二日目③〈2-2-③〉
抗議に向かっているらしい一団と遭遇することもなく、W.S.の支所を抜け出した私たちは、雑用を済ませ、リハイブに帰った。生垣の前を歩きながら、
「商店街も、本当にこの前までとは大違いだね」ウェールスがため息混じりに言う。
「橘さんが心配するわけだ」
委任状を渡された時の橘さんの表情を思い出し、私は苦笑いを浮かべた。朝、市民商店街への買い出しを申し出た時のことだ。
屋根を架けた通りに多様な店が並ぶ市民商店街は、なるほど本来は市民のための施設だ。始点と終点には市の保安職員(場所によっては地方按察官)の駐在所が置かれ、入場時に身分を確認される。もっとも、それは建前の話で、実際の運用は不徹底だ。非市民も行儀良くしていれば利用できた。
その日常が数日前に変わった。有志の集団が市の代わりに身分の確認を行うと言い出したのだ。当然、非市民は締め出される。こっぴどく叩きのめされた者もいたようだ。私たちは委任状のおかげで買物ができたが、実に居心地の悪い思いをすることとなった。
「ルールをきちんと守らせる。何の間違いもないっていうのは、そうなんだけどさ」難しい顔でウェールスが呻る。
法の厳格な運用に協力する――商店街で非市民による窃盗や強盗が起きているとの主張と併せ、彼らはそう説明している。
「正しい理屈だろうと悪意で振りかざすことはできるさ」
そうこう話している間に庭まで辿り着いた。
「あれ」
ウェールスが不思議そうにした。ハンスが山盛りの餌の前で伏せている。げんなりした顔でこちらを一瞥すると、白い犬は深いため息を吐いた。
「どうしたんだろう」
私たちは顔を見合わせた。
「いやあ。今日はハンスに助けられたよ」
夕食の皿をテーブルに並べ、橘さんは朗らかに言った。何でも私たちの留守中に今日も数人の市民が抗議に来ていた――悪いことに、彼らは用心棒らしい屈強な男を連れていた。対する客の非市民たちも抑えが効かず、何人かが店を飛び出し、庭は一触即発の睨み合いだ。喧嘩はからっきしの橘さんにも危険が迫る。そこにハンスが颯爽と躍り出た。件の用心棒の攻撃をことごとく身を翻してかわし、返り討ちにすると、その勇猛さに市民たちは驚き逃げ帰り、非市民たちは畏れるあまりに怒りを忘れ――らしい。
「牧羊犬さながらの大活躍さ」
橘さんがハンスを称賛する。山と盛られた餌はお礼だったようだ。その気持ちが伝わっているかは怪しいが。
「いただきます」
目の前の食事にウェールスが嬉々として言った直後、時計が十九時を報せる音を立てた。何をか察した橘さんが椅子を立ち、カウンターに置かれたラジオへ向かう。
――今日は美馬鹿之助先生をお招きして、昨今の情勢についてお話を伺います。
「あ、マスター」ウェールスが呼び止めた。振り返る橘さんに、「一回、聞いてみたいんだけど、良い」
彼女におずおずと頼まれては、橘さんに退けることは難しい。ため息を一つ吐き、
「あまり聞かせたい話じゃないんだよ」と、言い訳するような調子で言って席に戻った。
ラジオからいかにも頑強という印象の声が流れる。美馬氏は、台本に忠実そうな聞き手の質問に答える体裁で持論を展開した。――非市民は頽廃勢力の生き残りであり、宿命的に学府に仇なす――彼らは犯罪集団の温床で、学府の衛生を損なう汚染源だ――彼らの境遇は当人の自業自得である――にもかかわらず、教導派は非市民の支援に学府の予算を割いている――。結びに、教導派は市民を軽んじている、敵を生かし、民を殺すとは何事かと断じて締めた。
勝者は自由と尊敬を、敗者は感謝と服従を。美馬氏の主張は、教養派的な人々、中でも学府の純度を何より重んじる層に訴求するものだ。それは 合間に流れた宣伝の寸劇――日記に愚痴を書く少年の手には父親から贈られた万年筆――現状に不満を抱くのでなく、与えられたものに感謝しようと説く――からも伝わる。
番組は最後、美馬氏に呼応し、都市を守るために行動しているという集団をいくつか紹介して終わった。
「同じ話を何度も何度も。やる方も飽きんかね。聞かされる方はとうに飽き飽きしているんだが」
橘さんが呆れ果てるというふうに被りを振る。
「再放送ですか」洗った皿を隣のウェールスに渡しつつ尋ねる。
私の問いに橘さんはため息まじりに首肯して、
「一々新しく録った同じ話を聞かされても敵わないけどね」肩を竦めて苦笑した。
「再放送」拭いた皿を水切り籠に立て、ウェールスが言う。小首を傾げ、「何度か放送してるってこと」
「何度も流しているのさ」
次の皿を手渡して答える。橘さんが続きを引き取り、
「明日からもしばらく流れると思うよ」
「えぇ」ウェールスが唖然とした様子で声を漏らす。「学府ではよくあるの」
「珍しくはないな」
「もったいないとか思わないの」彼女はそう言うと、ハッとした顔になり、「えっと、話の中身がどうとか言いたいんじゃなくて。全く同じ話を流してることがね」
少し怯えたように笑う。フーマニットに人類の価値観を論評する資格はないという基本から逸脱することを恐れているのだろう。
「流す側にとってはそうするだけの価値があるんだろう」
放送局は市から委任された企業が、早い話が資金力のある個人が運営している。無論、収益性は要点になるが、彼らが誰を客と、何を利益と捉えているかによってはこういうこともある種、合理的に起こり得る。
「そっかあ」
私の説明に、ウェールスはどこか残念そうに言った。その声の余韻も消えて、一瞬、静まり返ったリハイブに戸を叩く音が響いた。
「誰だろう」
この時間に唐突に人が来ることは珍しい。橘さんが訝りつつ椅子を立ち、戸に向かう。私の横で、
「なんだか、どんどん荒んでいくね」
ウェールスがぽつりと嘆く、その声をかき消すようにドアベルが激しく音を立てた。
「おおっ」
戸を勢いよく引かれ、前のめりになった橘さんの横を人影がすり抜ける。俯きがちに店内に飛び込んできたのは若い女性だ。私は目を見開いた。
「逢坂に言われてきたわ。ここに――」
それは、そう言いながら顔を上げ、言葉に詰まった彼女も同じだった。
「昨日の」
目を満月のように丸くしたウェールスが言う。そこにいたのは、昨晩、落葉のコアに追われていた、あの女性だ。
「そう」得心したように呟くと、「確かに実力は本物だわ」
彼女は不敵に笑ってみせた。
※これは架空の物語であり、実在の人物・団体・事件等とは一切関係ありません。
〈2026/4/20〉
・相変わらず投稿のペースが遅く、すみません。
・しばらくは何回かに分けて、本文を追加していくイメージで進めます。




