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第五話 『即興という名前の予感』

何も始まらない夜が歩き出す

彼の心は走り出すのか…

夜のアパートは、昼よりも音がはっきり聞こえた。

階段を上る足音。

ドアが閉まる気配。

それらが、やけに近い。

瑛太は自分の部屋の前で、鍵を探しながら一瞬だけ足を止めた。

隣の203号室のドアが、同時に開いたからだ。

「あ」

短い声。

声の方を向くと、相原星羅が立っていた。

ジャージ姿で、片手に紙袋。

昼間の舞台とはまるで別人なのに、不思議と違和感はなかった。

「こんばんは」

「……こんばんは」

それだけのやり取り。

なのに、空気が少しだけ詰まる。

星羅の紙袋から、チラシの角が覗いていた。

業界向けのイベント告知。

瑛太は、反射的に目を走らせてしまう。

――即興パフォーマンス企画

――当日抽選でペア決定

――台本なし

胸の奥で、何かが小さく音を立てた。

「……それ」

瑛太が言いかけて、やめる。

星羅の方が先に、気づいたようにチラシを引き抜いた。

「ああ、これ?」

軽い調子。

でも、指先はほんの少しだけ震えていた。

「番組のイベントなんです。即興って聞いて……正直、苦手で」

笑って言う。

その笑顔が、どこか薄い。

瑛太は、喉の奥に引っかかるものを感じた。

即興。

それは彼にとって、最後に残った場所だった。

「……即興、逃げ場ないですもんね」

無難な言葉。

ツッコミにもならない。

星羅は一瞬だけ目を伏せて、すぐに顔を上げた。

「そう。だから、ちょっと怖いです」

その「ちょっと」が、やけに重い。

廊下の照明が、二人の影を床に落とす。

近いのに、触れない距離。

瑛太は思った。

もし、あの舞台に彼女が一人で立ったら。

沈黙が落ちた、その一拍を――

誰が拾うんだろう、と。

「……相原さん」

名前を呼ぶと、星羅がこちらを見る。

言いかけた言葉は、飲み込んだ。

「大丈夫です」とも

「何とかなる」とも

言えなかった。

代わりに、肩をすくめる。


「即興って、失敗してもおいしくなるんで。

 そういう意味では……一番、楽ですよ」

星羅は、少しだけ驚いた顔をした。

それから、ふっと笑う。

「おいしい…ですか?」

「ええ。笑われたら勝ちですから、それが゛おいしい゛ですよ」

その笑いが、さっきより自然だった。

沈黙。

でも、さっきより重くない。

「……おやすみなさい、三谷さん、少し気持ちが楽になりました」星羅は、ほんのりわらった


「うん…よかった、じゃあ、おやすみなさい」


ドアが閉まる音。

一つ、二つ。

部屋に戻った瑛太は、壁にもたれたまま、しばらく動けなかった。

即興。

抽選。

恐怖…

頭の中で、言葉が並ぶ。

――助けるって言ったら、踏み込みすぎだ。

――でも、拾うだけなら……。

論理は、まだ整理できていなかった。

ただ一つだけ、はっきりしている。

あの舞台を、

彼女一人に任せたくない。

その感情に名前をつけるのは、

まだ早すぎた。

ちょっとペースダウンします

毎週土曜日更新


猫田笑吉(ΦωΦ;)

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