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白百合の涙  作者: 雨足怜
魔女編

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64/96

64代償を背負って

新章に入ります。

 ブラックドラゴンの襲撃から、街は少しずつ立ち直っていった。隣人の、知人の、家族の死を乗り越え、人々は少しずつ明日に向かって歩いていく。

 痛みから目をそらすように復興作業に従事し、時折亡き存在を探して瞳を揺らす。そうして、そこに誰もいないことを突き付けられ、絶望に光を失う。

 暗い瞳は減り、けれどゼロになることはなかった。

 どことなく暗鬱な空気を漂わせながら、今日も人々は空回りを続ける。


 いつだって、探していた。ずっと傍にいるのだと、何の根拠もなく思っていた。

 もとより、いつか別れる可能性だって考えてはいた。レイラの家族を無事に見つけて、離れ離れになる可能性を考えていなかったわけではない。

 レイラもまた魔女だから、いざという時に守れる距離にいる必要があるのだなんて、そんな言葉で私は自分を言い聞かせていた。

 偶然から共に過ごすようになったレイラは、いつしか私たちにとってなくてはならない存在になっていた。

 レイラがいたから、私たちは日常にその身を浸すことができた。戦い以外のことを、生き延びるための行為以外のあらゆる物事をそぎ落としていっていた私たちに日常とは何かを再び教えてくれたレイラの存在があったからこそ、今の私たちがいるのだ。

 返せないくらいの恩があった。そんなことをいまさら思っても、レイラがよみがえるわけではないのに。

 レイラは死んだ。話によると、ドラゴンの襲撃によっておびただしい血を流し、その鼓動も止まっていたという。

 そのことを屋台の店主の娘、レイラの友人に聞いて、私たちは誰からともなくその場所に急行し、がれきをどかした。けれどいくら探してもレイラの姿はなかった。その死体を見つけることだってできなかった。

 死んでいないかもしれない――それは希望であり、絶望だった。

 わかっていた。致命傷を負ったうえ、さらにがれきの海に飲まれてレイラが無事でいることはないと。こうして姿が見えない以上、レイラは死んだのだと。

 受け入れるしかなくて、けれど死体として目の前に突き付けられないから。だから言い訳して、目をそらした。

 どこかで、生きているかもしれない――そう、思い続けた。

 だって、そうしないと狂ってしまいそうだった。情報がないから、なんて後回しにし続けたレイラの母、私の古い友人の捜索をしなかったことを、今になって激しく後悔していた。もっと早く、見つけてあげられれば良かった。もっとちゃんと、本気で探していればよかった。

 日常というぬるま湯につま先から頭のてっぺんに至るまで浸りきっていた私は、その日常が壊れることが怖くて、一歩を踏み出さずにいた。だから、約束した再会をもたらすことができなかった。

 私は、ひどい女だ。

 いつだって自分のことばかり。他人には多大な心労をかけ、負担を強いているのに、自分は頼まれたことの一つも為せやしない。

 レイラは、あの世で怒っているだろうか。もし死後の世界なんてものがあるのなら、どうかそこで、幸せに生きてほしい。

 それが、それだけが、何もできなかった私にできることだった。

 ……ああ、もう一つある。

 レイラの母を、私のかつての友人を探すこと。いまさらだとしても、私はそれをしないといけない。

 目を閉じる。私の中にあったはずの、「彼女」のことを思い出そうとする。けれど、引っかかる記憶はただの一つもない。


「――ナ」


 私の幼馴染だったという彼女。私の弟と結婚し、レイラを生んだはずの彼女。彼女の記憶は、私の中には存在しない。

 死と蘇生を繰り返した私は、その代償に彼女のことを忘れてしまった。だから、もしかしたら重要な手掛かりになったかもしれない記憶が、私にはない。彼女の顔も知らない。わかっているのは名前だけ。

 アマーリエ。

 口の中で呟いても、その名が私の心を動かすことはなかった。

 けれど、そこにはほんの少しだけ既視感があった。

 多分、体は覚えているのだ。口にある違和感のなさは、かつての私がその名を何度も呼んでいたたった一つの証拠なのかもしれない。

 記憶を失っても、体には確かな時間が残っている。少なくとも、戦い以前のことは――


「ロクサナ!」


 大きな声が響いた。体が揺れて、私は目を開く。

 顔のすぐ前に、キルハがいた。どこか焦燥をにじませて、顔は青白い。震える手が、私の頬に添えられる。

 レイラがいなくなってしまってから、キルハがよく触れてくるようになった。それはレイラの前でキルハが自制していたというわけではなく、たぶん私が原因だ。放っておけば壊れてしまいそうな私の心を守るために、キルハは私に触れる。腫物に触るように、そのぬくもりで少しでも冷え切った私の心を温めようとしてくれるのだ。


「どうしかたの?何かあった?」

「……ううん。何度呼んでも返事がないから心配になっただけ」

「あ、ごめん。ちょっと考え事をしていただけだから」


 あいまいに告げれば、困ったようにキルハは笑う。その笑顔は、仮面に見えた。悲しみを隠すもの。そして多分、懸念を隠すもの。

 キルハは鋭い。私より何倍も頭がよくて、少ない情報から答えを得てしまう。

 気づいて、いるのだろうか。気づいているのかもしれない。多分、気づいている。

 けれどキルハはそれを言わない。だって、言ったところで、答えを得たところで、どうしようもないことだから。

 それに、何か、大きな実害があるわけでもない。せいぜいこうして、少し反応が遅れる程度だ。

 私はすべてを忘れていく。ランダムに、大切な記憶も、些細な記憶も、死から逃れる対価に失ってしまう。

 この程度のことは慣れている。慣れてしまっている。

 私にとって、これは日常だから。


「……ちょっと顔を貸しなさいよ」


 夕食の後、自室に戻ろうとしていた私をマリアンヌが呼び止めた。最近は片腕を失ったアベルの世話にいそしんでいてあまり接点がないマリアンヌは、にらむような視線で私を見ていた。その目には、責めるような光があった。それは、私の心理がもたらす思い違いかもしれない。

 その瞳に宿るのは探求心だ。答えを知らずにはいられない――マリアンヌにはそんなところがある。灰色は許さない。黒か白かはっきりさせたがる。あいまいなままではいさせてくれない。


「ロクサナ」


 何かを探るように、マリアンヌが私の名前を呼ぶ。その行動の理由を確認するように、私はマリアンヌに視線で問う。気づいて、しまったのかと。


「ねぇ、ロクサナ、あんた――」


 言わないで。やめて。突き付けないで。それと直面してしまったら、私は私でいられる自信がないから。

 足が震えた。体が震えた。景色が揺れていた。その中で、マリアンヌはただまっすぐ、逃げることは許さないといわんばかりに私を見ていた。

 制止を願う私の視線は、マリアンヌには届かなかった。


「――あんた、名前を失ったのね」


 ああ、とうとう言われてしまった。私の隠し事を。


「……なんのこと?」

「とぼけなくてもいいわよ。あなた、記憶を失ったでしょう?ブラックドラゴンとの戦いの中で死んで、自分の名前に関する記憶を失ったのね」


 そう、その通りだ。私は、自分が「何者」であったのかを忘れた。私は、自分の名前を忘れていた。私の名を呼ぶ誰かの声が、私の中から消えていた。呼ばれた名前だけが、まるで塗りつぶされたように消えていた。

 違和感しかなかった。ロクサナと、そう呼ばれて。キルハ相手でさえ、そう呼ばれることが苦痛に感じられた。記憶の中にあるわずかなくすぐったさなどどこにもなかった。

 名前を呼ばれるたびに突き付けられた。もうほとんど記憶に残っていない両親、二人が残してくれた名前を失ってしまったことを、私は強制的に直視させられる。


「……私は、ロクサナなのよね?」

「わたくしが知る限り、あんたはロクサナね。それ以外の何者でもないわよ」


 ただの名前と言ってしまえばそれまでだ。けれどその喪失は、これまで私を襲ったどんな代償よりも大きなものだった。


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