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PHASE.4

 それはあの秋の終わりのことである。涼花の事件を九王沢さんが解決した、その直後だ。せっかくの僕たちの二人きりの旅行を台無しにしてしまったと、児玉さんの計らいで僕たちは銚子のホテルにもう一泊したのだ。

 床に入ったのは、日付が変わる頃、時間は午前零時を回っていた。それまで僕たちはしばらく、特別なことばかりだった旅の興奮冷めやらず、アイスペールを取りだしてグラスを傾けては、とりとめのない話をして時間をつぶしていたのだ。

 確かに先に眠くなったのは、九王沢さんだと思う。僕はそっとグラスを片付けて、テーブルに突っ伏したまま眠ってしまった九王沢さんの身体を、布団に横たえて眠らせてあげようとした。

「…まだ、大丈夫ですよ?」

 僕の首筋に腕を回した九王沢さんが、夢うつつの声で耳元で囁いたのは、そのときだった。垂れた黒髪の中で、薄く開いた瞳が潤んでいる。

「わたしまだ、起きていられます。那智さんのしたいこと…わたしも知りたいです。今なら…やっとわたしたち、二人きりに、なれたじゃないですか…?」

 そのとき僕たちは、誰も知らない場所にいた。ホテルを手配してくれた児玉さんはともかく、依田ちゃんや文芸部のみんな、それ以外の何者も追っては来ない場所だ。

「でも九王沢さん、疲れたろ?」

 僕は言った。代わりに、寝乱れた彼女の浴衣の襟を直してあげると、小さなその頭を抱えて添い寝した。

「今日はもう寝よう。ゆっくり休んで」

 温かな寝息を音もなく立てる九王沢さんを抱いて、僕もそのまま、眠りに就いたのだった。


「うん、あれは仕方なかったよね…」

「その次の日のことは?」

 すると突き返すように、九王沢さんが尋ねて来た。僕は、はっと息を呑んだ。

「その、次の日のことです」

 九王沢さんは、もう一度言った。苦渋に満ちた真実を、あえて深く噛みしめようとするように。

「わたしたち、果恵さんに、会いましたよね。銚子の、屏風ヶ浦で。絶対あの人が、那智さんの大切な果恵さんですよね…?」

 僕は首を縦に振れなかった。そうじゃなかったと思いたい。言い切りたい。でもあのときあの日が、僕の記憶の中に明白な(しるし)のように刻まれたのを。九王沢さんに、悟られてしまったのだ。

「わたし、あのときは言えなかったです。でも、本当は後悔してました」

 寒さに震えるような声で、九王沢さんは言った。

「…どうして那智さんに、あのときと同じ道を通らせてしまったんだろう、って」


 意識は、していなかった。

 銚子のホテルに泊まったら、帰りは、屏風ヶ浦(びょうぶがうら)の付近を通るのは当たり前のことだから。でもそれはあのときと、よく似ていた。確かにあのときは三月、春になりかけの寒い日だった。だが晩秋の陽射しはそれと同じ、切ないまでに引き絞られて切り立った、琥珀色(こはくいろ)の光線だった。

(果恵…?)

 それは二人で通ったあのキャベツ畑の丘を過ぎて、高低差の大きな二車線道路に差し掛かった時だった。

 確かに僕は見た。ひと際海風が吹きつける車道の端を、車に脅かされながら白いワンピースの女の子が、ただ独りだけで歩いていたのだ。華奢な肩に革紐を喰いこませて、ぶら下げているキャンバス地のバッグには、こぼれそうなくらい画材やスケッチブックが入っていた。僕たちより前の車が、そのバッグすれすれに彼女を追い越す。風避けの帽子を反対の手で抑えて、忌々しそうにこっちを見た。

(間違いない)

 薄い皮の張った小さな顔の、美しく秀でた額にきらきらと打ち掛かる前髪、研ぎ澄まされた刃物のようにしゅんと冷えて()めた瞳、そして卵型のすぼまったあごに納まった小さな唇。

 気づくと、急ブレーキを踏んでいた。だがそのときには、車体は、果恵らしき彼女(ひと)の面影を何メートルも後ろへ、置き去りにしている。けたたましいクラクションを鳴らして、大柄な黒のレクサスが僕たちを追い越していった。

「那智さんだめっ」

 ドアを開けて飛び出そうとして、九王沢さんに停められた。振り向いた僕は、どんな顔をしていただろう?

「危ないです」

 九王沢さんは強くかぶりを振った。僕は完全に我を忘れていた。

 運転席の真横をクラクションを鳴らしながら続々と、車が追い越していく。そこでようやく、正気に戻った。彼女は、あそこを歩いていた果恵らしき誰かを、呼び止めようとした僕を(とが)めたわけじゃない。だが時間にして一分にも満たないその空白が、もしかしたら明暗を分けたのかも知れなかった。

 僕が運転席から振り返ると、車道を歩いていた女の子の姿は、もはや影も形もなかったのだから。


「それから、捜しましたね。…海辺の街の中を。果恵さんが保護された旭の海岸まで」


 僕の話を、九王沢さんはひとつの疑いの言葉も口にせず、信じてくれた。そして丸一日、僕が帰ろう、と言うまで、果恵の消息を思いつく限り探してくれたのだ。

「果恵さんはこの街に、戻って来ているのかも知れません。運命的直感を得た、この街に」

 僕が諦めても、九王沢さんは最後まで言っていた。でも、そのことについて自分が、何を感じ、想っているかは最後まで欠片も口にしなかった。

 ずっと九王沢さんは、本当はこう言いたかったんだと思う。


「わたし、あなたの特別になれますか…?」


「本当は後悔なんか、しちゃいけなかったんですよ」

 弱々しい告白をした九王沢さんに意志強い輝きが戻っていた。

「だって果恵さんが、わたしたちを出逢わせてくれたんですから。…那智さんが、話してくれた果恵さんの記憶は、今では、わたしにとっても、かけがえなく大切なものだと思っていたんですから…」

 九王沢さんは、それ以上は何も言わなかった。どうして彼女が僕の話した記憶を、自分にとっても大切だと思っている、と言ってくれたのか。今の僕にそれを、口にする資格すらないのに。

「今はもっと、あなたに近づきたい」

 九王沢さんは微かな声で言うと、その身体を僕に預けてきた。

「もっと、もっと近くであなたを感じたいんです。…ただそれだけ。形はどんなものでもいいんです…だから」

 僕はまだ熱く火照った素肌ごと、九王沢さんを抱きしめた。恐らく一番深いところで、彼女は僕と、つながりたがっている。初めて僕の前に現われた時から。

 間違って埋葬された遺体を掘り起し、僕の前に埋もれた墓碑銘(ぼひめい)に刻まれた名を想い出させてくれたのも。みんな、そのためなのだ。痛いほどに、分かっている。僕がそれを、彼女の最も深いところまで伝える唯一の方法は、同時に、彼女を深く傷つけてしまうかも知れないことを。


「いつか、もう一度わたしと、あの街に行きましょう」


 (ねむ)る寸前に、彼女は言った。抱かれながら、彼女はしばらく、僕の答えを待っていたと思う。僕はそれに答える言葉を知らなかった。もう忘れたと思ったのに、九王沢さんに出逢ったのに、あのとき僕は我を忘れてしまった。その一部始終を、彼女は見ていた。ただ僕を想って何も言わず、僕の決心を待っていたのだ。


 九王沢さんは、静かな寝息を立てて僕のベッドで眠っている。お医者さんを呼ぼうと思ったが、あまりに気持ちよさそうに眠っているので、そっとしてあげたかった。得体の知れない怪しい薬を飲んだことよりも、無茶を重ねて帰国してここまで来た疲労感のせいじゃないかと思う。顔が火照っているように感じたが、かすかに熱が出だしたみたいだ。

(そんな、無理して帰って来て)

 九王沢さんは、そこまでして僕を想ってくれている。僕は少しでも、その気持ちに応えてあげられていただろうか。彼女の心が出していた深い音に、僕は響き合うことが出来ていただろうか。

(まだ僕の深い部分は、果恵と響き合ってしまうのか)

 九王沢さんが、一番恐れているのはそのことだと思う。そして同時に、そこまで試してみなくてはならないとも思っている。一番近くで、僕を感じるために。僕と言う深層のもっとも深い部分から、真実を導き出すために。

(僕こそ、恐れちゃいけないのか…)


 果恵に逢うことを。

 果恵は、あの街にいる。

 あれは確かに果恵だった。それは僕が、最もよく分かっていた。果恵でなければ、立ち止まらなかった。そしてもし、果恵じゃないならあそこで、僕に振り返ったりはしなかった。どうしても、そう思ってしまう。

 だから、果恵でなければ、良かったのに。果恵でなかった確証を、あの瞬間、得られれば、それが一番、良かったのに。

(いや、そうじゃない)

 それが果恵であったとして。

 僕には確かめるべきことがあるのだ。

 九王沢さんは知っている。誰よりも早く、感じてしまった。だからこそずっと、僕が気づくまで黙っていてくれたんだ。


「那智さんを、果恵さんに会わせなくては」

 もっとも深い寝息の合間に、九王沢さんはうなされるようにつぶやいた。

「お願いです。そのとき…わたしを那智さんの一番近くにいさせてください」


 真夏の通り雨が激しく降りだした。この部屋にぽつんと二人だけ、世界中の人たちに取り残されたかと思うような、ゲリラ豪雨だった。黒雲がうなりを上げるも束の間、自動小銃の射撃音のような、落雷の音がそちこちで鳴り出す。どう切り出そうか、まだ迷っていた。でも、九王沢さんが起きたら、必ず言うつもりだった。

(言うんだ)

 この雨が、上がったら。きっと。

 僕と、九王沢さん。


「二人で、果恵に会いに行こう」


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