第64話 眠れる獅子
HM-417の大型ドックには、修理中のアーデントが静かに横たわっていた。
右舷の外装は広い範囲で取り外され、損傷した第四区画では整備班が作業を続けている。いつもなら工具の音や作業員たちの声が響くドックだったが、今日はどこか静かだった。
ニール・ヴァレットが亡くなってから、まだ二日しか経っていない。
ダリオは第四区画の前で足を止め、交換されたばかりの隔壁を見つめていた。
「……あいつ、ここの配線を直したがってたんだよな」
隣にいたリアが顔を上げた。
「ニールのこと?」
「ああ。前に点検したとき、ここだけ古い配線が残ってるって言ってた。次の整備で交換しましょうってな」
ダリオは手元の端末を閉じた。
「……交換が間に合ってりゃ、少しは違ったのかもしれん」
「……ダリオ」
「分かってる。そんな簡単な話じゃないことくらい」
リアは何も言えなかった。
ニールはアーデントの乗員だったが、HM-417の整備区画にもよく顔を出していた。古い機械を見つけると興味津々で質問し、ダリオに叱られながらも、楽しそうに作業を覚えていた青年だった。
もう、あの声が聞こえることはない。
「……ユウは?」
リアが尋ねると、ダリオが首を振った。
「昨日からアストライアにいるらしい。セラが様子を見てる」
「……そっか」
リアは修理中のアーデントを見上げた。
いつもなら、こんな光景を見たユウは「修理代いくらかかるの!?」と騒いでいるはずだった。
だが、今回は違った。
*
アストライアの艦橋では、広域星図と複数の航行記録が表示されていた。
敵艦隊の逃走方向、奪われた輸送船アルタイルの推進器性能、付近に存在する未登録補給施設の痕跡。さらに、過去数か月の船舶失踪情報まで並べられている。
ユウはその中央に座り、無言で画面を見つめていた。
『艦長、三番目の候補宙域について解析が完了しました』
「結果は?」
『該当宙域には小規模な採掘跡が存在しますが、現在の活動反応は確認できません。敵艦隊の補給拠点である可能性は低いと判断します』
「……じゃあ、二番目は?」
『こちらは未登録の補給設備が存在する可能性があります。周辺の微弱な熱源と、過去の船舶航行記録に不自然な一致が見られます』
星図の一角が拡大された。
岩石群が密集する外縁宙域。その中心付近には、比較的大きな小惑星が存在している。
「……ここか」
『ただし、敵艦隊が存在する確証はありません。現地での観測が必要です』
「分かった。ライラを使おう」
ユウは席を立った。
そのとき、艦橋の扉が開いた。
「……出るつもりか?」
入ってきたのはセラだった。
「うん」
「アーデントはまだ動けない。しかも、敵は少なくとも六隻いたんだぞ」
「分かってる」
ユウは振り返った。
「だから、まず偵察する。敵の数と配置を確認して、勝てる状況を作る」
セラは眉を寄せた。
「……勝てる状況が作れなかったら?」
「そのときは帰ってくる」
「本当に?」
ユウは少しだけ黙った。
「……少なくとも、何も考えずに突っ込むつもりはないよ」
セラはユウを見つめた。
その声は落ち着いていた。普段のように冗談を言うことはなかったが、判断力を失っているようには見えない。
しかし、セラには一つだけ気になることがあった。
「ユウ。敵を見つけたら、どうするつもりだ?」
「……倒す」
「全員か?」
「抵抗するなら」
ユウは短く答えた。
「投降するなら受け入れる。でも、逃げて別の船を襲うつもりなら、もう見逃さない」
セラはしばらく黙っていた。
「……私も乗る」
「アーデントの修理指揮は?」
「ジェイドがいる。基地にはガルムもいる。それに、今のお前を一人で行かせるわけにはいかない」
ユウは少し考え、頷いた。
「……分かった。お願いする」
セラはその返答を聞き、わずかに息を吐いた。
「出撃前に傭兵協会へ情報を送る。正式な捜索依頼と、敵船の犯罪記録も確認しておこう」
「うん。そこは任せる」
*
出撃準備を終えたアストライアの前に、ジェイドが立っていた。
彼はユウの姿を見つけると、まっすぐに近づいてきた。
「……俺も行く」
ユウは首を振った。
「駄目だよ。アーデントは修理中だし、ジェイドは艦長でしょ」
「だからこそだ。ニールは俺の部下だった。俺だけここに残っているわけにはいかない」
ジェイドの声には、普段の余裕がなかった。
「俺が敵の接近を止めていれば、あいつは死なずに済んだかもしれない。せめて、あいつを殺した連中に……」
「ジェイド」
ユウは静かに遮った。
「……俺も、同じことを考えたよ」
ジェイドが顔を上げる。
「俺が別の依頼を選んでたら。もっと早く敵の意図に気づいてたら。アーデントのところへすぐ戻ってたら。そんなことばっかり考えてた」
「……ユウ」
「でもさ、今ここで二人とも出て行ったら、アーデントの仲間たちは誰に頼ればいいの?」
ジェイドは答えられなかった。
「ニールが亡くなって、みんな不安だと思う。そんなとき、艦長までいなくなったら困るでしょ」
「……だが」
「ジェイドにしかできない仕事があるんだよ。俺が代わりにアーデントの艦長をやれるわけじゃないし」
ユウは少しだけ表情を和らげた。
「だから、アーデントと仲間たちは任せた。こっちは俺が行く」
ジェイドはしばらく拳を握りしめていた。
やがて、ゆっくりと頷いた。
「……必ず帰ってこい」
「もちろん」
「……セラも頼む」
「ああ。任せろ」
セラが答えた。
ジェイドはアストライアを見上げた。
「……ニールの分まで、俺はここでやれることをやる」
ユウは何も言わず、頷いた。
*
アストライアがHM-417を出港したのは、その一時間後だった。
同行する艦艇はない。
アーデントは修理中。アルゴスは中継施設の防衛任務を継続している。
今回は、アストライア単艦での行動だった。
『第一候補宙域までの航路を設定しました』
アイリスが報告する。
「……最初はそこから確認しよう」
『了解しました』
セラは副席で敵艦の資料を確認していた。
「敵大型艦は主砲の電力供給系統を損傷している。まともに修理するなら、ある程度の設備が必要だ」
「うん」
「中型武装艦の一隻もシールドと兵装に損傷を受けている。しかも奪ったアルタイルを連れている。長距離移動を続けるより、どこかで修理と積み替えを行う可能性が高い」
ユウは頷いた。
「……だから、補給拠点を探す」
「そうだ。だが、敵もこちらが追ってくる可能性を考えているはずだ。見つけてもすぐには近づくな」
「分かってる」
セラはユウの横顔を見た。
これまでなら、敵の拠点が見つかった時点で、ユウは「報酬もらえるかな」と言っていたかもしれない。
今は、金の話を一度もしていなかった。
*
最初の候補宙域には、敵の痕跡はなかった。
続く二番目の候補宙域へ到着したのは、さらに数時間後のことだった。
アストライアは岩石群から十分に距離を取った位置で減速し、ライラを発進させた。
『ライラ、観測航行を開始しました』
小型の古代観測艇が、岩石の陰を利用しながら慎重に進んでいく。
ユウは映像を見つめた。
「……何かある?」
『現在、周辺岩石の熱分布を調査中です』
しばらくして、ライラの観測画面に小さな熱源が表示された。
一つ。
二つ。
そして、さらに三つ。
『複数の人工熱源を確認しました』
アイリスが報告する。
「……船?」
『その可能性があります。追加観測を行います』
ライラがゆっくりと観測位置を変える。
巨大な小惑星の陰に、金属製の構造物が現れた。
古い採掘設備を改造したような簡易ドック。その周囲には、複数の船が係留されている。
『未登録施設を確認。艦艇六隻を識別しました』
ユウの目が細くなった。
「……六隻」
『うち四隻は、先日の護衛任務で交戦した敵艦と船体特徴が一致します』
画面が拡大された。
大型武装艦一隻。
中型武装艦二隻。
小型戦闘艇一隻。
そして、別の小型警備艇二隻。
さらにドックの奥には、見覚えのある輸送船が係留されていた。
《輸送船アルタイル/船体識別一致》
「……見つけた」
ユウは小さく呟いた。
セラが画面を確認する。
「……間違いなさそうだな」
『敵大型艦は外部補修中です。主砲の一部が取り外されています。また、中型武装艦一隻も整備作業中と推定されます』
「……まだ修理が終わってないんだね」
ユウは敵艦の配置を確認した。
六隻のうち、即座に出撃できそうなのは三隻。残る三隻は補給や整備の最中だった。
セラが慎重に言った。
「……好機ではある。ただし、施設内に民間人や捕虜がいないとは限らない」
「うん。そこは確認しよう」
ユウはライラへ追加観測を指示した。
*
偵察はさらに一時間続いた。
ライラは外部からの熱分布と通信量を記録し、施設周辺の艦艇配置を詳細に調べた。
その結果、アルタイルの乗員はすでに船から退避しており、積載貨物の一部が別の輸送艇へ積み替えられていることが分かった。
ただし、施設内部に拘束者がいるかどうかまでは確認できなかった。
「……どうする?」
ユウが尋ねると、セラが答えた。
「施設そのものへの攻撃は避けるべきだ。捕虜がいる可能性があるし、違法な武装集団の拠点だったとしても、証拠を残す必要がある」
「分かった」
「それと、外へ出ている艦を先に叩く。全艦が同時に出てきたら、アストライアでも危険だ」
ユウは頷いた。
「……一隻ずつ、確実に」
セラは彼の顔を見た。
「……ユウ」
「何?」
「これから先、敵艦を撃沈すれば、多くの乗員が死ぬ可能性がある」
「……分かってる」
「今までみたいに、推進器だけを壊して拿捕する戦い方とは違うぞ」
ユウは画面を見つめた。
そこには、先日アーデントの右舷を撃ち抜いた中型武装艦が映っていた。
特徴的な船腹の兵装配置。
同じ位置に残る砲撃痕。
間違いなく、あの船だった。
「……セラ」
「何だ?」
「あいつら、ニールを殺したあとも、普通に貨物を積み替えてるんだね」
セラは答えなかった。
「次の仕事の準備をしてるのかな。また別の船を襲って、同じことをするのかな」
「……その可能性はある」
ユウは静かに頷いた。
「……だったら、止める」
その声には、怒鳴り声よりも強いものがあった。
セラは一瞬、背筋が冷たくなるのを感じた。
*
翌朝。
ユウたちは、傭兵協会から臨時の情報共有と追跡協力の許可を得ていた。
護衛任務における襲撃記録、奪取されたアルタイルの識別情報、民間船への武装攻撃。証拠は十分に残っており、関係する船舶は広域指名手配の対象となっていた。
ただし、正式な討伐任務ではない。
協会側からは、可能な限り敵艦の識別情報を確保し、無用な交戦を避けるよう要請されていた。
ユウは報告を確認すると、端末を閉じた。
「……行こう」
『出撃準備完了しています』
アイリスが答える。
セラは戦術画面を開いた。
「まず敵を拠点から引き離す。主砲を損傷した大型艦を動かす必要はない。小型艇が警戒巡航へ出たところを狙う」
「了解」
アストライアは岩石群の外側を回り込み、敵補給施設の監視範囲へ接近した。
しばらくすると、小型戦闘艇二隻が施設から発進した。
『敵小型艇二隻、警戒巡航を開始しました』
「……来たね」
ユウは操縦桿を握った。
「アイリス、兵装準備」
『了解。主砲・副砲、戦闘待機状態へ移行します』
セラが確認する。
「ユウ。最初は警告だ。敵が投降するなら受け入れる」
「……うん」
アストライアから通信が送信された。
『こちらは傭兵団アストライア。貴艦は民間輸送船団襲撃の容疑により捜索対象となっている。武装を停止し、停船せよ』
数秒後、敵小型艇から返答があった。
『……アストライアだと?』
通信の向こうで、男の声が上ずった。
『何でここが分かった!?』
ユウは答えなかった。
代わりに、もう一度だけ警告した。
「武装を止めて。停船するなら撃たない」
『……ふざけるな! たった一隻で何ができる!』
敵小型艇二隻が一斉に加速した。
砲塔がアストライアへ向けられ、射撃が開始される。
ユウは静かに息を吐いた。
「……そう」
そして、短く命じた。
「アイリス。右の一隻、艦橋を狙って」
『……艦橋ですか?』
「うん。戦闘不能にする」
『了解しました』
アストライアが加速した。
*
敵小型艇の砲撃が、アストライアのシールドへ命中した。
だが、ユウは動じなかった。
相手の射撃間隔を確認し、砲撃が途切れた瞬間に進路を変える。
敵艇の側面へ回り込み、艦首を向けた。
『射撃可能』
「……撃て」
短い光が放たれた。
一発目が敵艇のシールドを削り、二発目が艦橋付近へ命中した。
小型艇の前部装甲が砕け、内部で爆発が発生する。
『敵小型艇一、艦橋機能停止。推進器出力低下』
船体が姿勢を崩し、ゆっくりと回転し始めた。
ユウはそれを確認すると、すぐに次の目標へ視線を向けた。
「……次」
セラが息を呑んだ。
いつものユウなら、敵艦を無力化した時点で喜んでいただろう。あるいは拿捕報酬の話をしていたかもしれない。
だが、今は違う。
表情一つ変えず、次の敵を探している。
『敵小型艇二、撤退を開始』
アイリスが報告した。
残る一隻は、仲間が撃破されたのを見て逃走を始めていた。
「……追う」
ユウは操縦桿を倒した。
アストライアが一気に加速する。
『敵小型艇二、最大加速。補給施設へ向かっています』
セラが画面を確認した。
「待て、ユウ。追い込む先を考えろ。施設に近づきすぎれば、ほかの艦が出てくる」
「……分かってる」
ユウは進路をわずかに変えた。
敵艇の真正面へ回り込むのではなく、施設へ戻る経路を遮るように位置を取る。
敵艇が慌てて旋回した。
その瞬間。
「……主推進器」
『照準完了』
「撃て」
アストライアの射撃が敵艇の後部へ命中した。
推進器の一基が吹き飛び、残る一基も激しく損傷する。
『敵小型艇二、主推進停止』
敵艇は姿勢を崩しながら漂い始めた。
ユウはさらに照準を合わせる。
だが、その直前だった。
『敵小型艇二より投降信号を受信』
アイリスが報告した。
《武装停止/降伏要求/救助要請》
「……射撃停止」
ユウは即座に命じた。
『了解。兵装を待機状態へ移行します』
セラはユウを見た。
声は冷たいままだった。
しかし、投降した相手には迷わず攻撃を止めた。
それだけは、変わっていなかった。
「……ガルムに連絡して。協会へ敵艇の位置と投降記録を送っておいて」
『了解しました。救助要請も転送します』
ユウは頷いた。
「……次は?」
アイリスが戦術画面を更新した。
『補給施設より中型武装艦一隻が発進しました。先ほど撃破した小型艇からの緊急信号を受信したものと推定します』
画面に、全長百メートルを超える船影が表示された。
その側面には、先日の戦闘で受けた損傷痕が残っていた。
『艦体識別一致。アーデント右舷への砲撃に関与した中型武装艦です』
ユウの目が細くなった。
「……あいつか」
セラが静かに言った。
「ユウ。今度は小型艇とは違うぞ。相手もこちらの性能をある程度知っている」
「……うん」
「焦るな。アストライアでも、正面から撃ち合えば損傷する」
「……分かってる」
ユウは敵艦の兵装配置を確認した。
中型武装艦は二基の主砲塔と複数の副砲を備えている。船体側面には、先日の戦闘で使用された電磁妨害装置の発射口も残っていた。
「……アイリス」
『はい』
「……今回は、船体を残す必要はないよね」
『拿捕を優先しない場合、戦闘能力を確実に喪失させるための攻撃選択肢が増加します』
「……じゃあ、それで」
セラがユウを見た。
「……どう戦うつもりだ?」
ユウは静かに答えた。
「まず、あいつの逃げ道を塞ぐ。次に、主機を止める」
画面には、敵中型艦の推進器と艦橋が表示されていた。
「……それでも撃ってくるなら、艦橋を潰す」
セラはしばらく黙っていた。
そこにいたのは、いつものように報酬を気にして笑う青年ではなかった。
怒りを声に出すこともなく、敵の戦力を冷静に分析し、一つずつ排除しようとしている。
その姿を見て、セラは初めて理解した。
ユウは決して、戦うことが好きなわけではない。
むしろ、できるなら誰も傷つけたくないと思っている。
だからこそ、守りたかった仲間を奪われたとき、どれほど恐ろしい存在になるのか。
自分たちは、まだ知らなかったのだ。
『敵中型武装艦、主砲充填開始』
アイリスの報告が響いた。
ユウは操縦桿を握り直した。
「……行こう、アイリス」
『了解しました、艦長』
アストライアの主推進器が輝きを増した。
小さな古代航路艦が、倍以上の大きさを持つ武装艦へ向けて加速する。
眠れる獅子が、ついに牙を剥いた。




