使命と葛藤
史さんがいた。全く変哲のない容姿、私がかつて見た史さんそのものであった。史さんは息を切らしながらずっと
「止めてください!」
と連呼しながら、睨み合う我々の間に入った。
「…やっと見つけた」
それを見た神は、私よりも先に不気味に呟いた。ひしひしと神の顔が伝わってくる狂いのオーラが私を凍りつかせていた。ジードもそれを感じたのか、決して目を離さなかったし、無論私も
「迎えに来たよ」
とは言いづらかった。
そのせいで、またもやここは神の独壇場となった。
「史、おいで…一緒に行こう」
「神様…」
神は血まみれの短刀をしまい、頭を傾けながら呼びかけるように史さんに手を差し伸べた。
「待て」
「ジード…」
向こう側のジードも太刀を納刀し、思いつめた顔で史さんに呼びかけた。彼女は二人の間で猛烈な波に呑まれるような葛藤と戦った事だろう、何故なら史さんにとっては二人とも友達なのだから…
かつて兄、織田信長と夫、浅井長政の間で揺れ動いたお市の心が、彼女の今を見てよく分かる気がした。夜空には皮肉を言っているかのような星々が、満天に輝いている。
「私は…」
彼女からそれ以上の言葉が出ないまま、長い時が経った。彼女は決め切れなかったのだ…どちらか二人など、それこそ決められるはずがなかったのだ。しかし時は残酷にも待ってくれない。
「焦れったいな…」
と、神が根比べに負けたその瞬間、神は光の如く速さでジードの後ろに回り込み、いつの間にか懐に忍ばせておいた先刻の血まみれの短刀をジードの腰の上あたりに刺した。その瞬間私は戦慄した。神の愚行に戦慄したのだ…
「お前…!」
しかしジードは短刀の一刺しだけで倒れるような男ではなかった。彼は叫びながら身を翻し、太刀を再び抜刀した。残念ながら、この時の私は僅かばかりかジードを応援する気持ちが強くあった。神とはいえ狡猾な彼女を応援する事はできなかった。応援という日本語もおかしいものだ。
史さんは呆然としており、目には月の涙が零れ落ちていた。光に照らされた彼女は本当に神々しかった。それこそ彼女が本当の神なのではないかと感じたほどに…私は蚊帳の外で、様々な思いに耽った。
それも刹那の事…勝負は一瞬でついた。
太刀を抜いた瞬間、ジードが急に動けなくなり倒れた。私は即座に、彼女の短刀が毒まみれである事を察した。こんな巨体でさえ一瞬で死に至らしめる劇薬を、神は用いたのだ…信じられなかった。これが神のする事なのか…狼藉にも程がある。だが我々一同は膨らんだ風船が萎んでいくかのように安心しきっていた。神への疑問、反感もそれによって打ち消された。
神はおかしな顔をしていた。夜の肌寒さのせいか否か、顔がやや赤かった。そして
「ごめんなさい…」
ただそれだけ言った。しかし神の言葉はそれだけであった。
「…人を殺しておいて何ですか…」
普段温厚な史さんが、その時ばかりは憤怒を隠せなかった。私だってそうだった…今思えば、確かに神の行動は暴走に近いものだった。神にも何か事情があったのかもしれない。だが私たちにそれは伝わらなかった。だから神が史さんに近寄った時に、私は咄嗟に二人の間に身を投げた。
「それ以上…近づくな!」
私は腹を決めていた。せめて死に様だけでも立派にしたいと思ったし、死んでても神を許せなかった。狼藉を極めし神に負けたくなかった。力だけで支配されたくなかった。せめて最後に花を添えたかった。そして…彼女を守りたかった。それだけを考えた。迷いなき目で神を睨んだ。怖くなんてなかった。私は…私は人形なんかじゃない!
奇跡が起きたのは、その時だった。
神が手に持っていた血みどろの剣を落としたのだ。それは何とも呆気ない決着だった。突然神の体が死んだようにぐったりとして、地面に座り込んだ。その目には涙があった。そして何か呟いている様子だった。
私は座り込んだ彼女に近づいた。
「どうしたんだ…?」
声をかけても、神は嗚咽するだけで返事はしなかった。白砂の上に白いフードが同化し、更に夜なので尚更分かりにくい神の姿だったが、月の煌々たる光に照らされた彼女は空を駆ける白鳥のように美しかった。それだけである。
側から見れば、何か奇跡だ!と突っ込みたくなるかもしれない。しかし奇跡とは本来、ほんのささやかな事なのだ。だから私はこれを奇跡と呼びたい。我々と神との見えざる大きな軋轢や隔たりがその時、完全に埋められた気がしたのだ。
「…ごめんね」
神はとうとう顔を上げた。そして白砂を握りしめた。
「私は…自分の事しか考えてなかった。使命を果たす事しか考えてなかった。そのせいでこんな事をしてしまった。謝っても謝りきれないよね…」
神が語尾を濁して頭を下げると、史さんは顔を震わせていた。
「ええ…あなたは人殺しよ!」
静かな震えだった。静かだけど、心の奥底から感じられる怒りだった。
「あなたは狂っている!」
「確かに、だけど広人のお陰でやっと我に返ったんだ。広人の思いを私は感じた。もうこんな事はしない、頼むから…許してくれないかな」
神の両目に光る宝石は、史さんを躊躇させた。それからしばらくは、それぞれの心の中で様々な葛藤と戦う時間であった。神は自己の犯した罪深き行為を、史さんは悲しみの極致を、私は何もできなかった自分を咎める気持ちを、私たちは輪廻のように繰り返し繰り返し葛藤した。月が綺麗だった、それがやけに印象的だった。
「なぁ」
風に吹かれながら、星を見ながら、月の光に照らされながら、その幻想的な夜の神秘を宿したかのような…そんな気持ちで私は口を開いた。心はその時だけ澄み渡っていた。おかしいくらいに澄み渡り、海の底まで光が届きそうだった。
それが私の雰囲気だった。
「全部教えてくれないかな…全て知っているのだろう?」
私の声は低かった。更に
「ええ」
と応えた神の声も、これまた一段と低かった。




