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それから間もなく。
悲しむ暇も無いままに、屋敷にマルクがユリアとブリジットを連れて住み着き出した。
アーロンは、スカーレットを失った悲しみを飲み込む時間は無く、執事の仕事とアリスの世話をせざるを得ない状況になった。
手の掛かる赤子を前にアーロンは途方に暮れた日もあった。
アーロンはその時二十一歳になったばかりの男であるし、勿論子育てなど初めての経験だった。
始めのうちこそ他の使用人達も手伝ってくれていたものの、アリスの世話を焼く事をマルクやユリアが嫌がった為、次第にアリスは孤立して行った。
屋根裏部屋に押し込められた幼いアリスを抱きながら。
泣き止まないアリスを宥めながら。
アーロンは、スカーレットの面影を探すような毎日に、本当に救われていたのだ。
それからアリスはアーロンの宝物になった。
目を見張るような速さで成長するアリス。
日に日にスカーレットに似てくる面立ち。
アーロンは精一杯の愛情を注いで育てた。
アーロンにとって幸せな日々は呆気なく終わりを迎えた。
アリスが八歳になった歳、アーロンの元に実家から一通の手紙が届いた。
手紙の内容はこうだった。
アーロンの遠縁であるカイエン伯爵の跡取り問題に関してだった。
カイエン伯爵には子が居なかった。
近々戦争の気配がある。
貴族位といえど徴兵令に従わねばならないが、カイエン伯爵も年齢的に厳しいものがある為、アーロンを養子として迎えたいとの事だった。
アーロンの気掛かりはアンダーソン家に居るアリスの事だけだった。
日に日に厳しくなるアリスへの風当たり。
このままアリスを残して行くのは不安だった。
どんな扱いを受けるか分かりきっていたからだ。
しかし、正式なカイエン伯爵の養子になれば、アリスをアンダーソン家から救ってやれる。
子爵であるアンダーソン家よりも高い爵位を手に入れられさえすれば。
アーロンは苦悩した。
そんなある日の事である。
屋根裏部屋でアリスの勉強を見てやっていた時だった。
「アリス様、ここは綴りが違います」
「あ、あ、そうだった。こっちかな?」
「そうです。良く出来ました」
アーロンがアリスの頭をひと撫ですると、アリスが猫のように擦り寄ってきた。
「アーロン、なにか困ってる?」
「いいえ、アリス様。どうしてですか?」
「ここ!」
アリスが小さな指でアーロンの眉間をグリグリと押した。
「笑って、アーロン」
———ああ。
この幼い笑顔を守る為の力が欲しい。
アリスを、アーロンの空白を埋めてくれた少女を守りたい。
そのアーロンの決断は、苦しく長い道の始まりであった。
アーロンにとっても、アリスにとっても。
アーロンは旅立ちの日に、アリスに一本のリボンと、一冊の本を渡した。
先の見えない未来に、希望という名の約束をしたかったのかもしれない。
戦場で数多くの命が潰えた。
彼等一人一人にも、儚い約束があったのかも知れない。
アーロンは、それでも歩みを止めなかった。
アリスを迎えに行く為に。
暗く、苦しく、押し潰されそうな日々に、アリスを思い出した。
夜空を見上げると、いつでもアリスが頭に浮かんだ。
あの柔らかな暖かい温もりを思い出し、歯を食いしばった。
そして時は流れ、アーロンはアリスを迎えに行った。
アリスがカイエン伯爵邸に来てからは、夢のような日々だった。
少し大人になったアリスがはにかんで笑う。
それだけで、自分の人生が無駄では無かったと確信出来た。
ただ、それと同時に別れの準備も進めていた。
アリスの担当医であるアーサー・ブロンテと家庭教師のギルバート・ロウウェル。
二人はアリスの夫候補として集めた。
人物、家柄、容姿、問題の無い者を探す内にアーサーとギルバートを見つけた。
流石に現夫が妻の結婚相手を探しているなどという酔狂な説明は出来なかったが、ゆっくりと恋仲になってくれれば何れは、とアーロンは考えていた。
しかし、アーロンにとっては誤算である肝心のアリスの気持ちであった。
まさか、こんな何の魅力も無い上に、年齢も二十違うアーロンに惚れるなど思ってもみなかったのだ。
アーロンは、窓ガラスに映った自分を再度見る。
目頭は窪み、皺も目立ってきた。
年相応の現象ではある。
別段恥ずかしい事でも無い。
普通の歳の重ねた男の顔だ。
だが、アリスの隣に並んだ時はどうだろう。
激しく降る雨の中、佇むアーサーとアリスのような恋人らしさは無いだろう。
アーロンとアリスでは親子にしか見えない。
自嘲する。
不釣り合いだ。
アーロンはそう考えて頭を振った。
アリスの一時的な恋煩いにアーロンまで一喜一憂する必要は無い。
彼女が一番幸せになる道を照らす事がアーロンの役目なのだから。
アーロンは自分をそう納得付けた。
アーロンがアリスに男として与えてあげられる物は何もないのだ。
この欠陥だらけの身体では。
雨は降り続けた。
人々の苦悩が雨粒になったような激しい雨は明け方まで続いた。