皇帝
署名を交わして五日後。
パドア兵の撤退を見届け、治安の為に三個旅団約六千の兵を残してコーダたちは岐路についた。トルムとセアは往路と同じ馬車である。
往路と違いできるだけ早く帝都に着くよう、野営は二日に一回として進み、四日後には帝都に到着した。
先走りの伝令が、コーダの率いる大隊の勝利をふれ回ったせいで、コーダを讃える帝都民の歓迎ぶりはものすごい事になっていた。年若い帝国皇太子がエント家の騎士と共に狼の妖術師を従えて、パドアからデレマードを奪還したと、帝都だけではなく帝国中に知れ渡っていたのだ。
一行が帝都の大門をくぐると、宮殿までの道には花がまかれ、沿道は帝都民で埋め尽くされていた。
「殿下、笑ってください。手を振って」
「クロード、俺はいつまで笑っていればいいんだ」
甲冑を着たコーダは、馬上で作り笑いを浮かべながら沿道の帝都民に手を振らなければならなかった。隣でクロードも同じように手を振っている。帝都民はそんな二人へ歓声を上げている。
「殿下と私が表に立たなければ、トルムが出なければなりません。それだけは阻止しましょう」
「わかった」
トルムは疲労が激しかったので、セアと共にクロードの邸宅へ一足早く戻っている。トルムは目立つ事を嫌うので、こんな騒ぎには巻き込みたくなかった。
「さ、殿下、笑ってください」
「お前も笑え」
二人はかなり無理して笑顔を作り続け、宮殿へ着いた頃には顔が引きつっていた。
「ご無事のご帰還、そして武勲を立てられた事をお喜び申し上げます」
侍従長モウトーリの出迎えに、コーダは脱いだ甲冑を渡して、
「少し休ませてくれ」
「まずは皇帝陛下に此度のご報告を」
「俺がするのか?」
「殿下以外の誰がされるのですか」
「今まで一度もしていないぞ」
「初陣のご報告はご自分でなさいませ」
さっさといなくなったクロードに助けを求められず、コーダは侍従長に引きずられ父である皇帝の居室へ向かうと、皇帝は揺り椅子に座り休んでいた。
帝国皇帝は齢七十を超えている。昨今はあまり表に出る事は無く、コーダが父に会うのは昨年のトルムの戦勝記念祝賀会の時以来だった。およそ一年ぶりに会う皇帝は、昨年よりも老け込んで見えた。
コーダは、
「父上、コーダです」
部屋に入ると片膝をついて、
「此度はわたしくの初陣にご拝領いただき、ありがたく存じます。こうして無事帰還できました」
皇帝はコーダに一瞥をくれると、
「侍従長から話は聞いている。武勲を立てたようだな」
「はい」
「お前の力量か」
「いえ、狼の妖術師に助けられました」
皇帝は椅子から立ち上がり、コーダの正面に立つと、
「コーダ、戦場は怖かったか」
自分を見下ろす皇帝から視線を外さず、コーダははっきりとした声で、
「はい」
「人は殺せたか」
「はい」
「学ぶことはあったか」
「はい」
「何を学んだか」
「戦場は、戦いのその時よりも、その後をどうするかが大変だと知りました」
「ほう」
皇帝は手を振ってコーダに続きを促した。
「戦で評価されるのは、戦いが終わってからの行動です」
「此度は、どうしたのか」
「狼の妖術師に教わりました。戦いがを終われば、敵味方関係なく助け、早急に民の生活を戻さなければなりません」
「お前は出来たのか」
「はい」
「わかった」
皇帝は再び椅子に腰かけ、もう何も言わなかった。コーダは立ち上がり一礼して皇帝の居室を出た。手が汗ばんでいる。実の父に向かい合うだけで、戦場よりも緊張していた。
待っていたモウトーリに、
「もう部屋に帰っていいか?」
「はい。お部屋にはお食事も用意しております」
「助かる」
「あと、戦勝祝賀会ですが、三日後に予定されております」
「俺も出ないといけないのか」
「殿下が主賓でしょう」
「主賓は狼の妖術師だ」
「トルムは体調がすぐれないとの事で、欠席すると連絡がきております」
「大丈夫なのか?」
「休めば大丈夫だとの事です」
コーダは廊下を歩きながら、
「モウトーリ、今夜は会えるだろか」
誰にとは言わない。一人しかいない。
「申しわけございません、殿下。今宵は………」
最後まで言わず言葉を濁された。人目がある昼間の廊下では、理由を追及できず、
「そうか」
コーダは落胆した。
一刻も早くユリーナに会い、無事な姿を見せて安心させたかった。そして、疲れた体をあの柔らかい肉体で癒してほしかった。
「いつなら、会えるのか」
「わかり次第、ご連絡いたします」
待つしかない状態に、コーダは疲れが倍増したような気がした。
戦勝祝賀会は皇帝の体調不良で延期となり、新年の祝いと併せて行われる旨が通達された。
時間が出来たコーダはモウトーリを呼びつけ、ユリーナとの逢瀬を催促しようとしたが、
「殿下、ちょうどよかった。正装を新調いたしますので、仮縫いさせてください」
と、お針子数人を引き連れてきた。
「殿下も昨年より成長されておりますし、新年の祝いは殿下の初陣と戦果を祝う戦勝祝賀会でもあります。陛下より、新しく作るようご指示がございました」
皇帝の命であれば拒否できない。コーダはお針子たちに体を委ねるしかなかった。
「陛下より、当日はこちらの剣を帯刀するようにとの事でございます」
モウトーリが両手で捧げ持って来たのは、柄に、子供のこぶし大もある金剛石が埋め込まれた皇帝の剣だった。鞘は金と白銀で装飾されている華美な物である。実戦用ではなく、儀礼用として使われていた。
「これは陛下の剣だ。どうして俺が?」
モウトーリは答えず、剣を差し出す。腑に落ちなかったが従うしかない。コーダは剣を受け取った。
お針子たちはコーダの体のいたる所を採寸し、
「それでは殿下、明日には仕上げてまいります」
モウトーリと共に部屋から出て行った。
一人になった部屋でコーダが窓の外を見ると、外は雪がちらついていた。帝国は真冬の季節である。この番寒い時期を戦場で過ごす事にならずよかったと、一応は覚悟していたもののコーダは安堵していた。
(もうあと数日で新年か)
この一年、いやここ数カ月でコーダは自分が生まれ変わったような気がしていた。
一番のきっかけはユリーナだった。まさか自分がこの歳で異性を知る事になるとは、想像していなかった。
女の柔肌を知って、身も心も男になった。
初陣にも出た。初めて人を殺した。怖かった。人を切り刺し殺す事に、慣れる日は来るのだろうかと思う。
(そして、トルム)
狼の妖術師は全てを語らない。行動で示す。圧倒的な力で敵を倒し、大きな心で敵味方分け隔て関係なく助ける。そんなトルムに教えられた事は多い。
「どうしてトルムは俺に加勢してくれたのだろうか」
初めて出会った時、ひどい言葉をトルムに投げつけた。謝罪はしたが、充分ではなかったと思う。それなのにトルムはコーダを許しただけではなく、戦場では先陣を切って戦い、コーダに勝利をもたらしてくれた。クロードに聞くと、トルムは幼い頃にあのひどい怪我を負い、体にも痛みを抱えているらしい。
(そんな体で、俺を助けてくれた)
理由を自分になりに考え、
「もしかして、クロードのためか?」
クロードとトルムはそういう仲だと、コーダは己の目と耳で知った訳だが、
「クロードの為に俺に加勢したのだろうか」
クロードがコーダの親代わりである事は、トルムは知っている。
「それが理由なら、わかるかな………」
だが、それだけが理由ではないような気もする。
トルムのコーダに対する接し方は、優しく、時に諭すようで、遠慮がない。それが心地いい。側に居て落ち着くのだ。
「やはり、ユリーナに似ているかもしれない」
先日も感じたが、髪と目の色、それに顔立ち、そして雰囲気がユリーナに似ているのだ。
「もしトルムと血縁関係だとしたら」
ユリーナと一緒にいられる方法の糸口になるかもしれない。
(来年になったら、モウトーリに頼んで、ユリーナの素姓を教えてもらおう)
コーダは窓の外の雪を見ながら愛しい側室を思った。
年が明け、一年の始まりの日。
皇帝は皇妃を伴って大広間へ出座した。皇女の姿はない。皇帝と皇妃が段上にある玉座に腰を下ろすと、新調したての白の正装を身につけたコーダが続いた。皇帝の右横に立ち大広間を見れば、クロードが騎士の黒い軍服ではなく、コーダと同様に白の正装で参列していた。
コーダが皇帝の剣を帯刀している事に気づいた参列者たちが、その視線をコーダに向けていた。何か言いたいようだが、皇帝が物言わぬ前に声を出す者はいない。皇帝はゆっくり立ち上がると、
「今日は新年の祝いの席である。そして、皇太子の初陣と、戦果を祝うものでもある」
皇帝はそれだけ言うと、コーダに目を向け挨拶を促した。コーダは自分や皇帝が立つ場所から、階段下に広がる大広間に居並ぶ諸侯や貴族、それに宰相以下大臣たちに、軍司令官と各師団長らを見渡すと、一呼吸置き、
「前年においては、成人前の身に初陣の機会を与えてくださった事に、まずは皇帝陛下へ謝意を申し上げます」
皇帝に一礼し、
「此度の勝利は、軍司令部、また軍司令官と師団長、戦った兵士たち、そして」
コーダは言葉を区切り、
「狼の妖術師トルムの功績であり、私は皆の支えでこうして無事帰還できた。私は皆に感謝する」
コーダの声は大広間に響き渡った。誰ともなしに、
「皇帝陛下、皇妃陛下、そして皇太子殿下に栄えあれ!」
声が上がり、それはいつしか合唱になった。
皇帝が両手を上げると、
「皆の者」
皇帝の声に、広間が静まる。
「皆に伝える事がある。余が即位したのは二十年前、既に五十を超えていた。それから皇妃を迎え、この皇太子と皇女を得た。だが、得られた子は二人のみ。子を成すには、余は歳を取りすぎていたのだ。余の父である先帝も同様だった。余には兄弟がおらぬ。皇太子には、余や父のような思いをさせたくはない。しかし、この帝国の皇帝は、即位するまで皇妃をめとる事は許されていない。そこで余は決意した」
皇帝はコーダの背に手を回し、
「皇太子に、帝位を譲位する」
どよめきが起きた。皇帝は続けて、
「皇太子はまだ成人前だが、初陣で見事に武勲を上げ、我が帝国に勝利をもたらし、デレマードをパドアより奪還した。充分、皇帝になる資質がある。皆で若き皇帝を支えてほしい。宰相、意見はあるか」
宰相は、
「ございません」
皇帝は頷き、
「大臣たちは」
大臣たちは無言で頭を垂れた。
「軍司令官は」
軍司令官、また各師団長は片膝を付き、
「皇太子殿下に忠誠を」
と剣を掲げた。
それらの姿に諸侯や貴族たちも頭を垂れ、異口同音にコーダを讃え忠誠を誓う言葉を発した。
コーダは何が起きているのか把握できず、父である皇帝を見れば、皇帝は一瞬だけコーダに向ける視線を和らげ、すぐさまいつものように硬い表情に戻った。
「余の退位と皇太子の即位は、後日同日に行う事とする」
皇帝が玉座に座り片手を上げると、音楽隊の演奏が始まった。宴の開始の合図である。音楽に合わせ貴族たちが踊り出した。
コーダは困惑したまま、しかしこの場で皇帝に問いただす事も出来ず呆然と立ち尽くしていると、階段下から、「殿下」と声をかけられた。見ればクロードだった。
階段下に降りると、クロードはコーダに顔を寄せて、
「話はあとだ。皆がお前から声をかけられるのを待っている。まずは宰相、次は大臣たち、それに軍部の連中と、あの貴族連中に挨拶してこい。向こうからはお前に声をかける事はできない。お前から行くんだ」
音楽が流れているおかげでクロードの声は周りに聞かれる心配はなかったが、クロードは出来るだけ声を潜めてそれだけ告げるとコーダの右後ろについた。コーダは言われた通りに、クロードを背後に従えたまま宰相、大臣と声をかけ、一通り終わる頃にはかなり時間が経過していた。
宴の続く大広間から抜け出し、控えの間に入るなりコーダは長椅子に倒れ込んだ。クロードも広間の熱気のせいか上着を脱いで長椅子に座り込んだ。
「お疲れ様です、殿下」
「ああ」
「最後に声をかけた女性を覚えていますか?」
「ああ」
少しふくよかな少女だった。
「たしか、南のセレテ地区を統治する、領主の娘だったな」
「あの方が、殿下の皇妃候補です」
コーダは飛び起きた。
「なんだとっ」
「歳は十四、殿下より一つ上です」
「誰が決めたんだっ」
「皇帝陛下です」
「どうしてクロードが知っているんだ!」
「私の父が候補に推薦しました」
クロードはまっすぐコーダを見つめ、
「今回の件は、私も昨日知りました」
クロードの目は暗かった。その目に、コーダはクロードを責められなかった。
「………急すぎて、頭がついていかない」
「私もです」
そこへモウトーリが入ってきた。呼んだのはコーダだった。
「モウトーリ、説明をしてほしい」
モウトーリは深く深呼吸をしてから、
「皇帝陛下は、ここ数年ご体調があまりよろしくございませんでした。この事は殿下もお気づきだったと思います」
コーダは頷いた。
「それに、皇女殿下も寝台から起き上がれない状態が続いております」
「そうなのか?」
「はい。もとよりお体の弱い方ですが、侍医の見立てでもう少し暖かい場所での静養を勧められております」
興味がなかった妹の状況に、コーダは少し後悔した。
(もう少し、気にかけるべきだった)
モウトーリは、
「皇帝陛下はご自身の体調、そして皇女殿下の状況に、ご自身の退位の時期を早められる事をお考えでした。しかし、せめて殿下が成人するまでは…と思われておりましたが。此度の殿下の初陣の結果に、今こそ好機ではないかと、譲位をご決断されました」
「それにしても、あまりに急ではないか?」
モウトーリは目を伏せ、「お察しくださいませ」と小さい声で呟いた。
(それほど父上の体はよくないのか)
「ならもっと早く、俺の初陣を急かすとかすればよかったじゃないか」
「陛下は殿下のご意思を尊重されておられました」
「俺の事なんか放っておいたくせに」
「陛下は殿下にどのように接すればいいのか、お分かりにならなかったです」
「妹ばかり大事にしていただろう」
「皇女殿下は生まれてすぐ余命いくばくもないと侍医から言われておりました。両陛下は、殿下の為にも、皇女殿下をお守りしようとされたのです」
「俺の為?」
「先ほど陛下が仰っておいででしたでしょう? 陛下にはご兄弟がいないと。殿下がお一人にならないよう、皇女殿下をお守りになったのです」
コーダは自分の気持ちを言葉に出来ず、モウトーリから顔を背けた。
「殿下が今お持ちのその剣は、皇帝のみが持つ事を許された剣です。今日それを帯刀されるようご指示があったのは、陛下が譲位をお決めになられたというご意思を、宰相閣下方へお伝えするものでした」
「宰相たちは前からこの件を知っていたのか」
「はい」
「だからあんなにすんなり事が進んだのか…」
「皆様方は、やはり殿下のご年齢を気にされておいででしたが、此度の戦果で皆殿下の資質をお認めになり、了承されたご様子です」
「今回の手柄は全部トルムだ!」
「トルムも殿下の即位を喜んでいましたよ」
「トルムは知っているのか」
「昨日、話をしました」
クロードを見ると、
「昨日、トルムと一緒にモウトーリ卿から話を伺いました」
コーダは無性にトルムに会いたくなった。気持ちが顔に出たのか、クロードが、
「今日、こちらへ来る予定になっています。そろそろ到着すると思いますよ」
「本当か」
「はい」
そこへ、扉を叩く音がした。
「誰だ」
モウトーリが誰何すると、
「妖術師エレク様の弟子、セアでございます」
コーダは椅子から立ち上がり、自分で扉を開けた。
「セアっ」
「これは殿下」
セアの腕を引っ張って部屋の入れると急いで扉を閉めた。
「セア、お前も知っているのか」
「ああ、ええ、その、トルムから聞きました」
「トルムはどこだ」
「大広間の方へ、師匠と共に」
「お前は?」
「僕はまだ見習いですので、皇帝陛下の御前に出る事は許されておりません」
それでモウトーリが居ると聞いたこの控えの間に来たと言うセアに、
「セア、トルムは何か言っていたか」
「たいへんめでたい事だと喜んでいました。僕もそう思います」
「それだけか」
「はい」
「反対は、していなかったか?」
「反対なんて、するはずはございませんよ、殿下。どうしてトルムが反対すると思われたのですか?」
「それは………」
コーダは服装を正し、ずれた剣の位置を戻して、
「トルムに会ってくる」
と控えの間を飛び出した。
「コーダっ」
上着を脱いでいたクロードは出遅れた。
大きな二枚扉を衛兵が開けると、大広間の中心に人だかりができていた。
「これは、殿下」
気づいた貴族たちはコーダが通れるよう道を開けた。人だかりの中にいたのは、緑色のローブを着た妖術師だった。
「殿下」
トルムはコーダの顔を見るなり笑って、すぐ自ら近づいてきた。目の前まで来ると片膝を付き、
「殿下、お祝いの席に遅れて参りました事をお詫び申し上げます」
「トルム、立ってくれ。よく来てくれた」
トルムを立たせ顔を見上げると、仮面で隠れていない右側の顔色はだいぶよさそうだった。
「体は大丈夫か」
「ええ。ご迷惑をおかけしました」
「迷惑などかかっていない。………少し、話せるか」
トルムを連れて大広間を出る。回廊の陰で誰もいない事を確認して、
「トルム、俺が皇帝になる事をどう思っている?」
「喜ばしい事です」
「本当か」
「ええ」
「今の俺に、皇帝位につく資格はあると思うか」
「ええ。もちろんです、殿下」
トルムは首を傾げ、
「殿下、なぜ私にそのような事をお尋ねになるのですか」
コーダは床に視線を落とした。拳を握ってすぐ放し、
「トルムは嘘をつかない」
妖術師の顔を見上げ、
「トルムは俺に嘘をつかないだろう? だからトルムに言ってほしかった。トルム、俺は、皇帝になっていいのだろうか」
トルムはコーダの両手を取り、手で包むと、
「殿下、大丈夫です。殿下は皇帝になるべきお方です。自信をお持ちください」
「でも俺はまだ子供だ」
「たしかに成人前ですが、充分一人前の男ですよ」
「トルム」
「大丈夫です。私やクロード、セアもおります」
「側に居てくれるか」
「ええ。殿下」
コーダは何故だが泣きたくなった、トルムに抱きつき、泣き出したかった。そんな衝動を抑える為トルムは手の中で拳を握ってしまい、
「殿下」
トルムの手で優しくほぐされた。
トルムの手の温かさを感じ、コーダは自分がものすごく不安だった事がわかった。その不安をどうにかしたくて、トルムに会いたかったのだ。
(どうしてトルムなんだろう)
親代わりのクロードではなく、いつも何かと気にかけてくれているモウトーリでもなく、この狼の妖術師の存在が、自分の中で大きくなっていた。
「トルム………」
見つめると、濃い青色の瞳が柔和な眼差しを向けてくれる。ずっと見ていたかったが、
「殿下っ」
苛立ちを含んだ声に振り返ると、クロードが早足で向かってきていた。
「どうしてこんな物陰でトルムと手を握り合っているのでしょうか」
「クロード、握り合ってはいませんよ。私が殿下の手を」
「トルム、殿下から離れてください」
「クロード、いい加減にしろ。俺はトルムに対しお前のような感情はもっていない」
トルムがコーダの手をぱっと放した。
「殿下、今のお言葉は…あの、もしや」
「トルムとクロードはそういう仲なのだろう?」
トルムは目を見開き、クロードを睨んだ。
「クロード、あなた、まさか、殿下に」
「話しました」
「なぜっ」
「殿下があなたによこしまな思いを抱かないように牽制です」
「そんな事、あるはずがないでしょう」
「それはわかりません。殿下は少なからずあなたに心を開いておられる。その感情がいつ私のように変化するかなんて、誰もわかりません」
トルムは手で頭を押さえ、
「私にそんな感情を持つのはあなたぐらいですよ」
トルムのその言葉に、コーダの胸がどくっと音を立てた。
(なんだ、今のは)
「そもそも私のような醜い妖術師に思慕を抱くような奇特な方はそうはいません」
仮面の上から自分の顔に触れるるトルムを、
「トルムは醜くはない」
コーダは強く否定した。
「殿下」
「トルムと始めた会った時、ひどい顔だと言ってしまったが、トルムはけして醜くない。確かに傷は酷いが、目の色とか、顔立ちとか、トルムは綺麗だ」
「殿下、よく分かっていますね。そうです。トルムは美しいです」
コーダもクロードも真剣である。
トルムは二人を交互に見つめ、
「殿下もクロードも、ありがとうございます」
嬉しそうに笑った。




