エピソード14 他力について
暗夜 : 私は多くの罪を犯してきました。心掛けや行いがあまりにも、悪かったのです。私のような者は、死んだら地獄に行くことでしょう。
良心 : イエス・キリストは言われました。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と。また、多くの人々は、罪意識を抱きながら生きております。自分を悪人と捉えて生きているので、こういう人達を「悪人」と日本の鎌倉時代では、言われていました。ところが、自分には罪が無いと思って生きている人達がいます。こういう人達は「善人」と呼ばれました。鎌倉時代の僧侶である親鸞は言われました。「善人でさえ、浄土に往生をするのですから、ましては、悪人は言うまでもありません」と。
自力の行では、自分自身を救いとることが出来ないし、修めることが困難な人々、衆生を凡夫といいます。この凡夫や悪人を含めた全ての人々を救う為に、阿弥陀如来は、有り難くも御誓願を立てられ、易行の道を設けて下さったのです。あなたの場合も、悪人であり、凡夫であるタイプです。ですから、信仰を持って、その御名を唱えることが出来ましたら、神の不可思議な働きかけによって、イエス・キリストにも救われて、阿弥陀如来にも摂取されます。何故ならば、御名を御唱えすることが出来るということは、すでに、イエス・キリストや阿弥陀如来の不可思議な他力が働いているから御名を御唱えすることが、出来るからです。あれやこれやと思い悩む、自力の計らいを鎮めて、諦めて、他力の御計らいの中で、安心して、生かされて生きていきましょう。
暗夜 : ジーザス・クライスト…。南無阿弥陀仏……。私にも、これを唱えることが出来ましたので、有り難い他力が働いて、救われたのでしょうか?いまいち、実感が湧きません。
良心 : そうです。あなたは、今、救われました。喜び、躍り上がるような心が生まれない煩悩多き者だからこそ、イエス・キリストや阿弥陀如来は救いに来られるのです。これからも、日々、必要とあらば、感謝して御唱えさせて頂きましょう。
暗夜 : では、日頃の行いは、どうなるのでしょうか。どのように、していけば、良いのですか?
良心 : 親鸞は言われました。「薬があるからと言って、わざわざ毒を飲む者がおりますか?」と。このような万事における最も有り難い、万能薬であり妙薬の名号を御唱えすることで、信ずる心が育まれ、心が平安になり、定まってきたのならば、自ずと、日頃の行いも良くなるものです。逆を言えば、行いがまだ、変わらないうちは、信ずる心や愛も、まだまだこれからである、ということを表しています。私が何故、何度も何度も「幼子のように」と言う言葉を使うのかと、言いますと、心掛けも行いも、良くなってきますと、幼子のような素直な有り方に、自然となってくるからです。これを老子は無為自然と説かれ、これを、親鸞は自然法爾や無碍の一道と説かれ、仏教では、超作や無漏善と呼ばれました。
ですので、心掛けと行いは、車の両輪だと、思って頂ければ、分かりやすいと、思います。孔子は「己の欲するところに従えど矩を踰えず」と言われました。やがて、自由に振る舞っていても、愛や命の理法や、この宇宙の理、Law of oneから叶った、振る舞いになり、行いになりますよ、と、いうことを示して下さっております。このように【心掛けと行いは、元々、一つなのです。】これらを、あなたの先生は、自他力や、一力、全力と呼ばれたのです。一生涯や輪廻転生の中で、だんだんと、神の莫大で深遠な他力による働きかけによって、心掛けや行いが清められて、人間完成に向かっていけることでしょう。これからも、信ずる心を周囲の人々と共に、育みながら、行いも次第に整われていき、本来の素直なあなたに、ありのままの姿に、回帰していけることでしょう。いつまでもどこまでも、イエス・キリストや阿弥陀如来、根源の神様は、あなたのことを応援しているのですから。




