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払暁 1

―――― この、間の悪さ。

間違いない。

俺の持って生まれたものなんだろう。


慶也は必死に俺に謝った。

水曜まで父がいないという情報は、慶也から得たもの。

水曜までの出張は、来週のこと。

当然ではあるが、俺が慶也を責めるなんてことはあり得ない。


ただ、一つ気になったこと。

慶也は一体、父のことをどう思っているのだろう。

どう感じているのだろう。


俺が、お前たちの空間から外されたこと。

そろそろ気づいたか?


生まれたことに嫌悪感など感じない。

それどころか、俺はその真逆に念頭を置き、生きるために必死なんだ。


俺を生んでくれたお母さんに、何度お礼を言っても感謝しきれない。

自分の意識の中、2万回までは覚えてたんだけどな。

お2人の血は俺の中で波を打ち、熱を持ち、今も生きています。


まだ見ぬお2人がどんな人たちなのか、俺は知らない。

だから、果たして俺は天才なのか、秀才なのか、凡人なのか、それ以下なのか、それ以下と評するのもおこがましいのか、

自分の中でまだ決めかねていますよ。


そのどれかの才能を持ち合わせているであろうこの俺は、

努力で10、努力で20、努力で30……

100が完成だと、そこに旗を立て、進もうと思います。

いつか、その日が来たときのために、混濁したマーブル模様の俺であったとしても、お会いして恥ずかしくない態勢でいるために。


お2人なら理解してくれますよね?

俺と一緒に、そこまで育ててくれた今の両親に、お礼を言ってくれますよね? ――――




次の日から直樹は、何もなかったかのような顔を作り、日々を過ごした。


紀子さんに心配をかけてはいけない。

彼女が言った、イチかバチか。

俺はそのように動かなかったんだ。

井の中の蛙であろうとなかろうと、彼女の言う通りにしなくって、このザマ。

でも彼女は、俺がイチかバチかに賭けたと思っている。


その結果の、報告。

「あぁ、大丈夫、大丈夫!紀子さんのお蔭やわ。

やっぱりね、分かってくれた。『許したるよ!』って」

それを聞いた彼女は、

「ほんまに良かったね!」

と笑ってくれた。




―――― 手厳しい。

嘘を吐いた俺が悪いんだけど。


嘘は嫌いだと、今回知りました。

一度嘘を吐いてしまうと、少なくともあと2~3回は嘘を吐かなければいけない状況になる。


今、大事さで言うと、俺より随分上の位置に存在する紀子さんに対して、この状況というのは……

でも、本当のところは言えません。


だってあれ以降……

『だって』? 

やはり、と言うべきか、パクから電話はありません。

『パクから電話がありません』と表する俺に、厚かましいと思う。


卑劣な俺

汚い俺

卑怯な俺

嘘吐きな俺


こうやっている中でも、時間は流れていくんだと実感しました。

すっかり寒くなり、受験まであと少し。


セミナーの実力テストをあんな形で終えてしまった俺は、紀子さんとは別のクラスになっている。

これは逆に良かったのかもしれない。

とにかく勉強に集中できている。

集中したあとに考え事をし、放心する。

あの放心を除けば、ほぼ完璧なんじゃないか?


別れ際に「バイバイ」と言うのと、何も言わないのと、「さようなら」って言うのとじゃ、随分意味が違ってくるんだな。

幼稚園の頃教わった「みなさんさようなら」 

あれって結構重くねぇか?

何も言わないのはもっと重い。

「バイバイ」は逆に挨拶なんだ。

「バイバイ」じゃなく「またな」でも良い。


溜息は連発しない。

だけど1日に50回はしてるな。

紀子さんの前でだけはやらないように……


昨夜は彼女と『ハリガネムシの存在意義』について話し合った。

今日もあれの続きを話そうか。

それとも先日議題になった『この世に人間がいるのに、何故サルがいるのか』

こっちを話そうか。


俺は今、四六時中彼女の声を聞いていたいんです。

誰のためでもない。

俺のエゴであり、俺のために ――――




セミナーで同じクラスの人たちと、少し話をするようになっていた。

ほとんどの人間が、自分と同じ学校の生徒であることを知る。

以前から耳に慣れていたあの会話。

「○○が1番、○○が2番、○○が10番……」

この会話は皆、人のことばかりを気にしているものだと気づく。

別に構わないのだが、全く楽しくない。


中には学校で同じクラスの人もいる。

これまで、学校で紀子以外と話したことはなかったが、最近ではそこそこ話をする。

つまらないわけでもないのだが、誰かに話をするほど楽しいわけでもない。


……誰かにって、誰だ?

俺はもう、ごめんなさい、許してくださいとさえ、言いに行けない……。



紀子に嘘を吐いている直樹は、その後も月・水・金・日を紀子と会う日と決めている。

冬休みまであと1週間となった頃、授業の合間の休憩時間に紀子が言った。

「なぁ、早ぅあの友達って会わせてよ」

直樹はイラッとしてしまった。

また嘘を吐かなければならない。

口数を少なめにするために、短く応える。

「ああ、今度な」

そしてその話題に触れないよう、捲くし立てた。

「それよりもな、冬休み2人でどっか行こうや」

「え?どっかってドコよ?」

「どこでもエエよ」

「どこでもエエって言うても、冬休みってアンタ、缶詰にならなアカンのちゃうん?」


この頃にはもう、何となく目指すところが違っているような気がしていた。

一緒の高校に行こうって、決めていたのに。


「大丈夫やって、1日や2日。

そうや、またあの動物園に行こや。今度は泊まりがエエやん。近くにいっぱいホテルがあったやん」

「…ちょっとアンタ、何言うてんの?無理に決まってるやん。

私ら中学生やで。一泊してどっかへ行くなんて、聞いたことないわ。

お父さんとお母さんに何て言うたらエエんよ」

「えー?そんなん言うたら俺だって15歳やし。お父さんとお母さんもおるよ?」

「………」


少し黙る紀子。

直樹の天然はごく稀に、紀子を黙らせる。


「……男と女は違うんやって。そんなん無理、あり得へん」

直樹は伸びをしながら、頭の後ろで腕を組む。

「ふーん……男と女じゃ違うんかー…。

何か汚ェなー。逃げられた」

「別に逃げてへんわ!」


こんな会話。

以前からしていたような気がする。

だけど、何かが違うのだ。


コレってよぅ……あの2人がおらへんからや、絶対。

もし仮にあの2人がおって、紀子さんが目の前から消えたとしても……


ああ、きっとこの虚無感は襲うんやろなぁ。

…決定的に何かが足らへんのや。


……俺が悪いんやけど。



この日、家に帰った直樹は気づいた。

最近、父が家に帰って来ている気配がない。

仕事が忙しいのか、それともまたあの女か……。

そんなことばかりを考えてしまう。

毎日電話の前に立っていたが、パクの家には電話できない。

その内、そのために電話の前に立つこともしなくなっていた。


日課のシャドウボクシング。

3分10ラウンド。

最近は、これを上半身裸でやっても恥ずかしくない程度の体になった。


そろそろこのシャドウボクシングを慶也に見せてやろうかな。

なんてことも考えるが、いつも見せずじまい。


意味がないからな。

もう、いろんな種の威厳を振りかざす必要は、ない。


何となく1階に降りてみると、リビングには母がいた。

いつものように、いつもの椅子に座り、ヘッドフォンで音楽を聴いている。


……シュバイツァーのオルガン。

『トッカータとフーガ ニ短調』

漏れる音からそれを確認する。


何年も、母とちゃんと話をしていないような気がした。

そう考えてみると、これまで母とちゃんと話をしたことなんかあったか、とも思える。


直樹は母に近づき、話しかけてみた。

「お母さん」

目を閉じ、ヘッドフォンで音楽を聴いている母。

五感の2つを遮っている母は、応答しないと思っていた。


が、

母はスッとヘッドフォンを外し、

「何ですか、直樹さん」

と応えを返す。

ここで慌ててしまうのもどうかと思うが、少し泡食った。


「今日もお父さんは、また帰らないんですか?」

すると母は体勢を変えないまま、

「そうねぇ、最近遅いわね、ずっと」


……今、分かった。

したことがあったか、ではなく、俺はお母さんとロクに口なんか利いたことがない。


「……仕事で遅いんですかね?」

そう言ってみた。

「それはそうでしょう。お父さんは忙しいからね」

「………」


以前、暢気だと表した母。

この時、ただ単に落ち着き払っているようにも見えた。


父には聞けないこと。

……今ここで聞いてみようか。


何故、たくさんいる中で、俺だったんですか?


顔を見ながらだと聞きにくいと思い、直樹は母の後ろに立ってみる。

その背中を見て、驚いた。


……俺がデカくなりすぎたのか。

お母さんはこんなに小さかったでしょうか。


もちろん、負ぶってもらったことなど一度もない筈。

知っていたようで知らなかった、母の小ささ。


「……お母さん、肩なんか凝りませんか?」

何と返事が返ってくるだろう。

そう思いながら聞いてみる。

「あら直樹さん、どうしたの?私の肩凝りなんか心配してくれるの?

最近凝っちゃって凝っちゃって……マッサージしてくださる?」

やったことはないけれど、大体は分かる。

「もちろん、いいですよ」

そう言って、直樹は母の肩を揉み始めた。


何故俺を選んだのか。

あの女の存在。

……この母に話すなんてことは、あり得ないと思った。


「どうですか?気持ちいいですか?」

「直樹さん、上手ねぇ。前に慶也さんにもやってもらったけれど、直樹さんの方が上手ですよ」

直樹は母に耳打ちをする。

「実は僕、最近鍛えてるんですよ」

「あら、そう。道理で。良い力加減」

このまま少し、母と話をしていようと思う。

「お母さんは本を読んだり音楽を聴いたり、同じ体勢で居すぎるんですよ。だから肩が凝るんです」

「あら、そうなの?」

「だってお母さん、他に肩が凝る要素なんかないじゃないですか」

「うふふふふ。そうよね、家事は全部、土井さんがやってくれてるんだもんね。

直樹さんの言う通りよ。ふふふふふ……」

「そうですよ、お母さん。行儀が悪いと思うんなら、部屋でゴロゴロしながら聴いた方がいいですよ」


おそらく、初めて笑いながら話をした。

俺が覚えていないだけかもしれない。

覚えていないのなら、初めてだ。


お互い元気でいましょうね。

直樹は何となく、そう思った。




―――― 2人と会わなくなって、話さなくなって、どれくらい経った?

数えてねぇから分からへん。


紀子さんが居るから平気だろう。

そう思っていたんだけど、俺はそれを許さない。

結局思い出す。


電話の前には立たなくなったけど、まだまだまだまだ、かかってくるのを待っていたりする。


母と喋ったこと。

あれはタイミング。


何かを感じたけれど、それが不快なものなのか、常日頃から目にしていることなのか、理解しきれずにいる。

でも、良い時間だった。――――




次の朝、登校していると後ろから聞こえてくる、駆け足の音。

直樹ももう慣れたもの。

それが紀子のものだと、すぐ分かる。

笑顔で「おはよう!」と言う紀子に、こっちも笑顔で「おはよう」と返す。


よし、いつもと変わらない。


「あんなぁ直樹くん。昨日の話やねんけどな、私あの動物園の近所に住んでる親戚のお姉ちゃんがおるんよ。

ほんでな、26日泊めてくれるって言うとんねん」

一瞬、何の話だと思ったが、思い出した。

「お父さんとお母さんにな、嘘を吐くことになってしまうけど、どうする?行く?」

それを聞いて、冷静ではいられなかった。

四六時中聞いていたいと思っている、この声。

学校帰りに別れるとき、電話を切るときなどに味わっているもの。

その日はそれを、放棄できるんだ。

「え、じゃあ何か、紀子さん。26日はずっと一緒に居れて、27日に帰って来るってこと?」

「そう。そういうこと。ほんまは気が引けるんやけどねぇ。お父さんとお母さんに嘘吐くの」

……嘘は気が引ける。

「そこまで決まっとるんやったら、何で26日なんだよ?休みに入ってすぐ行ったらエエやんか」

「それはアカン。24日はクリスマス・イブやから。親と過ごすんがウチのルールです」

……クリスマス。

「何言うとんねん、紀子さん。クリスマスって、君ん家ってアレ?キリスト教か?クリスマスに一体何すんだ?」

「え、ケーキとか食べるやん」

「ケーキ?」

ここで紀子は少し黙った。

きっとこの問いは、紀子さんに気を遣わせるものなんだろう。

そう思い、話を切り上げることにする。

「よし、分かった。OK、OK!じゃあ26日にしよう。タダで泊めてもらえるんかな?」

「当然よ」

別に2人っきりじゃなくてもいい。

とてもありがたい話だった。

「なぁ紀子さん。俺たち、遠く離れた土地でお互い生まれてんのに、こうやって出会ってな、こうやって仲良うしてな。

これってスゴイと思わへん?奇跡やわ。

俺は紀子さんみたいに夢とかないんやけど。

何回も何回も言うてるけど、俺、紀子さん大事にせなアカンなぁ」

「別に夢なんかなくたって生きていけます。

せやけどなぁ……全く、東京人はキザで困る」

「キザかぁ。まぁいいじゃん」

2人はそんな会話をしながら教室に向かう。


途中、直樹は先ほどからの紀子の少し重い咳が気になって尋ねた。

「なぁ紀子さん、風邪か?」

「え、あぁ、ちょっとね。のどが痛いんやわ」

以前なら「おいおい、冗談じゃねぇ。移すんじゃねぇぞ」と考えた。

「あったかくして早く寝なきゃダメだよ。だから今日は道草止めよ?」

こんなことをスルッと言える、今の俺。

そして、これに他意はない。

「うん、分かってるって。受験前に最後にもう1回、遊びに行かなアカンからね。

……アレ?前もこんなこと言うてたね」

そうそう。

風邪なんかに邪魔されてたまるか。

待ち遠しい日が、もうすぐ来る。



早く寝なよと言った手前、この夜直樹は紀子の家に電話をするのを遠慮しておいた。

昨夜は『約150キロで飛んでくる約10センチのボールをバットで打ち返すのに最も効率の良いスイングの軌道について』の話の途中だった。

今晩は一人で図にして、きっとこれが正解だろうという案を出してみよう。

直樹は寝る前に、そんなことをしている。


次の日、学校に行ってみると、紀子の姿がない。

朝のホームルームで教師が言うには、風邪で休むとのこと。


嘘やろ……。

今、風邪なんか引いて、26日大丈夫なんやろな?


その後のセミナーにも、当然紀子の姿はない。

直樹は家に帰ると、真っ先に紀子の家に電話してみた。

しかし何度コールしても、誰も出ない。


こりゃ、重症みたいだな……。

26日、平気かな。

このソワソワは、もう抑えることができねぇぞ。


その次の日。

この日も学校に紀子の姿はない。


まぁ、風邪を引いたんなら、1日なんかじゃ治らんよなぁ。

大丈夫なんやろな。

肺炎とか……えっと、何やったかな、アレとか、……病気……。


ほんまに風邪なんやろな?

……違う病気……

そこまで考えて、止めることにした。


その日の夜も、直樹は紀子の家に電話をしてみたが、誰も出なかった。



22日。

2人で計画した旅行まで、あと4日。

でも直樹の中で、それはもうどうでも良かった。

もし明日、彼女が学校に来ていなかったら、帰りに家へ寄ってみよう。


紀子さんはお父さんとお母さんに、俺のこととか話してるのかな。

行っても怒られへんやろな…?

でもそんなことより何より、心配になってきた。


直樹は眠る体勢に入ったまま、拭いきれない想像を繰り返す。

一度始めると、止め方が分からない。


もし彼女が休んでいる原因が風邪じゃなく、変な病気だったら……

変な病気だったら、俺はどうすればいい?

そんなことを考えるから、辛くなる。


……昔っからそうなんや。

俺には良い噂も悪い噂も、絶対に耳に入って来ない。

周りに人がいなかった俺が悪いんだろうけど。

絶対入って来ぉへんねんって。



今日紀子が登校していなかったら、お見舞いに行こうと決めていた日。

学校へ行くと、そこには紀子の姿があった。

とにかく、何よりも嬉しかった。


旅行の話はついで。

体調が悪かったらナシにしようや。いつだって行けるんだから。

そう言うつもりだった。


直樹は紀子に駆け寄り、彼女の顔を見た。

自分は笑顔で駆け寄ったつもりだったが、紀子の顔につられてサーッと血の気が引く思いがした。

彼女の、沈んだ顔。

「紀子さん、まだ調子良くないん?」

「………」

「顔色良くないよ。休んだら良かったのに」

しかし直樹の言葉に紀子は返事もせず、姿勢を変えて前を向いてしまった。


……ハア!? 

何だよ、ソレ!!

想定外の反応に、直樹は困惑と同時に怒りを覚える。


先ほどしようとした旅行の話、聞かなくていいのか?

そう思うのに、朝の彼女のあの態度が脳に焼き付いて、直樹は休憩時間も紀子に近づくことができなかった。


他のクラスメイトとは話している紀子を見つめながら、

こっちは心配してやったのに、とすら思っている。


放課後まで待とう。

どっちにしても、話はしなくっちゃいけねぇんだから。

紀子さんだってそうだろ?


しかしその日の授業が終わり、帰り支度をしている直樹の隣を紀子は無視するようにスッと通り過ぎて行く。


……嘘だろ。

まだ怒ってるんかいな。


直樹は慌てて教科書をカバンに詰め込み、紀子の後を追いかける。

先々と歩いて行く紀子に向かって、

「ねぇ!ちょっと待ってよ!待ってって!!何怒ってんだよ!?」

そこで紀子は立ち止まり、振り返った。

紀子はじーっと直樹を見つめながら、1つ深呼吸をし、

「…別に、怒ってないよ」

そう言って、いつもの笑顔を見せてくれる。

この時点で、朝のあの態度は直樹の中で帳消しになった。

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