第4話 『即興という名前の予感』
何も始まらない夜が歩き出す
彼の心は走り出すのか…
夜のアパート。
昼よりも、音が近い。
階段を上る足音。
どこかのドアが閉まる音。
それが、やけに響く。
瑛太は、自分の部屋の前で鍵を探していた。
ポケットをまさぐる。
見つからない。
(……どこや)
そのとき。
隣のドアが開いた。
「あ」
短い声。
振り向く。
相原星羅が立っていた。
ジャージ姿。
片手に紙袋。
舞台のときとは、全然違う。
でも――
(……普通やな)
妙に、しっくりくる。
「こんばんは」
「……こんばんは」
それだけ。
それだけやのに、少し間ができる。
星羅の持っている紙袋から、チラシの端が見えていた。
視線が、そっちに行く。
反射や。
――即興パフォーマンス企画
――当日抽選でペア決定
――台本なし
一瞬、心臓が鳴る。
「……それ」
言いかけて、止まる。
星羅の方が気づいて、チラシを取り出した。
「ああ、これ?」
軽い声。
でも、指先が少しだけ震えている。
紙の端が、かすかに鳴る。
「イベントなんです。即興って聞いて……」
「正直、苦手で」
笑う。
でも、その笑いが少しだけ薄い。
(……やっぱりや)
あのときと同じや。
笑いの前に、ほんの一瞬、止まる。
「……逃げ場ないですもんね」
無難なことを言う。
ツッコミでも、なんでもない。
星羅は少しだけ目を伏せて、すぐに上げる。
「そう。だから、ちょっと怖いです」
“ちょっと”が、重い。
言い終わってから、ほんの少し息を吸い直す。
廊下の光が、二人の影を床に落とす。
近い。
でも、触れない距離。
影だけが、少し重なっている。
瑛太は、ふと思う。
もしこの人が――
あの舞台に一人で立ったら。
止まった、その瞬間を。
誰が拾うんやろな、と。
「……相原さん」
名前を呼ぶ。
星羅が見る。
まっすぐな目。
言葉が、喉まで出る。
――大丈夫です
――何とかなります
どっちも、違う気がした。
飲み込む。
代わりに、肩をすくめる。
「即興って、失敗してもおいしいんで」
少しだけの沈黙。
「一番、楽ですよ」
星羅が、少し驚く。
「おいしい…ですか?」
「笑われたら勝ちなんで」
それだけ言う。
少しだけ、空気が軽くなる。
星羅が、ふっと笑う。
さっきより、自然なやつ。
「……なんか、変な励ましですね」
「よく言われます」
少しの沈黙。
でも、さっきより悪くない。
「……おやすみなさい」
星羅が言う。
ほんの少しだけ、柔らかい声。
「少し、気持ち楽になりました」
「……ならよかったです」
ドアが閉まる。
一つ。
少し遅れて、もう一つ。
音が消える。
廊下に静けさが戻る。
瑛太は、その場に立ったまま動かない。
さっきの言葉が、頭に残る。
――怖い
――即興
――一人
(……関係ない)
そう思う。
思って。
ポケットから鍵を取り出す。
さっきまでなかった場所から出てくる。
「……あったやん」
小さく呟く。
でも、動かない。
頭の中で、言葉が並ぶ。
抽選。
即興。
拾う。
(……拾うだけなら)
そこまで考えて、止める。
それ以上は、考えたらあかん。
鍵を回す。
ドアを開ける。
部屋に入る。
壁にもたれて、天井を見る。
(……めんどくさいな)
ぽつりと呟く。
名前のつかない感情が、少しだけ残る。
まだ、理由にはなってない。
でも――
その舞台を、
あの人一人に任せたくないと思っている自分がいる。
目を閉じる。
その気持ちに、名前はつけない。
まだ、早い。




