65魔王の末裔
街を襲ったブラックドラゴンは、王都の方、西部へと飛び去って行った。現れた北方ではなく、だ。
人類の生存圏――そう呼ばれるのは、現在の王国の領土の外には恐るべき魔物たちが跳梁跋扈しているからだ。たった一体が襲撃すれば街一つ、あるいは国、人類が滅んでもおかしくないような災厄の化身がはびこっている。それらの魔物たちは、けれど人類圏に足を踏み入れることがないため、人類はかろうじて滅亡を免れていた。
人類は忘れてしまった。王国の外にはびこる魔物がどうして王国を襲わないのか、その理由を。
魔物たちが人類を襲わないのは、人類を守る不可視の壁があるからだった。王国を取り囲む大きな結界。それは遥か昔、魔王と呼ばれた存在が発動した魔法だった。
人類世界を飲み込む球状結界は、今も人知れず人類を守っていた。
これまでその例外は、西部、かつてアヴァンギャルドが在中していた森にとどまっていた。膨大な魔力に満ちたあの森は、その魔力ゆえに結界の効果が揺らぎ、凶悪な魔物たちが結界を潜り抜け、人類の世界へと足を踏み入れることが可能だった。だからこそあの場にはアヴァンギャルドが必要だった。
それはともかく、ブラックドラゴンは結界の一部を切り裂いて人類社会に入ってきた。その意味を、人類はまだ誰も理解していなかった。
「……ブラックドラゴンの行動理由、ねぇ?」
家に訪れたハンター協会支部長の質問にマリアンヌが首をひねる。ブラックドラゴンなど、人類にとっては等しく災厄である。けれどそうして思考停止していては、人類は滅亡を回避することはできない。
「アレは魔王ノ末裔とやらを探しているような口ぶりだった」
「……それ、あの変態のことじゃないわよね」
変態――そう聞いた瞬間、ハンター協会支部長を含めた全員が一斉にアベルを見た。もちろん私もだ。
汚物を見るような視線を前に、アベルはむっと顔をしかめる。彼にとって、痛みは快感のもととなるが、精神的なもので快感を得るほどの変態ではなかった。それでも、アベルが変態であるというのは否定できない話だけれど。
「……ちょっと、アベルのことを言ったんじゃないわよ」
「アベルが変態であるということについては否定しないんだ?」
「まあ、アベルが変態なことはわたくしも知っているもの。本当、どうしてこんな男を好きになってしまったのかしら」
「ま、まあ、アベルはいざという時に頼りになる男だからね」
「アベルがいるとすごく心強いよね」
「……くすぐったいものだな」
少しだけ照れたらしく頬を赤くするアベルを見て、マリアンヌが目を潤ませる。にじむ情欲は、けれど支部長の咳払いにかき消された。
「……何だったかしら?」
「ブラックドラゴンの話でしょ。その行動理由」
「ああ、変態というのはシャクヤクのことよ。多分あいつが魔王ノ末裔なのでしょうね」
脳裏をよぎるのは、どこか女性のような言葉遣いをする、化粧をした年齢不詳の男。確かに、シャクヤクであればブラックドラゴンに探されていてもあまり違和感はないかもしれない。
「根拠があるのか?」
「あんたは知っているでしょう?シャクヤクはワルプルギスのリーダーなのよ?」
「知っているけど、それがどうつながるのかな?」
支部長もキルハも、マリアンヌが言いたいことがわからないらしく首をひねっている。
ワルプルギス……確か、古代王国の流れをくむ魔女たちの秘密結社。
「まあ最近の展開が怒涛過ぎて、記憶が飛んでも仕方ないわね。……以前話したと思うけれど、ワルプルギスっていうのは古代の王国……魔王を主とする魔女たちが市民を支配した国の残滓なのよ。そのリーダーであるシャクヤクは魔王の血を引いている、らしいわ」
「だとすれば魔王ノ末裔はシャクヤクで決まりかな?支部長、ブラックドラゴンが襲来した当時、シャクヤクはこの街にいましたか?」
「ああ、いたな。ブラックドラゴンに数度攻撃を浴びせてから姿を見てない。……あいつ、ひょっとして逃げたか?」
「逃げるようなタマじゃないわよ。たとえ自分がブラックドラゴン襲来の元凶であったとしても、何食わぬ顔で現れるわよ。……でも、どうして顔を見せないのかしら?」
ブラックドラゴンの襲来から、今日でおよそひと月。その間、シャクヤクは弟子のマリアンヌの前にさえ姿を見せていない。
「……まあ、たぶん無事でしょうね。気にするだけ損よ。あれが死ぬところなんて想像もできないわ」
鼻を鳴らすマリアンヌがソファに深くもたれる。
ブラックドラゴンがどうしてシャクヤクを探していたのか、その答えは今もよくわからない。ただ、何か、大きなものが見えないところで動いているような、そんな感じがあった。足元で進行する何かは、その姿を見せた時にはきっともうどうしようもない段階まで来ている気がした。
何か、見落としていることはないだろうか。そう考えても、思い浮かぶことなんてろくなものがなかった。
結局、新たにわかったことなんて何一つなかった。突然王国を襲ったブラックドラゴン。その襲来に何か裏があるとは思えない、というか思いたくない。たとえばそう、シャクヤクが意図してブラックドラゴンを王国に呼び込んだとか、そんなことはないはずだ。
支部長を見送りに玄関まで歩く。最近ではもうめっきり冷え込んでいて、廊下はひどく寒かった。隣を歩くキルハが小さくくしゃみをする。
玄関扉を開こうとしていた支部長が思い出したように足を止めて振り返った。
「市民が魔女を探して動いている」
「魔女を?どうしてまたこんなタイミングで?」
「ブラックドラゴンの襲来と魔女をつなげたんじゃないか?どうしても巷では魔女イコール悪って価値観が浸透してるからな。ブラックドラゴンに身内を殺されたやつなんかは魔女を恨んでいるかもな。お前たちも気をつけろよ。ブラックドラゴンとの戦いのときに見られてないか?」
「一応マリアンヌが呪術で対策をしていたから大丈夫じゃないかな。確か、周囲の者の認識をそらすんだったかな?見えているのに見えない、みたいなことになるらしいよ」
「そりゃあすごい力だな。悪用し放題だ」
悪用って、盗みでもするのだろうか。確かに、多くのものは犯人にたどり着けない。けれど多分、この街にもワルプルギスの魔女はいる。私とは違って魔力感覚の鋭い魔女であれば魔法に気づかないはずがない。だからきっと魔女たち身内で処分されて解決するんじゃないだろうか。
そう考えると、魔女もしっかり社会を形成している。
「はぁ、あいつはどこをほっつき歩いているんだろうな」
行方知れずなシャクヤクに呪詛を吐きながら、支部長は扉の外へと消えた。
その気配が遠ざかり、感知できなくなったあたりで、キルハが私を見る。
「さてと、この後はどうする?シャクヤクの行方でも探そうか?」
「んー、まずはワルプルギスと連絡を取ってみる?」
そんな私の言葉に反応したのかどうか。鈴の音のようなものが周囲に響き渡った。リーン、リーンと鳴り響くそれは、私のポケットから聞こえる音だった。
「な、何!?」
「んー?ああ、あれだよ、あのカード」
カード。そう言われて、私は心当たりを思い出した。キルハが魔法具と言っていた、ハンター協会で意味深な言葉とともに渡されたカードだ。それは魔法を発動前でとどめているような状態で、魔女専用の魔具のようなものらしい。
ポケットの中から、そのカードを取り出す。ハンター協会が発行している登録証明とは違う、黒地に紫の五芒星が描かれたどこか神秘的な気配を漂わせるカード。その五芒星が、今は淡く光を帯び、音を響かせていた。
「……どうすればいい?」
「魔力を流すとかかな。あとはどこかにスイッチのようなものがあるか」
そう言われても、魔力を流すというのは厳しい。何しろ、私には微弱な魔力などこれっぽっちも感じられないのだから。一般人であっても圧のような形で認識できるレベルの量の魔力だって感じ取れないのだから相当だ。だからマリアンヌに鈍感だとか言われてしまうんだ。
「……スイッチ?」
「ない?どこかにこう、押せるようになっている部分とか」
「なさそうだけど」
あちこちを触り、あるいはひっくり返してみるけれど、押せるような部分はどこにもなかった。困惑の視線を送れば、キルハはどこかふてくされたような顔で肩をすくめて返してきた。まあキルハはこのカードの製作者というわけでもないから、カードについての詳細がわからなくても仕方がないと思う。
だから魔具のことで質問に答えられなかったことにすねる必要なんてない。
けれどそれ以上に、普段は見せない子どもっぽい振る舞いが、私の心を震わせた。
「可愛い」
「可愛い!?え、ちょっと待って。何をどうしたらそんな感想が出てくるの?」
「焦ってるキルハも、ふてくされているキルハもすごく可愛い」
「いや、可愛くないから!」
顔を真っ赤にして叫んでいるけれどまったく怖くない。新鮮なキルハを前に、私はからかうのが楽しくなってきて、可愛い、可愛いと連呼してみる。
「……あんたたち。いちゃつくよりまずそれを何とかしなさいよ」
そう言われて、私たちはようやく鳴り響くカードの存在を思い出し、押し付けるようにマリアンヌに手渡した。
マリアンヌが魔力を流す。それと同時に、カードに刻まれた五芒星が一層強く輝いて。
『こちらワルプルギス。ロクサナ様でしょうか?』
「残念ながらマリアンヌよ。久しぶり、チャロ」
カードから聞こえてきた声に少し驚きをあらわにしたマリアンヌは、すぐに親しみを込めて通信相手の名前を呼んだ。




