第十七話『魚神のジョッキと二人の距離』
事務所を出ると、空は夕方の柔らかい光に染まっていた。
瑛太はふと、腕時計を見上げる。「4時半か…居酒屋『魚神』は…開いてるな」と呟く。
視線を横に戻すと、星羅の姿は無く、帽子を深く被り、半歩後ろを歩いていた。
「そっか…女優さんやもんな」
瑛太は軽く自分に呟き、微笑んだ。心臓が少しだけ速くなる。彼女が隣にいるだけで、胸がざわつくのを感じる。
瑛太はスマホを取り出し、星羅にジェスチャーでLIMEを通じて指示を送る。
星羅は少し首をかしげてからコクリと頷く。その動きだけで、互いの呼吸が合っていることを感じた。
---
【LIME画面】
星羅『すみません、気を使わせちゃって』
瑛太『かまへんで、どうする?別々に入る?』
星羅『私はどちらでも…』
瑛太『じゃあ、先に入って、座ってて。』
星羅『わかりました』
瑛太『ちょっとしたら俺が入って「相席いいですか?」って言うたら、「どうぞ」って言ってや』
星羅『わかりました』
---
星羅は瑛太の目を見てにっこり笑い、暖簾をくぐっていった。
その姿に、瑛太の胸が少しざわつく。
数分後、瑛太も暖簾をくぐると、焼き鳥の香ばしい匂いと酒場の独特な空気が身体を包む。
カウンターの向こうでは、常連らしき人々の談笑が聞こえ、鉄板のジュウという音が耳に心地よく響く。
「瑛太さ〜ん、こっち、こっち」
手を振る星羅の姿が目に飛び込む。
「ちょっ」
慌てて駆け寄る瑛太。心臓の高鳴りが手先まで伝わる。
「少し遅れてごめん」と小さく息をつく。
「ちょっと、相原さん
目立っちゃうよ」
星羅がくすっと笑う。
「いいんですよ」
手元の生ビールは殆ど空だった。
「はい、言ってください」
「えっ?」
「えっ?じゃないですよ、相席はぁ〜でしょ?」
「あっ、相席ええかな?」
「ええですよ」
星羅の笑顔が、瑛太の瞳に映り、一瞬で花開く。
自然と頬が緩み、笑いとともに緊張もほどける。
「失礼します、焼き鳥盛り合わせと枝豆です」
「あっ、すいません、生ビール2つ」
「生ビールで良いですよね?」
「うん」
瑛太は星羅の明るさに少し戸惑いながらも、嬉しい気持ちが胸を満たす。
(なんでこんなに落ちつくねんやろ)と瑛太は心の中で自問する。
星羅は小さく眉を寄せ、口をとがらせる。「ところで、瑛太さん…私、お店一緒に入りたかったなぁ〜女の子を先に一人で居酒屋に入らせるなんて…ジロジロ見られちゃうじゃないですか」
「さては…ツッコミは上手いけど、女の子の扱い苦手ですね?」
イタズラっぽい笑みを浮かべ、星羅は瑛太をじっと見つめる。
頬に軽く熱が上がるのを、瑛太は感じた。
「うっ…あー、あー、そっか、そっか間違えたわ」
頭をかきながら小さく苦笑する。
「でも、外寒かったし、外で女の子一人は危ないやん」
「だーかーらー、一緒に入りたかったって言ってるの」
「はい…」瑛太はシュンとなった
「はいっ、生二丁」
置かれたジョッキを手に取り、冷たさが手に馴染む感覚が心地よい。
星羅もにっこり笑い、「かんぱーい」とジョッキを合わせる。
乾いた音が耳に響く。
香ばしい焼き鳥の匂いとビールの泡の匂いが混ざり、五感がやわらかく満たされる。
「一緒に入りたかった」――その言葉が、瑛太の頭の中で何度も反芻されていた。
正面に座る星羅の明るさと温かさに、自然と肩の力が抜けていく。
「おっ、焼き鳥、来ましたね」
星羅が指さす皿には、串が並び、湯気がほんのり上がっている。
手を伸ばし、串をつまむと、肉の温かさと香ばしさが口いっぱいに広がる。
「うまっ…」思わず呟く瑛太に、星羅は小さく笑い、同じく一口食べる。
「やっぱり、こういう時間、大事ですね」
星羅の声は少しだけ柔らかく、でも力強く響いた。
瑛太は頷きながら、心の中で思った(俺もやっと、一緒に楽しめてるんやな)と
乾杯と共に始まったこのひとときは、忙しさや緊張を忘れさせ、ただ二人の距離を温めるだけだった。
ジョッキの冷たさ、香ばしい匂い、そして小さな笑顔のやり取り。
全てが、夕暮れの焼き鳥屋の空気に溶け込み、確かな余韻を残す。
瑛太は、ゆっくりと星羅を見つめた。
笑顔の裏にある強さ、そして柔らかさ。
二人の距離は、ジョッキの音と笑い声で静かに縮まっていく。
夕方の街の光が、少しずつ夜の影に変わる中、心地よい余韻だけが二人を包んでいた。




