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婚約破棄されたはずの令嬢ですが、執事も王子も恋敵もなぜか商法で溺愛してきます  作者: Altis


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2/9

第1話 婚約破棄されたので泣こうと思ったら、請求書が来ました(信用不安)



 アルマーシュ家の名にかけて、うろたえてはいけない。


 そう教えられて育った。


 背筋はまっすぐ。

 顎は下げすぎず、上げすぎず。

 相手の瞳を見るときは、怯えてはいけない。

 けれど、見下してもいけない。


 公爵家の令嬢とは、ただ美しく着飾る者ではない。


 家の名を背負い、場の空気を乱さず、そこに立っているだけで相手を安心させる者だ。


 父は、よくそう言っていた。


 だから私は、その夜、王城の大広間に立っていた。


 大丈夫。


 背筋は伸びている。

 扇を持つ手も震えていない。

 微笑みも、たぶん崩れていない。


 問題があるとすれば、手袋の中が少し汗ばんでいることと、今すぐ自室の寝椅子に逃げ帰りたいことくらいだ。


 王都の人々は、私を「氷の令嬢」と呼ぶ。


 失礼な話である。


 氷なら、ここまで内側が忙しくない。


 アルマーシュ公爵家の一人娘、ミレイユ。


 それが私だ。


 今夜の大広間には、妙な緊張があった。


 父が亡くなってから、アルマーシュ家についてよくない噂が流れていることは知っていた。


 商会からの返事が遅れている。

 取引先が、いつもより早く確認を求めている。

 王都の社交界では、アルマーシュ家は大丈夫なのかと囁かれている。


 知らないふりをしていたわけではない。


 心配していなかったわけでもない。


 ただ、私はそれを、家名を守るための問題だと思っていた。


 夜会に出る。

 背筋を伸ばす。

 不安を顔に出さない。

 アルマーシュの令嬢はまだ崩れていないと、周囲に見せる。


 それが、今の私にできる一番大切なことだと思っていた。


 商会の返事が一日遅れること。

 取引先が一通早く確認を寄こすこと。

 支払期限というものが、噂よりも冷たくこちらを見ていること。


 そのときの私は、それがどれほどの意味を持つのか、まるで分かっていなかった。


「お嬢様」


 背後から、静かな声がした。


 ノア・グレイス。


 アルマーシュ家に仕える執事であり、父の代から家と商会を支えてきた男だ。


 私が幼いころ、礼の角度を間違えて泣きそうになったときも。

 初めて夜会に出て、扇を逆さに持っていたときも。

 父の訃報を聞いて、廊下で立ち尽くしたときも。


 ノアは、いつも半歩後ろにいた。


 近すぎず。

 遠すぎず。

 私が倒れそうになれば支えられる距離に。


 そして、私が逃げ出そうとすれば、たぶん先に扉を閉められる距離に。


 黒髪。

 モノクル。

 白手袋。

 隙のない立ち姿。


 私が「氷の令嬢」などと呼ばれる原因の半分は、たぶんこの男である。


 なにしろ、私の背後にノアが立っているだけで、周囲は勝手に緊張する。

 私が何も考えていなくても、何か深い考えがあるように見えるらしい。


 便利ではある。


 迷惑でもある。


「表情が硬うございます」


「この状況で柔らかい顔をしていたら、それはそれで変でしょう」


「ごもっともでございます」


 ノアは、そう言って私の手元を一瞬だけ見た。


 扇の角度。

 指先の力。

 呼吸の浅さ。


 昔からそうだ。


 この男は、私が自分で気づくより先に、私がどれくらい逃げたいかを知っている。


「ノア」


「はい」


「今夜は、何事もないわよね?」


 そう聞くと、ノアはほんの少しだけ沈黙した。


 ほんの少し。


 けれど、私はそれを聞き逃さなかった。


「……何かあるの?」


「何事もない夜会というものは、王城にはあまりございません」


「そういう言い方をするときは、大抵何か隠しているわね」


「お嬢様がお知りになるには、少々早いことかと」


「つまり、私が知らない方がいいことがあるのね」


「はい」


「正直!」


 思わず声が大きくなりかけたので、私は慌てて扇で口元を隠した。


 いけない。


 大広間で叫ぶ令嬢など、氷どころか春先の雪解け水である。


 ノアは、いつものように涼しい顔で微笑んだ。


「ご安心ください。何があっても、私はお嬢様のお側におります」


「そう言われると安心するべきなのに、なぜか逃げ場を塞がれた気持ちになるわ」


「お嬢様が傷つかれる場所へは、できる限り行かせません」


「優しい言葉ね」


「ですが、お嬢様が見るべきものからは、目を逸らさせません」


「優しくなかったわ」


「甘やかすことと、お守りすることは、少し違いますので」


「昔からそういうところがあるわよね、あなた」


「昔から、お嬢様にお仕えしておりますので」


「それ、理由になっているの?」


「私にとっては」


 さらりと言われて、少しだけ返事に困った。


 ノアは線を越えない。


 私を子ども扱いもしない。

 馴れ馴れしくもしない。

 人前では、どこまでも完璧な執事でいる。


 けれど、その線の内側を、いつの間にか隙間なく埋めてくる。


 だから私は、少しだけ気を許してしまう。


 少しだけ、腹が立つ。


 そのときだった。


 大広間の入口側が、ふっと静かになった。


 人の視線が一斉に同じ方向へ流れる。


 けれど、その視線の中に、いくつか違う種類のものが混じっていることに、私は気づいてしまった。


 貴族たちの視線は、噂を探している。


 商人たちの視線は、損を避けるための出口を探している。


 そして、噂好きの伯爵夫人たちの視線は、明日の茶会に持ち込む獲物を探している。


 どれも、あまり令嬢に向けてよい目ではない。


 私は扇の陰で、そっと息を吸った。


 大丈夫。


 背筋はまっすぐ。

 顎は下げすぎず、上げすぎず。

 相手の瞳を見るときは、怯えてはいけない。


 けれど、見下してもいけない。


 父の声を、頭の奥でなぞる。


 その瞬間、金糸のような髪が見えた。


 白と金の礼装。

 青い瞳。

 誰もが息を呑むほど美しい、完璧な王子。


 レオンハルト・ヴァン・クラウス。


 クラウス王国第一王子。


 そして、私の婚約者。


 そのはずだった。


 彼の隣に、ひとりの令嬢がいた。


 淡い紫の髪。

 白と桃色の花を散らした、優しげなドレス。

 やわらかな笑み。


 ヴィオラ・クライン。


 新興商会クライン家の令嬢。

 最近、王都の社交界で急に名を聞くようになった女性だ。


 彼女は、私と目が合うと、ふわりと微笑んだ。


 その笑顔は、あまりに優しかった。


 優しすぎて、胸がざわついた。


 なぜ、レオンハルト殿下の隣にいるの。


 私はそう聞きたかった。


 けれど、公爵家の令嬢は、大広間で感情を露わにしない。


 だから私は、微笑んだ。


 完璧に。

 優雅に。

 何も気づいていないかのように。


 レオンハルト殿下が、まっすぐ私の前まで歩いてくる。


 周囲が道を空ける。


 ざわめきが消える。


 そして、彼は言った。


「ミレイユ・アルマーシュ」


 名を呼ばれた瞬間、私は嫌な予感を覚えた。


 王子が夜会で婚約者の名を呼ぶ。


 それ自体は珍しくない。


 けれど、彼の声は甘くなかった。


 低く、よく通り、あまりにも公的だった。


 恋人へ向ける声ではない。


 王家が、家に向ける声だった。


「はい、レオンハルト殿下」


 私は礼を取った。


 美しく。

 乱れなく。

 今すぐ逃げたい気持ちを、青いドレスの裾の下に押し込めて。


 レオンハルト殿下は、淡々と告げた。


「私は、君との婚約を破棄する」


 大広間の空気が、音を立てて凍った気がした。



挿絵(By みてみん)



 婚約破棄。


 そう。


 婚約破棄である。


 貴族令嬢として生まれた以上、政略結婚くらいは覚悟していた。

 王族との婚約が、恋だけで成り立っていないことも分かっていた。


 分かっていたけれど。


 夜会の大広間で。

 王侯貴族と商会関係者が見守る中で。

 よりによって、噂好きの伯爵夫人が三人もいる前で。


 婚約破棄。


 これは、泣いていい。


 いや、泣くべきだ。


 私はそう判断した。


 けれど、泣かなかった。


 アルマーシュ家の名にかけて、うろたえてはいけない。


 父の声が、頭の奥で響いたからだ。


「理由を、お聞かせいただけますか」


 私の声は震えていなかった。


 自分で自分を褒めたい。


 レオンハルト殿下は、少しだけ目を細めた。


 満足したようにも見えた。

 哀れんでいるようにも見えた。

 どちらでもないようにも見えた。


「アルマーシュ家は、王家と婚姻を結ぶに足る信用を維持できていない」


 信用。


 その言葉が、大広間の天井に冷たく響いた。


「先代の死後、商会の債務整理は遅れ、取引先への返答も滞っている。未処理の契約、回収不能の噂、名義をめぐる疑義。いずれも、王家として看過できない」


 私は、言葉を失った。


 婚約破棄の理由は、私が愛されなかったからではなかった。


 いや、愛されなかったのかもしれない。


 その可能性を考えると胸が痛い。


 けれど、王子が口にしたのは恋ではなかった。


 債務。

 契約。

 名義。

 信用。


 知らない言葉ではない。


 でも、夜会で婚約者から言われる種類の言葉では絶対にない。


「レオンハルト殿下」


 私は扇を握りしめた。


「アルマーシュ家は、王家を欺くようなことはいたしません」


「そうだろう」


 彼はすぐに答えた。


「だが、欺くつもりがないことと、信用されることは同じではない」


 胸の奥が、強く痛んだ。


 反論したかった。


 でも、何に反論すればよいのか分からなかった。


 私は父の死後、商会の細かいことをノアに任せていた。

 帳簿はロッテが見ていた。

 取引先とのやり取りも、だいたいは屋敷の者が整えてくれていた。


 私は、家の顔として、社交界に立っていればいいのだと思っていた。


 アルマーシュの名を汚さないように。

 美しく。

 気高く。

 堂々と。


 それで、家は守れるのだと思っていた。


「よって、私はミレイユ・アルマーシュとの婚約を破棄する」


 レオンハルト殿下は、そう言い切った。


 彼の隣で、ヴィオラ・クラインが静かに目を伏せている。


 慰めるように。

 祈るように。


 けれど、私には分かった。


 今この場で、彼の隣に立っているのは彼女だ。


 私ではない。


 大広間がざわめく。


 視線が刺さる。

 噂が生まれる音がする。


 笑われてはいない。


 でも、値踏みされている。


 アルマーシュ家は危ないのか。

 王家に切られたのか。

 なら、取引はどうする。

 貸した金はどうする。

 約束は守られるのか。


 私は、胸を張った。


 泣かない。


 今は泣かない。


「承知いたしました」


 自分でも驚くほど、声は冷静だった。


「アルマーシュ家の名にかけて、殿下のお言葉、確かに承りました」


 レオンハルト殿下が、わずかに眉を動かした。


 何か言いたそうに見えた。


 けれど、彼は何も言わなかった。


 私は礼を取る。


 深すぎず、浅すぎず。

 敗者に見えない程度に。

 けれど、王家への敬意は欠かさない程度に。


 完璧に。


 完璧にやったはずだ。


 なのに、足元が少しだけ揺れた気がした。


「お嬢様」


 すぐ後ろから、ノアの声がした。


 私は振り向かないまま答える。


「今は慰めて」


「もちろんでございます」


 ノアは、私の半歩後ろに控えたまま、柔らかく言った。


「泣く権利は、お嬢様にございます」


「なら泣かせて」


「はい。ですが、泣く場所はお選びくださいませ」


「場所?」


「ここは大広間です。皆さまは今、お嬢様の涙ではなく、アルマーシュ家の揺らぎを見に来ております」


 なんて嫌な慰め方だろう。


 でも、ノアの声は優しかった。


 優しいのに、逃げ道を塞いでくる。


「つまり、ここでは泣くなってこと?」


「お嬢様のお心が許すなら」


「許さなかったら?」


「その場合は、私の背で隠します」


 私は少しだけ笑いそうになった。


 ずるい。


 そういうことを言われると、泣けなくなる。


「ノア」


「はい」


「これは、失恋よね?」


「はい。失恋でございます」


 ノアは否定しなかった。


 それだけで、胸が少し緩んだ。


「では同時に、別の問題でもございます」


「余韻を返して」


「後ほど、いくらでも」


「いくらでも?」


「紅茶と菓子と膝掛けを用意いたします」


「それは少し欲しいわね」


「では、そのためにも今は退席いたしましょう」


 ノアは手を差し出した。


 白手袋に包まれた手。


 いつもなら当たり前のように取る手。


 けれど今夜は、その手がひどく遠く見えた。


「お嬢様」


 ノアが私にだけ聞こえる声で言う。


「今夜のお嬢様の一礼は、明日の取引条件になります」


「……取引条件?」


「言葉の意味は、あとでお教えします。今は、背筋だけ伸ばしてくださいませ」


 私はその手を取った。


 負けていないように。

 捨てられたように見えないように。

 何より、アルマーシュ家の名がこれ以上軽く見られないように。


 最後に一度だけ、レオンハルト殿下を見た。


 彼は、ヴィオラ・クラインを横に従えたまま、こちらを見ていた。


 冷たく。

 美しく。

 腹立たしいほど完璧に。


 私は微笑んだ。


 完璧な令嬢として。


 少なくとも、外からはそう見えるように。


 そして、そのまま大広間を後にした。


 馬車の中で、私は一言も話さなかった。


 ノアも話さなかった。


 ただ、窓の外を流れる王都の灯りだけが、やけに滲んで見えた。


 泣いていない。


 断じて泣いていない。


 これは、夜の灯りが少し揺れているだけだ。


 屋敷に着いたとき、玄関ホールは明るかった。


 遅い時間だというのに、使用人たちが起きている。

 妙に緊張した空気が漂っている。


 私は、深呼吸した。


 大丈夫。


 夜会は終わった。

 私は倒れなかった。

 泣かなかった。

 アルマーシュ家の令嬢として、最後まで立っていた。


 あとは部屋に戻って、ひとりで少しだけ泣けばいい。


 そう思っていた。


 しかし、玄関ホールの中央に、見慣れない山があった。





 紙の山である。




挿絵(By みてみん)


 封筒。

 書簡。

 請求書らしきもの。

 催促状らしきもの。

 印章の押された書類。

 商会名の入った封筒。


 山。


 明らかに、山。


 社交界で崩れなかった私を、紙が待ち構えていた。


「……ノア」


「はい」


「あれは何?」


「お嬢様宛て、およびアルマーシュ商会宛ての書簡でございます」


「なぜ山になっているの?」


「本日夕刻から急に届き始めました」


「夕刻?」


「はい。王城での発表に先立ち、何らかの噂が流れていたものと思われます」


「噂、足が速すぎない?」


 ノアは私の外套を使用人へ渡しながら、穏やかに言った。


「信用は、走るときだけ足が速いものでございます」


「普段は?」


「積み上げるのに、とても時間がかかります」


 そんな詩みたいに言われても困る。


 私は恐る恐る紙の山に近づいた。


 一番上の封筒には、見覚えのある商会名が書かれていた。

 父の代から取引のあった織物商だ。


 封を開ける。


 読めない。


 文字は読める。


 でも、意味を読みたくない。


「ノア」


「はい」


「これ、何と書いてあるの?」


 ノアが書面を受け取り、目を通した。


「支払期日の確認でございます」


「確認?」


「丁寧な言葉を使った、早く払ってください、でございます」


「丁寧な言葉、怖いわね」


「時に刃物より鋭うございます」


 私は別の封筒を取った。


「これは?」


「納品停止の予告でございます」


「これは?」


「取引条件見直しの申入れでございます」


「これは?」


「担保の追加要求でございます」


「担保って何?」


 ノアが一瞬だけ目を閉じた。


 その反応は何。


「お嬢様」


「何?」


「明日から、少しずつ学びましょう」


「今教えて!」


「今すべて説明すると、お嬢様が玄関で倒れます」


「そんなに?」


「はい」


 紙の山の向こうから、小柄な影がひょこりと現れた。


「おかえりなさいませ、お嬢様」


 その声は、いつもより少しだけ小さかった。



 ロッテ・ベル。



 アルマーシュ家の帳簿係兼メイドである。


 茶色の髪。

 白いメイドキャップ。

 小柄で、愛嬌のある顔。


 一見すると癒し枠だ。


 少なくとも、婚約破棄された夜に出迎えてくれるなら、そうであってほしかった。


 しかし、手には分厚い帳簿を抱えている。


 つまり、癒し枠ではない可能性が高い。


「ロッテ」


「はい」


「これは何?」


「現実です」


「もっと優しく言って」


「夜会、お疲れさまでした。こちらが現実です」


「優しさが足りない!」


 ロッテは、心配そうに眉を下げたまま、そっと微笑んだ。


 その顔は、本当に私を案じているように見えた。


 見えたのだけれど、彼女の腕に抱えられた帳簿だけが、少しも同情していなかった。


「お嬢様。ひとまず、今夜届いた書簡は三種類に分けております」


「三種類」


「すぐ払え、早く説明しろ、今後の取引を考え直す、です」


「全部嫌!」


「そうですね。私も嫌です」


「じゃあ捨てましょう」


「捨てても負債は消えません」


「今、負債って言った?」


「はい」


「また変な言葉が増えた!」


 ロッテは帳簿を開いた。


「お嬢様。恋は分かりませんが、支払期限は来ます」


「せめて失恋を先に慰めさせて!」


「支払期限が先です」


「恋より?」


「恋よりです」


 私はノアを見た。


「ノア。あなたは私の味方よね?」


「もちろんでございます」


「では、ロッテを止めて」


「ロッテはお嬢様をお助けしております」


「あれが!?」


「少々、帳簿の形をしているだけでございます」


「助けが分厚すぎる!」


 ロッテが帳簿の端を軽く叩いた。


「お嬢様。帳簿は薄い方が怖いんですよ」


「もう何も怖くない言葉がないわ」


 ノアは、私の肩から落ちかけたショールをそっと直した。


 仕草だけは、完璧に優しい。


「お嬢様」


「何よ」


「今夜は、よく耐えられました」


 急にそんなことを言うから、目の奥が熱くなる。


 私は慌てて顔を背けた。


「今それを言うのはずるいわ」


「申し訳ございません」


「謝り方までずるい」


「では、少しだけ別のお話を」


「慰めはどこへ行ったの?」


「慰めるためのお話でございます」


 絶対に違う。


 でも、私は黙って聞いた。


「お嬢様は、アルマーシュ家の令嬢でございます」


「ええ」


「私にとっては、何より大切なお方です」


「……そういうのを急に言わないで」


「失礼いたしました」


 ノアは微笑んだ。


「ですが、外の方々は、お嬢様を私と同じようには見てくださいません」


「どう見ているの?」


「アルマーシュの名で約束を受け、品を買い、金を借り、返事を返すべき方として見ています」


 私は紙の山を見た。


 封筒の一つ一つが、急にこちらを睨んでいるように見える。


「つまり」


「はい」


「私が振られたから、請求書が来たの?」


「それだけではございません」


「よかった」


「ですが、大きく外れてもおりません」


「よくない!」


 私は頭を抱えた。


「なんで私の失恋が帳簿に載るのよ!」


 ロッテがすかさず言った。


「失恋は載せません。信用不安と回収リスクを載せます」


「もっと嫌!」


 夜会では泣かなかった。

 大広間では崩れなかった。

 王子の前でも、ヴィオラの前でも、噂好きの伯爵夫人たちの前でも、私は最後まで立っていた。


 なのに。


 屋敷に帰ってきて、紙に負けそうになっている。


 紙のくせに強い。


「ノア」


「はい」


「私は、令嬢よね?」


「はい」


「公爵家の娘よね?」


「はい」


「商人ではないわよね?」


 ノアは沈黙した。


 ロッテも沈黙した。


 玄関ホールに、嫌な間が落ちる。


「なぜ黙るの?」


 ノアは、少し困ったように微笑んだ。


 困っているのに、なぜか楽しそうにも見える。


 そこが本当に嫌だ。


「お嬢様。今夜はまず、お休みください」


「逃げたわね」


「はい。今のお嬢様には、眠る方が先でございます」


「では明日なら答えるの?」


「もちろんでございます」


「優しく?」


「お嬢様が逃げ出されない程度には」


「逃げ出す前提なの?」


「私の見立てでは」


「失礼ね!」


 ノアは白手袋の手を胸に当て、深く頭を下げた。


「では明日から、お嬢様には少しずつ、アルマーシュ家の看板が外からどう見えているのかを知っていただきます」


 看板。


 また、その言葉。


 父が守れと言った家名。

 私が背負っていると思っていた誇り。


 それは、社交界で美しく立つための飾りではなかったのかもしれない。


 誰かが信じるもの。

 誰かが取引する理由。

 誰かが請求書を持ってくる先。


 そんなものでも、あったのかもしれない。


 私は玄関ホールの紙の山を見た。


 失恋で泣くには、あまりにも現実的な山だった。


「……ノア」


「はい」


「明日は、本当に優しく教えて」


「かしこまりました」


 少しだけ安心した私に、ロッテが申し訳なさそうに微笑んだ。


「では、優しく支払予定表から始めましょう」


「優しくない!」


 こうして、私の婚約破棄の夜は終わった。


 恋が終わったのだと思っていた。


 けれど本当に始まったのは、もっと別のものだった。


 看板。

 信用。

 帳簿。

 請求書。


 そして、私がまだ知らない、商いの世界の話である。



挿絵(By みてみん)




【ロッテの帳簿メモ】


本日の項目:信用不安


 商取引では、相手が約束どおりに支払ってくれるか、商品を納めてくれるか、取引を続けられる状態にあるかが、とても重要です。


 アルマーシュ家の場合、先代公爵の死、商会の混乱、返答の遅れ、そして王家との婚約破棄が重なりました。


 お嬢様ご本人に悪意がなくても、外からはこう見えます。


「この家は、今までどおり支払えるのか」

「注文や契約は本当に守られるのか」

「誰が責任を持って返事をするのか」


 これが信用不安です。


 信用は、長い時間をかけて積み上げるものです。


 しかし、不安になると、噂や請求書の形でとても速く走り出します。


 恋は待ってくれるかもしれません。


 ですが、支払期限は待ってくれません。


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