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家事は誰がために鐘は鳴る ~元薬剤師の専業主婦が、夫と息子を静かに捨てるまで~  作者: 品川太朗


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第9話:拒絶



 翌朝。

 キッチンから漂う味噌汁の香りや、包丁がまな板を叩くトントンという小気味よい音で目覚める――。


 そんな期待を抱いて起きてきた隆と翔太を待っていたのは、冷え切った食卓と、スーツに身を包んだ私だった。


「あれ……母さん? 朝飯は?」


 寝癖だらけの頭で、翔太がきょとんとして尋ねる。


「おはよう。朝食なら、そこにコンビニのパンがあるわよ」


 私はテーブルの隅に置かれた袋を顎でしゃくった。


「はあ? なんだよそれ。昨日の話と違うじゃないか」


 隆が不満げに声を荒げる。


「今日から元通りにするって約束しただろう? だから俺たちは頭を下げたんだぞ」


 私はゆっくりとコーヒーカップを置き、彼らの顔を真っ直ぐに見た。

 その瞳に、かつてのような暖かさは微塵もない。


「約束? 私は『二人の気持ちはよく伝わった』と言っただけよ。『戻る』なんて一言も言っていないわ」


 二人の動きが凍りついた。

 言葉の意味を咀嚼するのに数秒。

 顔色が青ざめるのにさらに数秒。


「……え、どういうことだ?」


「こういうことよ」


 私はビジネス鞄から、クリアファイルを取り出し、テーブルの上に滑らせた。

 中に入っているのは二種類の書類。


 一つは『賃貸借契約書』。もう一つは『離婚協議書(案)』だ。


「来週の月曜日、私はこの家を出ます。新しいマンションの契約は済ませたわ」


「なっ……!?」


 隆が書類をひったくるように手に取る。


「ひ、引越しだと? ふざけるな! そんな勝手なこと許さんぞ! 第一、お前にそんな金がどこにある!」


 隆は震える手で契約書をめくり、家賃の欄を見て目を見開いた。


「家賃……十五万!? お前、正気か? パートの給料で払えるわけがないだろう!」


 彼の中では、私の仕事はまだ「お小遣い稼ぎのパート」のままらしい。

 私は呆れを通り越して、哀れみすら感じながら、もう一枚の紙を提示した。


 直近の給与明細だ。


「見て。これが私の先月の手取りよ」


 そこに記載されている数字は、残業代や薬剤師手当、深夜割増を含め、三十八万円を超えていた。

 隆の手取り額とほぼ同等。いや、彼が会社の業績悪化でボーナスを減らされていることを考えれば、年収ベースでは私の方が上かもしれない。


「な……なん、だこれ……」


 隆の唇がわななく。


「薬剤師不足は深刻なの。特に私の勤める薬局は在宅医療に力を入れているから、経験のある薬剤師は喉から手が出るほど欲しい。……あなた、私が二十年前にいくら稼いでいたか、本当に忘れてしまったのね」


 私は翔太の方に向き直った。


「翔太。あなた、以前私に言ったわよね。『主婦は生産性がない』って」


「そ、それは……」


「今の私は生産性の塊よ。自分一人で生きていくには十分すぎるほど稼いでいる。だから、あなたたちという『負債』を切り離すことにしたの」


 負債。

 その言葉が、二人の胸に重く突き刺さるのが見えた。


「ま、待ってよ母さん!」


 翔太が泣きそうな声で叫ぶ。


「金があるならいいじゃん! その金で家政婦でも雇えばいいだろ? 俺たち家族じゃんか! 母さんがいなくなったら、俺たちどうなるんだよ!」


「どうなるって……今の生活が続くだけよ」


 私は冷たく言い放つ。


「半年間、あなたたちが作ってきたその汚い部屋と、コンビニ弁当の生活が続くだけ。何も変わらないわ」


「嫌だ! 無理だよ!」


 翔太が子供のように駄々をこねる。


「ごめんなさい、本当に反省してるから! 母さんがいないとダメなんだよ!」


 その言葉を聞いて、私はふっと笑った。


 ああ、これだ。私が長年囚われていた呪いは。

 「私がいなきゃダメ」。それは一見、愛の言葉のように聞こえるけれど、実態はただの依存だ。


 そして私は気づいてしまった。


「あなたたちは、私がいなきゃダメかもしれない。でもね」


 私は席を立ち、二人を見下ろした。


「私は、あなたたちがいない方が、ずっと『らく』なの」


 愛しているとか、憎んでいるとか、そんな熱量のある感情ではない。

 ただ、一人の方が掃除が楽。

 一人の方が食事が美味しい。

 一人の方が、お金を自由に使える。

 単純なコストパフォーマンスと、精神的安寧の比較。


「あなたたちの世話を焼くコストと、それによって得られる喜び。計算してみたけれど、完全に赤字だったわ」


 その言葉は、どんな罵倒よりも残酷に響いたようだった。

 隆は口をパクパクと開閉させ、翔太は絶望に顔を歪めて押し黙った。


 彼らは理解したのだ。

 目の前にいる女性が、もう「感情」で動かせる相手ではなく、「理屈」で結論を出してしまったことを。

 そして、その結論が覆らないことを。


「詳しい話は、弁護士を通してちょうだい。……行ってきます」


 私はコーヒーカップをシンクに置き(もちろん洗わない)、鞄を持って玄関へと向かう。

 背後から呼び止める声が聞こえた気がしたが、私は一度も振り返らずにドアを開けた。


 外の空気は、今まで吸ったどの空気よりも澄んでいて、美味しかった。


 これで、宣言は終わった。

 あとは、実行あるのみだ。

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