名前の向こう側(まとめ)
クライン商会への返答文を出し終えたあと、私はようやくペンを置いた。
指先が痛い。長時間握り続けたせいで、少し強張っている。
今日だけで、いくつ書類を書いただろう。
王都商談宿への照会文。クライン商会への条件照会。ダール商会への商号使用通知。ベルモンド商会への取得条件照会。フィルベール織物商への交互計算確認。そして、クライン商会への運送経路確認。
並べてみると壮観である。
令嬢の一日ではない。
商会の一日だ。
「お嬢様」
ノアが、そっと紅茶を差し出した。
今度こそ書類は添えられていない。
そう見える。
私は念のため、カップを受け取る前に皿の下まで確認した。
「お嬢様」
「何?」
「そこに書類はございません」
「信用していないわけではないの。確認しているだけよ」
「大変よいことです」
「あなたにそう言われると、なぜか負けた気がするわ」
ノアは穏やかに微笑んだ。
「お嬢様がご自身でお確かめになるのであれば、私は喜んで負けます」
「甘いことを言っているのに、逃がす気はないわね」
「もちろんでございます」
甘やかす。
けれど、逃がさない。
疲れているなら休ませる、ではない。座りやすい椅子を用意し、紅茶を温め、必要な書類を見やすい順に並べ、できるだけ快適な状態で仕事を続けさせる。
ノアの甘やかしとは、そういうものらしい。
やはり優雅な拘束具ではないだろうか。
ロッテは机の上に並んだ控えを、一枚ずつ揃えていた。
紙の端はぴたりと重なっている。
内容は全く優しくない。
「ロッテ」
「はい」
「今日の分を、少しだけ整理してもらえる?」
「承知しました」
待っていましたと言わんばかりに、補助簿が開いた。
少しだけ、と言ったはずなのだけれど。
「まず、王都商談宿です」
「高価なものは、預け方まで記録する」
「はい。宝石は価額の問題です。書類は信用の問題です」
「そして噂は、中身を読まない」
口にしてから、私は少しだけレオンハルト殿下を見る。
殿下は机の端に立ち、こちらの話を聞いていた。
褒めるわけでもない。
訂正するわけでもない。
ただ聞いているだけなのに、採点を待っているような気分になる。
嫌な圧である。
ロッテの補助簿に青い線が入った。
「次に、クライン商会からの匿名出資案です」
「名前を出さない支援ほど、誰が内側に入るのか確認する」
「はい」
「ヴィオラ様の私信は?」
「正式文書と分けます」
「返事は?」
「しません」
ノアとレオンハルト殿下が、ほとんど同時にうなずいた。
「そこで一致しないで」
「事実でございます」
「事実だ」
「ほら」
別に争ってほしいわけではない。
ただ、この二人がこういうところだけ綺麗に意見を合わせるのは、少し納得がいかない。
ロッテが補助簿に灰色の線を引いた。
「今のは?」
「一時的利害一致、継続発生です」
「そんな分類までできたの?」
「必要になりましたので」
分類が育っている。
何のために。
「次に、ダール商会の商号使用です」
「名前を貸すことは、信用を貸すこと。推薦の札も、小さくても看板」
「青字です」
「今ので?」
「定着確認です」
少しだけ得意になりかけた。
「得意になるには早い」
即座に刺された。
「殿下」
「まだ一日だ」
「事実ですが、言い方というものがございません?」
「一日で分かったつもりになる方が危うい」
それも事実である。
腹立たしい。
ロッテは青い線を引き、その横へ灰色を重ねた。
「また混ざったわね」
「発言内容は青字、言い方は灰色です」
「便利ね、その処理」
「殿下には特に有効です」
レオンハルト殿下は否定しなかった。
受け入れるのね。
「次に、ベルモンド商会です」
ロッテが頁をめくる。
「古い看板は、客だけでなく過去も連れてくる」
「はい」
「古い商号を使えば、外からは同じ店に見える。違うと言うなら、見える形でも違わせる」
レオンハルト殿下が、わずかに目を細めた。
「覚えていたか」
「覚えていました」
「ならいい」
「それは褒め言葉ですか?」
「確認だ」
「でしょうね」
もう期待しない。
たぶん。
「続いて、フィルベール織物商との交互計算です」
「差し引いた後の残高は、思い出より強い」
「はい」
「一式は?」
「だいたい怪しいです」
「それは覚えたわ」
「青字です」
一式。
便利な言葉である。
便利だから怪しい。
今日一日で、ずいぶん嫌な学習をしたものだと思う。
「最後に、クライン商会の運送提案です」
「親切な運送人ほど、道順を確認する。返送品と交換品と試験納入品は分ける。旧ベルモンド店舗候補には、まだ荷物を入れない」
「青字二本です」
私は大きく息を吐いた。
青字が増えた。
昨日まで見えなかったものが、今日は少しだけ見える。
そのぶん、知らないふりもしにくくなった。
婚約破棄された令嬢なのだから、今頃は部屋へ閉じこもって泣いていたとしても、たぶん誰も責めなかっただろう。
むしろ、その方が令嬢らしい一日だった気さえする。
けれど私は、朝から宿へ宝石を預ける方法を考え、匿名の出資者を警戒し、商号を貸す危険を知り、古い看板についてきた過去を見て、差引残高を疑い、最後には荷物の通る道まで確認していた。
何をしているのだろう。
いや。
商会をしているのか。
そう思うと、妙に納得できた。
私は机に並ぶ控えへ目を落とした。
「ロッテ」
「はい」
「家名って、私だけのものではないのね」
ロッテの手が止まった。
「お嬢様」
「私はずっと、アルマーシュの名前を守るというのは、自分の誇りを守ることだと思っていたわ。馬鹿にされないように。侮られないように。婚約破棄されても、せめて家だけは残すために」
それも、きっと間違いではない。
でも。
「それだけではないのね」
アルマーシュの名を見て、品物を買う人がいる。
支払いを待つ人がいる。
物を預ける人がいる。
運んでくれる人がいる。
請求書を持ってくる人もいる。
その人達の多くは、私自身を知らない。
ミレイユ・アルマーシュという一人の人間ではなく、アルマーシュという名前を見て動いている。
「私が知らないところでも、その名前を見て動く人がいる」
口にすると、胸の奥が少し重くなった。
名前は、私より先に歩いていく。
信用を連れて。
責任まで連れて。
「なら私は……知らないままではいけないのね」
ロッテが補助簿へ青い線を引いた。
当然、紙に線を引く音など大して聞こえるはずもない。
けれど、なぜか分かった。
「大変よいご理解です」
「帳簿上は?」
「青字です」
「何本?」
「本日は、頁を分けます」
思わず笑った。
「特別扱い?」
「重要項目ですので」
そういう特別扱いなら、悪くない。
ノアが静かに膝を折り、私と視線の高さを合わせた。
「お嬢様」
「何?」
「本日は、本当にお疲れさまでございました」
「ようやく休める?」
「はい」
私は目を瞬いた。
「本当に?」
「本当に」
「書類は?」
「本日は、ここまででございます」
「帳簿上も?」
ロッテがうなずく。
「帳簿上も、本日はここまでです」
本当に終わった。
にわかには信じ難い。
長かった。
ものすごく長かった。
婚約破棄されて数日とは思えないほど、長かった。
力を抜いて椅子へ身体を預けたところで、レオンハルト殿下が机に並ぶ六通の控えへ順に目を通した。
誤字を探しているようにも見える。
いや、違う。
きっとこの人は、そこでも外側を見ている。
昨日、私との婚約を切った。
今日は私の屋敷へ来て、一日近く居座った。
慰めに来たわけではない。
謝罪をしに来たわけでもない。
優しい言葉をかけてくれるわけでもなく、泣いていいとも、心配するなとも言わなかった。
代わりに、私が書類の中身を見るたび、その外側に何が見えるのかを突きつけてきた。
それが優しさなのか。
王家の都合なのか。
私を守ろうとしているのか。
単に王家の名誉を守っているだけなのか。
まだ分からない。
ただ。
無関心ではない。
そこだけは、もう分かってしまった。
「王都商談宿の件は、王宮側からも照会を出す」
殿下が言った。
「私は戻る」
ようやく。
そう思ったのは、たぶん私だけではない。
ノアが扉の方へ一歩進み、深々と一礼した。
「殿下。本日は、王宮側のご説明ならびに各書面へのご助言を賜り、誠にありがとうございました」
「……」
「おかげさまで、お嬢様も当家も、想定しておりました以上に多くの事項を確認することができました」
完璧な礼である。
言葉だけを見れば、どこにもおかしなところはない。
けれど私は、この家でずっとノアに世話をされてきた。
だから分かる。
これはたぶん。
――殿下、かなり長くいらっしゃいましたね。
を、王宮礼法と白手袋で三重くらいに包んだものだ。
ノアはさらに微笑んだ。
「殿下の貴重なお時間を、これ以上当家の執務室にお留めするのは、私どもとしても大変心苦しく存じます」
うん。
間違いない。
帰ってください、だ。
レオンハルト殿下がノアを見る。
「遠回しだな」
「恐れ入ります」
「帰れ、という意味か」
「殿下のご予定を案じております」
「同じだ」
「恐れ入ります」
微笑みは一切崩れない。
強い。
ロッテが補助簿を開いた。
「ロッテ」
「はい」
「今のは?」
「高密度婉曲表現です」
「色は?」
「灰色です。謝意と退去要請が混在しています」
「でしょうね」
レオンハルト殿下が、わずかに息を吐いた。
笑ったようにも見えた。
そうでないようにも見えた。
表情まで灰色である。
「ミレイユ」
「はい」
「中身を整える前に、外から形を取られるな」
「また難しいことをおっしゃいますね」
「噂は、中身を待たない」
「だから殿下は、外からの見え方を止めにいらしたのですか」
「止められるものだけだ」
「十分では?」
「十分ではない」
即答だった。
「だが、君が説明する前に形を決められるよりはいい」
返事に詰まった。
まただ。
この人は、こういう言い方ばかりする。
優しいとは言わない。
守るとも言わない。
何のためにやっているのかも、はっきりとは言わない。
けれど、私が話す前に、他人が勝手に私の形を決めることを嫌っている。
それが何なのかは、まだ分からない。
分からないなら、今は分からないままでいい。
今日覚えたばかりだ。
確定できないものは、確定しない。
私は立ち上がり、礼を取った。
「……本日は、ありがとうございました」
「礼は不要だ」
「それはこちらで決めます」
殿下は少しだけ目を伏せた。
「そうか」
その一言だけ残し、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
空気が軽くなった。
ほんの少しではない気もする。
「ロッテ」
「はい」
「今の殿下は、帳簿上どうなるの?」
ロッテは補助簿を見下ろした。
珍しく、少しだけ考える。
「灰色です」
「やっぱり」
「ただし、青字が混ざっています」
「何の青字?」
「お嬢様が説明する前に、外から形を決められることを止めようとしていた点です」
私は少し黙った。
「……分かりにくい人ね」
「はい」
「分類不能?」
「継続観察です」
「またそれ?」
「重要人物ですので」
何の重要人物かは聞かない。
聞いたところで、たぶん灰色である。
ノアが紅茶を差し出した。
「お嬢様」
「何?」
「今度こそ、本当に紅茶だけでございます」
「信じるわ」
「確認されますか?」
「するわ」
「大変よいご判断です」
皿の下を見る。
何もない。
本当に。
ようやく。
ただの紅茶だった。
私はカップを受け取った。
まだ温かい。
窓の外では、日が傾き始めていた。
薄い金色の光が硝子を透かし、机の上に並ぶ書類の端を静かに照らしている。
朝にはただの紙だったものが、いまは一つ一つ違って見えた。
名前。
信用。
約束。
責任。
人と人のあいだにある、目には見えないもの。
それらは形を持たないくせに、紙へ書かれ、看板へ刻まれ、荷物とともに道を渡り、誰かの記憶へ残っていく。
婚約破棄された令嬢として泣くには、まだ心の置き場が見つからない。
悲しくないわけではない。
傷ついていないわけでもない。
ただ今日は、それとは別のものを知りすぎた。
私は紅茶を一口飲む。
温かな香りの向こうで、夕暮れの光がアルマーシュの名を記した紙を染めていた。
昨日まで、その名は私が守るものだった。
けれど今は、少し違う。
誰かが見て。
誰かが信じて。
私の知らない場所まで歩いていく名前。
ならば私は、追いかけなければならないのだろう。
飾るためではなく。
縛られるためでもなく。
その名前が、どこへ行き。
誰に届き。
何を連れて帰ってくるのか。
それを、自分の目で見るために。
夕暮れの中、紙の上の文字だけが静かに残っている。
アルマーシュ。
それはもう、ただ私を示す名前ではなかった。
そして私はようやく、その名前の向こう側を見ようとしていた。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
これにて、本作はひとまず完結です。
まずは何より。
婚約破棄された令嬢が、泣くより先に契約書を読み、帳簿を開き、商号を気にし、最後には運送経路まで確認する話に、最後までお付き合いいただいたことへお礼を申し上げます。
改めて並べると、何を読ませていたのでしょうね。
本作はもともと、
**令嬢ものと商法を組み合わせたら、どうなるだろう。**
という実験から始まりました。
もう一つ、理由があります。
私が書いている『BANされた俺、なぜか運営側で働く』のギアが少しずつ上がり、法律をかなり真正面から扱うようになってきた頃、
法律をもう少し気楽に、楽しく読めるものが一本あってもいいよね。
と思ったのです。
そこで白羽の矢が立ったのが、商法でした。
どうして商法なのか。
一つには、単純に令嬢と商会の相性がよさそうだったからです。
だいぶ軽い。
でも、もう一つ。
商法という法律は、現在の取引を扱いながら、その奥に古い商慣習や、ずいぶん昔から積み重なってきた考え方の名残が見える法律でもあります。
私には、そこがとても面白く見えます。
なんというか。
少し、古の法なのです。
一方で、「令嬢」というものも、創作の中ではずいぶん不思議な存在です。
婚約破棄される令嬢。
悪役になる令嬢。
没落する令嬢。
商会を立て直す令嬢。
家を背負う令嬢。
恋をする令嬢。
恋どころではない令嬢。
同じ「令嬢」という型なのに、そこへ何を入れるかで、まったく違う姿になる。
だったら、その型を商法という素材で描いてみたら、どんなお嬢様になるのだろう。
そんな興味もありました。
その結果できたのが、婚約破棄された翌日から、家名と信用と帳簿について考え始めるミレイユです。
思っていたより働きました。
そして書き始めてみると、商人、商行為、商事売買、商号、営業譲渡、交互計算、物品運送と、当初考えていた以上に真正面から商法を歩く作品になりました。
その一方で、反省もあります。
話を重ねるにつれて、
問題が起きる。
ミレイユが考える。
ノアが整理する。
ロッテが帳簿へ線を引く。
レオンハルトが外側から刺す。
という形式が、かなり明確にテンプレート化してしまいました。
型そのものが悪いとは思っていません。
ただ途中から、物語を動かすことよりも、
**「今回の商法を説明すること」**
が前へ出すぎたところがあります。
書いている私自身、
ちょっと教科書が前に出てきたな。
とは思っていました。
教科書、座って。
もう少し登場人物に任せてよかった。
そのあたりは、少し時間を置いて余裕ができたら、第一部を改めて見直してみたいと思っています。
説明を削るところは削る。
人物同士のやり取りへ戻せるところは戻す。
せっかく物語に翻訳したのだから、もう少し物語に働いてもらいたい。
そんな反省です。
そして、ここからは少し舞台裏のお話を。
本作の主要人物は、それぞれが一人のキャラクターであると同時に、商会を構成する機能のメタファーでもありました。
まず、ミレイユ。
彼女は**生徒であり、商人**です。
読者と同じところで分からなくなり、間違え、教わり、それでも最後には自分で判断しなければならない人。
同時に、アルマーシュという名前と信用について、最終的に責任を負う側でもあります。
だから最後に彼女が辿り着いたのは、
「法律を覚えました」
ではなく、
「知らないままではいけない」
でした。
ノアは、**支配人**。
ミレイユの一番近くにいて、実務を整え、必要なものを揃え、本人が判断できる環境を作る人です。
疲れていれば紅茶を出します。
椅子も整えます。
書類も並べます。
休ませるとは限りません。
優しい。
逃がさない。
内部実務とは、時にそういうものなのかもしれません。
ロッテは、**財務と記録**。
感情がどれだけ揺れていても、帳簿は帳簿です。
青字なのか。
赤字なのか。
灰色なのか。
彼女は最後まで、起きたことを記録し、混ざっているものを分け、確定できないものを勝手に確定しない役でした。
そしてたぶん、本作で一番ぶれなかった人です。
帳簿係ですので。
レオンハルトは、**外部監査**に近い立場です。
本人は一度も監査役を名乗っていません。
それでも彼は一貫して、
中にいる人間には見えにくいもの。
つまり、
**「外からどう見えるか」**
を指摘し続けました。
契約の中身が正しいかだけではなく、その行為が外部からどう受け取られるのか。
名前がどう歩くのか。
信用がどう見えるのか。
彼が見ていたのは、だいたいそこです。
褒め言葉の在庫はありません。
たぶん倉庫にもありません。
そしてヴィオラは、**外部資本**。
好意もある。
善意もある。
ミレイユを助けたい気持ちも、おそらく本物です。
でも、資本も支援も提携も、
善意だから無条件に内側へ入れてよい、
というものではありません。
誰が入るのか。
何を見られるのか。
どこまで関与するのか。
かわいい顔をして、一番いろいろ持ってきます。
本当は、この五人をもっと噛み合わせることで、
内部執行。
財務。
外部監視。
外部資本。
そして、それらを受けて最終判断をする商人。
という関係そのものを、物語として動かしたかったところがあります。
設定としてはかなり意識していました。
ただ、十分に使い切れたかと言われると、そこは心残りです。
設定はあった。
使い切れなかった。
創作ではよくあることです。
たぶん。
それでも、この作品で一つだけ、最後まで崩したくなかったものがあります。
**法律を、ちゃんと教えること。**
簡略化はする。
物語へ翻訳もする。
笑いにもする。
お嬢様にもする。
でも、分かりやすくするために、法律そのものを雑には扱わない。
『法律を翻訳する』シリーズの中でも、『商法お嬢様』はそこを最後まで一番真面目に守った作品だったように思います。
商法。
名前だけを見ると、少し近寄りがたい法律かもしれません。
けれど、中を覗いてみれば、
誰を信用するのか。
何を約束したのか。
誰の名前で商売するのか。
誰が責任を負うのか。
何を残しておくのか。
誰かと誰かが、一緒に何かをするときに必要になることが、たくさん詰まっています。
そして、その意味では。
家の名を背負い。
信用を背負い。
誰かとの関係の中で生きている「令嬢」という型と、思っていた以上に相性のよい法律だったのかもしれません。
ミレイユと一緒に帳簿を覗いて、
「ああ、商法ってこういうことも考えるんだ」
と、ほんの少しでも思っていただけたなら。
そしていつか、どこかで「商法」という文字を見かけたとき、
以前よりほんの少しだけ近く感じてもらえたなら。
この実験作を書いた甲斐は、十分にあったと思っています。
さて。
本作は、ここでいったん完結です。
商法のお話として始めた以上、まずは商法で終わろうと思います。
ただ。
商会が大きくなって。
人が集まり。
お金が集まり。
それが一人の商人の営みではなく、「組織」になっていけば。
その先には、当然ながら別の法律が待っています。
会社法です。
……待っていますね。
かなり大きいのが。
今回は、そこへ中途半端に足を踏み入れることはしませんでした。
会社法をやるのであれば、私自身がもう一度きちんと向き合って、
どうすれば楽しく読めるのか。
どうすれば物語として翻訳できるのか。
そこまで考えてから書きたいと思っています。
なので、いったんここまで。
いつか私が会社法とちゃんと向き合い、
「よし、これならミレイユ達に任せられる」
と思えるところまで辿り着けたなら。
そのときは、商人になったミレイユと一緒に、第二部をお送りできればと思っています。
第一部の最後で、ミレイユはようやく「名前の向こう側」を見るようになりました。
次に彼女が見るものが、
一人の商人の名前ではなく、
人が集まり、意思が集まり、資本が集まってできる何かになるのなら。
それはきっと、また少し違うお話になるのでしょう。
その日が来るまでは。
アルマーシュ商会の帳簿を、いったん棚へ。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
少しでも商法を知るきっかけになっていたなら、幸いです。
アルティス




