第1話 目覚めたら、宇宙だった
目を覚ました瞬間、ユウが最初に思ったのは、会社に遅刻した、だった。ぼんやりとした頭のまま右手を伸ばし、枕元に置いてあるはずのスマートフォンを探す。だが、指先に触れたのは見慣れた充電ケーブルでもベッド脇の棚でもなく、ひやりと冷たい金属だった。
「……ん?」
そこでようやく違和感に気づき、ユウはゆっくりと目を開いた。見上げた天井は、自宅の白いクロス張りではない。少し湾曲した灰色の板材が、継ぎ目の分からないほど滑らかに並び、その端を細い照明が淡く照らしている。寝ていた場所もベッドというより、人の身体に合わせて作られた簡易寝台に近かった。
病院ではない。ホテルでもない。少なくとも、昨夜まで自分が暮らしていた日本の部屋とは何一つ似ていなかった。
「……どこだ、ここ」
返事はない。
ユウは身体を起こし、まず自分の状態を確かめた。頭痛や吐き気はなく、手足にも痺れはない。身体そのものに異常はなさそうだが、着ている服にはまるで見覚えがなかった。黒に近い灰色のシャツとパンツ、それに薄いブーツのような履物まで身につけている。
「誘拐……?」
口に出してみたものの、どうにも現実味がなかった。誘拐犯がわざわざこんな部屋を用意する理由も分からないし、寝台の横に埋め込まれている半透明の板が何なのかすら見当がつかない。壁にはコンセントもスイッチもなく、生活空間というより、何かの施設と考えた方がしっくりくる。
まずは記憶を確認する。
名前はユウ。日本生まれの日本育ち。ゲームやSFが好きな、ごく普通の会社員。
昨日も普通に仕事をしていた。帰宅して、適当に夕食を済ませ、風呂に入って、それから――。
「寝た……よな?」
その先が妙に曖昧だった。眠りについた瞬間をはっきり覚えている人間の方が珍しいとは思うが、今の状況を説明できそうな記憶は何も出てこない。
ユウは寝台から降りた。
部屋の中には、寝台以外ほとんど何もなかった。正面の壁には縦に細い線が一本走っており、近づくとその線に沿って淡い光が灯る。次の瞬間、壁の一部がほとんど音もなく左右へ滑った。
「……自動ドアか」
扉の向こうには細い通路が続いていた。
*
通路へ出たところで、ユウは一度立ち止まった。
部屋の中だけなら、まだ未来的な病院や研究施設という可能性も考えられた。だが、そこから先に広がっていた光景を見て、その希望はかなり薄くなる。
壁も天井も同じ灰色の金属で作られ、ところどころに見慣れない表示灯が埋め込まれている。しかも綺麗な施設というわけではない。壁には黒く焦げた跡が残り、床の端では内部配線らしきものがむき出しになっていた。少し先には、外されたままのパネルまで転がっている。
映画やゲームで見たことのある光景だった。
「いやいやいや……」
頭に浮かんだ単語を、ユウは一度否定した。
宇宙船。
さすがにない。昨日まで普通に会社員をしていた男が、寝て起きたら宇宙船の中にいました、などという話を真顔で受け入れられるほど、ユウは現実離れした性格ではない。
とはいえ、他にまともな説明も思いつかなかった。
右を見れば数メートル先で行き止まり。左側は船体――と呼んでいいのかはまだ分からないが――に沿うように緩く曲がっている。ユウはひとまず左へ進むことにした。
数歩歩いたところで、壁に見慣れない文字が表示されているのが目に入った。
当然、読めるはずがない。
そう思ったのに。
「……居住区?」
口にした瞬間、ユウは足を止めた。
文字の形にはまるで見覚えがない。それなのに、意味だけが頭の中へ自然に入ってくる。試しに少し先の別の表示を見る。
「医療区画……こっち?」
やはり分かる。
「待て待て。なんで読めるんだよ」
今度は宇宙船らしさより、そちらの方が気味悪くなった。自分の頭がおかしくなったのか、それともこの施設側に何か仕掛けがあるのか。どちらにしても、ろくな状況ではない。
ユウはしばらく表示を睨んでいたが、当然何も答えてはくれなかった。元の部屋へ戻ってじっとしていても状況が好転するとは思えず、そのまま先へ進む。
通路にはいくつもの扉があった。だが、近づいても開かないものが多い。表示を見る限り、倉庫、補助管理室、機関区画などがあるらしいが、赤い光が点灯したまま反応しない場所も少なくなかった。
「壊れてる……のか?」
歩きながら周囲を観察すると、施設全体がかなり傷んでいることが分かってきた。焦げ跡だけではなく、壁そのものが歪んでいる場所もある。何かを溶接したような補修跡も多く、大きな事故の後に最低限だけ直して使っているようにも見える。
そして何より、人の気配がなかった。
これだけの設備があるのに、誰とも会わない。足音も話し声も聞こえず、聞こえるのは自分の靴音と、どこか遠くから響いてくる低い機械音だけだった。
「誰かいませんかー!」
試しに声を上げてみる。自分の声が通路へ響き、少し遅れて消えた。
返事はない。
「……嫌だな、この感じ」
SF映画なら、この後だいたい何か出てくる。化け物か、死体か、暴走した機械か。そこまで考えて、ユウは余計な想像を振り払うように首を振った。
「そういうのやめよう。マジで」
しばらく進むと、通路の先に他より大きな扉が現れた。中央には円形の印と、その下に文字が表示されている。
今度も意味が分かった。
「……艦橋?」
ユウは完全に足を止めた。
艦橋。
その言葉が意味するものは、ほとんど一つしかない。
「船……なのか?」
さっきまで冗談半分で考えていた単語が、急に現実味を持つ。
恐る恐る扉へ近づくと、今まで閉じたままだった扉とは違い、中央の表示が赤から青へ変わった。
《認証》
意味を理解した直後、扉が開いた。
*
艦橋は、ユウが想像していたより広かった。
中央に大きな座席が一つあり、その周囲を囲むように複数の操作席が配置されている。正面には窓の代わりらしい巨大な黒いパネルがあり、左右の壁にも大量の表示装置が並んでいた。ただ、その半分近くは消灯しており、ここもまともな状態ではないことが一目で分かる。
「……本当に艦橋じゃん」
もう否定する材料はほとんど残っていなかった。
ユウはゆっくり中へ入り、中央の座席へ近づいた。他の設備はどこかくたびれているのに、その座席だけは妙に綺麗だった。埃もなく、まるでついさっきまで誰かが使っていたようにも見える。
「座っていいのか、これ」
誰もいない。
当然、返事もない。
ユウは少し迷った末、中央席へ腰を下ろした。
その瞬間、艦橋全体に光が走った。
「うわっ!」
今まで消えていた表示装置が次々と点灯する。正面の巨大パネルにも光が入り、暗かった艦橋が一気に目を覚ました。
そして、画面いっぱいに黒い宇宙が映った。
無数の星。遠くに青白く光る恒星。その手前を、ゆっくり横切っていく小さな岩塊。カメラ越しなのか、窓の代わりなのかは分からない。だが、そこに映っているものが本物だと、なぜか直感的に理解してしまった。
「……宇宙?」
自分の声が、やけに小さく聞こえた。
昨日まで日本にいた。普通に会社へ行き、普通に帰って、普通に寝たはずだった。それが今は、見知らぬ船の艦橋で宇宙を見ている。
「いや、待て。待て待て待て」
ユウは両手で顔を覆った。寝起きに受け入れる情報量ではない。
「夢だろ、これ」
頬をつねる。
「痛い」
残念ながら、夢ではなさそうだった。
ユウが頭を抱えた、その時だった。
『生体反応の覚醒を確認しました。認証処理を開始します』
澄んだ女性の声が、艦橋のどこかから聞こえた。
ユウは勢いよく顔を上げる。
「……誰?」
返答の代わりに、目の前へ半透明の表示が現れた。
《生体識別》
《照合中》
《適合確認》
見知らぬ文字だった。それなのに、意味は分かる。
「またこれか……」
いくつかの項目が高速で切り替わり、最後に一つの表示が大きく浮かび上がった。
《艦長権限 暫定認証》
「……は?」
女性の声が続く。
『認証を確認しました。おはようございます、艦長』
ユウは宇宙が映る正面画面と、自分しかいない艦橋を交互に見た。それから、念のため確認する。
「……俺のこと?」
『他に該当者はいません』
「そういう問題じゃないんだけど」
『質問の意図を解析します』
「いや、いい。ちょっと待って」
ユウは再び顔を覆った。
知らない場所。知らない宇宙船。なぜか読める文字。そして、いきなり与えられた艦長権限。どれか一つだけでも十分おかしいのに、全部まとめてやってきた。
そのまま数秒黙ったあと、ユウは諦めたように正面の宇宙を見た。
「……とりあえず、一個ずつ聞こう」
『了解しました』
「まず、ここはどこ?」
女性の声は少し間を置いた。
『現在位置を照合します』
正面画面の一部に星図らしきものが表示される。だが、すぐに複数の警告が重なった。
《航法記録 破損》
《星図照合 失敗》
《現在宙域 特定不能》
「……分からない?」
『はい』
「じゃあ、この船は?」
今度はすぐに答えが返る。
『長距離独立行動型、航路開拓・観測艦』
ユウは少し眉を寄せた。戦艦でも巡洋艦でもなく、聞き慣れない役割だった。
「航路開拓?」
『はい』
さらに情報が表示される。
《艦名》
《ASTRAIA》
「アストライア……」
『正式艦名です』
「じゃあ、君は?」
少しだけ間があった。
『統合管理AI。識別符号、AIRI-S』
「エーアイアールアイ……?」
『AIRI-S』
「呼びにくいな」
『正式識別符号です』
ユウはしばらく考えた。
「じゃあ、アイリスでいい?」
今度は、ほんの少しだけ返答が遅れた。
『……呼称として登録可能です』
「じゃあ決まり。アイリス」
『了解しました、艦長』
艦橋に、その呼び名が初めて響いた。
*
ユウはまだ何も分かっていなかった。
なぜここにいるのか。なぜ見知らぬ文字が読めるのか。なぜアストライアが自分を艦長として認証したのか。そして、地球がどこにあるのか。
分からないことばかりだった。
「ちなみに、地球って分かる?」
『照合します』
少しの沈黙。
『該当する天体情報を確認できません』
「……マジか」
予想はしていたつもりだった。
それでも実際に言われると、胸の奥が少し冷える。
現在地も分からない。
地球も登録されていない。
知り合いもいない。
手元にあるのは、壊れかけらしい宇宙船一隻と、その管理AIだけ。
ユウは正面に広がる星の海を見ながら、しばらく何も言わなかった。
それから、小さく息を吐く。
「……まあ、生きてるだけマシか」
『肯定します。生命維持系は現在稼働中です』
「そういう意味じゃないけど、ありがとう」
『どういたしまして』
妙に真面目な返事に、少しだけ肩の力が抜けた。
「じゃあ次。今すぐ死にそうな問題ってある?」
『あります』
「あるの!?」
ユウは反射的に座り直した。
目の前に新しい表示が開く。
《主電源 不安定》
《推進系 一部停止》
《航法記録 破損》
《外部通信 機能低下》
《船体損傷 複数》
最後に、赤い表示。
《長期航行能力 不足》
「……壊れかけじゃん」
『概ね正しい認識です』
「さっきから淡々としてるな、君」
『統合管理AIですので』
ユウは思わず笑った。
笑っている場合ではない。
でも、何も分からない宇宙で絶望するよりは、やることが見えた方がまだいい。
まず船を確認する。
使える設備を調べる。
ここがどこなのか探す。
そして、人のいる場所を見つける。
「よし」
『はい』
「まずは、この船がどれくらい壊れてるのか教えて」
『了解しました、艦長』
正面画面に、アストライアの全体図がゆっくりと表示されていく。
細長い船体。
各所に灯る黄色と赤の警告。
そして、艦首近く。
一瞬だけ。
ユウには意味の分からない表示が浮かんだ。
《鍵――》
《認証――》
だが、読み取る前に消える。
「今、何か出なかった?」
『確認します』
少しの沈黙。
『該当表示を確認できません』
「気のせい?」
『その可能性があります』
「そっか」
ユウは深く考えなかった。
今は他に考えることが多すぎる。
こうして。
日本で普通の会社員だったユウの宇宙生活は、壊れかけの古代船と、少し融通の利かないAIとともに始まった。




