さよなら 2
この日、直樹はいつものように事務所へと向かった。
昨日の出来事によって今日どういう仕打ちや対応を受けるのかと思っていたが、……やはり皆から常に睨まれているような気がする。
東の口利きから特別待遇のような扱いを受けていた自分は、当然と言うべきか煙たがられていたのだろう。
それも含めた上での、今日の自分に向けられるこの雰囲気。
しかし直樹にとって、そんなことはもうどうでも良いことだった。
四六時中顔がほころび、笑顔になりそうになる。
油断するとニヤケた顔になってしまう。
美奈子の手術の話が進む。
それと同時に、水禽生活を送るために自分はまだこの場所に属しておかなければならないという現状。
そのためにも、昨日のことを形だけでも片桐に詫びをしようと思っていたが、この日は朝から片桐の姿が見えない。
当然、今日は○○にいるなどという情報は、直樹の耳には入って来なかった。
直樹は机に向かい、皆の視線を避けるようにデスクワークをこなしている。
そこに近づいてきたのは佐藤。
「おい秋月、会長が今から来い言うて電話してきたぞ。まぁ、昨日のこっちゃろうな。お前がドコのどんなヤツか俺は知らんけどな、あんまりハネ回っとるなよ。次、何ぞしでかしたら、俺がお前にとどめ刺したるからのぅ」
東が呼んでいると聞いて一瞬焦りはしたが、その後の佐藤の言葉は直樹の耳を素通りする。
「あ、すぐですか?本社に行けばいいんですよね」
素っ気無くも聞こえる直樹の返事に佐藤は激高し、直樹の胸倉を掴み上げた。
「ワレェ、ほんまに調子乗っとんなよ!!」
その体勢のまま、直樹は思う。
とどめを刺すとか何とかかんとか、お前にそんなことできるワケねぇだろ。
調子こいてんのはお前じゃないのか。
しかしこの場で事を荒立てるのは賢明ではない。
今後のことを考慮し、
「あ、そうですよね。昨夜はすいませんでした」
そう言い、頭を下げる。
笑いながらでも詫びはできる。
そう思った。
すぐにということだったので、直樹は車に乗り、東の元へと向かう。
東の言う用事の内容が気になりはするが、それよりも勝るのが水禽生活のあと500万。
昨夜、タケシと話をした。
1人250万ずつ用意するとかではなく、とにかく2人合わせて500万用意しようと。
スカウトの金は片桐に取り上げられてしまったので、また新たな何かを模索する必要がある。
できれば、何をしてでも1月で500万は作りたい。
ああでもないこうでもないと考え事をしながら車を走らせる直樹。
昨夜の話し合い、そして美奈子の手術が決まったことで、どこか綻んでいるのだろう。
以前のような鬼気迫る思考の運動を駆け巡らせることができない。
油断しては笑顔になり、信号で止まれば笑顔になり……
そんなことをしているうちに、東のいるあのビルに着いてしまった。
直樹はビルの中に入り、東の部屋へと上がる。
じゅうたん敷きの廊下を渡りながら、ここに来てようやく少し緊張が始まった。
……まさかクビじゃあるまいな。
そんなことも考えてみる。
東の部屋のドアをノックし、
「失礼します」
と声を掛けて中に入った。
室内には東と、いつものお付きの男がいる。
……どこかで緊張の糸がほつれているのだろう。
直樹がその様子を見て思ったことは、現在自覚する自分の立場とは全くかけ離れた感想。
そういえば、このお付きの人の名前を知らないな。
ま、もう覚えんでもエエか。
部屋に入ってすぐその場で立ち止まり、そんなことを考えた。
「おー、秋月くん、早いやないか。さっき電話したとこやで。やっぱり君は一味違う。世の中なんて早う動けるモンが勝つんや。
急に呼び出して悪かったね。まぁ、こっちに来て座りなさい」
いつものように、立派な椅子にふんぞり返っている東。
直樹はその東の正面に置かれているソファに腰を掛ける。
「おい、コーヒー出前してもらって、…あ、秋月くん、コーヒーでエエんかな?」
その言葉に直樹は、
「できたら紅茶でお願いします」
「ハハハハハッ!そうか、秋月くんは紅茶の方が好きか。ええトコの子は紅茶を飲むんかね。じゃあ私もたまには紅茶にしようかね。
おい、紅茶2つ持って来させてくれ」
東の言いつけに、お付きの男は部屋を出て行く。
その、いつもの光景。
前回のように、紅茶が届くまで待とうじゃないかと言われるかと思ったが、この日はそれを待たない東。
今回の用件を話し始めた。
「秋月くん、昨日のこと聞いたで。随分と無茶するやんかいさぁ」
その話題になったとき、こう返そうと決めていた。
直樹は席を立ち、頭を下げ、
「昨夜は本当にご迷惑をお掛けしました。申し訳ございません」
その直樹の返事を見、聞き、東は少し黙って直樹を見つめる。
そして東は、ここから独断を始めた。
「アレェ、何で謝るんだろうねぇ?君のそのお詫びの意味がよう分からんよ。
昨夜、君がやったことはね、○○会(タケシの所属事務所)を潰す足掛かりになったから、お礼を言わなきゃねと思って今日呼んだんやけど」
「………」
「片桐にはたくさん怒られたんやろうねぇ。男前が台無しになってるやんか」
「………」
東はそう言うと腰を上げ、こちらに歩いて来た。
直樹の隣にどかっと座り、親指の爪を擦りながら話を進める。
「私はね、この世で嫌いなものは何かって聞かれたらね、1個しかないんやわ。それはねぇ、0.000001ミリでも私にマイナスの影響を与える人間なんやわ。大ッ嫌いなんやわ。
ほんで、私が一番好きなものっていうのは、1円でも多く私に利益を与えてくれる人なんや」
東はそこまで言うと自分の爪を弄る手慰みを止め、満面の笑みでもって直樹を見つめた。
笑顔で返すべきかと思ったが、完全にそのタイミングを失った。
……というより、恐ろしかった。
「で、秋月くん、お父さんは元気かい?」
「………」
父が今、元気にしているのか、元気ではないのか、そんなことは直樹の知るところではなく、正直なところここ何ヶ月、あの両親のことを思い出すことなどなかった。
東の話はここが核心なのではないか。
そう思い、直樹は東の言葉に集中する。
「随分と長い間、連絡取ってないみたいだねぇ」
その言葉に、今更ではあるが自分が家を飛び出してきたということがバレていると確信した。
「私はね、別に君のお父さんに魅力を感じたワケじゃないんやわ。彼は大物や。私とはレベルが違う。近づこうもんなら、人差し指でピーンッて撥ねられるよ。
昨夜の君のやったことを聞いてね。片桐は怒ってるかもしれないけど、私は嬉しかったんやわ。ウチに集まってる人間なんてのは、ボンクラで普通や思うてたんやけどね。
上のモンが頭使うて荒稼ぎしよるのを、指銜えて見てるだけ……私ゃ彼らを見ながらね、死んでもこんなクズにはなりたくないって思うてたんよ」
「………」
「そこへ来て君はね、聞いたら入って1月もせんうちに1人で隠れて稼いどったらしいやないか。皆が遊んでるときに勉強して、皆が遊んでるときに体鍛えとったんやもんなぁ、君は。
我慢の袋を叩き割るのは大人になってから、そう決めとったんやろ?エライなぁ。一味どころか、二味違うよ」
「………」
いつものことではあるが、東が一体何を言いたいのかはっきりと分からない。
ここに居ろということなのか。
ウチの親のことはもうすでに知っていると思っていたが、それを度外視し、それでもここへ置いてやると、そう言っているのだろうか。
頭を巡らせようとするが、東の話は続く。
「秋月くんね、世の中、列っていうのは大事なんやわ。それは分かるよな?だから片桐はあんな風に君を怒ったんや。
でもね、ここで一つ言わしてもらっていいかな。誰にも言うたらアカンのやで」
そう言い、直樹に顔を近づける東。
何となく、直樹も顔を東に寄せる。
「正直なところね、私ゃ片桐が死のうが生きようが知ったこっちゃない。幸い彼はね、今のところ私に利益をもたらしてくれるんやわ。
内緒やで。絶対誰にも言うたらアカンで」
この東の言い分を聞き、直樹はここで目を覚ました。
それは俺にも言えることだろう。
両親ともう関係のない俺が今後どうなるかは、俺如何であると。
そういうことなのだろう。
背筋の辺りで何かを感じ、何かを背負った気がする。
直樹は敢えて無言のまま、返事をしなかった。
とても居づらい雰囲気になっている。
褒められているのか、咎められているのか。
東は更に踏み入った話をし始めた。
「秋月くんは、片桐と杯事は交わしてないよね?」
その問いに対する返事は、久しぶりに声を出した、そんな感覚のそれだった。
「いえ、そういうのはやってないです」
そこで東はもう一度、笑顔を直樹に見せた。
「そうかいそうかい。そういうのはね、ちょっと考えてからやって頂戴よ。片桐と交わすんなら、私と交わしてもエエんやからね」
笑顔を留めたまま、笑っていない視線を向ける東。
そんな東が、自分の全てを見透かしているのではないかと勘繰ってしまう。
直樹の思考は先へ先へと走り、自分がその内この組織から逃げる計画をしていることすらバレているんじゃないか。
そんなことも考えてしまう。
何を言うべきか逡巡していたその時、部屋のドアがカチャリと音を立てた。
先ほど東が頼んだ紅茶が届いたのだ。
瞬間、水を差されたかのような顔をする東。
安堵を隠し切れない直樹。
「……あー、秋月くん、お茶が来たよ。まぁ、一緒に飲もうやないか」
そう言って、東は自分のデスクへと戻って行く。
目の前に置かれた紅茶の静かな表面をじっと見つめ、考えようとするが何も定まらない。
直樹はその紅茶を、ミルクも砂糖も入れず一気に飲み干し、立ち上がった。
「東さん、そういうこみ入った話はまた折を見て……折を見て、お願いするときは僕から伺います。その時にはよろしくお願いします。
……ほんの少しでも東さんの利点になれるようこれからも頑張りますので、よろしくお願いします」
そうして頭を下げた直樹の表情に、押し殺さなければならないほどの笑顔はない。
「うん、うん。利点でも利益でもどっちでもいいよ。まぁ、頑張らずに利益になるのが一番なんやけどね。君のためにも、私のためにも、ね…」
静かなのに耳をつんざくような東の言葉一つひとつに、安心していいのか恐怖していいのか。
まるで雲を掴むかのような、形容しがたい東のこの空気に丸呑みされないうちに……。
そう思った直樹は、一刻も早くこの部屋を出るために東に歩み寄る。
「それじゃ、今日は失礼します」
挨拶をしてもう一度頭を下げた直樹に対し、東はもう一つ確信的な一言を付け加えた。
「今日話したことは一つも忘れたらアカンよ。心配せんでも、私は一つも忘れないからね」
その体勢のまま、固まる直樹。
頭を上げることを躊躇し、東の顔を見ることができないでいる。
その体勢のまま、もう一度、
「……失礼します」
そう東に告げ、直樹は駆けるようにその部屋を後にした。
踏み出す爪先が、一歩一歩と重ねて立ち竦む。
エレベーターに乗り、ビルを抜け、駐車場に向かうこの背中に、凍った礫が降りかかってくるような気がした。
……冷たい恐怖とでも言うのか。
東の、あの領域。
今晩夢にまで出てくるんじゃないのか。
東の話が頭の方々にこびりつき、車を運転する直樹は項垂れるような思いでいる。
結局、
いろいろ考えてもしょうがない。やれることをやって、早いトコお金を貯めないと。
這いずりながら、どうとかこうとか……。
思考をそこに完結させた頃には、片桐の事務所はもう目の前。
途中で放り出してあった書類関係の仕事を終わらせてしまおう。
直樹は事務所の中へ足早に入って行く。
いつもの調子でドアを開けると、ふと空気が変わっていることに気づいた。
先ほど出掛けたときとは違う雰囲気で事務所が蠢いている。
何やらいつもより人が多く、慌しく皆が動いている。
しかし直樹はそれほど気にすることなく自分のデスクに座り、先ほどの書類を広げた。
そこで、直樹は突然肩を掴まれ、
「おい!何やっとんねん!そんなん後でエエからお前も動かんかい!」
「?」
いきなりそう怒鳴りつけられても、帰ってきたばかりの直樹には何のことだかさっぱり分からない。
事情を聞いてみると、
……どうやって探し出したのやら、片桐を狙っているヤツらの詳細が分かったということだった。
しかも、先日事務所の前で片桐に向けて発砲したヤツらだけではなく、確認しただけで5つの組が片桐を狙っていると言う。
「この5つの組のうちな、この4つは大したことないねん。こんなモン、こっちから出向いて潰したる。でもなぁ、ココが問題なんや」
紙に書かれた5つの組事務所の名前の一つを指差し、彼は直樹に説明する。
「ココはな、○○組の枝なんやけどな、トップにおるのがヤバイんや。ウチの会長もビビりよるヤツでな。
片桐さん、電話してもおらんし、どうしたらエエんや、コレ!」
とりあえず、その話を頭に残すようには聞いていた。
しかし直樹にとっては全く興味のない話。
先ほどの東の話を思い返し、自分と照らし合わせてみる。
……俺は、人としておかしいんだろうか。
本気で片桐がどうなろうが知ったこっちゃない。
というより、全く興味がない。
曲りなりにも今、近くにいる人間の事情であるのに、興味がない。
俺もまた、東と同じ部分を持ち合わせているのか。
「とにかくや、お前も来い。まずこの事務所行くぞ」
「行って何するんですか?」
「……いや、片桐さんおらんからな、どうしたらエエんか分からんけど、とりあえず行くんや」
……冗談じゃない。
俺にそんな時間はない。
行って何が起こるのか分からない。
何をするのかも分からない。
そんな状態で、自分から出向くなんてのは……
コイツら、ほんまに頭使ってんのか?
さっき東がボウフラとか何とか言ってたな。
蚊の幼虫……言えてるような気がしてきた。
そんなモノに、俺は乗る気はない。
そんなことより、俺は明日楽しみが待ってるんだ。
そんなことをしている場合じゃない。
「いや、すいません。さっき東さんに呼ばれとったんですけど、この後東さんに言われてる仕事があるんですけど。どっちが優先ですか?」
直樹は咄嗟に出た嘘で、その彼に問う。
「……え、会長から?……うー……ん……」
初めて口を利いた彼の名前すら直樹は知らない。
しかし先ほど少し交わした会話で、こう問えば返事に困ると即座に判断できた。
東の話を聞いて、東のマネをしたかどうかは分からない。
東に影響を受けたのかどうかは、……分からない。
「あー…ヤバイですわ。もう時間や。ちょっと東さんのトコへ行きますんで」
直樹は書類をたたみ、それを小脇に抱えて事務所を出る。
……どこをどう剥いてみても、切ってみても、俺の中には片桐が心配だという心境がない。
直樹はこの日、この後の時間をノミヤの集金に当てることにした。
昨日はそのまま事務所に戻ることなく、部屋に帰った。
事務所に出入りするようになって、まだそれほどの月日を過ごしていない直樹。
それに加え、組内に親しい相手がいないため大抵の事情は耳に入って来ない。
ただ、理解しきれていない直樹にも推測することはできた。
今回のことはおそらく、大きな抗争になるのだろうと。
昨日は逃れられたが、そのうち必ず巻き込まれる。
2人で500万貯めないといけない。
その課題が大きく圧し掛かる。
どうしようか。
どうするべきか。
直樹はいろいろと考えた末、いったん東に取り込んでもらうという方法を思いついた。
今からすぐに東のところへ行って、しばらく東さんの元で勉強がしたいとでも言えば、傍に置いてくれるんじゃないか。
……昨日の東との話の内容を思い出す。
口なんてものは右だろうか左だろうが、いくらでも回せられる。
卑怯だろうが何だろうが、転がしてみせる。
直樹はこの日の朝、今まさに抗争が始まろうとしている片桐の元ではなく、東のところへと向かうことにした。
このビルはいつも何故か緊張することが多い。
早足に入り、早足に出る。
そんなことが多い。
今日の直樹はいつにも増して、まるで走るようなスピードでビルに入り、東の部屋へと向かっている。
いつものように煙に巻かれるかもしれない。
それらも想定して、四方八方へ嘘を考える。
東の部屋の扉の前に立ったとき、直樹の思案はこれで行けるだろうというところまでまとまっていた。
ドアを二度ノックすると、中から「はい」という返事。
直樹はまた、ドアも急ぎ乱暴に開ける。
バンッと開いたドアの勢いに、東が少し驚いたような顔でこちらを向いた。
「おー、秋月くん。どうしたんや?」
直樹には周りを見渡す余裕はない。
息を切らせ、
「東さん、あのですね」
そこまで言って、直樹は気づく。
お付きの男以外にもう1人、ソファに座っている人間。
瞬間、固まってしまった。
血の気が引き、顔面から体温がなくなっていっているような気がした。
……そこにいたのは、片桐。
彼はゆっくりと直樹の方を振り返る。
他意があるのかないのか、その目は直樹を睨んでいるようにも見えた。
まったく頭を掠りもしなかった、この事態。
顎は動くが、声が出ない。
この予想外の展開で、直樹がここに来るまでにしてきたシミュレーションは、全てご破算になる。
立ち尽くす直樹に東が、
「今日は呼んだ覚えはないんやけどね。どうしたんや、慌てて。随分顔色も悪いみたいやし、……私に言うてみるか?」
「あ……イヤ、……あのですね……昨日、聞かせていただいた話が……」
口ごもってしまった。
当然といえば当然、この場で話せることなどゼロに等しい。
そんな直樹を無視するかのように、片桐は東に向き直り、話し始める。
「ほんならオヤジ、頼むで。ワシも穂積んトコとはようケンカせん。アンタも困るやろ」
「…まったく、しょうがないね。なんぼ穂積んトコの枝やいうても、お前のところとモメると話は行くだろうからね。
分かったよ。私から連絡しとくから、今晩接待でも何でもしときなさい。……フ――――ッ……」
大きく溜息を吐きながら、椅子の背に凭れ掛かる東。
2人が何の話をしているのか、直樹には分からない。
耳に、頭に入れておかなければならない話なのかも分からないでいる。
「ほんなら頼みますわ。ワシ、帰りますんで」
そう言うと、片桐は席を立った。
そのまま直樹に歩み寄る。
そうして、すれ違うギリギリで、
「お前、何でこんなトコおるんじゃ?大事な仕事あるやろ。今晩8時からな、いつもの料亭に予約入れとけ。帰るぞ」
「………」
放心状態の直樹。
楽しみにしていた今日に、ケチをつけられたどころの騒ぎではない。
更に、今ここに自分がいる。
これが怪しまれるべき行動以外の何物でもないということを、当然理解する。
帰るぞ、という片桐の言葉に「はい」と返事をする直樹。
「アレ?もう帰るんかいな、秋月くん」
東の言葉にも、はいと返事をする。
そうして先に部屋を出た片桐を追うように、直樹も一歩を踏み出した。
ここに来たときの足取りとは違い、とてつもなく自分の足が重く感じる。
そこへ東が近づいてきた。
「言えへんことは私が聞くよ。でもねぇ、私らの世界、ビビッたら終わりやで?引いたら終わりなんやで?
更にもう一つ言うとこうか。……死んだら、終わりやで」
東のその言葉に、返事も忘れる直樹。
挨拶もせずに部屋を出た。
扉を閉めて歩き出そうとしたすぐそこに、片桐が待ち構えていた。
「まぁ、ちょっとな。デッカイ所に目ェ付けられたんや。ワシも必死やからな。あっちこっちから恨み買うとる。
ウチのオヤジも、アソコにかかってしもうたら形無しや。ゼニ積んで許してもらうわ。帰るぞ」
虚ろな頭で片桐の言葉を聞いている。
その表情に、片桐はもう一度、
「……帰るぞ。どうする?」
冷たく冷え切った顔面をぶら下げ、直樹は片桐の後をついて行く。
……そうするしか、なかった。
事務所に着き、片桐に言われた通り、いつも使う高級料亭に予約を入れた。
今回のことで、事務所にいるのは電話番のみ。
……ここで逃げたら500万……
そのことしか頭になかった。
いつまで経っても、先ほどの血の気が戻らない。
直樹は駆け込んだトイレで何度も吐き戻す。
足取りも戻らない。
思考も働かない。
そんな直樹の顔を見て、電話番の男が声を掛けてきた。
「何やお前、その顔。真っ青やないか。どっか悪いんか?」
「………」
「どうも片桐さん狙うてるヤツら、本気みたいでな。夜に何か用事があるから、それまでどっか隠れとく言うとった。
仕事せんとって怒られるかもしれんけど、お前病院行ってきた方がエエぞ、ソレ」
……名案だと思った。
「……すいません。ちょっとほんまにマズイみたいなんで、病院行ってきます」
直樹はそう言って、フラ付く足を引き摺り、事務所を出る。
車を走らせながら、直樹は考える。
今日このまま部屋に帰り、事務所へ戻らなかったとして、明日はどうする?
明後日は?
短期間で大金を作ろうと思えば、この仕事をするしかない。
だけどやっとここまで来たのに、あんな抗争なんかに巻き込まれて万が一命に関わるようなことになれば……
生きてきた意味がないような気がする。
心の端の方で、お金は残って美奈子が手術できるのだからそれでもいいのかな。
そう思うところもあるが、まだまだ生きていたいという欲望、これが大半を占めている。
その辺を考えると、やはり死んでしまっては意味がない。
明日
明後日
明々後日
……この先、どうする?
そう考えながら、直樹はそのまま部屋へと帰る。
……そうだ。
今日は久しぶりに、3人でごはんを食べるんだ。
自己陶酔すれば、これが立派な『今日事務所へ戻らなかった理由』になる。
そう言い聞かせ、明日・明後日・明々後日のことを考えるのは一度止めにした。
その日の夜、直樹とタケシは美奈子に留守番を頼み、2人でいつもの居酒屋へと出掛けた。
タケシも今日は夕方5時には部屋へ戻っていた。
今日は直樹も飲むかもしれないと、2人は歩いて店へと向かう。
移動の最中、タケシは妙に明るかった。
今日パクに話せば、明日にでも美奈子を病院に連れて行ける。
そのテンションから来るものだろう。
そりゃ嬉しいだろう。
ずっと辛かったんだからな。
そう思い、やけにお喋りなタケシの話に付き合っている。
「多分なぁ、パクウはまだ来てへんぞ。アイツはいっつも遅いんや。待ち合わせたらな、ちょびっとだけ遅刻しよんねん」
「ああ、そっかそっか。そういえばそうやな。気づかなかったよ」
「俺、時間守らんヤツ、めっちゃムカつくんやけどなぁ」
「そうやな。時間守るっちゅーのは大事やんな」
「ほんまやで」
こんな他愛のない会話。
パクの文句を言いながらも、笑顔のタケシ。
居酒屋に着き、
「先に何か食べとこうや」
そんな話をしながらのれんを潜ると、中から
「遅いッ!!」
……パクだ。
彼はもうすでにいつもの席に座っている。
「アレ!何でおんねん!?いっつも遅れて来るくせに!!」
「イヤ、思うてたより早くな、帰って来れたから…っていうか、大事な話って何やねん!何や、ビビッてもうて仕事どころじゃないぞ、ほんま!」
パクの前にはすでに空になったビール瓶が1本、転がっていた。
「まぁ、座れや」
直樹とタケシは並んで席に着く。
神妙な面持ちでもない直樹とタケシを見て、パクは言った。
「何や、様子見たら重たーい話でもないみたいやな。エエ話やったらそれに越したことないんやけど。
まぁ、まず何か頼めや。食べながら聞くわ」
2人は店員を呼び、適当に料理を注文する。
そして店員が去ったこのタイミングで、直樹はパクに話しかけた。
「パクウ、お前今、いくら貯まってる?コレ大事なトコロ。いくら貯まった?」
直樹の突然の問いに、少し驚いた様子のパク、
「お、おう。結構貯まってんで」
そう言い、タケシをチラチラと見て様子を窺う。
直樹とパクの間では、タケシの前でお金の話をするのはどこかでタブーになっていたところがあった。
「イヤ、パクウな、もう気にせんでエエねん。了解済みや」
「ハア?何やソレ」
とにかく今回の話はタケシの口からは言いにくかろうと、直樹は昨日からパクに伝えなければならないこと全てを用意していた。
パクの預貯金も合わせ、美奈子の手術代に必要な金額まで到達したこと。
自分がどういう方法でお金を貯めたかということ。
手術後、パクに美奈子を預けなければならないということ。
自分とタケシは何年か、住所不定の形でどこかに隠れなければならないこと。
それらを、順を追って説明して行く。
黙ったまま全ての話を聞き終えたパクは、更に沈黙を続けた。
2人は揃って、パクの言葉を待っている。
直樹は自分の所業をどんな風にパクに怒られるのかと、ドキドキしている。
タケシはタケシで、直樹に無茶をさせたことを申し訳なく思っているのだろう、直樹と同じように俯いている。
……何秒かの、何分かの無言が居た堪れない。
沈黙の途中、テーブルに当たったパクの膝がガンッと音を立て、2人はビクッと肩を竦ませた。
「…あ、ごめんごめん」
怒られるのを覚悟で、全て話した。
しかしパクの顔はそれほど怒っているようには見えない。
しばらくして、やっとパクが口を開いた。
「……そっか。タケシ、……良かったなぁ。そうと決まったら、明日にでも病院行かな。俺、明日仕事休むから、金持って行こうや、病院。……そっか……そっか……」
言いながら、パクは俯くようにして続ける。
「……正直な、金貯めよるいうても、このペースやったらいつになんねん思うとったんよ。早よせな、いつかな、美奈子にそん時が来る思うてな。……良かったわ」
そのパクの言葉を聞きながら、一度顔を上げたタケシも再び下を向く。
何と表現すべきなのか。
間を漂うこの雰囲気を。
喜んだ方が良いに決まっているのだが、2人の中で美奈子のことがどれだけの比重を占めていたのか、この様子で窺い知れた。
良かった、ばかりを繰り返すパク。
返事に困るタケシ。
直樹もまた、良かったと声を出したい思いで2人を見つめている。
やがてパクがパンッと膝を叩いた。
「ほんならコレ、前祝やな。めっちゃ久しぶりちゃうか、3人で外で会うの」
「そうだな。俺は2人とは会うてるけど、3人同時に会うのはな、久しぶりやな」
「俺に関しちゃ、タケシの顔見るのも久しぶりのような気がするわ。今日はもうこの後何もないんやろ?飲もうや。
直樹、お前も今日は酒はエエとか言うとらんで、ちょっとでエエから飲め。なぁ?」
「よし、分かった。歩けんようになったらアカンから、ちょっとだけな」
「よし!タケシも飲め!」
パクはそう言って、ビールジョッキをタケシに突き出す。
「お、おう」
3人は笑顔で酒を酌み交わす。
とても良い時間だった。
このときばかりは心配事や面倒臭いことは、全て忘れていられたのだ。




