理由 1
―――― 夏休みというのが、こんなに楽しいものだとは知らなかった。
紀子さんとは結構なペースで会ったし、毎日のように話をした。
勉強も、もちろんしましたよ。
でも休みが終わることに、かなりの怒りを覚えている。――――
2人は『紀子』『直樹くん』と呼び合おうと決めた。
男はね、デンとしてちょっとくらいエラそうなのがエエんよ。
そう言う紀子だが、直樹には勇気がなく、決めた呼び名とは違う形で、『紀子さん』と呼んでいる。
―――― 四季といえば衣替え。
そういう認識しかなかったですよ、俺は。
涼しくなると外に出掛けやすい。
知っていましたが、気づいていなかったような気がします。
俺は今後、潜行しながら生き長らえるものばかりだと思っていました。
そう、涼しくなると外に出やすい。
千古不易のこの俺と表していた以前、腹案しても意味がなく、独習し誤るところだったんでしょう。
この世界には、少なくとも俺にとっての先生が3人いた。
不協和音も自腹で練り合わせ、
そうですね、端的に言うと、これでいいんだということです。――――
もっと涼しくなれば、紅葉を楽しむ紅葉狩りなるものがあるらしい。
紀子さんを誘って一緒に行きたいと思う。
料理が得意って言ってたから、お弁当なんか作ってくれたりするんだろうか。
俺はお好み焼きがエエなぁ。
でも秋を越えればすぐに受験や。
俺たちは同じ高校に進もう、そうやって決めたんやから遊んでる暇はないのかもしれん。
冬も春も夏も秋も、また来るんやから。
次に取っておくかもしれへんなぁ……。
タケシとパク、そして紀子。
どちらも大事な直樹はクソ真面目に決めていた。
月・水・金・日は紀子と会う。
火・木・土はタケシとパクに会う。
そして相変わらず、夜はボクシングジムに通う。
生真面目にそう決めていた。
その日は土曜日。
相変わらず続いているタケシとの勉強会の後、パクの家で下らないことを話している3人。
タケシが言った。
「あ、ヤバイ!明日、甲子園最終戦やないか!ヤバイぞパクウ!すっかり忘れとった!」
「アイタ~!そうやったなぁ!ヤベエ!!」
2人は大の阪神タイガースファン。
そのことは直樹も知っていた。
パクが言う。
「俺、あのダフ屋のオヤジに電話してみるわ。券残ってるかもしれんし」
2人の会話をポカンとして聞いている直樹に、タケシが、
「おい秋月、お前も行こうや。……ハッ!!まさかお前!東京出身ということは、巨人ファンちゃうやろな!?」
それを聞いた直樹は答える。
「巨人のファンなんかじゃねーよ。ていうか、巨人て誰やねん」
「そうか。そしたら明日、一緒に行こう。甲子園で最後の阪神戦やねん。阪神側で応援するぞ!」
「……ハンシンセン?おいタケシ、お前ナニ言ってんだよ?」
そこにパクが割って入った。
「タケシ、ちょっと待てェ。お前もエエ加減慣れろ。
多分コイツは最初の段階から話踏み外しとるぞ。巨人のことは誰か個人のことやと思うてるし、阪神戦は何かの線のことやと思うとるぞ」
…まったくもって、パクの言う通りだった。
「あのな、直樹。プロ野球の話や。
明日、甲子園球場で阪神タイガースと読売ジャイアンツが野球の試合をするから、それを応援に行こう言うてんねん。分かった?」
「おーおーおー!野球の話か。分かった。理解した。……だけどなぁ、俺、日曜はなぁ……」
するとタケシが直樹に飛び掛るようにして肩を掴み、ブンブンと揺さぶった。
「お前は変わってしもうたのぅ!女ができたらそう言うか!!どの口が言うとんねん!?
小さい時そんな子やなかったやないか!大きなったらその口がそんな事言うんか!!」
……お前は俺の小さい頃なんか知らへんやろ。
そう思ったけれど、直樹は口にするのを止めておく。
「まーまー、タケシ。直樹な、たまにはエエんちゃうか?男同士の付き合いやんけ。明日は野球にしようや。
3人で買うたらチケットがちょっと安うなんねん。な?」
うーん、と悩む直樹。
まぁ、言ってることは分からないでもない。
「たまのことやんけ。紀ちゃんも許してくれるよ」
お前が紀ちゃんって言うな。
そう思いながら、これ以上紀子の話になるのは困ってしまうような気がした。
「じゃあ、分かった。明日は野球に行こう。応援すればエエんやろ?タイガースを」
「よっしゃ!そうこなアカン!!」
そう言うと、パクは部屋を出て行った。
もうすっかりその気のタケシは、パクの部屋の家捜しを始める。
「確か、この辺にメガホン置いてあった…。3人で行くってことは、最低6本いるからなー。確かあってんけどなー…」
そうこうしていると、パクが戻って来て、
「…ヤバイなー。おいタケシ、お前いくら持っとる?」
「俺、今月バイト代出るまで500円しかないで」
「お前、500円しかないクセに一番張り切っとるやんけ!500円でナニができるっちゅーんや!
ま、そう言う俺も2000円しかないんやけどな…。
3枚で1万円言いやがったから、アホボケカス言うたら8000円まで下がりよったんやけど、…くそー、あのダフ屋!」
そこまで言ったパク、直樹の方をチラッと見た。
同じく、タケシも直樹の方に向き直る。
「……あんなぁ、直樹さん。こういう時の直樹さんいうんちゃうんやけどな。直樹さん、今ナンボ持ってます?」
頭の中で、机の引き出しに入っているお金を数えてみる直樹。
「……確か、1万円はあるハズやで」
「あのな、直樹さん。もちろん俺は2000円出す。コイツはバイト代が入ったら、ちゃんと直樹さんにお金を返す。
だから、明日ちょっと多めに出しといてくれません…?」
「ああ、いいよ、全然。全然構わない。8000円いるんだろ?だったらタケシの分は俺が出すよ」
「よっしゃー!ありがとう!!」
大喜びする2人は見ていて楽しかった。
何で他人がやってる野球に、ここまで執着できるのか。
不思議に思ったが、ここまで熱中できる野球というものに、少し興味を持った直樹だ。
「じゃあ俺、もう一回ダフ屋に電話するから。3枚キープするから。
明日、現地で受け取るってことにするからな」
3人は明日の待ち合わせ場所と時間を、その場で決めた。
明日は紀子さんと遊ぶハズだったのになぁ…。
そんなことを考えながら、その日の夜、直樹は紀子の家に電話をした。
毎日大体決まった時間に電話するので、必ず彼女が出てくれる。
『あ、もしもし~?私』
というあの声は、かなりホッとする。
毎晩聞いていても飽きない。
「あんねぇ、紀子さん」
直樹は明日のことを切り出そうとした。
が、そこへ割り込む紀子。
『あ、ちょっと待った!テーマ決めてしもうたら長なるから、忘れんうちに先に言うわ。
あのね、ウチのお客さんにね、動物園のチケットもらったんよ』
……動物園?
行ったことない。
『それがな、2枚あんねんやんか。直樹くんよぅ、コレ明日行ってしまわへん?
ただ朝イチで行かんと…多分電車で2~3時間かかると思うねん。他県やからねぇ、コレ』
「他県?泊まりで行くっていうんか?月曜日、学校やぞ?」
『……ちょっとアンタ、何イヤラシイこと言うてんねん。
日帰りです!朝1番の電車で行って、昼から夕方まで十分遊べると思うんやわ。
それで、夜コッチに帰ってくる、と』
直樹は考える。
…イヤラシイ?
おこがましいってこと?
浅ましいってこと??
何かは分からないけど、イヤラシイことを言ってしまったみたいだ。
そうやって少し悩んで、気づく。
その、明日の件で電話したことを。
「え、紀子さん、ソレ、明日やないとダメなの?」
『せやけど丸一日かけて遊びに行くってなったら、もうこの日曜しかないんちゃう?
来週火曜日から、あの申し込んだセミナー始まるんやで?勉強漬けになるやんか。
明日がラストチャンスや思うんやけど』
直樹はまた考える。
何かに迷ったとき、それを天秤にかけて判断する。しかもその対象が人である。
なんてことは、これまでしたことがない。というより、俺にそんな技術はない。
そう思っていた。
しかし、今回はタケシ・パク、そして紀子。
双方の重量に重きを置き、今考えている。
……野球なんていつでもやってるよな。
そう思う直樹は野球のオフシーズン、最終戦の意味を分かっていない。
だったら、動物園の方が大事なんちゃう?
何やったら、野球は平日だってやってるし。間違いなく。……テレビで見た。
やっぱり、野球よりパンダだと思うで?
俺は。
「……ねぇ、紀子さん。その動物園ね、パンダはおるん?」
『え?パンダ?確かおるんちゃうかなぁ?
イヤ、おったよ。実はね、私、何年か前に一回行ってんねん。でっかぁて有名な所よ?
○○ワールド○○○○って、知らん?
直樹くん、シャチ知ってる?シャチで有名なんやで』
「シャ…シャチだって!?海のギャングがいるのかい!?アザラシなんかを丸呑みにする、あの海のギャングが!?」
『そらそうよ』
この段階で、天秤にかけられていたタケシとパクは重量で負け、どこか見えないところにフッ飛んで行ってしまった。
「紀子さん、ちょっとだけ待っといて。5分後に電話するから!」
そう言って、いったん電話を切る。
テンションが上がってしまった。
……パンダ
シャチ
パンダ
シャチ
パンダがシャチに……
……イヤ、それは違う。
それはかわいそうだ。
違う違う。
こりゃあ、動物園しかないよな。
パクウに電話せんと。
野球はいつだってやってんだから。
すぐさまパクの家に電話をする直樹。
『は~い、もしもし~?大林です』
電話に出たのは、いつものようにパクのお母さん。
「あ、こんばんは、秋月ですけど」
『あー、秋月くんかいな。こんばんは。
アレ、健と一緒じゃないん?健に用事やったらまだ帰って来てへんで』
「あ、そうですか。じゃあちょっと伝言お願いしたいんですけど、いいですか?
健くんに、明日用事ができて行けなくなったって言っといてもらえますか?」
『あー、分かった分かった。言っとくわ。
しかし秋月くん、喋り方が丁寧で立派やわぁ』
直樹は、パクのお母さんがここから話が長いことを知っていた。
半ば強引に電話を切ることにする。
「じゃあすいませんけど、よろしくお願いします」
そうして電話を切り、再び紀子へ電話して、動物園行きのOKを出した。
待ち合わせは、駅に朝6時。
パンダやシャチもそうだが、そんな朝早くから待ち合わせをし、電車に乗って他県に出掛けるなんて初めての経験。
ワクワクしすぎて、遠足病とも言えるような体温の上がり方を覚える直樹。
この日は紀子との電話も早々に切り上げ、早く寝ることにした。
……でっかい動物園。
トラ
ライオン
アライグマ……
図鑑持ってるから、知っとんねん。
パンダ
シャチ
鳥
パンダvsシャチ……
眠りに入りながら、いろんなことを妄想している。
翌朝、直樹は5時前に家を出た。
あまり眠れなかった。
だけど、寝坊もしなかった。
駅に着いたのは5時15分。
まだ早い。
だが、直樹はすでに紀子と何度か待ち合わせをした経験があるので知っている。
待っている時間も、なかなかオツなもんだ。
15分ほど遅れて、紀子も到着した。
昨夜の電話のあと、直樹と同じようにすぐに寝て、4時前に起きてお弁当を作ってくれたとのこと。
誰かにそんなことをしてもらった経験、記憶などは持ち合わせていない。
遠足のとき、運動会のとき、重箱に詰められた立派なお弁当。
でもそれは、母が早起きをして作ったものではなかった。
業者に注文して作らせたお弁当。
あれが美味しいのはもちろんだが、
……だが、一味違うのだ。
朝、抜け出すように家を出てきた直樹。
早く起きたけれど、お弁当に時間を取られてしまった紀子。
2人は朝食を摂っていない。
時刻表を見ると、目的地まで約3時間ある。
2人は電車に乗り込むと、そのお弁当を目的地に着くまでの間に食べてしまった。
「お昼ごはんにしよう思うて作ったのにねぇ」
そう言いながら笑う、15歳2人。
紀子さんの作ってくれたお弁当は、さっき思った逆の意味で、二味は違ったな…。
とても美味しかった。
電車を降りるとバスを乗り継ぎ、動物園に向かう。
今日は日曜日のため、人は多め。
2人は人混みにお構いなしに、手を繋いで駆け足で園内に入って行く。
「ねぇ紀子さん、まずはシャチやろ。そんで次はパンダ。俺はそう思うで」
「イヤ、ちょっと待って。シャチのショーってのは時間が決まったあるんや。時刻見てうまいこと回らんと全部見られへんで?
っちゅーか、私はまずトラとライオンやと思うで。
シャチは時間を見てから。パンダは気が落ち着いたところで見んと。
アンタ、分かってないなー」
言っている意味は分からないが、言葉に説得力のある紀子。
直樹は「ハイ」とだけ返事をして、紀子に従うことにした。
ここに来て、動物園なんてものは生まれて初めてだということを思い出す直樹。
動物がいれば、紀子さんもいる……。
ここは一つ、紀子さんに任せよう。
まずトラ・ライオンを見るべく、サファリカーなるものに乗る。
その車は結構車高のあるバスのような形で、車内にはもちろん、車の上にも乗ることができる。
「せっかく来たんやからねぇ、肌で感じんと。あの剥き出しの2階へ座るで、私は。
さぁ直樹くん、アンタはどうするんや?」
「俺も2階!当然です!」
バスが走り出した。
天気が良いので寒くはない。
下を見下ろすとシマウマ、サイ、そういった図鑑でしか見たことのなかった動物だちがたくさんいる。
直樹は両手を使い、双眼鏡のようなポーズをとって覗き込んだ。
「紀子さん!こうやって覗いてみ?余分な風景を除いたら、まるでアフリカや!
こうやって覗くべきや!」
「うーん、なるほど。視界の利点と盲点をつくわけやね?」
2人並んで同じポーズで周りを見渡している。
トラ・ライオンのコーナーに入った頃、紀子のテンションが急に上がった。
真下にいるライオンを見ながら、紀子が言う。
「直樹くん、知ってるか?ライオンってのはね、オスは何もせぇへんのよ。エサ取るのとか、全部メスがすんねんで」
「へ~、そうなんや。あ、俺ライオンがエサ食べてるトコ、見てみたいなぁ。お食事タイムはないんかなぁ?」
「直樹くん、ちょっと手ェ伸ばしてみ?触れそうやん」
「あ、ほんまやね」
ライオンに向かって手を伸ばそうとする直樹。
「食事タイムが見たいんやろ?ちょうどエエやん」
「へあぁぁぁッ!!」
直樹は急いで手を引っ込める。
大爆笑の紀子。
……こ、この人、コエェェ…!!
テンション上がりっぱなしの2人だ。
次に行ったのは大きなプールのある観覧席。
この動物園では、シャチのことをオルカと呼んでいた。
とにかく見事な大きさ。
見事なショー。
見事な水しぶき。
「なぁ紀子さん、シャチって触ったらどんな感じなんだろうね。
アイツらサメやないから、ザラザラやないハズやねん。長靴みたいな感じなんかなぁ?
今日家帰ったら、長靴触ってみよ」
「それより私は、上に乗ってるあのお姉さんが気になってしょうがないよ。
…ねぇ、直樹くん。あの人、何代目お姉さんやと思う?」
「………」
……紀子さんは、少し怖い人なんじゃないだろうか……?
「冗談やんか!冗談!!アハハハハハッ!!」
笑いながら、直樹の背中をバンバン叩く紀子。
「アハハハハハ…」
一緒に笑ってはいるが、このまま突き落とされるんじゃないかと、ふと思う……。
楽しい時間はあっという間に過ぎて行く。
目的だったシャチ、その他の変わった動物たち。
全て見て回った。
ついでに、設置されていたジェットコースターというものにも乗ってみた。
でも、アレはねぇなー…。
―――― 思わず紀子さんのお弁当を、また紀子さんのお弁当箱に戻しちゃうところでしたよ……。
それともう一つ。
パンダ。
今まで写真と絵でしか見たことのなかった、パンダ。
可愛いのが取り柄だと思っていた彼・彼女たちは、近づいてみるととんでもない腕力で竹を割り、もっと近くで見るととても鋭い目つきをしていたのです。
何だったら、ガラス越しではあったけれど、近づきすぎた俺の顔目掛けて、飛び掛かってきました。
……パンダ。
きれいな白と黒のツートンカラーだと思っていた彼・彼女たちは、何故か立ち上がるとお尻だけがグレーで汚かった。
パンダだけは、すっかり俺の期待を裏切ってくれた。
「パンダ、めっちゃ可愛かったねぇ!連れて帰りたかったわぁ!!」
そう言った紀子さんと少し口論になりましたが、ほぼ全てにおいて満点だった。
楽しくて仕方がなく、帰りたくありませんでしたが、紀子さんのご両親を心配させるわけにはいきません。
明日も学校だし。――――
夜9時前と、少し遅くなったが、2人は無事に地元に戻り、家へと帰った。
家に到着した直樹、両親が留守にしていたのを良いことに、慶也をつかまえ熱弁する。
「あのなぁ慶也!シャチがな、こうやって、ザバーン!って飛んでな、上空にぶら下げてるこういう玉にさ、頭突き食らわすんだよ!
そんでまた、ザバーン!って水に落ちてな。
パンダはな、……ありゃぁ色に誤魔化されてる!所詮クマだよ。見た目に騙されんなっちゅーことやな」
片手を長靴に突っ込み、それを触りながら熱く語っている。
とにかく、今日あった楽しかったことを話したかったのだ。
慶也はそんな直樹の話を、目を見張って「うん、うん」と、こちらも熱心に聞いている。
この日、直樹は一度もタケシとパクのことを思い出さなかった。




