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「父上と何を話しておった⁉︎ いい加減教えよ‼ 折檻か⁉︎ やはり折檻なのじゃな⁉︎」
「そんな真似をするお父様には見えなかったけど」
「主は父上の恐ろしさを知らんのじゃ‼ ……何時まではぐらかすつもりじゃ」
「狼狽えるエルラが面白いから、もうちょっと」
「ぬぁ……⁉︎」
湖のほとりで、からかいがてらにエルラの手を引く。
暗い濃淡色に包まれた森にあっても、陽の降り注ぐ憩いの場がある。
輝きを返す湖面は視界一杯に広がり、ちょっとした海と見紛う程だ。緑に囲われ不思議とここだけは空気も澄んでいる。時折湖を跳ねる羽根の生えた得体の知れないお魚は見なかったことにした。あれも食べれるんだけど、うん。ムードという奴だ。
のどかな雰囲気に浸る僕に、エルラは足を止め不機嫌に命じる。
「妾を愚弄した罰じゃ。飛び込め、奴隷よ」
「え、いいの?」
「何故喜々としておる……」
理解し難いというような半眼を受けて、繋ぐ手に力を込める。
「カルト? 待て、お主」
珍しく名前を呼ぶ彼女と、仲良く湖に飛び込んだ。
プールに全身で沈むよりは遥かに深く、清らかな水の中を漂う感覚。目を開ければ水の天井には光が透けて、自分が海の生き物になったかのような錯覚に囚われる。繋ぐ手の先を見遣ればエルラの長い銀髪が重力を忘れ舞っていて、驚きに呼吸を喘ぐ彼女と一緒に水面を破った。息も途切れ途切れに、彼女が言葉らしきものを紡いでいく。
「……ゴホッ……ウェホッ。いき、なり、何を、しでかすか、この愚昧、めが」
「ごめん。手を、離せとは、言ってなかったから、つい」
僕も咽ながら、彼女と苦しみを共有した。
「……お主、今日はおかしいぞ?」
「ごめん。ちょっと浮かれてる」
エルラ以外にここにいることを許されたのが嬉しくて、遅れて晴れやかな気持ちがついてきた。彼女は僕の答えに経緯を察したのか、
「その分だと、悪い運びではなかったようじゃな」
渋面を和らげて、幾分か優しく微笑んだ。
一転、その笑みが遊び心を含んだものに変わる。
「じゃが、妾に不敬を重ねた報いじゃ。ここで頭を冷やせ!」
彼女の手に頭を押さえられ、僕は再び水の世界にただいまをする。気泡の浮かび上がる音と無音を聞きながら、彼女の手に弄ばれた。
その後楽しく水遊びと相成った訳だけど、足の生えた妙ちくりんな食人魚とバトる羽目になったので、一部割愛とする。
割と死にかけて、午後。
枯れ枝を掻き集めて火を起こして、膝の上密着するエルラと暖を取る。
折よく倒れていた木の腹を椅子代わりにして、キャンプ紛いを体験中。
「――で、何処まで聞いておる」
僕の腕に挟まれながら、鼻をすするエルラが端的に言った。
「……君が秘密にしていたことなら、たぶん、殆ど」
いずれ、問われるだろうと思っていた。
僕が彼女の父と対面したということは、つまりそういことなのだ。自ずとエルラなら、それを察してくれる筈だった。当人のいない内に立ち入った話を耳にしてしまったことについて、彼女がどんな判断を下すのか。抱える手の力を緩めて、僕は待ち続けた。
俯く彼女の表情を知れないままに、質問が重ねられる。
「……妾をどう思う、お主は?」
「僕には出来ない生き方だって、思うよ」
前の世界で、僕は未来を選ぶ前段階の年頃で。
この世界で貰った使命に従って、悪の敵を演じただけ。
僕は一度として、一人で生きていない。
孤高を選んだエルラの在り方は、僕には尊く感じられた。
彼女はそんな僕の羨望を、受け取ってはくれなかった。
「ふん。城から逃げた身じゃぞ、妾は。あの鳥籠にいる人生と、向き合えなかっただけじゃ。父上に従う者も、妾には媚びへつらっておったが、皆、妾本人ではなく、妾の立場に取り入ろうとしていただけじゃった。ここは好い。下衆な視線を向ける者など、誰もおらんしな」
時折何かが落ちる水音。揺れる木々の囁き。紛れる鳥の鳴き声。彼女を束縛するものは何もない。側で抱き締める僕すら、彼女にとっては些事だ。
僕の視線すら、取るに足らない。
僕が彼女の側にいられる、一番の理由。
「……父上は、他に言付けを残しておったか?」
「君のことを宜しくと、真摯に頼まれたよ」
「やはり、父上の目は誤魔化せんか……」
ほっと力が抜けたように、膝の上の重みがより僕に預けられる。
言葉の柔らかさから、父親を敬愛しているのが伝わった。
「所でお主、念を持って確認しておくが、父上に無礼は働いておらなんだな?」
瞬時切り替わって、首を背けたエルラが目の端で僕を睨む。
「まさか、お義父さんにそんなこと」
「妾は父上の怒気で目覚めたのじゃが……またもはぐらかすか。余程仕置きが欲しいと見える」
エルラは腰を上げ、僕の眼前で仁王立ちすると、愉しそうに言うのだった。
「父上の気に障ったこと。妾をズブ濡れにしたこと。妾が秘めていたことを隠れて知ったこと。この三つ分、お主には取り分け重い命を下してやる」
「三つ目は不可抗力なんだけど、うん。なんなりと」
元より僕に選択肢はないのだし、それを不条理と呼ぶ権利もない。
寧ろこの状況を楽しんでこそだ。顎を小さな拳で支えながら、命令の内容を考えるエルラを、僕はニコニコと待った。
「ふむ、そうじゃな……」
エルラの水を含んだ髪を、水滴が伝っていく。拭う物もなく半端に乾いた様相でも、彼女の顔立ちは整美を崩さない。何を閃いたのか輝く眼で、彼女は指先で僕の顎を持ち上げ、ぐっと顔を近付ける。妖艶と言うのだろうか。魔力が無いと知っていても、抗う術を僕は持たなかった。一音一音はっきりと、彼女の口が動いていく。
「奴隷。妾の唇を奪え」
「……ごめん、もう一度」
朽ちビルってなんだろう。鈍感系主人公に加入した覚えはないので、聞き間違えでないのなら、僕の知識で導き出せるのは口部の正式名称だけだ。
とすると、つまるもつまらないもなく。
自分で言っておいて冷めた頬を温かい色に染めるエルラが、僕の顔を固定する。
「みなまで言わせるな……。妾に忠誠を誓う証を、改めて示せと申しておるのじゃ。魔王の娘に唇を許すなど、元が勇者であったお主に、これ以上の屈辱はあるまいて」
「……屈折してるなぁ」
魔王様に撤回せねばなるまい。娘さん、真っ直ぐひん曲がってますよって。
喜ばしいけど、どうせなら自分から用意してみたいシチュエーションが強制イベントで起きてしまって、というか物理的に固定されていたのもあって、僕はすぐに首肯することが出来ない。彼女は打てど響かずな奴隷失格の僕に痺れを切らしたのか、手を離しまた悩み始めた。
「ふむ、これしきでは主の嫌々とした態度は引き出せんか。では他には……」
「いえ、夜な夜な枕を濡らして生まれたことを後悔するくらい嫌です」
思考が回路をすっ飛ばして言語野が飛び付いた。
僕の脊髄反射的な言動に、エルラは軽く引いていた。
「そ、そうか。そんなに嫌か……。なら、手短に済ますことじゃな」
彼女と視線の高さを合わせる為立ち上がる。真正面の彼女の肩に手を掛けるも、そこから先の行動に踏み込めない。赤の瞳を覗きながら、心音が早まっていくのが分かる。魔力を有していない彼女が唯一秘めた、力の残滓。母親から受け継いだらしき《魅了》の系譜は、僕にも奪えない類だと彼女は言った。今に至っても、それを疑ったことはない。
彼女の為なら何もかもを成そうという気持ちも。
彼女の前だから何も出来ない気持ちも、僕の本当だから。
……そんな逡巡で結局動けなくなっているのが、如何にもで格好悪い。
瞼を閉じたりチラつかせたりしながら、エルラが声を細めた。
「…………やけに、時間がかかっておるな」
「…………ごめん、初めてのことだから」
「……それは、誠に嫌なことであろうな」
彼女がほくそ笑む。なんだか強がりに見えた。
頬に手を添えると、勝気な仮面は隠れて、その瞼が閉じられる。相手に委ねるように力の抜けた瞬間に、僕らは言葉の戸を塞いだ。そっと触れるようで、撫でるようで、離れるためにするかのような口づけだった。
輝く湖面を背景に、感触があるかないかも不明瞭なまま、僕らは身を離す。
「思いの外、優しいのじゃな……」
胸を押さえながら、赤らんだ顔でエルラが言った。
「……作法も何も知らないだけだよ」
苦し紛れに、僕は言い訳をした。
「……それで、屈辱の味はどうじゃった?」
当初の目的に振り返って、僕は記憶が飛んでいることに動揺する。まともな感想は返せない。彼女の前で手の抜いた答えは出せないから、駄目元で頼み込む。
「……分からなかったから、もう一度」
「……欲しがりよな、貴公は」
彼女は出会った夜のように僕の首に手を添えて、しょうがないと微笑った。
重ねた唇の味は、やはり僕らだけの秘密として、割愛とさせて頂く。
◆
「乗り心地はどうかな、エルラ」
罰の一つを行使して、彼女の運搬係を命じられた。
具体的に言うと、お姫様抱っこである。
「悪くない、と言っておこう。この程度で許す妾の寛容さに感謝せよ、下僕」
木々の合間を抜けながら、家の方角を目指して行く。腕に抱えたご主人様に、忘れ事無きように訊く。
「して、最後の命令はなんでしょう」
「三つ目は取り分け重いぞ、心して聞きおれ」
尊大なエルラの態度が、我を見よと言外に告げる。僕がワクワクと待ち構えていると、彼女はそっぽを向いて細切れに重ねた。
「…………妾から、離れるな。それ以上は、もう望まん」
「…………」
「聞いておったか? 何か、答えんか」
「……いや、ごめん。その願いだけは、頼まれなくても叶えるつもりだったから」
それは寧ろ、僕が叶えたかったことだから。
彼女を幸せにする道筋を、当の彼女に先回りされてしまう。情けなくて死にそうなのに、満ち足りたものが胸を焼いた。彼女は安心したように、その約定を後押しする。
「その言葉、裏切ってくれるなよ」
「うん。誓うよ。この世界の神様と、僕が元いた世界の神様に」
今だけは、多宗教の浮気も許して欲しい。
ステップでも刻みたい気分で歩いていると、程なく僕らの家が見えてきた。
見覚えのある人影も、ついでに一つ。
「……あれ」
白髪の男性は声を張り上げるように口元に手を添えて、大音声を轟かせる。
「すまーーーん‼ カルト殿ーーー‼ おめおめ逃げ帰ってきたーーー‼ ありゃ勝てんわーーー‼ ガッハッハ‼」
ジェイクさんは生き生きと、威風堂々と、白旗代わりに手を振っていた。根本的に、悪運の強い人なんだと思う。あのふてぶてしさは、多いに見習うべきだった。
「賑やかな人だね、ほんとに」
エルラを抱えやすいように姿勢を変えて、僕は今日という色々あり過ぎた一日の締め括りを思い立つ。
「ジェイクさんの帰還を祝して、今夜は大盤振舞いだ。楽しみにしててね、エルラ」
彼女が腕の中に在る時間が終わってしまうのが少し惜しくて、僕はわざとゆっくりと歩いた。
彼女はそんなジェイクさんという第三者の存在に気付いたせいか、貫禄もなく焦りを散らして、
「待てカルト! 喜ぶのは勝手じゃが、何を自然に抱き抱えておる! 妾の威厳が地に伏すではないか! お、ろ、せ! 下ろさんか従僕‼」
ぽこぽこと力なく暴力を振るう彼女の命に、意地悪な僕は従わず、そんな自分に疑念を覚える。
彼女の為にスムーズに動く身体も、この気持ちも《魅了》の賜物なのに、僕はどうして、彼女の命令を無視出来ているんだろう?
永遠の謎を、僕は胸に仕舞い込んだ。
この確かな充足さえあれば、他は気に留めない。
知らなくていいこともあるのだと、疑問は頬を撫でる風に持ち去らせた。
◇
結論から言えば、妾に《魅了》の才は皆無じゃった。上機嫌な奴隷の腕の中に抱かれながら、恥辱に晒される現在を呪う。初めて出会った時に言った出任せを、この男は何時迄も鵜呑みにしている。妾が旧い一族の末裔で、その特別性故に魔力に由来しない能力を有しているということ。確かにその血は流れておるが、後は嘘偽りの塗り重ねであった。
それなりに長い時間を共にして、従僕にいつ気付かれても良かった。奴隷が反旗を翻すなら、妾もそれまで。そう決めておったのに、当の阿呆は父上と対面して尚妾の道化を演じている。……試すつもりが唇まで許して、嫌な顔一つしなかった。
そうやって異性に隷属する魔法の名は、妾の知識にもある。
それは父上が母上に心奪われた経緯と同様のこと。
……その真理の名を、一目惚れというらしい。
惚れた弱みがどちらにあるかは、今は考えずにしておいた。
憎らしい少年の顔を見上げる。空色の瞳を細めて、カルトは微笑んだ。
「ねぇ、エルラ。今更だけど、改めて言っておきたいことがあるんだ」
「……なんじゃ」
「僕は、今までたくさんの人から色んなものを奪ってきた、汚い人間だ。幸せになる資格なんて、本当はないんだ。……今だって、君から大切なものを奪ってる」
「痴れ事を。……妾からは、奪うものなど何もありはせんよ」
妾の返事に頭を振って、奴隷は言い重ねる。
「一つだけあるんだよ。緩やかに流れるけど、その癖取り返せない、確かなものが。……僕はこれから先も、君の時間を奪って、いいのかな?」
「――ハハ」
此奴と会ってから、毎日が愉快な笑いに絶えない。
今のは飛びっきりの冗談の部類で、しかし本人は至って大真面目。
その愚かしいくらいの真剣さに免じて、妾はまた笑みで応じる。
本当に、愉快で堪らない。
「それはお互い様じゃろうて、貴公」
相互の時間は即ち等価。皆一様に押しなべて、妾と従僕は同等の対価を払っておる。
その青い瞳は何もかもを見透かし、奪い去る代物だというのに、うつけ者はそんな真理にさえ考えが及ばない。カルトは嘲笑を受けて、その愚鈍さから何を感じ取ったのか、表情を和らげ、
「ありがとう」
妾のおでこに、そっと口付けた。
「〜〜〜⁉︎」
不意を突かれて、稲光が走ったように身が動きが取れない。
遥か先方では老骨が今し方の光景を見ていたのか、見事な口笛など鳴らしていた。
余人の存在を前に感情のやり場を失い、奴隷の非礼な行動をせめて目線のみで抗議する。
……朗らかに笑むこの少年には、やはり立場を弁えて貰わねばなるまい。
今日の食事を自らの手で口に運ぶ権利を、妾は剥奪することに決めた。あの老骨も居合わせるなら、目一杯の辱めを受けさせてやろう。それが妾の生き甲斐と、喜びの糧となる。
妾はきっと、これからも奪い続ける。この少年から、夢と可能性の残滓を。
魔族に名を連ねる者として、他者を弄ぶ。それでも彼は満ち足りた顔をするから、妾の挑戦は未だ飽きることもない。――絶望を与えるには希望から。『死にたくない』とその顔が歪むまで、此奴の人生を食い潰す。
きっと死に目を看取る頃には、その答えが出るのであろう。
だから精々、今の内に笑っておけばいい。
妾もきっと、それと同じ数だけ、笑えるのだから。
◆
帰り着いて、彼女とただいまを言い重ねた。
今晩の食事は、一度も自分の匙を握らせてくれなかったけど、代わりに彼女の食事を口に運ぶ権利を賜ったので、取り敢えず良しとする。
幸せと不幸の落差を味わって、残ったものだけが、僕らの間を巡っていく。
何処かで不幸になって、何処かで幸せになって、忙しない差し引きの繰り返しだけど、生きていれば、いつしかそのマイナスは目減りしていく。何処かでまた大きな負債を背負うかもしれない。それでも、その先を生きれば、持ち直せるかもしれない。そんな“if”に縋っていく生き汚さを、今の僕は受け入れていた。
その概算は、この生を終える頃にケリがつく。終わってみれば幸福と不幸は同じ数だけあって、互いに打ち消し合い、“0”になるかもしれない。それでもその0は、僕にとって価値あるものの筈だから。
それが、彼女にとっても、価値あるものであることを祈って。
僕はこれからも奪い続ける。魔王の娘の人生を。
彼女をこれ以上なく、幸せにする為に。
お読み頂き、ありがとうございました。