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試 2

もやもや、イライラというものが、時間が経つにつれて蓄積していく。

これは、自分に向けたもの。


このままでいいのかという話になったとき、

……良いわけがない。

削ぎ落とした、落とされたものの大きさを感じながら、

……そのうち慣れていくのだろうか。

そう考え、イライラとしている。


その一環として、少し甘えたことをしてみよう。

直樹はそう思った。

随分日にちが経ってしまったが、アルバイトに行っていた弁護士事務所への電話を思い立ったのだ。

内容は「急に行かなくなってすいません」がいいのか、「申し訳ございません。しばらく行けません」でいいのか。

まず電話に誰が出るのか、出る人によって違ってくるな。


少し楽しい時間とも思えるようなシチュエーションを妄想して電話を掛ける。

『はい、○○法律事務所です』

その声は間違いなく洋子だった。

「あ、もしもし」

『はい』

「あのぅ…秋月ですけど」

『………』

ここで一呼吸置いたような間が空いたことを、今の直樹は見逃すことができない。

「あれ?もしもし?秋月ですけど」

『あー……はいはい。秋月くん、はい。……何でしょう?』

……親しく話してくれていた人が、こうやって離れて行く。

無断欠勤、何の連絡もなし。

それとも俺の、窃盗と人身事故。

どちらかであることは明白だ。

「あー、すみません。急にバイト、休んでしまって」

『あ―……いや、何も聞いてないんですよ。ただ一つ、今月分の途中までの給料は、いつも通りの日付で振り込まれてるそうなんで、確認だけしておいて下さい。

他に何かございますでしょうか?』

これでもかというほど、他人行儀の洋子さん。

間違いなく、家から連絡が行っていると思った。

大きく軌道を修正する必要があった。

「あ、はい。それを確認したかったんです。はい、すみません。失礼します」

そう言って、直樹は途中から早々に切りたいと思っていた電話を切る。

何が目的だったのか、自分の中でもまとまりがつかないまま、いたずらに自分を捏ね回してしまった。

更にイライラが募る。

直樹は再び受話器を取り上げると、今度はパクに電話をかけ、彼と明日会う約束をした。

別に何か愚痴を言おうってわけじゃない。

だが、会う約束をした。


その日はイライラと、一体何に対して怒っているのか向かう方向が分からないまま。

布団に入ったら何も考えてはいけないのに、ただひたすらに考え事をしてしまう。

その間、気が散ったのは一度だけ。

外から聞こえてきた、ザーッという激しい雨音。

これに一度気が行っただけで、後はただただ考え事に没頭していた。


朝からバイトがあるのに。

寝なアカンのに。

そう考えると、いつも通りまた眠りに就けなくなる。

結局明るくなるまで寝付けず、1時間ほどうつらうつらして、その日はアルバイトに出掛けた。


19時にいつもの場所でパクと待ち合わせ。

それを目指して、ただそこに立ち、レジを打って過ごす。

バイトが終わるといったん部屋に戻り、美奈子に「いつもの居酒屋にいるから体調が悪かったらすぐに呼んでくれ」とだけ伝えて再び部屋を出た。


待ち合わせ場所には、まだパクの姿はない。

店々の明かりがほのかに漂うその場所で、直樹は突っ立ったままパクが来るであろう方向を凝視する。

19時の約束だったのに、10分、20分経っても、パクは現われない。

イライラが募る。

時計と人の波を交互に見ていると、また雨が降り始めた。

小さく、何度も何度も「くそぅ、くそぅ」と呟いている。

頭を過ぎるのは、待たされているという目の前の事実よりも、昨日の洋子の電話での応対。

でもそれは忘れたいので、一体何分待たせるんや、とボソリと呟いてみた。


やがて、しとしとと雨の降る中、

「悪ィ!すまん!!」

その声が聞こえた。

振り向くと、小走りでこちらに近づいてくるパクの姿。

「遅いやんけ!!」

と、つい声大きく、怒鳴るように言ってしまった。

「ワリワリ!急な仕事でな、残業になってもうた。怒んなや。今日は俺が奢ったるから……」

直樹は返事もせずに歩き出し、そこへ慌てて並ぶようにパクも歩き出す。

そしていつもの居酒屋へと向かった。


「……直樹、お前最近ずっと顔色悪いぞ。アルバイト、うまいこと行っとるんか?」

「うまいことって言われてもな…。レジ打ちながら、終業時間が来るまで過ごしてるよ、ちゃんと」

「今日はな、俺もお前に用事があったんや。ちょうど良かってん」

そんなことを話しながら、いつもの店のいつもの席に座る2人。

そしていつものように、下らない話をした。

ただいつもと違うのは、直樹がこの日、飲めないお酒を飲んでいたこと。

「お前、いつから酒飲めるようになったんや」

そのパクの問いには

「まぁエエやないか」

とだけ答えておいた。


ビール、日本酒、焼酎。

おいしいとも思わないそれらを次々と飲んでいく。

パクが直樹のその姿を見て、何も思わないわけもない。

「…まぁ、様子がおかしいのは最近ずっとやわなぁ。そりゃ普通じゃおられんよ」

酔っては来ているが、まだ頭はしっかりしている直樹。

今の頭の状態とは裏腹に、饒舌になり始める。

次から次へスルスルと言葉が出てくる。

昨夜した弁護士事務所への電話の内容も事細かに話して聞かせた。

自分の感想を交えながら。

……話すつもりのなかったそのことを。

それを聞き、黙ったパク。

ザーッという一層強い雨音が外から聞こえてきた。

「…ありゃ、本降りになってきたな。

直樹な、そのアルバイト先の人な、そんなん当然やろ。罪人とまでは言わんけどな、法律扱ってる職場の人間がやな、轢き逃げしたとされている人間、しかもそれが元同僚やっていうんやったら、態度も変わって当然ちゃうか」

イライラを払拭させようとして話したであろう、この状況。

酔っていなければそうだろうなと、俺のワガママ体質だと、考えるところがあっただろう直樹。

しかしこの時は酒の力を借りている。

「何やねんパクウ!お前よぅ、お前、一体誰の味方や?こないだからバチバチバチバチ、エエように言うてくれるやないか」

パクは黙って、その直樹の文句を聞いていた。

「なぁ、なぁパクウ。お前、誰の味方?なぁ、俺ってそんーっなに悪いことしたか?」

そこでパクは口を開いた。

「俺はな、一般論を言うとるんよ。どうもな、ワレのことやのに今現実に起こってることやって、受け止められてないお前に見えるねん。

誰の味方ってお前。俺はお前の味方に決まっとるやろ」

パクは続ける。

「このままな、宙ぶらりんやとしゃんとできんやろ。それはよう分かんねん。

お前、落ち着くまでコッチおる言うて、いつまでコッチにおるんや?ちゅーか、お前は酒飲まんと思うとったから、大事な話しようと思うてたんやけど、今話して大丈夫か?」

さっきからパクの言っている『大事な話』というのが、ここでようやく気になった。

酔ってはいるが、まだ頭はしっかりしている。

直樹は大きく頷く。

「何回も言うが、そのお前の宙ぶらりんの状態。それじゃ何やってもどもならんやろ。俺が適当にコンビニのアルバイトでもエエやないか言うたら、ほんまにコンビニでバイトしやがるし」

「………」

イライラとしていたはずが、少し沈み始める。

「俺なぁ、昨夜の話やけどな。お前の実家に電話してん。お前のこと調べるためにな」

「……!」

瞬間、酔いが覚めたような気がして、直樹はもう一度パクに向き直った。

「お前んトコのおばちゃんが出たよ。『直樹くん、どうしてます?』て聞こう思うたんやけどな、話してるうちに、直樹くんコッチにいますよっていう話になったよ。家出した手前、帰りにくいみたいやから、迎えに来てくれませんかね、言うた」

直樹はそれを聞き、驚きとも言えない、何か微妙な体勢に入る。


で、こたえは?

そう聞きたいところではあったが、何だか情けなく、一気に自分が落ちぶれたように感じた。

……さっきパクに言われた、一般論も含め。


黙っている直樹に対し、黙るパク。

続きをなかなか話してくれない。

……俺の番なのか?

重たい空気に耐え切れず、やはり言ってしまった。

「……で?何て言うてた?」

パクは大きくフーッと鼻から息を吐いた。

「……お前の母ちゃんなぁ、『お父さんに聞いてみます』って言いよったわ」

「やっぱりか!!」

全てを追い払うように、怒りというものが満ち溢れてくる。

直樹はバンッ!とテーブルを叩き、立ち上がった。

その大きな音と後ろに倒れた椅子の音で、一瞬店内の空気が止まる。

「それが昨日で、今日のこの時間か!パクウ、お前、何いらんことしてくれとんじゃ!おいッ!!」

直樹はそう言いながら、パクの胸倉を掴み上げる。

「お前、何かな、俺を陥れて楽しんどんちゃうん?なあ!?」

直樹の激高に一瞬驚いた顔をしたパクだが、彼もすぐに立ち上がる。

「誰が遊んどるかッ!!俺は最初から言うとるやろ!お前は帰った方がエエって!」

「帰れん言うとるやないか!だからこっちでバイトまでして過ごしよるんやろ!」

「帰れん言うとるのお前やないか!シレッと帰ったれって言うとんねん!

勝手なことしたかもしれんけどな、俺はお前見とってそれが一番エエと思うとんねん!それは変わらへん!!」

店内に2人の怒声が響き渡る。

近づいてきた店員が、

「暴れるんやったら出てってくれるか」

その店員を、2人同時に睨みつける。

パクは直樹に胸倉を掴まれたまま財布を取り出し、1万円札をテーブルに叩きつけた。

「お前、いつまでコレ、掴んどんじゃ。酔っ払うて調子に乗っとんか知らんが、ここらで一発キャン言わしたろか。来いッ!!」

そう怒鳴りながら、パクは胸倉を掴み返し、直樹を表に引っ張り出した。


本降りの雨の中、まずはパクが直樹を突き飛ばす。

直樹は背中から電柱にぶつかり、後頭部を打ち付けた。

…イライラする。


自分の中で、収集がつかなくなった。

何に怒っているのか。

もちろん、パクに何か非があるなんて思っていない。

だが、直樹が次に出た行動。

「ぁあ―――――ッ!!」

という雄叫びと共に、パクに掴みかかる。

持ち上げるほどにパクに顔を近づけ、

「お前に!お前に!分かるワケないやろ!?」

パクの意図するところは理解できているはずなのに。

「おお!俺には分からへんよ!!俺は親に捨てられたことはいっぺんもないからな!!」

パクはジャンプするように、直樹の額に頭突きを食らわす。

ガチンッ!!

直樹は思わずパクから手を離し、仰け反った。


2人の勢いは止まらなくなり、そこから殴り合いが始まる。

お互い、何を言っているのか分からない。

怒声を発しながら、雨の中、

殴っては殴られ、

殴っては殴られ

ギャラリーのいる中、2人はそれを気にすることもなく、殴り合っている。


……途中、思った。

大人になってから、まさか殴り合いのケンカをすることになるなんてな。

顔面にパンチを食らいながら、

前もそうやったけど、……どうもパクウには勝てる気がせぇへん。

そんなことを考えている。

酔っているせいか、うまく体が動かない。


……俺も何発か当てたけど、効いてないみたいやな。

俺もあんまり効いてない。

加減してくれとるんか。


舌っ足らずの中、自我の流れに戸惑う。


……もう、慣れていくしかないんだ。

パクウが聞こうが俺が聞こうが、あそこにいる絶対神の行動は揺るがない。

あの、見下ろす視線は何も変わらないのだろう。

……パクウに八つ当たりしてしまったな。

後で謝ろう。


思考とは裏腹に、歯軋りをしながらパクに殴りかかる。

これをパクは避けることもなく、当てさせてくれるのだ。

「高校以来やな!」

そう言う直樹に対して、パクは無表情で返事もせず、五分に届かないくらいの力で殴り返してくる。


暴れて発散?

自分がそんな下品な部分を持ち合わせているとは思っていないが、付き合ってくれてるんだ。

甘えよう。


ガチンッ!という音と共に、パクのパンチが直樹のアゴを捉えた。

その勢いで上体がよろめき、電柱を背もたれにしてそのままその場に座り込む。

「ハァハァ、……ハア、ハァ……ッ」

息切ればかりが喉を通り過ぎ、言葉が出て来ない。

座り込んだまま、直樹はパクを見上げる。

パクもしばらく荒い呼吸を繰り返していたが、やがて口を開いた。

「……直樹、今回俺もな、電話したのでよう分かった。お前の言うてることがな。

勝手なことして悪いとも思うとんねん。せやけどな、あれは今、俺のできること全てやったんや。

あの母ちゃんの受け答えでな、お前がどういう風に過ごしてきたか、ちったぁ分かったつもりや。言い訳してんのとちゃうぞ。

ただなぁ、……あんなん言うなや。面白がっとるワケないやろ。間違えんといてくれよ。俺もお前の味方や。

今日びんトコ、お前も帰った方がエエって思うとるやろ。俺は俺なりに、お前側で動いたつもりや。

母ちゃんの返事も、言うか言うまいか悩んだよ。せやけど、その辺聞いとったらお前も考えるコトあるやろ。

間違わんといてくれ。俺は完全にお前の味方や」

パクはそう言うと、座り込んだままの直樹を抱え上げた。

「タケシんトコ行って飲み直そうや。……ビシャビシャになってしもうたな」

そんなことはどうでもいいと思ってしまう。

「……パクウ、俺も悪かった。ごめん」


2人でタケシの部屋に向かいながら、直樹は考える。

自分の中で、少し持ち直した部分はある。

だけど収まりきらないでいる、この部分。

方向がどうあれ、このままではいけないんだ。

直樹はこの時、自分を取り囲む今の状況を確信にした。



「エエか、遠慮せんと何でも言うたらエエからな。おりたいだけココにおったらエエんや。ってか、ずっとおってエエよ。

俺もココの家賃なんか払うてへんのやし。住み着いてるって言うんじゃ、立場はお前と一緒やからな」

と、タケシは毎日のように言ってくれる。


「まぁ…最初からな、しんどいことやなーってのは分かっとってんけどな。俺は俺で、こうするのがベストやろうってのがあったからよぅ」

これが、会うたびに言うパクのセリフ。


自分でも分かっている。

宙ぶらりんであること。

前進などとはとんでもない。

日々、少しずつ後ろへ退がっている。

言うなればそんな気分。

考えてもキリがないので、最後には自分の中で砂嵐に襲わせる。

テレビの放送が終わると画面に出てくる、アレ。

そうやって後退しながら、日々を過ごす。


直樹がタケシの部屋に住み始めて1月くらい経った頃だろうか。

その日もいつものように、美奈子と2人で夕食を摂っていた。

美奈子に外界のことを話すべきか否かというのは迷うところではあったが、せめて情報だけでもと、直樹は考えていた。

だからいつもこの時間、自分が外で過ごしてきた日常を美奈子に話して聞かせるようにしていたのだ。

「そしたらな、その一緒の時間帯に働いてるおばちゃん、毎晩俺のこと夕飯に誘うて来るんやよな。ハハハッ!ちょっと無理やなぁ」

その話に合わせて、美奈子も楽しそうに笑っている。

しかし彼女は急に、持っていた箸をギュッと握り締め、その手で左胸を押さえ込んだ。

「アレ?つっかえたか?え?苦しいの?水は?」

水の入ったコップを手渡そうとする直樹。

だが、彼女は直樹に目を向けることなく、

ガタンッ!!

何をも庇う素振りも見せず、いきなり後頭部から後ろに倒れ込んだ。

「おいッ!!!」

短く叫び、直樹は急いで彼女を抱きかかえる。


美奈子の顔はあっという間に青白く変化していく。

直樹が閉じられた彼女の目蓋を押し上げると、白目を剥いたまま。

美奈子は目を開けない。

「美奈子ちゃん!!」


一瞬先日の慶也の姿が、大画面で頭を過ぎった。


頭はパニックになっているが、体は素直に動き行動に移る。

直樹はすぐに救急車を呼んだ。


救急車が到着するまでのこの間、どうしていればいいのか分からない。

直樹は気絶している美奈子の頭を持ち上げ、膝の上へと抱き寄せる。

「……ベロが喉の奥に行ってしまったらマズイって聞いたことあるぞ……」

イライラと、ソワソワと、忙しなく視線を飛ばしながら。

冬にも関わらず、じっとりと汗が滲み出してくる。

「もうすぐ救急車来るからな。もうちょっと待ってくれよ」

直樹は美奈子に話しかけ続け、救急車が到着するのを待つ。


動悸が治まらなかった。

誰にも死んでもらいたくない。


じゅうたんを爪先でガリガリと擦り上げる。


早ぅ来い

早ぅ来い!

早ぅ!!


とても長い時間に感じた救急車は、15分ほどで部屋に到着した。

当然、直樹も同乗する。

もしもの時のために、いつも美奈子が通う病院の名前は聞いていた。

直樹はその病院を、救急隊員に荒々しく伝える。


自分が慌ててはいけない。

何度かシミュレーションをし、この事態を踏まえてそう決めていたのに、逸る気持ちを抑えるのは無理だった。

「早く!早ぅせぇやッ!!」

運転席に向かってそう叫ぶ。

隊員の一人が直樹に向かって、

「こういう時ほど落ち着いて下さい」

最近口癖になりつつある「くそッ!」という独り言。


落ち着いてなんかおれるワケないやろ!

俺は、こんなことの名手になるつもりはない!

直樹は頭を抱え込む。


目の前で美奈子は酸素吸入器を付けられ、苦しんでいる。


いざという時の自分の振る舞い。

それはどこまで行っても納得の行くものではなく、後から後からこうしておけば、ああしておけば、そういう思いが満ち溢れてくる。

頭を抱え込み、膝に肘をつき、ここ最近の自分や周りも含め、見つめ直した。


やがて救急車が病院に着いた。

美奈子はストレッチャーで院内へと運ばれて行く。

「おい!俺やぞ!俺俺!秋月!秋月や!分かる!?」

直樹は彼女が処置室に運ばれて行くまで、ずっとずっと話しかけ続けた。

「ここから先は入って来ないでください!」

そう言われて、直樹は口を閉じ、その場に立ち尽くす。


救急車を呼んだのも、乗ったのも初めてのこと。

…子供の頃、骨を折ったときは駅員の車で病院に運ばれたからな。

あんなものには一生乗らないで済めば、と思う。


赤と緑のほのかな明かりが廊下の床をぼんやりと照らす、その先にある真っ暗なロビーに向かって直樹は歩き出した。

タケシのいる組事務所に電話をかけるために。

直樹が電話口でタケシの名前を告げると、彼はちょうどその場にいた。

事情を話すと、返事もなく電話を切られた。

直樹は次に、パクにも電話を入れる。

「すぐに行く!」

という一方的な返事で、また電話を切られた。


直樹は薄暗い廊下の中、処置室の前のソファに座り込む。

……何か、マズイものを食べさせてしもうたんかな……。

俺のせいでいいから。

俺が悪いことにして、

頼むから、無事でおってくれ。

そう思いながら、直樹は一人で頭を抱え込む。

やがて暗い廊下の向こう側から、リノリウムをスリッパがはじく音が聞こえてきた。


先に現われたのはパク。

駆け足でこちらに近づいてくる。

「おい!どんなや!?」

どんなや、と聞かれても分からない。

中で何をされているのかすら、分からない。

「手術とか、そういうんじゃないみたいなんやけど……」

伏し目がちにならざるを得ず、直樹はそう答えるにとどまる。

「俺が知ってる限りじゃ、ブッ倒れて運ばれるっていうんは、これまでなかってんけどな……」

息を切らせてそう言うパクに、直樹は縋りついた。

「なあ!大丈夫よな!?大丈夫やんなぁ!?」

そんな直樹に対し、パクも何も言えないでいる。


その時、またスリッパの駆ける音が聞こえてきた。

タケシだ。

直樹はタケシに近づこうとするパクを制し、タケシに駆け寄る。

「なあ!タケシ、これって大丈夫なんか!?あのな、ごはん食べとってん。ほしたら急にな……。

俺もちゃんとメニューとか考えてやってんけどな……」

薄暗い中、全面ガラスの外から入り込む街灯に照らされたタケシの顔は、明らかに直樹よりも落ち着いていた。

タケシは直樹の肩にポンと手をやり、

「まぁ落ち着け」

そう言って、直樹をソファに座らせる。

そして自分も直樹の横に座った。

「実際のところ、もう大分ヤバイねん。

聞いても難しいて、……理解しよう思うても、難しいてな。

まぁ要するに他の器官とかもな、耐えれんようになってきとるんやって。心臓が悪いとな、そんなことになるらしゅうてな」

それを聞き、3人で黙り込む。

医者と看護婦が、室内で何かをしている音だけが聞こえてくる。


次に口を開いたのはパク。

「……なぁタケシ。お前ナンボ貯まったんや」

「え?……ああ、300万ちょい」

以前、直樹はタケシの給料を聞いたことがある。

この間で300万円。

贅沢を一切せず過ごしてきたのが、よく分かる。

……身を詰まされる思いがした。

「そうか…。お前がOKとかな、そんなん関係なしに、俺もゼニ溜めとんねん。せやけどウチは儲かってへんからな…。俺も300くらいや」

「だから何回言わすんや。お前の金は受け取れん言うとるやろ」

病院ということもあり、少し声のトーンを遠慮しながら、そこでまた言い合いが始まった。

「そんなん言うとる場合か!?」

そう言うパクに対して、譲ろうとしないタケシ。


直樹は考えてみる。

俺の貯金なんて、ないに等しい。

以前聞いたことがある。

美奈子が手術を受けるには、1000万以上の費用が要ると。

3人合わせても、到底足りない。


「お前なぁ、その何チャラ言う先輩おるやないか。ヤー○のよぅ。あの人に借りれんのか」

「梶さんもそんなにお金持ってへんよ。俺のちょっと先輩ってだけやからな」


2人の会話を聞きながら、直樹には思うところばかり。

家族でもないパクが自分の車を買うこともなく、ただひたすら貯金をしている。

タケシは覚悟を決め、あの仕事を始めた。

さっきの美奈子の件でも、俺は自分を思いやってなかったか?

タケシにまず、俺は悪くないって言いたかったんじゃなかったのか?


するべき覚悟と、しなくていい覚悟。

それらを弁え、その場にいたつもりではある。


「………」

直樹はまずたった今、自分にできることを考え、思い立つ。

ソファから立ち上がり、直樹は2人に告げた。

「……お金、借りられるか聞いてくるわ」

そう言って、再びロビーの公衆電話へと向かう。


この上、あの両親に甘えるつもりはない。

だが、まず自分ができることを考えたとき、どうしてもこれが先に立つ。

自分を思いやるのは後回しだよ。


「借りるって、誰にやねんッ!?」

タケシの声を背中で聞きながら、直樹はロビーへと向かった。

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