第1話:地獄の目撃
ガチャリと鍵を開ける音が、静まり返った廊下にやけに大きく響いた。
合鍵を使って彼氏である卓也の家に入った私は、そこで自分の目を疑う光景に出くわしていた。
「あ……そこ、気持ちいい」
玄関には見覚えのある、けれどここにあるはずのない可愛らしいパンプス。
そしてリビングのドアの隙間から見えたのは、私の彼氏と、職場の直属の後輩が抱き合っている姿だった。
昔から間が悪いとはよく言われたものだけど。
ああ……なんでこんな漫画みたいな展開になっているのだろう━━。
「紬、別れてほしい」
私に気づいた彼は、上半身裸のまま下半身を毛布で隠し悪びれる様子もなくそう言った。
むしろ、バレて清々したとでも言うような表情だ。
「俺は真剣に、理子と付き合いたいと思ってるから」
「……ごめんなさい先輩。私、卓也さんじゃないとダメなんです」
彼の腕の中にいる後輩、理子ちゃんが上目遣いで私を見る。
いやいやいや、私……なんの茶番を見せられてるんだ。
なんで不倫されたあげく2人の絆を見せられないといけないんだ。
終わった……。
私の三年間の恋は、あまりにも呆気なくそして最悪な形で幕を閉じた。
私、佐伯紬、27歳。
大手広告代理店の営業部で働く、入社5年目の社員だ。
私の営業スタイルは、相手に誠実に。
強引な売り込みや派手なプレゼンはせずに、クライアントの要望を丁寧に汲み取り、痒い所に手が届く提案をすること。
「佐伯さんに任せておけば安心だ」
そう言ってもらえるのがなによりのやりがいだし、地味ながらも成績は常に上位をキープしてきた。
仕事は充実しているし、プライベートでは同期のエースである日下部卓也とお付き合いしてもう3年。
ついこの間も、地元の友達にも「結婚、そろそろなんじゃない?」と聞かれ「そうかも」なんて浮かれて話したばっかりだった。
それなのに……。
まさか、こんな結末が待っているなんて。
昔から私は選ばれない女なのだ。
『紬は一人でも大丈夫そうだけど、あの子は俺がいないとダメだから』
『俺を頼ってくれる子がいるんだ。その子のためになりたい』
「はぁ……」
都合のいい女にはなれても、守りたい女にはなれない。
一番近くにいたはずなのに、最後の最後で相手には選ばれないんだもんなぁ……っ。
私のなにが悪いのよ。
私だって選ばれたいつーの。
自宅のベッドに横になり、思い出写真を削除していると涙が出てきた。
「うう……本当最悪」
あのふたりの目の前で泣くもんかと強がったから、今更涙が出てきた。
卓也とだったら幸せな家庭を築けると思ったのになぁ……。
こんなに簡単に浮気されて終わっちゃうんだ。
翌日。
重たい体を引きずって職場に行くと、信じられない光景が待っていた。
「みなさんに報告があります!」
朝礼の前、彼と理子ちゃんがみんなの前に立って声を張り上げている。
二人の薬指には、お揃いのペアリングが光っていた。
「俺たち、結婚を前提にお付き合いすることになりました」
「未熟な二人ですが、温かく見守ってください!」
幸せオーラ全開の二人に対し、フロアからは「おめでとう!」「お似合いだなー!」なんて祝福の声が上がる。
昨日まで私と付き合っていたことなんて、まるでなかったことみたいだ。
そして理子ちゃんは後ろの方にいる私を見つけると嬉しそうに駆け寄ってきた。
「佐伯先輩!佐伯先輩に一番に報告したかったんですぅ。佐伯先輩もお祝いしてくれますよね?」
理子ちゃんはそういいながら私に指輪を見せつけた。
ああ、そうか……この子。
こういう子だったんだ……。
私ってつくづく見る目ないな。
なにがお祝いよ。
人の男をとっておいて……。
それだけならまだいい。
静かにしてくれればいいのに、お祝いの言葉を求めてくるなんて……悔しくて仕方ない。
本当はふざけんなって言ってやりたいのに、私にはそんな勇気はなかった。
「……はは、おめでとう……」
散々だな。
ただひたすらに惨めで虚しかった。
それからお茶を入れるため給湯室へ逃げ込むと、女子社員たちの話し声が聞こえてくる。
「それにしても、日下部さん意外だったなー。佐伯さんと付き合ってると思ってたのに」
「私もそう思った!なんかいい感じだなって思ってたけど」
「でも理子ちゃんのほうが若いしね。男って正直~」
ああ、めちゃめちゃ言われてる……。
私は給湯室から逃げ出し、人気のない非常階段へ向かった。
「はぁ……。言いたい放題言ってくれちゃって」
ひんやりした空気に触れて、ようやく息が吸えた気がした。
ここなら誰も来ないはずだ。
私は手すりに体重を預け、大きなため息をついた。
「私の人生、終わってるなぁ」
三十路目前で彼氏に浮気され、しかもその相手は可愛がっていた後輩で。
挙句の果てに職場で結婚宣言されるなんて……。
これからの人生が見えない。
壁に頭を預けて項垂れていると、全館放送のチャイムが鳴り響いた。
『社員の皆様にお知らせいたします。これより大会議室にて、新社長の就任挨拶を行います……』
ああ、そういえば今日は社長交代の日だった。
創業家から新しい社長が来るとかいうウワサで、女子社員たちは「イケメンらしい」とか「若いんだって」とか浮足立っていたな。
……忘れてたけど。
行かなくちゃ。
「はぁ……」
地獄のような気分のまま、私は重たい足を引きずって会場へと向かった。
大会議室は、すでに全社員の熱気で溢れかえっていた。
「早く社長みたい!」
「若社長だって、すげぇよな」
私はできるだけ目立たないよう、部屋の隅っこに身を潜める。
視界の端には、幸せそうに談笑する卓也と理子ちゃんの姿があった。
ああ、もう見たくないのに!そういう時に限って目に入るんだから……。
「それでは、新社長をご紹介いたします」
総務部の佐藤さんが司会となって紹介をする。
「久我山蓮社長です」
司会の声と共に扉が開かれる。
久我山蓮……?なんか聞いたことある名前……。
そこに入ってきた人物になにげなく視線をうつした瞬間、私は自分の目を疑った。
「……え?」
仕立ての良い高級スーツを完璧に着こなし、堂々と歩いてくる長身の男。
ビシッとセットされた黒髪に、射抜くような鋭いまなざし。
待って、見たことがある!
ウソ……久我山、蓮ってあの久我山蓮!?
その男は、昔私がよく知る人物だった。
高校時代の同級生であり、万年学年二位だった私が一度も勝てなかった相手。
勉強もスポーツも完璧で、常に私を上から目線でからかってきた、あの久我山蓮?
間違いない。
大人っぽくなったとはいえ、名残りがある……。
(なんであいつがここに!?)
驚愕する私をよそに、久我山は壇上に立つとマイクを握った。
「ご紹介にあずかりました、久我山蓮です」
低くよく通る声が、会場全体に響き渡る。
自信に満ち溢れた立ち振る舞いは、高校時代と変わらない……いや、さらに磨きがかかっていた。
会場の女子社員たちが「きゃー! かっこいい!」「王子様みたい!」が色めき立っている。
「これからの経営方針について話す前にまずは私の経歴からお話させてください」
淡々と、しかし圧倒的な説得力で語り始める久我山を私はただ呆然と見つめていた。
「高校卒業後は渡米し、スタンフォードでMBAを取得しました。その後はシリコンバレーでITベンチャーを二社ほど立ち上げまして」
会場がざわめき始める。
ちょいちょいちょいちょい!
どういうこと!?
ハイスぺすぎるでしょ……っ。
けれど彼は、気にする様子もなく言葉を紡ぐ。
「幸いにも事業は軌道に乗り……昨年、米国のメジャー企業へバイアウトしてきました」
思わず素っ頓狂な声が出そうになった。
スタンフォード?起業?
サラッと言っているけれど、とんでもない実績だ。
「年齢も若いというところでが不安もあるかもしれませんが、経営に関しては安心して任せていただけたらお思います」
彼がにっこりと笑と、女性社員たちはさらに黄色い声をあげ拍手をした。
(すごい……。どうやったらここまで差がつくのよ……)
割れんばかりの拍手が起こる中、久我山は一礼して壇上を降りていった。
こうして社長の就任式が終わり、オフィスに戻ってきた私たち。
周りの社員たちは、テンション高く楽しそうに会話をしている。
「ねえ、久我山社長って結婚してるのかな?」
「誰かは指輪してなかったって言ってたけど」
「マジ!?ってことはチャンスある?」
「あんなハイスペックだったらみんな行くよね。広報の杉山さん、さっそく声かけてたし」
すごいモテよう……。
でも当然か。
高校時代から久我山は目立つ存在だったけれど、今の彼は当時とは纏っているオーラが違う。
完全に雲の上の存在だ。
なーんか落ち込んじゃったな……。
高校の同級生が来た!なんて思ってたけど、こんなにすごい人生を送ってきたんじゃ、相手も私のことを覚えてないだろうし……。
「はぁーあ」
なんかここ最近落ち込むことばっかりなんですけど……。
それからいつも通り仕事をこなすと21時近くになってしまった。
『先輩、私忙しくてこの仕事、先輩にお願いしたいです』
理子ちゃんは私に仕事を押し付けてくるし……。
駅へと向かう人波に流されながら、歩き続ける。
(……なんかこのまま帰りたくないな)
ちょっと気分転換して帰ろう。
私は駅とは反対方向の、少しさびれた路地裏へと足を踏み入れた。
飲んで気持ちをリフレッシュしたい気分だった。
カラン、と乾いたベルの音が鳴る。
薄暗い店内はカウンター席が数席あるだけの隠れ家のような空間だった。
今の私にちょうどいいかも。
静かなマスターの声に促され、私は一番奥の端のカウンター席に座り込んだ。
メニューも見ずに「飲みやすいものを」と曖昧にオーダーする。
運ばれてきたお酒を飲むと少し疲れが取れた気がした。
「はぁーあ」
今日何度目かも分からない、重たいため息が漏れる。
やっと今日一日中終わったな……。
忙しく仕事をしていても、どうしても卓也と理子ちゃんと会う機会がある。
別の会社だったらよかったのに……。
そんなことを考えていた時。
「……ずいぶん辛気臭い顔だな」
不意に隣から声をかけられた。
低く少しハスキーで、耳に残る声。
ドキリとして顔を上げると、そこには見覚えのある整った横顔があった。
「久我山!?」
「覚えてたか。隣、いいか?」
「い、いいけど」
逆にいいわけ?会社の社長と部下がこんなところで飲むって……。
久我山は私の隣に腰を下ろした。
「っていうか、なんでここに?」
と敬語で話ってはっとする。
今は同級生じゃなくて社長だった……!
「社長はどうしてここにいるんですか?」
「今は久我山でいい。ここは俺が贔屓にしてる店なんでな」
知らなかった……。
行きつけだったのか。
彼はマスターに目配せをして、慣れた様子でウィスキーを注文した。
「いやに辛気臭い顔をしてたから声をかけずにはいられなかった」
「それは社員思いなんですね。久我山社長……」
「ここではその呼び方はやめろ。社長として話しかけたわけじゃない」
彼はロックグラスを傾けながら、面白そうに私を見た。
昔話をしにきたってことか。
「……私の名前、覚えてたんだ」
「忘れるわけがないだろ。高校時代、俺の背中を睨みつけていた万年二位の顔はな」
「う“っ……!なによ!頑張ってたんだからいいことじゃない!」
覚えてたのか……。
しかも一番触れられたくない黒歴史をピンポイントで。
私は高校時代、久我山に勝負を挑みまくりけっきょく一度も勝てた試しがなかった。
あーもう、やっぱりついてない。
「それで?さっきからこの世の終わりみたいな顔をして、なにを悩んでる?」
「べ、別に……久我山には関係ないでしょ」
なんかこんなちっぽけなこと悩んでるって知られたら鼻で笑われそうだし……。
「まぁ言いたくないならいいけど。飲めば?再会記念で出してやるよ」
「その余裕ムカつくから、久我山のお金でめっちゃ飲んでやる!」
久我山は私の言葉に笑った。
「ははっ、お前は変わらないな」
──ドキ。
久我山のこの笑顔……昔からいいのよね。
あんまり表情を見せない分、笑った顔にドキっとするというか……。
それから私は、差し出されたグラスをやけっぱちで煽った。
そんなことを続けていると当然、酔いは回ってくるわけで……。
「あーもう!悔しい!私だって頑張ったのに!仕事も一生懸命やって、彼にも誠実に尽くして……結婚だって考えてたのに!」
「ほう?」
久我山はなんの話だと言いたげにこちらに視線を向ける。
「……だーかーらあ!振られたの!3年付き合っててもうすぐ結婚かなぁ?なんて浮かれていたら、会社の後輩と浮気してて。あとはポイですよ」
「それはなかなかだな」
鼻で笑うかと思ったけれど、案外久我山は真剣に聞いてくれた。
私は久我山が会社の社長だということをすっかり忘れて話してしまった。
「なーんか、本当にみじめになっちゃった。それで会社で婚約しますってふたりが発表しててさ……私の時は隠してたからもともと私と結婚するつもりなんてなかったんだろうけどさぁ。本当人生って一生懸命頑張ってる人が報われない世の中だよね!」
なんか話してたら泣きそうになってきた……。
っていうか、こんなことダラダラ話しちゃって情けないな。
久しぶりに再会したっていうのに、久我山だってこんな話聞きたくないよね……。
「ごめん、つまんないよね」
強制的に切ろうとした時、久我山は静かにグラスを置くと、真剣な眼差しで私に言った。
「なら、俺と結婚するか?」
「……は?」
今、この人なんて言った?結婚って言わなかった?
「はい??」
「だから俺と結婚するかって聞いてるんだ」
(……もしかして酔ってる?)
顔には全然出てないけど、意外と飲みすぎちゃってノリでそんなこと言ってる!?
「久我山。ちょっと飲みすぎ!」
「俺はこれっぽっちで酔うほど弱くないが……」
あっ!分かった!
アメリカ帰りのエリート様は、冗談のスケールも違うらしい。
「なるほど!アメリカンジョークってやつ!」
「あのなぁ……結構本気で言ってるんだけど?」
久我山はウイスキーを飲み干すと私に視線を向けた。
はい!?!だとしたらおかしいでしょうが!
「けっこう条件はいい方だと思うけど?」
いやいや、なんで私が渋ってるみたいに話を進めてるわけ!?
条件がいいってどころの話じゃないでしょ。
問題はそこじゃない。
なぜ久我山が私なんかに、しかも突然「結婚しよう」なんて言ってくるかだ!
私は意味わからないという表情を向ける。
すると久我山はそれを察したのか、少しだけ眉をひそめ、うんざりしたように語り始めた。
「正直俺も困ってることがある」
「困ってる?」
「社長就任が決まって帰国してからというもの、外野がとにかくうるさくてな。身を固めろとか、社長の嫁にうちの娘を紹介させてくれだとか、毎日のように見合い写真が届くんだ」
「そ、それはそれは……」
私には理解できない悩みだ。
なるほど。
ハイスペックには、ハイスペックなりの苦労があるということか。
庶民の私には想像もつかない世界だけど、彼がそれを心底「面倒くさい」と思っていることだけは伝わってくる。
「俺は今、会社の改革に全力を注ぎたい。くだらない見合いに時間を割くつもりも、愛のない政略結婚に縛られるつもりもない」
「だから……私と結婚?」
「ああ、佐伯となら知らない仲じゃないし、利害が一致するだろう?俺はうるさく言われないで済むし、佐伯は俺をいい用に利用すればいい」
「利用……?」
「ああ。あんまり人のことを悪く言いたくないが、その元カレ……かなりクズだぞ」
で、ですよね……。
……たしかに、あんなにひどいことをされたんだ。
浮気されたあげく結婚しますとペアリングを見せられ、私の立場はあってないようなものだった。
だったら……。
久我山と結婚した方が私の気持ちも救われる。
「佐伯が望むことがあるならなんでもするし、結婚の期間も決めてもらっていい。その間の生活は必ず保障する」
酔っていたのもあったかもしれない。
でも私はその場の勢いで返答してしまった。
「分かった!久我山と結婚するわ、私」
「成立だな」
彼はスッと右手を差し出す。
その手は大きくて、今の私にはあまりにも頼もしく見えた。




