森の熊さん
「師匠!師匠師匠師匠ー!」
どたどたどた、と逸る思いを胸に私が二階の自室から半ば転げ落ちながら居間へ降りてくると、優しい香草茶の香りと共にテーブルに座る緑色の何かが居る姿が目に入った。
しまった、お客さんが居る。
はっとして足を止め、慌ててぴしりと背筋を正すと緑色の何かがこちらをひょいと振り返る。きらきらした鱗に覆われた肌、大きくつりあがった目元と縦に線が入った真っ青な瞳、小さな穴が二つ開いただけの鼻に大きく裂けた口。―――あっと声をあげ、私は急いで頭を下げた。
「く、熊さんー!先日は危ない所をどうもありがとうございました!打った頭は大丈夫ですか?」
『ああグリフか、うん大丈夫だ。礼には及ばないが、こないだは状況がわかってなさそうだったけれども、何が危なかったか解ったのかい?』
首をかしげ、鱗に虹色の光を纏った熊さんに私は目一杯はいっと手を挙げて頷いた。
「誘拐をされかけていたのですよね!師匠から教えて貰ったから解ってます!」
熊さんは、師匠のお友達の一人だ。爬虫類な見た目通り、種族はトカゲ族でとても力が強い。師匠と私が住む家の後ろが大きな森になっているのだけど、熊さんはそこに古くから住んでいるそうで師匠の一番長いお友達なのだという。因みに熊さんは本当は熊さんなんて名前じゃなくて、クウァン・ルラール・ウラワリウリという立派な名前があるのだけど、小さかった私がクウァンを発音できなくて「くまさん」と言ってしまい、それを本人が気に入ったので以来、熊さんと呼んでいる。師匠にも熊と呼ばせているから、多分ほんとうに気に入っているのだと思う。
『ふーむ、そうかそうか。だがグリフ、教えられなくても解るようになろうな』
「はい熊さん!がんばります!」
両腕をぶんぶん振って鼻息を荒げると、熊さんが頷いて黒く鋭い鍵爪のついた両手を伸ばし私をひょいと持ち上げた。はっとして慌てておろして貰おうとしたが、抵抗むなしく私はそのまま熊さんの膝の上に乗せられ、皿に盛られた茶菓子を手に取り口元へ運ばれた。黒い鍵爪に挟まれた豆菓子は甘くて私の好物だけれど、この食べさせ方はいただけない。
「熊さんっもう私は十四ですよ!一人で食べられます!」
『そうかそうか、グリフはもう十四か。ここへ来たのは幾つの頃だったかな、グリフは砂糖漬けは好きか』
「大好きですよ!来たのは七つの頃です!七年目ですよ!」
『ほー、時が経つのは早いものよなぁ。グリフはあの頃からレグの実のパイが好きだったな、ほれ』
「わっやったぁ、もぐもぐおいしいです!」
『ほっほっほ、こちらはどうだ。トウレンの焼き菓子だ。ほれ、あーん』
「あーん!わあああ美味しいです!あっ熊さんあれ、あれも食べたいです!」
『ほっほっほ、あーん』
「あーん!」
「――――グリフ、お前熊に乗せられておるぞ」
「はっ」
黒い鍵爪にかぶりついた状態で新しいお茶の盆を手にした師匠に言われ、私は口いっぱいに頬張った甘味の魔力から我に返った。頬に溜め込んだものをもぐもぐしながら慌てて見上げると、熊さんが若干恍惚とした顔でとても楽しそうに私を見ている。
「しっ、しまった、騙された!師匠、また騙されました!」
「そうだな、菓子好きなのが仇となったな」
『ほっほっほ、何だもう我に返ったのか。残念』
「わあああん、悔しい!降ろしてください熊さん!うわあああん!」
ほっほっほ、と笑いながら熊さんがひょいとばたつく私を持ち上げ、師匠の方へそら、と差し出した。テーブルに盆を置いた師匠が恐ろしげな顔でうむと言って私を受け取り、結局私は地を踏むことなく今度は師匠の膝に乗せられる。あれ、どうして降ろして貰えないんだろう私。
『うーむ、インファン、お前もう少し黙っておけば良かったものを。菓子どころか私の爪まで頬張ろうとして実に面白かった』
「私の弟子をペットか何かと勘違いしておらんか熊。グリフも来年成人なのだ、あまりからかってやるな」
ふう、と溜め息混じりに言う師匠が膝に座る私の頬を撫でた。膨らんでぱんぱんになった頬はつるつると師匠の指を滑らせるが、その優しい仕草よりどうして膝上なのかが気になる。どうにか菓子を飲み込み、しゅた、と手を挙げた。
「あの、あの、師匠!」
「何だグリフ。あぁそういえば何か急いでいるのではなかったか?私を呼んでいただろう」
「あっそうです師匠!出されていた課題をしていたんですが、別のものが完成してしまって」
「ふむ、出してみよ」
「はい師匠!」
師匠の言葉に本来の目的を思い出して、私はむん、と両手を広げて魔術を構成し始めた。キーワードをまだ設定していないので実行はできないが、その全容だけは展開できる。細くつむがれきらきらと緑に輝く私の魔術構成を見つめて、笑っていた熊さんが目を見開いた。
『――――インファン、これは』
「…ああ。私も驚いた」
師匠と熊さんの二人が無言になってしまい、私は焦って両手をばたつかせた。
「し、師匠!これ、これはどうしたらいいでしょうか!私は課題の野菜を育てる魔術を作っていたはずなんですが!」
「そうだな」
師匠が頷き、私の頭を撫でながら可笑しそうに言った。
「だがこれは野菜の育成で済まん。この構成だと木が瞬時に育ち裏にある森と同じ規模のものを作ってしまう。今のお前には到底発動魔力が足りまい」
「そ、そんな!」
衝撃の事実にショックを受けていると、ふいに熊さんが笑い出した。がたりと椅子を押して立ち上がると大きな体を折り曲げ、私の手を取った。
『流石は森の眷属だな、グリフ。瞳の色と違わぬ力だよ、実に素晴らしい』
「もりのけんぞく?」
「熊、グリフはやらんぞ」
ぱし、と私の手を握る熊さんの手を師匠が払い、ふと師匠が揺れる気配がした。さらりと艶やかな黒髪が私の頬に垂れ、ぎくりとして体が固まる。
『はてインファン、そのような怖い顔をせずともお前の弟子を盗ろうなど私は思っていないよ』
「さてどうだかな、今グリフに暗示をかけようとしておっただろうが」
何だバレていたのか、と惜しそうに呟いた熊さんに、師匠がフンと笑い、私の腰にぎゅうと手を回した。耳元で響く声はいつものしわがれ声でなく、少し慣れ始めた張りのある低い声なものだから、とにかく私は落ち着かない。
「と、ところで今日は熊さん、何のご用だったのですか?」
『ああ、用と言う程のものでもないが、森で少々気になることがあったものでね。―――で、どう思うインファン。森が西へ拡大し始めたのは、お前の解けた呪いと関係はあると思うか?』
「ああそうだな」
「ええっ!?」
それ少々ってレベルの問題!?
「しっ師匠!それは本当ですかっ師匠の呪いがわああああっ!」
「…グリフ、落ち着きなさい。もう一月は経つと言うのにまだ慣れないか?」
変化を解いていたことを忘れていて膝の上から転がり落ちた私に、彫刻みたいに綺麗な顔で師匠が呆れた。確かに師匠の言うことはその通りだと思うんだけれど、だって、私の師匠は七年間皺だらけのじーちゃんだったのだ。師匠と言えば睥睨する皺だらけのじーちゃん、じーちゃんと言えば皺だらけの年寄り!
あ、じーちゃんが皺だらけの年寄りなのは当たり前だ。
『何だインファン、グリフは何を驚いているんだ?』
「ああ…姿だ。呪いが解けたことで本来の姿へ戻ったのだが、どうもグリフはそれが慣れないようでな。慣らそうとこうして日に何度か変化を解いているのだが、今一つ結果がふるわない」
『へえ、姿とな』
困ったように言う師匠に情けなさと羞恥で顔を真っ赤にして項垂れると、ひょいと起こしてくれた熊さんが不思議そうな顔でグリフ、と名を呼んだ。
「は、はい熊さん!何ですか?」
『そんなに慌てるほどインファンの姿は違うか?鼻や目の数は変わらんのだから、言うなればその辺にぶら下がっている瓢箪が青いか青くないか、その程度の違いじゃないかね』
「ひょうたんは違いますよ熊さん!師匠の顔はくびれてませんよ!」
『ふーむ、これはどうしたものか』
「グリフ、熊が言いたいのはそういう事ではない。本質が変わらなければ顔の違いなどどうでもよかろうと言うことだ」
熊さんをフォローするように師匠が言ったが、師匠の顔がとても綺麗であることは私にとって譲れない。これだけ違う師匠の顔をよく解らないという熊さんも信じがたいけど、それをどうでも良さそうに聞いている師匠も信じがたい。
「まぁ熊にとって、人の顔などその程度と言う事だよグリフ。価値観が違う者に同一意見を求めてはならない。―――で、呪いの件だが」
「あっそうでした!」
聞きたかった本題を思いだし、私は慌てて熊さんと一緒に師匠を見た。師匠は長いまつげに縁取られた黒の瞳を瞬かせ、すいと宙に人差し指を滑らせる。すると何もなかったそこに、映像が丸く映し出された。
「あっ森!すごい、森が上から見える!…ああっ広がってるー!」
「そうだな、解呪の代償だ。グリフ、呪いと言うものは少々厄介でな、うまくかけたからといってそこで終わりとはならない。どれ程の時が経っていようが、対象がそれを解くことに成功してしまえば呪った側に代償が求められる」
「だ、代償?」
ああ、と頷く師匠に、私は困って熊さんを見た。熊さんはふむふむと頷き、何やらすっきりした顔で立ち上がった。
『よしよし解った、では近い内に西は全て森に飲まれるな。―――ではインファン、用は済んだし私は帰るよ』
「え、ええー!?」
「ああ、またそのうちな。飲み込みが終えたら私も一度見に行く」
「しっ師匠ー!?」
熊さんのとんでも発言と、それをあっさり頷いて送り出した師匠に、私はただ仰天して二人を交互に見た。だけど熊さんはそれじゃあグリフまたなと手を一振りしてドアを閉じ、とても朗らかにいつも通り帰っていった。
「しっしっしっしっ」
「グリフ、落ち着きなさい」
「師匠ー!どうして森が西に飲まれるんですか!どうしてそんな代償なんですか!」
「飲まれるのは森ではなく西だ、グリフ。さぁまずは茶を飲むといい」
師匠に湯気がのぼるお茶を差し出され、私はかくかく頷きながら隣に着席してそれを飲んだ。お茶は思った以上に苦くて顔を歪めたけど、そんなことに構っていられないと師匠を見る。
「師匠!それで、―――」
「ふむ」
勢い込んで身を乗り出した私に、師匠がそっと手を伸ばした。頬を優しく撫でられて、そこでやっと状況を思い出す。
彫刻みたいに綺麗な師匠、それをまっすぐ見ている自分。
かちん、と固まってかーっと火照っていく顔に、師匠がふんわりと微笑んだ。
「ああ、やっと多少は慣れたか。良かった良かった、ではそろそろハードルを上げてみても構わないか」
「―――――ひっ」
ひえええええ、と叫んでその場を逃げ出した私に師匠は残念そうにして変化をしてくれたけれど、そのせいで私はすっかり呪いと森の事を忘れて聞きそびれてしまった。それを思い出したのは夜お風呂に入っているときで、あがったら聞こうと思っていたのに師匠は魔術協会から呼び出しを受けて出ていった後だった。
残されたメモを手に私はがっかりして、明日森に行って熊さんに聞いてみようと思った。ただ熊さんは、いつも森のどこにいるのか解らないので正直なところ、ちょっと大変だ。