえ、違います」
「声も震えている。やはり寒いのではないですか? そろそろ秋も近いですからね。そう言えば、先ほど風呂がどうのとかお話をされていましたね。私と入りますか?」
「クロード、クロード、お願いです。ここでは止めてください。子供たちがいます。子供たちに知られては」
「トルム、泣かないでください」
言われて、トルムは自分が泣いている事に気づいた。クロードの手が右頬の涙をぬぐう。そして同じように左頬にも触れた。傷跡に触れた。
「クロード、どうして私にこんな事をするのですか? こんな醜い妖術師に、どうしてこんな」
「あなたは醜くない。むしろ、これほど美しい人はいません」
「私は男です」
「でも、女にもなれる」
「それは術でなれるだけで、本当の女性ではありません」
「でも、皇太子の側室になる」
「私が望んだ事ではありませんっ」
「そう、モウトーリ卿が考えた事です。ああ、私がもっと高い役職についていれば、こんな無慈悲な事をあなたにさせはしないのに。私はエント家の者ですが、しがない一介の騎士でしかない。帝国の侍従長たるモウトーリ卿の命令を、どうする事もできないのです」
大げさなしぐさで嘆くクロードだったが、それは事実だった。帝国の地位はクロードが上だが、役職ではモウトーリが上なのだ。
モウトーリはクロードの意向を無視できないが、クロードはモウトーリの命令を撤廃する権限がない。
「私にできる事は、あなたが傷つかないよう支える事のみ」
「傷つかないよう?」
「はい。男の身でありながら女となって男に抱かれるあなたの心が傷つかないよう、あなたを支え守りたいのです。ですから、少しでもあなたがこの状況を受け入れられるよう、お手伝いしたいのです」
「それで、私と褥を共にするのですか」
「はい」
「純粋に、私を思ってくださっての行動ですか?」
疑惑の目で見るトルムに、
「たしかに私はあなたに対し、友人以上の想いを抱いておりますから、今回の命令は好都合ではあります」
トルムへの気持ちを隠そうとしなくなったクロードに、トルムは抵抗する気を無くし、力を抜いた。
「トルム?」
「クロード、今日はもう休みましょう。色々あって、私も疲れました」
トルムの態度に、クロードは一瞬間をおいて、
「そうですね。そうしましょう」
トルムからそっと手を放した。
ちょうどその時、
「入ってもよろしいですか?」
部屋の外からのセアの声がした。