試 3
直樹は静かに電話の受話器を取り上げた。
誰に見られているわけでもないのに、一度バレないように深呼吸をする。
「……フー……ッ」
そしてゆっくりと、あの家の電話番号を押した。
この電話は、何回コールしてでも出るまで鳴らし続けてやると決めて、かけた電話。
『はい、もしもし。秋月でございます』
直樹が、あの家に住む人の声を聞き間違うわけもない。
電話に出たのは、お手伝いの島尾さんだった。
「直樹です」
『あ!直樹さん!?今どこにいらっしゃるの!?』
その言葉に、考えるところはあった。
パクウが電話をしてるから聞いてるんじゃねぇの?
……だけど、今はそんなことはどうでもいい。
「それよりも、島尾さん……」
ここで悩んだのは、
……父のことを何と呼んでいいのか分からない、
そこだ。
だがこの会話を父が聞いているわけでもない。
そう思ったので、一番分かりやすい方法を選んだ。
「お父さん、いますか?」
『あ、いらっしゃいますよ。ちょっと待ってくださいね』
受話器から『エリーゼのために』の電子音が流れてくる。
音楽の向こう側の光景が、俄かに想像できる自分を歯痒く思う。
確率としてはミクロの領域であり、何かを得られるとは思えない。
直樹は自分のことを試すのではなく、何の他意もなくお金を借りられないかと相談を持ちかけようとしたのだ。
やがて、流れる保留音が止まった。
8割方電話には出ないと思っていた父が、受話器を取った。
『………』
しかしその向こうから聞こえてくるのは、吐く息の音だけ。
……自分から話そう。
「もしもし、僕ですけど」
『………』
秒数で表せるほどの間ではあるが、直樹には長く感じられる。
『……何の用だね』
父が一言、そう言った。
「実は、僕の友人の妹が病気なんです。手術をするのに保険がききません。お金が要るんです」
それから、直樹は自分の中でのとっておきを蔵出しする。
「お金を貸していただけたら、もう二度とそちらに帰ることもありませんし、連絡を入れることもありません。どうですか」
『………』
いくらの話だ、と切り出してくるかと思ったが、父は黙っている。
この流れが止まらないので、また直樹は話し出す。
「1000万以上要るんです。どうでしょうか」
……フン、という吐息が受話器にかかるのが分かり、あのほくそ笑む顔が頭を過ぎった。
『何の話かと思えば……。お前は逃げたから知らんだろうが、あの後の処理は全て済ませている。全て弁護士にやらせたよ』
話がズレているのか、この後の流れで今回の件について話し出すのか分からない。
胸糞の悪い中、直樹は話を聞くことにした。
『君は今、外国留学していることになっている。まぁ世間体のというものがな、あるからな。
で?何に対するどんな条件だって?』
意地を見せろ!
「ですから、1000万ほどお借りできませんか」
『誰にだ』
「僕にです」
『何のために』
「……人のためです」
軋む心に、持ってくれと願いを込め、直樹は10円玉を追加する。
『君と私たちは、もうなぁ、関係ないはずなんだが?留学して帰って来ないと、そう言おうと思っとるんだが?』
これが私の答えである。
そう言わんばかりの父の返事だが、直樹は粘る。
真っ暗な、その向こう。
ほのかな灯りが照らす先にいるあの2人に聞こえないように、声のトーンを落として。
「だから迷惑を掛けないように、ひっそりとやります。貴方の家で暮らしていたということも、絶対に口にはしません」
そして、言いたくはなかったが、付け足してしまった。
「悪い条件ではないと思いますよ」
『………』
父はしばらく黙り、
『取引かね』
そして続けた。
『あの時、君を拾ったのは余計なことだったねぇ。君がいなけりゃ慶也も事故になんか遭わなかったのかもしれないねぇ。
ズレだろう、これは。君が家にいたからね』
……直樹はここで、何故か病気の母のことを思い出した。
容態を聞きたい衝動に駆られたが、それをグッと堪える。
そして、本来の思考を引き寄せた。
アンタが勝手に拾ったものだろう、とは言えないし、
何故そのもののせいにする、とも言えない。
いつアンタに拾ってくれと頼んだ?と言いたい。
直樹は痛烈に思うのだ。
コレなしでは生きていけないと、そう決め付けていたんだよな……。
本題から大きく逸れたが、要するに父からお金を借りるのは無理であることを確認した。
軋む目・肩・腰に、遂行しろとお願いする。
重々承知の上であり、俺の意地だった今回の条件。
それは、反故になった。
『私は逃げた者には興味がない。追ってくる者にしか目を向けないんだよ』
ここに来て、父が下手糞な嘘を吐く必要はないと考える。
ただ、今言った言葉の意味は、俺が今、思ったものとは次元が違うのだろう。
あのまま、あの家に居れば……
そんな風には考えない。
『死にたいんなら、自分で死になさい。誰も止めはせんよ』
「………」
親と思い、過ごしてきた人に浴びせられたその言葉に、とてもシュールだとすら思ってしまう。
終わった。
これが最後か。
これは本当の意味での、父からの餞別なのだろう。
そんなことは誰も聞いていないなんて、あまりレベルのかけ離れた言葉はもう発さない。
これが最後の会話だろうと、直樹は決め付ける。
激怒を通り越した先にあったのは、なかなかの平常心だった。
それは舐めるように、直樹の全身を包み込む。
まだらにぼやけた薄皮のように。
直樹は張り付いた唇を剥がし、口を開く。
以前から聞きたかったことがあったのだ。
「前から聞きたかったのですが、僕のこの直樹という名前、自分ではよく覚えていないんです。
この名前は、拾われる前から付いていたんですか。それともお父さんかお母さんが付けて下さったんですか」
聞いていたのかいなかったのか。
父はそこで一言も発さずに、ガチャン!と電話を切った。
逆鱗の線が切断された気分であり、行ったことのない境界線を踏み越えた、そんな形と言ったら良いのか。
頭を失くした皮膚の表面が、考える素振りをする。
空気の嚥下すら億劫だ。
峠を越えた先で待っていたものは、笑えてしまいそうな頓珍漢な間延びした空白。
直樹も受話器を置き、再び2人の元へと戻る。
足音が近づくにつれ、こちらの方を向き、じっと直樹を見つめる2人。
彼らにゆっくりと歩み寄る直樹。
「……すまん、タケシ。アカンかったわ」
「……お前、ひょっとして家に電話した?だから何回も言うてるけど、ツレから金は借りれんって。でも、ありがとうな」
タケシのその言葉は、直樹の中には響かない。
父の言葉に放心する間もなく、飛び降りる場を失った今、これまでのものを最大限に使い、歩いて行こうと考える。
今回の電話に対し、本心から美奈子のために動けたと自分で自分を褒め、次にそのためにできることはと、頭を巡らせた。
そして、直樹はある決心をする。
美奈子が倒れたあの日から、約1ヶ月経ったこの日。
直樹は女性と2人で、カラオケボックスにいた。
相手はいつも一緒にバイトをしていた、直樹を食事に誘うあの女性。
彼女の歌う『川の流れのように』を、考え事をしながらボーッと聞いている。
幸い、美奈子の病状は命に別状なかった。
2週間ほど入院して、今は部屋に戻っている。
あの日覚悟を決めた直樹は、次の日にはバイト先の店長に、あと1ヶ月で辞めるという話をした。
今の稼ぎではどうにもこうにも、という直樹の本気。
この日がアルバイト最後の日だったので、直樹は彼女の誘いを受け、ここにいる。
彼女の歌う姿をボーッと見つめている直樹。
随分やさしくしてもろうたな……。
そして、こんな考えを巡らせる。
3万でどう?って言って来んかな……。
この場合、買ってくれではなく、俺を買ってあげるという意味で。
即OKなんやけど。
言うて来ぉへんかな……。
こういう思考は本来、直樹の好みではない。
だが、あの日を境に直樹の中で削られてしまったものが確実にあった。
まだ鋭利ではなく先端箇所も少ないのだが、確かに磨かれ、尖り気味になったところが何箇所かある。
考えても仕方のないことなのに、
誰のお蔭で生きて来れた
死にたいんなら、自分で死になさい。誰も止めはせんよ
あの言葉が、頭の中で連なる。
この期に及んでまだ、『父の言うことは全て正である』という呪縛から解放されずにいる。
……早いとこ離脱しないと。
川の流れのように、か。
この歌は俺でも知ってる。
いい歌やな……。
行っては戻り、飛ばしては先を急ぐ思考をもて遊びながら、いろんな妄想に耽っている。
そうして、ある一点で思い出した。
2週間ほど前の話だ。
直樹は初めて、タケシの先輩である梶という男に会った。
「おいおい、何や何や~?住人が増えとるやないか。聞いてへんぞ~」
そうにこやかに言い、ズカズカと部屋に上がりこんできたその男。
ヤ○ザ者というからには、どれほどイカつい人なんだろうと想像していたが、彼の風体はその想像とはかけ離れたものだった。
随分と普通で、随分と柔らかい。
でも本当は、こういう人を怒らせると一番タチが悪いんだということも、直樹は知っていた。
以前、タケシとお金云々の話をしたとき、「梶さんもそんなにお金を持っていない」と言っていた。
でもいくら何でも、お金のない人がこんなマンションを所有しているというのはおかしいだろうと怪しんでいた直樹。
その梶と会った際、直樹は話の流れでその辺にも踏み込んでみたのだ。
「あの、タケシとは以前から交流のあった者なんですけど、ご報告もなく勝手に居候しまして本当に申し訳ありません」
「あー、かめへんかめへん。2人で住んだあるには広いしな。ワシも昼寝しに来たりするし、仕事場に使うたりするしな。
そんなん全然かめへんねん」
「あ、そうですか。ありがとうございます。ですが勝手に居候した身として、少しくらいは家賃を負担しなきゃと考えてるんですけど…」
「あーあーあーあー、それもかめへんって。今日びんトコ、このマンションもな、ワシも借りとるモンなんや。ワシの兄さんのモンでな。
まぁ要するに、又貸しや。せやから気にせんと伸び伸びせぇ」
この場合の『兄さん』が、血の繋がった兄という意味ではないことは、直樹にも容易に理解できる。
要するに先輩か…。
この梶という男の先輩に当たる彼は、このマンションを即金で購入したらしい。
俺が20歳。
梶は22。
そしてその梶の先輩の年齢は、梶と同じ22歳だという。
あの世界が、タテの繋がりというもので成立しているのは知っている。
だがここで、その繋がりが微妙な形で入り組んでいるということを、直樹は確信した。
梶とその先輩の年は同じ。
更に言うと、あの世界に入った年数もさして変わらない。
なのに、片方は『兄さん』と呼び、そう呼ばれるもう片方は即金でこんなマンションを購入している。
要するに全部全部がイコールでは繋がらず、ソイツがどんな力を持っているか、それが年功序列に関わらず、ゼニ金で表れるんだろう。
その考えに至る。
直樹の思考の中で、意外と簡単で分かりやすい、そんな世界。
ボーッと考え事をしていると、部屋のインターフォンが鳴った。
彼女がその受話器を取ると、
『あと10分でお時間です』
その声がこちらにも聞こえてきた。
「はい、分かりましたー」
と返事をする彼女。
「秋月くん、私夕飯の用意せなアカンから、もう帰らなアカンのやわ。どうする?」
それに合わせ、腰を上げる直樹。
「あ、じゃあ出ましょうか」
そうして揃ってその店から出たところで、彼女は直樹の手をギュッと握った。
「秋月くん、元気にしてな。一緒に仕事できて、ほんまに楽しかったわ。たまには遊びに来るんやで」
「あ、はい。顔出します。今日、ほんとに奢っていただいていいんですか?」
「ああ、エエよエエよ。餞別やと思うて。ありがとうな。こんなおばちゃんの誘いに乗ってくれて」
「いえ、とんでもないです。こっちこそありがとうございました」
自転車に乗り、こちらを何度も振り返り手を振る彼女に、直樹も手を振り返す。
結局、何も言うて来なんだな……。
まぁ、そんなうまい話はないよな。
多少残念に思いながら、直樹もその場を後にする。
電車に乗り、バスに乗り、直樹が向かった先はとある街の小さな印刷所。
1週間前に依頼したものが、今日出来上がっているはずなのだ。
印刷機の回る騒音の中、直樹はその工場の中に入っていく。
「こんにちは。すみません」
その声に振り返ったのは、この工場を1人で切り盛りしている社長。
「おう、兄ちゃんか」
「出来上がってますか?」
「おー、出来とるで!ちょっと待ってな」
そう言って奥へと入っていく。
やがて社長が手に持ってきたのは、名刺の束。
「どうや?兄ちゃんが書いた感じにやったんやけどな。こんな感じでエエかのぅ?」
その名刺には『○○グループ ○○○部 専務 秋月直樹』と書かれている。
直樹の父が経営する会社の名刺と瓜二つに刷り上げられた、その名刺。
それはもちろん、架空のものだ。
「ああ、バッチリですよ!ありがとうございます」
この小さな印刷所が100枚から名刺を作っているという話を聞いた直樹は、自分には必要不可欠であると考え、偽装名刺の製作をお願いした。
その場で用意していたお金を支払い、
「またお願いしますね」
と挨拶を残し、名刺を握り締めて足早にバス停へと向かう。
100枚とはいえ当然痛い出費ではあるが、直樹のしようとしていることを考えたとき、コレは必要不可欠なもの。
……繰り返し繰り返し巡っては消え、巡っては消えるものならば、ここにあっても良いではないか。
とめどなく考え事を走らせながら、名刺を抱え、電車に揺られ、タケシの部屋へと帰る。
部屋のリビングには、タケシが「お前の必要なものを入れろ」と用意してくれたタンスがある。
その引き出しの中には、たくさんの名刺が入っている。
これは直樹が家を出たときに、持ってきたもの。
父がこれまで仕事に関わってきた、たくさんの人たちの名刺。
父はあまり、人からもらう名刺を大事にしていなかった。
家のテーブルの上に置いてあったり、洗面所に置いてあったり、中にはトイレの棚の上に置かれているものもあった。
直樹は小学生の頃から、これは将来何かの役に立つかもしれないと思い、密かにそれらを掻き集めていたのだ。
直樹はその中から1枚を取り出し、じっと見つめる。
随分と余裕の表情。
感情の乱れもなく、その名刺に書かれている住所をもう一度確認する。
タケシとパクには、アルバイトを辞めたことはまだ伝えていない。
伝えるつもりもなく、続けているフリをするつもりでいる。
漢字と数字の羅列を遠くから眺めるでもなく、間近にして見つめるでもなく。
今後の方が長いであろう自分の人生を思い、
「明日、朝イチで行ってみるか」
一人で思い、一人でそう誓った。
次の朝、直樹はあるビルの前に立っていた。
朝イチで来ようと思っていたのだが、早すぎて誰もいないのもいけないと、午前10時にその場所に来た。
もう迷いはないし、
迷いがないからと言って、うまく行くとも限らないけど……
直樹は淡々と決心をして、この場にいる。
1枚の名刺を手に持ち、見上げたそのビルはかなり立派なもの。
登記簿を見て調べた。
このビルは個人所有のビル。
この人のもので、間違いない。
…どんな方法であれ、形として現われているのは立派だと思う。
俺も、そうなるべきなんだ。
これまで囚われていたものを呪縛と表し、それを解こうと決めた。
必要かどうか分からないが、もう片方の手には自分の履歴書の入った封筒。
会社の面接じゃないから、多分いらんやろうけどな…。
あの2人に今回の転職がバレんようにって思うてるけど、そんなの可能なんかな。
気掛かりは1つ。それのみ。
もういつ死んでも構わないとは思っていないが、それに近しいものを握り込んでしまった。
直樹は何の躊躇もなく、というよりはズカズカとそのビルに入って行く。
ビルの中に入り、エレベーターを使おうとしたその時、直樹は早速内部にいるある男に捕まった。
「おいおい兄ちゃん、勝手に入ったらアカンがな。アソコで手続きしてくれんと。
いつものダ○キンの兄ちゃんとはちゃうなぁ。…アンタ、誰や?」
受付で何が必要なのかも知っていたし、捕まるだろうなとも思っていた。
直樹は慣れない作り笑顔を拵え、ニッと笑いながら振り返る。
「ああ、失礼致しました。私、こういう者なのですが」
言いながらその男に手渡したのは、先日作った偽装名刺。
これ見よがしに、あの父の会社名が書かれている、あの名刺。
緊張というよりは、作り笑顔の持続が辛い。
顔が強張っている気がする。
それを誤魔化すため、直樹は話を続けた。
「実は今回、父からの命でですね、東様に用がございまして。
アポイントは取っていないんですが、東京から参りました。本日、東様はお見えになりますかね?」
その男は、直樹の顔と名刺を見比べ、やがてその視線は直樹に固定される。
「あー、こりゃまたご丁寧に。せやけどアンタ、アポもなしにこのビルに入ってくるっちゅーのはおかしないか。
見たところエライ若いけど。アンタ、ワシらが何モンか分かっとる?」
「………」
出鼻で困ると言われてしまった。
だが、直樹はここで逃げ帰る覚悟などしていない。
なるべく小さく見せようとしていた猫背をしゃんと伸ばし、作り笑顔をやめて唇を締め……
しかし、直樹は息を呑むに留まる。
「………」
挙動不審でしかないその態度に、男は直樹の肩をグッと掴んだ。
「ヘヘッ!なんぼ何でも怪しいですよコレは。
秋月さん、アンタが秋月さんかどうかも分かりませんしねぇ。ウチが今、○○グループさんと付き合いがあるっちゅーのは聞いてへんのですわ」
直樹の肩を掴む手に一層力が入る。
「まぁ、旨みのある話があるんやったら、ちゃんとアポ取って社長さん直々に来てもろうてください」
男は直樹をグイグイと引っ張りながら、ビルの入口の方へと移動する。
直樹も踏ん張りながら答える。
「イヤ、私、怪しい者ではないです。事実、社長の長男なんです。調べてもらったら分かります」
「じゃあかしぃわッ!!野面かましてのうのうと入って来やがって!」
ズルズルと引き摺られていく直樹。
直樹が決めたこと。
それはタケシと同じく、極○の道に進むということ。
美奈子のためにお金が要る。
どこをどう探しても、他意はない。
今、自分の置かれている現状を考え、即効性のある稼ぎ口を確保するにはこれしかない。
そこに辿り着いた。
こんなところで腕力にモノを言わせたら、先が思いやられる。
今回はいったん帰るか……
ビルの入口まで来たところで、直樹は今日ここに乗り込むことを半分諦めた。
「全く!オノレ、どこぞの組のカチコミやったらタダじゃおかんぞ!ワシゃあオノレの顔、覚えたからのぅ!」
男は直樹をドンッ!と突き飛ばし、ビルの外へ追い出した。
直樹は頭を下げ、
「大変失礼致しました。また来ます」
と、その男に挨拶する。
そのまま向きを変え、立ち去ろうとした背に、
「二度と来んな!ボケェッ!!」
直樹はその怒声を受け止め、出口へと向かってとぼとぼと歩き出した。
収穫なし……そんな言葉が頭を過ぎる。
自動ドアを抜け、表へ出たところで、黒塗りの車がやってきたのが見えた。
車種は分からないが、父が乗っていたような大きな車。
それは、ビルの正面に滑らかに停車した。
直樹は立ち止まり、その車を見つめる。
助手席からスーツの男が降り、後部座席のドアを開ける。
そこから悠々と降りてきたのは、えらく迫力のある男。
……幼い頃、一度だけ見たことがある。
直樹はあの男の額にある、真一文字の傷を忘れていない。
「あ、東……東さん!!」
大きな声で、その男の名を呼んだ。
ゆっくりとこちらに首を向け、睨むようにして直樹を見る、その男。
直樹の探していた、この組の会長。
幼い頃に一度会った、東という男だ。
その直樹と東の視線の間に、付き添っていた男が割って入った。
直樹を遠のけるように、威嚇するように、
「お宅、どちらさん?」
ここで直樹は、先ほど弱気になりかけた自分をどこかに捨て、覚悟を取り戻そうとする。
昨夜シミュレーションした、あの辺を。
「東様に用がありまして。突然で申し訳ありませんが、東京から参りました」
それを聞き、その男は更に威嚇の声を強めた。
「ハア!?だからドコのどちらさんて聞いとんねん!!」
昨夜決めた、覚悟の色を思い出す。
鉄
褐色
鉛
ガンメタ
物怖じしないのが、俺の唯一の長所じゃないのか。
置き去りにはしない。
もう、俺の面倒は俺が見るしかないんだ。
その遣り取りを、足を止めて見ていた東が「まぁまぁ」と抑えるように2人の間に入ってきた。
そして直樹に視線を向ける。
「おかしいのぅ。私ゃ、人の顔いっぺん見たら忘れへんねん。アンタの顔、どっかで見た気がするんやが、何モンかが思い出せん。おかしいのぅ…」
そう言う東に、直樹はとても迅速に名刺を差し出した。
「父の命がございまして、東様の元、企業ノウハウを勉強して来いと言われました」
直樹は真っ赤な嘘をつらつらと並べ立てる。
「御社のビジネスノウハウを習得するには、中で揉まれるのが一番だということになり、大変厚かましいのですが、どうか私を雇っていただきたく思い、今回お伺い致しました」
先ほどビルの中で会った男と同じように、東は名刺を手に、直樹の顔と見比べる。
「……父ってことは、アンタ、秋月さんの子?」
「はい。私がまだ小学生の頃ですが、東様とは一度お会いしたことがあります」
背筋を伸ばしての直樹のその応答に、「ふーん」といった感じの東。
そして彼はもう一つ、直樹に問うた。
「ウチで雇うてくれ言うて、直樹さんは私らが何モンか分かっとるんか?」
小さく見せるためにしていた猫背、それを1段階伸ばし、先ほどした答え。
今回の問いに対し、直樹は更にもう一度背筋を伸ばす。
そして東に一歩近づき、言った。
「重々承知しております。極○です」
そんなものが必要なのかどうなのか、それすら分からない直樹の覚悟は、高く聳え立っている。
その直樹の言葉に、やはりこの東という男も一瞬驚きを隠せない。
だが、すぐにフッと洩らすような笑いを返し、
「えーっと、秋月直樹くんやな。寒いしなぁ、私の部屋まで一緒に来てくれるか。話、聞こうやんか」
まだ直樹は何一つ頑張ってはいないのだが、何かが開けたように思い、思わず喜びを露にしてしまった。
「あのぅ、必要かどうか分からなかったんですが、履歴書も一応持ってきました」
「ハハハッ!履歴書!?ハハハハハッ!私ゃそんなん渡されるの初めてやよ。おーおー、見せてぇな。ゆっくり拝見するわ」
早歩きでビルの中に入っていく東の後を、置いて行かれないように歩調を合わせ、直樹もついて行く。
エレベーターの前で、先ほど自分を追い出したあの男とすれ違った。
彼は東を見ると姿勢を正し、お辞儀をした体勢のまま動かない。
頭を下げる直前、直樹を見て少し驚いた顔をしたが、今度は止められることなく、直樹は東と一緒にエレベーターへ乗り込む。
お付の男がエレベーターのドアを閉め、階数ボタンを押した。
その男の体に隠れ、何階を押したのかは分からない。
エレベーターはどんどんと昇っていく。
何となく重たい空気の中、ここに来て直樹はようやく自分の中の緊張をし始めた。
左右の腰の辺りで、ゾワゾワと百足が這いずる感覚。
小刻みに揺れる鼓動を感じながら、自分はまだ幼い。そう思う。
あれほど覚悟を決めて乗り込んだにも関わらず、まだ緊張している自分に少しホッとしたような、少し呆れたような……。
直樹は深い息をこらえ、腹に小さく力を入れてみる。
東の、鯖の腹のようなスーツ。
白髪交じりのオールバック。
お付の男の黒々とした、これまたオールバックに、不詳の口ヒゲ。
何を考えているのか、どこを見ているのか分からないサングラス。
忙しくならない程度に視線を動かしながら、直樹は粒子が見えそうな空気に自身の緩急をない交ぜにしようと試みる。
やがてエレベーターのドアが開いた。
じゅうたん敷きの廊下の突き当たりに、観音開きの立派なドアが見える。
2人についてそのドアをくぐり、中へ踏み込んだ瞬間、体が沈みこむような感覚を覚えた。
靴を包み込むそのワインレッドのじゅうたんには、大きな花の絵が浮き出ている。
中央からぶら下がるシャンデリアや、壁に掛けられたボッティチェリが描いたような女性の絵画。
以前、映画で見たヤ○ザ事務所の光景とはえらく違うその部屋を、直樹はキョロキョロと見回してみる。
そして気づいた。
あの、よく見る小さい神棚みたいなもの、……ああいうのはないんやなぁ。
東は自分専用と思われるデスクの大きな椅子にドカッと座り、
「秋月くん、さっき言うとった履歴書っての、私に見せてぇな。嬉しいわぁ。そんなん用意してくれて」
「あ、はい」
直樹は返事をして、駆け足で東の傍に近寄る。
東は直樹が渡した封筒を開けながら、指で目の前にあるソファを何度も何度も指差した。
……座れ、という意味だろうか。
直樹はコの字型に並べられたソファの端に腰をかけ、履歴書をじっと見つめる東の姿を眺めた。
部屋には東が指で硬いデスクを叩く音のみが響いている。
そのコツコツ、コツコツという尖った音が、直樹の緊張を更に煽る。
「……スゴイやんかいさぁ」
東はそう言いながら、後ろに立つ男に履歴書を見せた。
「秋月くん、○○中学、○○高校、○○○大学。エリートコースまっしぐらやねぇ」
その言葉に、直樹は短く「はい」とだけ返事をする。
……そのコースはいったん曲がり、へし折れ、もうこの世に存在しない。
しかし、それを言うわけにもいかない。
東と男が、直樹の履歴書を見ながら談笑を始めた。
「アンタとは大違いやでコレ。見てみ~?」
名刺が嘘ならば、その履歴書に書かれているものにも嘘の部分がある。
だが、直樹はその辺の嘘はバレるものとして書いている。
俺の力さえ示せれば、そんな嘘は何かのカスでしかない。
そう信じ、2人の遣り取りをじっと見つめていた。




