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病葉 1

更に1年の月日が流れた頃には、自分の周りにどんな人間がいて、自分がどんな形の御輿に乗っているのかすら把握できない状況になっていた。

『人にやらせるばかりではなく、自分の足でも稼ぎたい』

直樹は拘りを持ち、初めはちっぽけだったソレが大きな組織に姿を変えても尚、毎日現場で働いている。

はっきりしない穂積との関係も助けてか穂積の周りの人間は直樹の存在を疎ましく取り、中には邪魔をして来る者もいたが、大きく成長した直樹の組織はそれらをも苦とせず、往来にどっかりと胡坐をかいていた。

直樹自身、穂積とはもう1年近く会っていない。


「そんなもんハッタリや。ハッタリで押せばエエ!粉飾決算?上等やないか。バレなんだら嘘とは呼ばんのよ。なるべくとちゃうで?出来る限り大きゅう見せろ。分かっとるな?」

電話でそう言っているのは直樹。

この頃には株式関係にも手を伸ばしていた。

「……コッチの遊びはもうゼニにはならんな……切るか。コッチももう人気がない。ディスコねぇ……クソ田舎に持ってってもゼニにはならんやろ。店舗展開できんのんじゃぁ、まったく意味ないよな……」

独り言をかいつまんでみても、このような内容ばかり。

ただひたすらに、金儲けに貪欲だった。


夜の9時になると、直樹は毎日、自分も所属しているホストクラブへと足を向ける。

この日も朝からいろんなビジネスの手続きやらその他諸々をこなしていると、知らぬ間にそんな時間になっていた。

外に出ると、呼び出したわけでもない車が1台、直樹を待っている。

毎日必ず、待っている。

直樹は今日もその車に乗り込み、ホストクラブへと出社する。

運転しているのは、19歳の少年。

名前は松田イサム。

直樹の元へ転がり込んできた1人で、現在は直樹の経営するホストクラブにホストとして籍を置いている。

この少年は今日も、いつもと同じように直樹に対してうるさいくらいに話しかけてきた。

「秋月さん、何でマンションとか買わないんですか?」

「………」

直樹はこの頃決まった住所は作らず、ホテルを転々とし1週間単位で住まいを変えていた。

他の人間に踏み込まれないよう。

根を生やさないよう、その場にまで情が移らないよう。

毎日違う景色を見ていれば、そこに情を落とすことはないだろう。

そう考えた直樹は、この転々と移り住むホテル暮らしをかれこれ1年近く続けている。

「それと秋月さんがいつも言ってる、あの久保何とかっていう女、なかなか見付かんないんですよ。どの辺りにいるとか、見当もつかないんですか?」

「………」

それについては、現在もっと大きな力で捜させている。

コイツにその辺を喋る必要もない。

……毎回のことながら、こういった形でコツコツとコイツは俺に擦り寄ってくる。

俺からお前にあげられるモンなんか、何もねぇ。

「それとですねぇ、秋月さん。そろそろ良い返事もらえませんか?俺、もうホストなんかヤなんですよ。俺もヤ○ザもんにさせてもらえませんか。弟分にしてくださいよ」

半年ほど前、夜の街で暴れ回っていたこの松田に、声を掛けたのは直樹の方だった。

行くところなんかねぇ、とのたまう彼を拾ったのは直樹。

「……あのなぁ、俺は別にヤ○ザもんとちゃうぞ。舎弟とか弟分とか、チャンチャラおかしいね。俺はそんなんどうでもエエ。お前拾うたのも、人数集めの一環や。変な期待すんな」

「………」

直樹の返事に、松田は仕方なさそうに口を閉ざした。


車はいつもと変わらぬネオンの走る道を順調に追い越して行き、やがて大通りに出る。

店に出勤する際、ルート的に必ず通る道。

そこには、外観だけは既に見慣れた穂積のビルがある。

松田の、舎弟にしてくれとか言うこの申し出は、もう何十回目か覚えていない。

だがそれを聞く度に、自分も思うことがある。

「……おい松田、ちょっと車停めェや」

「あ、ハイ」

松田はすぐに左に寄り、路肩に車を停めた。

そこは、穂積の事務所の真ん前。

背の高いそのビルを、直樹は車の中から見上げる。

……別に、気になるワケでもない。

もう、1年くらい会うてないからな……。

最初の数ヶ月は、文句がてらに顔でも見に行ってやるかと考えたこともあったが、その内意地になり、傾く思考すらやめた。

いらないと言われていたが、毎月直樹の商売の全ての売り上げの数%を穂積の口座に振り込んでいる。

直樹は半ばケンカ腰のような気分で、穂積の方からの訪問を待っていた。

礼を言いに来いってワケじゃない。

そんなのではないが……。

直樹は自分でもこの心境が何なのか分からず、ヤキモキするのと同時に自分の中で駄々のようなものを捏ね始めていた。

こうなったら、意地でも俺の方からは行かんからな。

そして、そう考えるのと同時に、

―――― ワシは別に、アンタやのうてもエエんやで?

あの時の穂積の言葉を思い出す。

「秋月さん、遅刻しますけど」

「……おう、行こか」

車は走り出し、あっという間にビルは遠ざかって行く。


大きくなってしまった組織の中、挨拶をされても顔と名前が一致しないほどに広いものになってしまった、この状況。

直樹はこの時、そんな生活を送っていた。



この日も、直樹の仕事は朝方ようやく終わった。

松田に送ってもらってホテルへと帰る。

いつもならばここから2~3時間の睡眠をとるのだが、この日直樹はある会社社長と接待ゴルフの予定が入っていた。

あと1時間後には、約束の場所へと向かわなくてはならない。

眠るわけにはいかないのだが、一度ベッドの上に大の字に横たわった。

……メンドクサイな。

面倒臭い。

接待のためにと、ある程度形になるほどにはゴルフの練習もした。

面倒臭い。

こんなこと考え出したら終いなんやけどな。

ゼニ儲けするのに面倒臭いなんてこと、ありえへんのよな。

……あん時みたいに、通帳眺めてニヤニヤすることもなくなってしもうた。

3時までに間違いなく口座に反映されるんは知っとるからな、もう。

毎日毎日忙しいのに、退屈や。

重い目蓋を閉じたままピクリとも動かず、直樹はただ思いついた端から思考を遊ばせる。

……以前、あのタヌキオヤジとゴルフ行ったとき、穂積さんは?ってうるさかったな。

まぁ上等やろ。

俺と穂積の関係をどう調べたんか知らんけど、アイツのことを俺に聞くんはお門違いや。

俺もよう知らん。

……今回もしつこいんやろな。

そこで、何となくあの松田の顔が脳裏を過ぎった。

アイツもしつこいな。

何がしたいんかよう分からんし。

俺に尻尾を振っとるんか……。

与えられたことだけやっとけっちゅーねん。

俺に何か、求めるな。

舎弟にしてくれ?

俺はヤ○ザじゃないっちゅーねん。

あちらこちらへと考え事をしているうちに時間が過ぎていく。

直樹は大きな溜息を一つ吐くと、ゆっくりと起き上がった。

ゴルフ場へと向かうタクシーの手配をフロントに依頼し、ゴルフバッグを背負って部屋を出る。


もう9月やっていうのに、まだまだ暑いな…。

やっぱりメンドクサイ。

……あ、しまった。

シャワー浴びてへんやんか。

重い足取りでロビーから外へ出ると、ホテルの敷地内に見慣れた車がエンジンをかけたまま停まっていた。

松田の車だ。

近づくと、中で居眠りをしている松田の姿。

直樹は助手席の窓をコンコンとノックし、中を覗き込んだ。

その音で飛び起きた松田はすぐに窓を開け、

「おはようございます!迎えに来ました!」

「………」

彼は急いで車を降り、直樹のゴルフバッグをトランクに詰め込む。

続いて後部座席のドアを開け、直樹に乗るよう勧めた。

「……オイ、お前な、今日は来んでエエ言うたやないか」

「イヤ、そういうワケにはいかないです」

「何でや。お前、寝てないやろ。迎えに来た言うてお前、そのままここにおったんやろうが。寝ん状態で、今晩仕事する気か?」

「ハイ、1日くらい平気です」

「イヤ、俺、タクシーで行くからいいって。お前、今日は帰れや」

「いえ!帰りません!送り迎え、ちゃんとやります!」

「……フ――……ッ……チッ!」

小さく舌打ちして、直樹は開けられたドアから足を突っ込み、車へと乗り込む。

それを確認し、慌ててドアを閉め、再び運転席に戻った松田は車を発進させた。

「……しかしお前、他にやることないんか。毎日毎日、よう俺について来るな。どがいなデカイ尻尾が付いとるんじゃ、お前には」

「しっぽ?何ですかソレ?イヤ、この車は秋月さんのですし、秋月さんの足になるのは当然じゃないッスか。それに俺は、絶対諦めないッスからね!」

「何を諦めんのや?」

「舎弟ですよ、舎弟!秋月さんの舎弟になるまでも、なってからも、秋月さんの身の周りのこととか全部俺がやろうと思ってんですから!」

「だから、俺はそんなのは取らん言うとるやんけ」

「それはこれまででしょ?この後は分かんないじゃないですか」

「分かるよ。俺にそのつもりがないんやからな。俺が取らん言うたら取らんねん」

「分かんないですって。秋月さんって、いつも何考えてるか分かんないじゃないですか。すげェ気味悪いっつーか、怖ェっつーか、そんな人がこの後どんな行動に出るかなんて、分かんないでしょう?」

「お、お前……気味悪いって…!これから舎弟にしてもらおうっていう人間に言うことか!?お前が俺を傷付けてどうするんや!」

「…あ、スイマセン」

「……ブフッ!!」

思わず噴き出してしまった。

松田に尻尾があると言った直樹は、かつて穂積に犬と表された自分のことをすっかり忘れている。

しかしこの時、久しぶりに笑ったということは思い出した。

「……まぁ、ほんならしゃあないな。ほなら帰りも今日は頼むで」

「ハイ!分かりました!」

いつものように、2人は車で目的地へと向かう。


迎えはいらない。と言っても毎日迎えに来る。

1人で帰る。と言っても毎日車に乗せられる。

ついて来るな。と言ってもついて来る。

直樹の中でやむなく接触してしまう線が、日に日に傾きかけていた。

仲間意識

心情の取り組み

俺のそれらに触れる者は、ロクな目に遭わない。

だからブレぬように、人からなるべく離れたところに引いてあった線が近頃風に当てられ、ゆらゆらゆらゆらと気の向くように傾いている。


今日も直樹は松田の運転する車で出勤していた。

このままやと、コイツと仲良くしてしまう。

俺にとってもコイツにとっても、その辺は皆無であるべき。

松田は車を運転しながら、後部座席の直樹に向かって喋り続けている。

今日あった出来事、仕事のことなどを。

その途切れることのない松田の呼吸を見計らい、直樹はすっと割って入った。

「おい慶也」

「……ん?」

「お前なぁ、今日から、」

話し始めた直樹の言葉を折るように、松田が口を挟む。

「え、何ですか?ケイヤ?」

「ッ?!」

け、慶也……!?

俺はそんなこと言わへん!

「秋月さん、俺の下の名前、イサムですよ。いい加減覚えてくださいよー。覚えてくださいよ、じゃないな。下の名前でっての初めてですよね。イサムです、松田イサム」

「……俺はそんな名前、呼ばへんぞ」

「え?そうッスか?じゃあ今、何て言ったんですか?」

「………」

そんな、馬鹿な話はない。

過去というのは清算できないにしても、俺もアイツも忘れなきゃいけない。

あの過去の生活は、忘れてしまわなければいけない時間だったんだ。

刑期を終えて外に出てきたとしても、人の頭にある俺の罪というのは消えることはない。

消えることがないということは、その人にとって俺はどこまで行っても罪人なんだ。

アイツに何かしてやろう、何か手助けしてやろう。

俺の中でそんな気にもならない代わりに、俺は忘れなきゃいけないはずなんだ。

なかったことに、しなきゃいけないはずなんだ。

―――― 俺は、アイツの名前を呼ばない。

「で、何ですか?」

その松田の問いに対し、直樹は膝で運転席のシートを後ろからグイッと押し、口を開いた。

「やかましい言うとんねん。ちったぁ黙って運転しとけ」

「あ、ハイ……すいません」

自分が表した場合、あくまで失敗という今の遣り取り。

それすら忘れようと、直樹はなかったことにする。

車は直樹の事務所へと、無言のまま走り続けた。


やがて着いたのは、3階建ての賃貸ビル。

これがこの時、直樹が拠点としている事務所。

ここへは直樹自身、あまり足を運ばない。

しかし今日は自分の抱える様々なビジネスのデスクワークをこなすため、久しぶりにこの事務所に来た。

車を降りると、また松田もついて来る。

直樹は後ろを振り返り、

「ワレェ、ホンマしつこいのう。お前にゃ関係ない仕事じゃ。帰れ!」

それは、八つ当たりにも似た怒声。

しかし松田は怯むことなく、

「いえ、夜まで仕事ないんでお手伝いします」

と、そう返した。

「チッ!メンドクサイなお前、ほんま!」

直樹はそう言い捨て、ビルの中へと足を向ける。

その後に、松田も黙って続く。


直樹の入ったその部屋では、5~6人の人間が電話の応対やデスクワークをしていた。

それらを一望して、直樹も自分のデスクに腰を掛ける。

「おーい山崎、こないだの競売に掛けられたヨゴレビルあるやろ。アレの詳しい書類、見せてくれや」

直樹の声に、1人の男が振り返り、歩み寄って来る。

「秋月さん」

「んん?」

「あのビルもそうなんですけど、ちょっとマズイことが…」

「何や」

「実はですね」

そう言いながら、その男は自分のデスクに戻り、ファイルを持って再び近寄ってきた。

そのファイルには、写真付きの履歴書のようなものがまとめられている。

「実はこの女なんですけどね」

山崎はあるページを押さえ、直樹にファイルを差し出した。

「○○組の鳥越って知ってます?」

「…あー、知っとるよ。確か俺よりちょっと年上くらいの若い組長さんやな」

「あ、はぁ……実はこの女、その鳥越の女らしいんですよ」

「………」

「何か、鳥越のやってるクラブで働いとったのを、知らんで引き抜いてしもうたみたいで」

「ハア?何やソレ。何か問題あるんか」

「イヤ、あるでしょう。バレて揉め事になったらどうするんですか」

「揉め事って何よ?声掛けられてウチ来るくらいやったら、コイツはその鳥越とは終わっとるんちゃうんか」

「イヤ、だとしてもマズイじゃないですか。ウチが引き抜いて情報得とるなんて話になって、ケンカの火種になりますよ」

「……ケンカ?捻じ伏せろや。コトが起こったときゼニ渡しゃエエやろ」

「いやぁ、ゼニ金で蹴りがつくかどうか…」

「………」

「………」

沈黙が流れた。

……ケンカ?

メンツ云々ってヤツか。

悩むところやな。

穂積のオッサン、アイツの名前出してやりゃイチコロなんかもしれんけど……何となく拒んでしまうな。

「……よっしゃ、じゃあこの女、もう切れ。コイツ、どこで働いてんねん」

「○○○のクラブで稼ぎ頭になってますよ。……いいんですか?この女、この後どうなるか分かりませんよ?」

「どうなるかって、どうなるんや」

「ヤ、今更切ったところで鳥越との火種は消えないやろうし、コイツはコイツで裏切った代償に消されるかもしれませんよ?そんなことになったら、ウチもメンツ丸潰れじゃないですか」

「メンツ?」

「はい、そうです。この際だから、ちょっと秋月さんに聞きたいんですが。秋月さんって、何でいつもそんなに強気でおれるんですか。

何でもかんでもイテまえって感じですけど、秋月さんのバックって誰がおるんですか。エエ加減教えてもらえません?」

……問題が起こって、俺のバックの話か。

なるほど。

今俺が感じたこの煮えるようなモノが、メンツっちゅーモンね。

……なるほど。

「エエよ、教えたろ。俺にバックなんざおらん。どうや。バックなんかおらへんねん。これ聞いたらちったぁ気合入るやろ。

メンツがどうこう言うんやったらな、この女、とことんまでウチで面倒見るで。鳥越か何か知らんけど、文句言うて来るんやったら黙らせェ。エエか。コイツ、完全にウチのモンにせェ」

「え?完全に……ど、どうすればエエんですか?」

「誰かがずーっとコイツに付いとりゃエエやろ。ボディガードみたいな感じでな。この女介さずに売ってくるケンカは俺が買うたるよ。この女、稼ぎ頭なんやろ?」

「あ、はぁ…。でもボディガードなんか付けたら採算が……」

「メンツ言うたら、採算がどうこうの話と違うんちゃうんか。お前がメンツっちゅー単語持ち出したんやろ。寝惚けてんのか、お前。なぁ、山崎よぅ。寝惚けて来とるんやったら早ぅ言えよ。まずはお前から吹っ飛ばしたるぞ。お前の代わりはアイツでもアイツでも、アイツでもできる。ちったぁ頭使う気になったか」

「あ、はい、すいません!じゃあすぐに用意してボディガード付けますんで」

その時、2人の遣り取りをその場で見ていた松田が、手を挙げながら直樹の前に立った。

「あの、秋月さん。ソレ、俺にやらせてくれませんか」

「ハア?」

「俺、これでも子どもの時からずっと空手やってたんで、一応ケンカとかには自信あるんですけど…。秋月さんの送り迎えもちゃんとやりますから、俺にやらせてくれませんか」

俺の送り迎えもちゃんとしながらって、できるワケないやろ。

あー……待てェよ。

じゃあボディガードやってるうちは、コイツが俺について来ることはないな。

「オイお前、それなりのじゃ足りへんぞ。自分から言い出したんや。100%の覚悟はあるんやろな?」

「はい」

「返事くらい誰でもできる。殺されるかもしれん言うとるんや、俺は。エエんか」

「え、ですから、はい!秋月さんの役に立つんでしたら、俺がやります!」

「………」

まだ具体的に何か問題が起こったわけでもないし、具体的に鳥越が何かしてきたわけでもない。

1人付けときゃ十分か。

「おい山崎、ボディガードの手配できたぞ。コイツがやるってよ」

直樹は、事々のついでに自分の何かしらを匂わす存在の厄介払いができたような、そんな気でもいた。

何がついでなのかよく理解できていないが、この場においては松田の顔を見なくて済むようになると、そう考えたのだ。


次の日目を覚ますと、時計の針はいつもの時間よりも若干オーバー。

直樹は慌ててベッドから飛び降りる。

何やねん、アイツ!電話もして来んで!

急いで身支度を済ませ、ホテルの外へ飛び出した。

ロビーを抜け、玄関を出るが、そこにはいつも停まっているはずの車がない。

そうして思い出す。

……あ、そうか。今日から松田はおらんのや。

そうやそうや、そやったな。

そしてもう一度部屋に戻り、備え付けの机の引き出しから、普段自分が使っている車のキイを取り出した。

今日も、向かう先は事務所。

直樹は車を運転しながら、昨日聞いた引き抜きのことについて考え始める。

任侠

今現在のこの世の中で、もうそんなものは遠い昔に皆が置き去っているんだろう。

あれがもし何かしらの問題として浮き彫りになったところで、金さえ払ってしまえば向こうだって静かになる。

「……フ――――……ッ」

金っていうのは、便利なモンや。

苦かろうが酸っぱかろうが、そんな思い全て超越する。

アイツにボディガードさせたけど、今日びのところ俺はどっちに転ぼうが構わん。

メンツなんてどうでもいい。

顔にドロが付いたら、家に帰って洗えばいい。

しんどいのはその帰りの道中だけ。

メンツなんてものは、俺にはねぇ。

昨日は頭に血が昇っただけよ。

俺が一番よう知ってる。

……流石やな。


直樹はその日も昼間はデスクワークをこなし、夜はホストクラブへと出る。

そんな1日を過ごした。


松田が姿を見せなくなってから、2週間ほどが経っていた。

直樹はまた以前の『1人で行動する間』を取り戻しつつある。

その日、事務所にいた直樹に1本の電話が入った。

それは何度経験しても直樹の心拍を大きく波打たせ、起伏を乱すもの。

生年月日が当てはまる『久保紀子』という女を見つけたという報告。

私情でしかないこの伝達を会社の人間の末端にまで伝えたのは、今から約1年前。

この間2回ほど同じ生年月日・同姓同名の女性が見付かったが、全て空振りに終わっていた。

その報告を聞き、直樹は今回も前回・前々回同様、詳細は折り返し電話をして聞く、そう返事をして電話を切る。

……いざその時が来ると、足が竦んでしまうのだ。

俺が近づいていると、バレなきゃいい。

そう思うのと同時に、

……バレたらどうしよう。

そこから派生し伸びていく思考は、今更俺が彼女に関わったりしたら迷惑以外の何物でもないというところに至り、できたら今回も空振りで終わってくれという身も蓋もない結論で頭の8割が占められるようになる。

……今回こそ、本当に久保さんかもしれない。

怯えと、そこに少し入った歓喜に、今回も直樹は何とも言えない心境を味わう。

こうなると、もう他のことは手に付かなくなるのだ。

「今日はもう俺、帰るから」

そうとだけ言い残し、直樹はホテルへと車を走らせる。

……○○県におる言うてたな。

もし万が一本物やとしたら、何であんな所におるんや。

この後自分がどういう行動に出るか、怯えのあまり定められずにいる。

おそらく自分が生きている限り永遠のテーマであろう紀子に対して、この後直樹は何日もそれに注目し、悩み続けるのだ。


3日も経てばと、タカを括っていたのは前回も一緒。

そういえば前回は、踏ん切り付けてこの目で確認しに行くまで1週間かかったな。

そして同姓同名の別人である『久保紀子』を見たときの、何とも形容し難いあの安堵感。脱力感。

直樹は今回も『よし明日行こう』と思っては、朝目が覚めると『○○県かぁ…遠いな』と思い直す作業を繰り返し、最初に思っていた『3日も経てば』という楽観の3日間を過ごし去っていた。

この間、仕事も手に付かない。

そんな直樹の元に、その日1本の電話がかかってきた。

相手は直樹も勤めているホストクラブの支配人。

『秋月さん、最近松田はどうなっとるんですかね?』

……すっかり忘れていた。

アイツの送り迎えがないのにも慣れてきていたし、メンツなどの話も俺にとっては興味がなく。

本当に、すっかり忘れていた。

「イヤ、だからアイツは用事ができたから、しばらく休むって報告しとるやろ」

『それは聞いてるんですけど、アイツそれでも毎日「今日も休みますんで」みたいな電話入れてきてたんですけどね。この2日、電話ないんですよ。ちょっと心配になりましてね』

支配人は今回、松田が何のために長期休暇を取っているのかを知らない。

松田が自らボディガードを買って出た際、その日の報告を山崎に上げるように言っておいたのだが、そういえばその報告も聞いていなかった。

俺が覚えてないだけか…?

「まぁ心配することないよ。アンタらはいつも通りやっといてくれたらエエ。ま、電話かかってきたら教えてや」

『あ、そうですか。分かりました』

その返事を聞いて、直樹は電話を切る。

……あんにゃろう。まさかあの女とどっかへ逃げたんちゃうやろな。

『まさか』?

……別にそれでもエエな。

それならそれで構わない。

直樹は既に、音信不通の松田のことを完全に厄介払いできたような気でいる。

俺は人のことなんか気にしてられないんだ。

俺と接するということに対しての覚悟を、他人に強要なんかできない。

俺と関わったらロクなことなんかないぞ、ほんま。

直樹は今回の電話のことに関しても、深く考えることをしなかった。


そろそろ仕事に身が入らない自分自身のヘタレた根性に嫌気が差し始めていた。

目の前の書類を眺めつつ思考を飛ばしていた最中、ふと思い出す。

以前から気になっていたレンタルビデオのショップ。

直樹はこれまで、一度もレンタルショップに入ったことがなかった。

要するに、ビデオを貸してくれるんやろ?

返すのはどうするんやろな。また持って来るんか?

興味はあったが、自分の中で得体の知れないものは避けたいと、スルーしていたのだ。

「今日も俺、帰るわ」

直樹はそう言い残し、この日も早い時間に仕事場を出た。


気晴らしにでもなればと、いつも気になっていたあのレンタルビデオ店へと車を走らせる。

そこは外観からして小さな店だったが、店内は更に思った以上に狭かった。

細い入口、辛うじて通れるほどのタイトなスペース。

ぎゅうぎゅう詰めに置かれた、ビデオの数々。

……こりゃあ、決められた敷地内で営業するのも大変やな。

せめてビデオもVHSじゃなくてベータが主流になっとれば、こんな店模様にもならなんだろうに。

息詰まるその空間の中、直樹は取り敢えず何本かの映画を手に取り、レジへと向かう。

直樹がカウンターにビデオを置くと同時に、立っていた店員が声を掛けてきた。

「会員証の提示をお願いします」

え?会員証?

……いるわな、普通。

「イヤ、持ってへんで」

そう返事をした直樹に、店員はちらりと直樹の顔を見、

「ご新規様ですか?ではこの用紙にご記入お願いします」

と、直樹に1枚の紙を差し出した。

名前、住所、電話番号などの記入欄を眺め、こういう作業の度に悩まなければならない自分に思う。

電話番号も住所もないっちゅーの……。

直樹は自分の名前を記し、住所と電話番号は穂積のものを記入して提出した。

「はい、ありがとうございます。それではえっと…身分証明書をご提示いただきたいんですが」

「身分証明書?…免許証でエエん?」

「あ、はい、結構です」

いろいろと面倒臭ェな。

そんなことを考えながら財布を取り出してカードを弄るが、出てくるのはクレジットカードばかり。

免許証がない。

「………」

「………」

……何で免許証がない?

ここで直樹は思い出した。

今回松田に貸した車。

それはガラスにスモークが張られているもので、それまで直樹が主に使用していた車。

所有する数台の中から、護衛するならこれがいいだろうと、それを松田に渡していたのだ。

免許証は、その車のダッシュボードの中に入れてある。

「あー……免許証ないわ」

「保険証でも結構ですが」

「それもナイ」

「……えーっと、そうなりますと会員証はお出しできないんですけれども」

「あー、じゃあエエよ。そのビデオ、買うわ」

「いえ、そういうのはやっていないんですが」

「……チッ!」

直樹は小さく舌打ちした後、そのまま店員に背を向け、店を出た。

……何や、悪い空気吸いに行っただけやないか。

せやけど、免許証持ってないのはマズイな。

たかが不携帯ごときでポリと接するのも嫌やしのぅ…。

そして直樹は先日支配人から聞いた、松田音信不通話を思い出す。

……ま、免許取りに行くだけや。

用事あるだけ。

ちょっと行ってみるか。

直樹は車に乗り込み、今度は例のあの女の店へと車を走らせた。


直樹は例の女の名前すら覚えていない。

途中事務所にいる山崎に電話を掛け、聞いた女の名は『並木』

道々細かい用事を済ませていると、並木の働いているキャバクラに着く頃にはもう夜遅く、良い時間になっていた。

直樹は店の入口から、ズカズカと入って行く。

案内も請わず進んでいく直樹を黒服が制しようとするが、ここは自分の店。

「お前、社長の顔も知らんのか」

そう言うと、その黒服は

「あッ!」

驚いたような声を上げ、

「申し訳ございません!」

深々と頭を下げた。

店の奥に着くまでに、それが何回か繰り返される。

一番奥の席に着くと、直樹はソファにドカッと座り、黒服を呼びつけた。

「並木っていうのがおるやろ。ここへ呼べ」

恐縮するばかりの黒服たちは、既に客に付いていた彼女を急いでこちらへ呼び寄せる。

店の席はほぼ埋まっており、かなり賑わっていた。

やがてやってきた並木は、直樹のことを客だと思い込んでいるようで、

「ど~も~。はじめまして」

そんな挨拶で、直樹の隣に腰を掛ける。

直樹はそれと同時に、いきなり話を切り出した。

「おい、松田は?松田どこにおるんや」

「ハイ?」

「松田や。お前に付いとるやろ。この店へ来とるハズや」

「松……ああ、お客さん、あの人の知り合い?」

その返事を聞き、一つ溜息が零れた。

膨らめ、膨らめ、大きくなれと、手広くやってきた商売。

コイツらは俺の顔すら知らねぇ。

当然、社長である俺の名前すら知らねぇんだろうな。

アホしかおらん。

そのアホのトップが、俺か。

「お前なぁ、お客さんって、俺の店で勤めとるんやったら1回は俺の顔見とるハズやぞ。覚えてへんのか」

「……あ。社長さん?あ、何だ。お客さんかと思って」

「………」

「今日は遊びに来られたんですか?」

「遊ばへんよ。松田に用事があるんや」

「あー、松田さん……あの人、今日まだ来てないですよ」

直樹はその彼女の態度を見て、松田が何故自分の護衛をしているのかを理解していないんじゃないのか、そんなことを考える。

「まだ来てないってお前……お前にベッタリ付いとるハズなんやけどな。ほんでな、お前、鳥越の女やいうのはほんまか」

「元ね。元ですよ」

「お前何や。火種になるためにウチへ潜り込んだんか。ヤー○の女しとった言うんやったら、こんなんしたらメンドイことくらい知っとるやろ」

「ハァ…。まぁでも、知らなかったんですけど、私は3号4号とか5号とか、そんな感じだったみたいなんで、何も言わずに出てきたんですよ。で、このお店が前のお店より条件が良かったからコッチに勤めることにしたんですけど。何かマズイですか?」

「イヤ、まだ何も起こってないからマズイ……んー……」

「でもこのお店に来だしてから、変なイヤガラセが多かったんですよ。社長さんがあの松田さんって人、私に付けてくれたんですか?ずっとお店にも自宅にも変なイヤガラセが来て困ってたんですよね。今、あの松田って人が代わりに標的になってくれてるから助かってますー」

あっけらかんと、そう話をする並木を見ながら、ついつい飄々と言葉を聞き入れていた。

が、

「…何!?イヤガラセ!?もう既にイヤガラセ受けてんのか!?」

「え、ええ、まあ。組長さん(鳥越)の部下みたいな人たちが、この店で暴れたこともありましたよ」

「ちょっと待てェ。松田が的になってるって、お前」

「ええ、昨日もイヤガラセを止めに入って、どっかに連れてかれましたけど」

……免許証が必要だから、そのついでにここへ来た。

だが実際のところ、免許証などはどうでもいい。

俺の知らない所で、俺の会社で、俺のことを知らないヤツらが……

「で?お前は松田連れてかれて、今日はまだ来てないみたい言うてるだけか」

「ハイ?あの人、ただの護衛でしょ?あの人構ってるより、私は稼いだ方がいいんじゃないですか?」

その言葉を聞き、直樹は振り返って黒服に手招きをした。

すぐに3人の黒服が近づいてくる。

「お前ら、当然コイツが何やイヤガラセされてたの、知ってたよな?」

「あ、ハイ」

「何で報告せんのや?」

「報告?……あ、はい、小さい揉め事だと思いましたんで。酔っ払いが暴れただけかと…。何か問題ありましたでしょうか?」

その返事から、黒服たちが並木の事情を知らないことは察せられた。

だが、気に食わない。

直樹は腰を上げ、3人の黒服の目の前に立った。

「お前ら3人、今すぐクビや。帰れ」

「…え、な、何でですか!?」

一瞬呆気に取られた3人は、しかしすぐにそう切り返す。

すると直樹は右側の黒服を指差し、

「俺の名前、言うてみい」

そう聞き返した。

「あ、ハァ……イヤ……えーっと…」

「気に食わん。お前ら、クビ」

そう言い、直樹はもう一度振り返って今度は並木を見る。

それから並木の座っていたソファを思いっきり蹴っ飛ばし、

ガタガタンッ!!

ソファと一緒に転がり落ちた体勢のまま、呆然と見上げてくる並木に、直樹は顔を近づけた。

「おい並木、並木カオリさんよぅ、俺の名前、言うてみい」

俺の知らない所で揉め事が起き、勝手に揉み消され……

何も知らない俺が松田をここへ送り込み、その松田は誰にも報告することなく、どこかへ連れて行かれた。

「……ッちょっと、何するんですか!?」

我に返った並木が甲高い声で噛み付いてくる。

「俺はな、この掃き溜めの主や。秋月……秋月直樹。帰って鳥越でも何でも言うたらどうや?掃き溜めの天使さんよぅ!

……まったく、気に食わん。お前もクビや」

直樹はそう言い残し、さっさと店を出て行った。


何故自分の機嫌がこうなったのか、掴みきれないでいる。

アイツらが自分たちの考えで対処し、自分たちの力で打破できたと考えたのならば、わざわざ話を上に持って行かないというのはごく普通のこと。

俺だってそうする。

この会社を大きくしたのは俺だろ?

なのに俺は、アイツらに八つ当たりするなんてそんな要素、どこから引っ張り出してくる?

直樹は五歩先を見つめながら、駐車場に向かって歩いて行く。

……人肌が恋しいってか。

俺みたいなヤツは、人と関わらない方がいい。

何度言ったら分かる?

―――― 離脱!

そう、離脱した筈だ。

人々の輪から。

それらを滑稽と表し極力溶け込まないよう、そう心掛けるという誓いを、自分に植え付けた筈だろ。

なのに……

それらを網羅する形で、自分が気に食わないと思ったアイツらをクビにしちまったよ。

サトミにしてもそうだ。

このままじゃ俺以外の人と過ごせなくなるぞと、自由にしてやると言ったのに、いまだに俺の周りをウロウロしている。

首根っこ引っ掴んででも放り出せる筈なのに、俺はそれをしない。

我侭な……

俺は生まれたて以上に、何もできていない。


俯いたまま歩く直樹の視線。

それは、何とはなしに見渡したある一点で留まる。

駐車場にずらりと並んだ車、その中の一台。

そこにあったのは、直樹が松田に貸している車だった。

テールランプが点いている。

直樹はその車に近づき、窓から運転席を覗き込んだ。

人の気配はあるが、スモークのせいでよく見えない。

ドアに手を掛けると、それは簡単に開いた。

ガチャッ

中にいたのは、やはり松田。

驚いた表情の彼は、ドアを開けたのが直樹だと気づき、

「アレ!?秋月さん!?」

松田は運転席のシートを少し倒して横になっている。

直樹の目に映ったその顔は、散々なものだった。

紫色に腫れ上がった両目。

頬もひどく腫れている。

「……オイお前、何しとるんや」

「あ、イヤ…」

「毎日電話してくるように言うとったハズやぞ」

「すいません…」

松田は車を降りようと、体を捻らせる。

途端、

「イテェッ!!……うぅ――――……ッ」

呻いて体を硬直させた。

「……オイお前、顔もぼっかし腫れとるが、他にも怪我あるんか」

「イヤ、平気です」

松田は体を引き摺るようにして車を降り、直樹の前に立つ。

「すいません。別にサボッてたワケじゃないんですけど、こんな顔で店に入るのもどうかと思って…。従業員に、何かあったら呼ぶように言ってはいるんですけど」

先ほど聞いた、もう既に小さな問題が起こっているという話。

それに加え、この松田の姿。

聞いた話に交わる思念と、今、目で確認した、―――― この痛み。

「……お前、何、鳥越らにとっ捕まってよう逃げて来れたな」

「あ、イヤ、とっ捕まってっていうか……連れ出されてボコられただけですから。あ、でもやり返してないですよ。問題が大きくなっちゃいけないし、もちろん秋月さんの名前も出してません」

俺の名前を出してない…?

またしょうもないメンツか。

「俺の名前、出せばエエやないか。何で我慢するんや」

「イヤ、俺のためにっていうか、俺のせいで問題起こるのイヤなんで」

「あのなぁ、アイツらはウチらを乗っ取ろうとか、そんな大それたことは考えてへんねん。チクチクチクチク嫌がらせしとるだけなんじゃ。コッチが買わなんだらケンカなんか成立せんやろ。お前がキレるの待っとるんよ。

別にケンカくらい買うたるで、コッチは。そやのにお前、鳥越んトコの何や、小童にそがいにボコボコにされるまで黙っとったんか」

そこまで言った時、それまで俯き加減だった松田が顔を上げた。

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