第3話:宣戦布告なき開戦
採用が決まった翌日の夜。私は夕食の席で、努めて事務的に切り出した。
「先日話していた仕事のことだけど、来週の月曜日から出勤することになったわ」
「へえ、決まったのか。例のスーパー?」
ハンバーグを口に運びながら、翔太が興味なさそうに訊く。
「いいえ、駅前の調剤薬局よ。フルタイムで、勤務時間は九時から十八時まで」
その言葉に、箸を動かしていた隆の手がピタリと止まった。
「……おい、話が違うぞ。フルタイム? そんなに働いて、家のことは誰がやるんだ」
予想通りの反応だ。彼の眉間に不機嫌な皺が寄る。
「俺は言ったはずだぞ。『家のことを疎かにしないなら』許可すると。十八時まで働いて、それから買い物して飯を作るのか? 俺の帰宅時間に間に合うのか?」
隆の声にドスの利いた響きが混じる。以前の私なら、ここで「頑張るから許して」と懇願していただろう。
けれど、今の私は違う。
「ええ、私一人では物理的に無理ね」
私はあっさりと認めた。
「だから、相談があるの。私が働くことになった以上、家事は分担制にしましょう」
「はあ?」
素っ頓狂な声を上げたのは翔太だ。
「なんで俺まで? 俺、大学とバイトで忙しいんだけど」
「母さんも仕事で忙しくなるからよ。それに翔太、あなたは以前言っていたわよね。『家事なんて午前中で終わる』『誰にでもできる簡単なこと』だって」
私は逃さない。過去の失言を、丁寧にラッピングして突き返す。
「そんなに簡単なことなら、あなたの負担にはならないはずよ。違う?」
「う……それは……」
言葉に詰まる翔太に、隆が助け船を出す、つもりで口を開いた。
「聡子、勘違いするなよ。お前が外で働くのは勝手だが、収入の柱はあくまで俺だ。稼ぎの多い人間が家でくつろぐ権利を持つ。これは社会の常識だろう?」
「ええ、その理屈もわかるわ」
私は頷く。そして、バッグから一枚の紙を取り出した。まだ署名はしていないが、雇用契約書のコピーだ。そこに記載された基本給と手当の概算を指し示す。
「見て。ブランクがあるから研修期間はあるけれど、私の時給は二千五百円スタートよ。フルタイムで働けば、月収はこれくらいになる」
提示された金額を見て、隆が目を丸くした。
彼の手取りよりは少ないが、翔太のバイト代など足元にも及ばない金額だ。そして何より、隆が「たかがパート」と見下していた額の倍以上はある。
「……薬剤師ってのは、そんなに貰えるのか」
「ええ、国家資格ですから。これだけの収入があれば、家計にもかなり余裕ができるわ。あなたの小遣いも増やせるかもしれないし、翔太の車の免許代だってすぐに貯まる」
飴をちらつかせる。
彼らの表情が、現金なほどに緩んだ。
「お、マジ? 俺の車、買ってくれんの?」
「悪い話じゃないだろう。……まあ、家計が潤うのはいいことだ」
空気が緩んだ瞬間、私は畳み掛けた。
「その代わり、私の時間は減る。だから協力してほしいの。ルールは簡単よ。『一週間ごとの完全交代制』。料理、洗濯、掃除、ゴミ出し。担当週の人が全ての責任を持つこと」
「一週間ごと?」
隆は少し考え込んだが、すぐに鼻で笑った。
「まあ、いいだろう。今の家電は優秀だ。ボタンを押すだけだからな。俺たちが本気を出せば、家事なんて効率的に回せるってところを見せてやるよ」
「そうだよ。母さんのやり方は要領悪いんだよな。俺ならもっとうまくやるぜ」
男たちは顔を見合わせ、ニヤリと笑った。
彼らは本気で思っているのだ。私がやっていたことなど、誰にでもできる「雑用」だと。
私は、心の中でガッツポーズをした。
釣れた。
「わかったわ。じゃあ、来週から私が働くのと同時にスタートね。最初の週は……言い出しっぺの私がやるわ。再来週から、まずは翔太、その次は隆さんね」
「おう、任せとけ」
「手出し無用だぞ。俺流で完璧にやってやるからな」
こうして、宣戦布告なき開戦の火蓋は切って落とされた。
彼らは知らない。
この契約が、彼らの生活を崩壊させるトリガーであることを。
◇
その夜、全員が寝静まった後。
私はスマホのカレンダーアプリを開き、ある日付を入力した。
『Xデー』。
予定日は半年後。
私が半年間働き、引越し資金と当面の生活費、そして弁護士費用を十分に貯められる時期だ。
夫と息子が家事の泥沼に沈み、家庭が崩壊するのに十分な期間でもある。
「……契約成立ね」
暗い寝室で、夫のいびきを聞きながら私は呟く。
隣で無防備に眠るこの男は、もう私の夫ではない。
私の自由を買い取るための、ただのスポンサーだ。
スマホの画面が消える。
暗闇の中で、私の目だけが冴え渡っていた。




