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婚約破棄されたはずの令嬢ですが、執事も王子も恋敵もなぜか商法で溺愛してきます  作者: Altis


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17/20

第16話 看板ごと買ったら、借金もついてきました(営業譲渡・商号続用責任)




 ダール商会への返答文を出し終え、私はそっとペンを置いた。




 今日は、名前が歩いた。

 アルマーシュ商会という名が、私のいない売り場で看板になり、札になり、客の目に入る。

 だから、どこで、誰が、何を売るために使うのかを確かめなければならない。


 ここまでは分かった。


 できれば今日はもう、何も歩かないでほしい。


「ノア」


「はい、お嬢様」


「今日は、もう看板を見たくないわ」


「承知いたしました」


「本当に?」


「はい」


 ノアは優しく微笑んだ。


 その微笑みは、近頃少し危険である。

 柔らかく笑ったあと、大抵は書類が出てくる。


 そして案の定、ノアは新しい紙束を机へ置いた。


 




 王都南区・旧ベルモンド商会店舗に関する営業譲渡検討書



 


 私は目を閉じた。


「ノア」


「はい」


「看板では?」


「店舗でございます」


「店舗には看板があるわ」


「はい。ございます」


「あるのね」


「ございます」


「では、私の願いは聞き入れられていないのではなくて?」


「看板そのものではなく、店舗の取得からご確認いただけます」


「入口を変えただけでしょう」


「お嬢様にご負担なく、順序を整えました」


 入口という言葉まで怪しく聞こえるようになってきた。

 この商会において入口とは、奥に書類が待ち構えている場所を指すらしい。



 ロッテが検討書を開いた。



「旧ベルモンド商会は、王都南区で古くから織物と宝飾小物を扱っていた商会です。営業不振により、南区店舗を中心とした営業の譲渡を希望しています」


「営業の譲渡」


「はい。店舗、什器、一部在庫、顧客との関係、取引先の紹介などを、営業としてまとめて譲り渡す案です」


「建物と品物を買うだけではないのね」


「はい。営業として価値を持つものを、ひとまとまりで受け取ります」


 王都南区。

 人通りが多く、商家が並び、社交界へ出入りする貴族の使いも通る。


 アルマーシュ商会が新たに店舗を構えるには、申し分のない場所だった。


 既存の設備もある。


 顧客もいる。


 取引先とのつながりもある。




 信用不安に揺れる今、立て直しの足掛かりにはなるかもしれない。




 条件さえよければ。





 最近、最後の一言が必ずつくようになった。


「商号も譲るの?」


 私が尋ねると、ロッテが別紙を取り出した。


「ベルモンド商会側は、南区における知名度を維持するため、譲渡後も一定期間、旧商号を使用してほしいと希望しています」


「旧商号」


「はい。『ベルモンド商会南区店』の名称を、そのまま残す案です」


 レオンハルト殿下が書類へ視線を落とした。


「来るだろうな」


「何がですの?」


「債権者も」


 ロッテの補助簿に赤い線が入った。


「早いわ」


「殿下の発言が、赤字案件へ直接触れました」


「旧商号は、債権者まで呼ぶの?」


「その可能性があります」





 客を呼ぶ名前。


 取引先に覚えられた名前。


 長く営業してきた店の名前。





 それだけなら、価値のある財産に見える。




 けれど、同じ名を覚えているのは客だけではない。


 代金を受け取っていない仕入先も。


 賃料を待っている貸主も。


 未払いを抱えた取引先も。


 名前を覚えている。




 忘れていてほしいところだけ、きっと忘れてくれない。




「本日の項目は、営業譲渡と商号続用責任です」


 ロッテが言った。


「営業譲渡は、先ほどの説明どおり、営業をひとまとまりで譲り受けること」


「はい」


「では、商号続用責任は?」


「営業を譲り受けた者が、譲渡した者の商号を引き続き使用する場合に問題となる責任です」


 ロッテは検討書の表題を指した。


「アルマーシュ商会が南区店舗の営業を譲り受け、その後も『ベルモンド商会南区店』の名称を使い続ければ、ベルモンド商会の営業によって生じた債務について、アルマーシュ商会も弁済責任を負うことがあります」


 私はゆっくり瞬きをした。


「前の店が作った借金を?」


「はい」


「私たちが契約したものではなくても?」


「はい」


「店の名前を残したことで?」


「原則としては」


 簡潔に答えられるほど、内容が重い。


「名前を信じた債権者を守るため?」


「そのように整理できます」


「また、信じた人の話なのね」


 ロッテの補助簿に青い線が入った。


「青字です」




 看板を見て商品を買った客。


 商号を見て店が続いていると思った債権者。





 商法は、どうやら名前を信じた人を放っておかない。


 その代わり、名前を扱う側には、たいへん厳しい。




 名前は飾りではない。



 前回学んだばかりなのに、もう応用問題が来た。


 学習の進度が速すぎる。


「でも、営業を譲り受ける契約に、前の債務は引き継がないと書けばよいのではなくて?」


 ロッテは小さく首を振った。


「ベルモンド商会とアルマーシュ商会の間では、何を引き継ぐかを定めることができます」


「なら」


「ですが、その合意だけで外の債権者に対して責任を負わないことになるとは限りません」


「内側で決めただけでは足りない」


「はい」


 レオンハルト殿下が口を開いた。


「債権者は、君たちの契約書を読まない」


「また、読まないのですね」


「読む機会がない」


 それはそうだ。


 ベルモンド商会とアルマーシュ商会が、密室でどれほど丁寧に承継範囲を分けても、債権者には見えない。



 見えるのは、昨日までと同じ店。


 同じ場所。


 同じ看板。




 そして、営業を続けているように見える姿だけだ。


「古い商号を残せば、債権者は営業も続いていると考える」


 私が言うと、殿下がうなずいた。


「客を呼ぶために残した名が、債権者も呼ぶ」


 嫌なほど分かりやすい。


 私は資料へ目を戻した。



 譲渡対象。

 店舗内装。

 陳列棚、什器。

 残存在庫。

 顧客台帳。

 取引先の紹介。

 ベルモンド商会南区店の商号。




 一つずつ見れば、どれも営業を始めるうえで便利なものだった。


 便利なものは、条件欄まで読んでから喜ぶ。


 これも最近覚えた。


「未払金は?」


 私が聞くと、ロッテの補助簿に青い線が入った。


「大変よい確認です」


 ノアが新たな別紙を差し出した。


「現時点では、ベルモンド商会から債務一覧が提出されておりません」


「提出されていない?」


「口頭では、通常の仕入債務のみとの説明を受けております」


「口頭」


 ロッテが赤い線を引いた。


「分かっていたわ」


「はい。口頭ですので」


「通常というのも?」


「赤字寄りです」


「赤字に寄る言葉が多すぎない?」


「営業不振の商会ですので」




 もっともだった。


 営業が順調なら、そもそも営業を譲る話にはなっていない。




 分かってはいる。


 分かってはいるが、危険な事情が集まりすぎている。




「通常の仕入債務とは、いくら?」


「確認できておりません」


「どれほどの相手に?」


「確認できておりません」


「期限は?」


「確認できておりません」


「通常の中身が、何も分からないではなくて?」


「はい」





 口頭の「通常」は、たいへん広い。





 広すぎて、赤字が何人隠れているのか見当もつかない。



 ノアが静かに言った。


「お嬢様。店舗を取得すること自体と、旧商号を引き継ぐことは、分けて判断すべきかと存じます」


「場所や設備には価値がある」


「はい」


「でも、そのためにベルモンド商会の名まで受け取る必要はない」


「そのとおりでございます」


「なら、旧商号は使わない」


 言葉は自然に出た。


「新しい店舗は、アルマーシュ商会南区店として開く」


 ロッテが青い線を引いた。


「大変よいご判断です」


 殿下も何も言わない。


 何も言わないということは、おそらく異論がない。


 褒め言葉は出荷されない。


「それでも、債務については確認するのよね?」


「はい」


 ロッテが答えた。


「旧商号を使用しないとしても、何を譲り受けるのかは明確にしなければなりません。また、契約や債務を個別に引き受ける場合もございます」


「店舗を買えば、全部きれいになるわけではない」


「はい」


「過去は、名前だけについてくるわけでもないのね」


「はい。契約、在庫、従業員、賃貸借、保管料など、それぞれ確認が必要です」


 私はペンを取った。


「整理するわ」


「はい」


「一つ。譲り受ける財産の範囲

 二つ。未払金の一覧

 三つ。債権者の一覧

 四つ。店舗の賃貸借契約と、賃料の滞納」


「重要です」


「五つ。従業員給与の未精算分

 六つ。南区倉庫の保管料

 七つ。在庫の内容と評価額

 八つ。顧客台帳と取引先台帳の扱い

 九つ。引き継ぐ契約と、引き継がない契約」


「重要です」


「十。旧商号は使用しない」


 ロッテが大きく青い線を引いた。


「危険な項目への嗅覚が、かなり育っています」


「喜ぶべき?」


「帳簿上は」


「普通には?」


「疲れると思います」


「正直ね」




 危険に気づけるようになることは、よいことなのだろう。

 ただし、今まで見えなかった赤字までよく見えるようになる。


 視力が上がるとは、必ずしも幸せなことではないらしい。


 ノアが広告案を机へ置いた。


 


 旧ベルモンド南区店は、アルマーシュ商会のもとで新たに営業を再開いたします。

 これまでのご愛顧をそのままに、より上質な品をお届けいたします。

 店舗名称は、引き続き「ベルモンド商会南区店」を使用いたします。


 


 私は読み終え、紙を置いた。


「これは使わないわ」


「はい」


「旧商号を続ける案そのものを断る」


「はい」


「広告も、新しい店だと分かるものにする」


 ノアが別案を差し出した。


 


 アルマーシュ商会南区店 開設準備のお知らせ


 旧ベルモンド商会南区店跡地において、アルマーシュ商会が新たに営業を開始する準備を進めております。

 本店舗はアルマーシュ商会が運営する新店舗であり、旧ベルモンド商会の営業全部を承継するものではありません。

 引き継ぐ取扱品およびサービスの範囲については、開店前に改めてご案内いたします。


 


「こちらの方が分かりやすいわ」


 私は文面を見直した。




 アルマーシュ商会南区店。


 新たに営業を開始する。


 旧ベルモンド商会の営業全部を承継するものではない。



 少なくとも、昨日までと同じ店がそのまま続くようには見えない。


 ただし、これだけですべてが終わるわけではない。


「この告知を出せば、前の債務について必ず責任を負わなくなるの?」


「いいえ」


 ロッテがはっきり答えた。


「顧客への告知は、営業主体を誤認させないためには有用です。しかし、商号を続用する場合の責任を免れるための手続とは別です」


「別なのね」


「はい。旧商号を使用する場合に責任を負わないためには、責任を負わない旨を遅滞なく登記するか、譲渡人と譲受人の双方から第三者へ通知する必要があります」


「広告文を変えれば終わり、ではない」


「はい」


「今回は、そもそも旧商号を使わない」


「その方針です」


 分かりやすい。

 旧商号を使わなければ、少なくとも「ベルモンド商会の名を続けた」という問題は避けられる。


 ただし、営業譲渡の中身は別途確認する。



 名前。

 財産。

 契約。

 債務。




 似た場所に置かれていても、それぞれ別の項目である。


 帳簿係が分類を好む理由が、少し分かってきた。


 混ぜると危ないのだ。


「では、ベルモンド商会へ返す確認書を作ります」


 私は新しい紙を引き寄せた。


 


 ベルモンド商会 御中


 王都南区店舗に関する営業譲渡のご提案を受領いたしました。

 当商会としては、店舗その他の譲渡対象について検討を継続いたしますが、現時点において、旧ベルモンド商会の商号を引き続き使用すること、ならびに同商会の営業上の債務を引き受けることには同意しておりません。

 検討に先立ち、譲渡対象となる財産および契約の範囲、未払金一覧、債権者一覧、賃貸借契約の状況、賃料滞納の有無、従業員給与の未精算分、倉庫保管料、在庫の内容および評価、顧客台帳および取引先台帳の取扱い、ならびに商号使用に関するご提案の詳細をご提示ください。

 顧客向けの告知については、当商会が新たに「アルマーシュ商会南区店」を開設する旨、および旧ベルモンド商会の営業全部を承継するものではない旨が、明確に認識できる文案とする必要があります。


 




 書き終える頃には、指先が少し痛んでいた。


 今日だけで、私はいくつ返答文を書いたのだろう。


 商人は返事ばかり書いている。


 以前そう思った。


 今もそう思う。


 むしろ確信が深まっている。


 ノアが文面を確認する。


「よろしいかと存じます」


 ロッテも補助簿へ青い線を引いた。


「譲渡対象、債務、商号が分けられています」


「少しは、分けられるようになった?」


「はい。大変よく」


 私は椅子の背へ少しだけ体重を預けた。


 ただ店を買う話ではなかった。


 場所を受け取る。


 棚を受け取る。


 在庫を受け取る。


 顧客や取引先とのつながりを受け取る。


 それだけでも十分に多い。


 そのうえ古い名まで受け取れば、その名を信じた者たちもついてくる。





 客だけではない。




 債権者も。


 未払いも。


 過去も。



挿絵(By みてみん)



 古い看板は、客だけでなく過去を連れてくる。




 なら、新しい店を始めるのなら、新しい店だと分かる名前を掲げなければならない。


「ロッテ」


「はい」


「古い看板は、客だけでなく過去も連れてくる」


「青字です」


「でも、場所や顧客とのつながりは、立て直す力にもなる?」


「はい。条件次第です」


「また条件」


「商いですので」


 そうだった。


 条件を見ない商いは、たいてい後から赤字になる。


 レオンハルト殿下が静かに言った。


「君は、もう看板の重さを見始めている」


 私は殿下を見た。


「今のは、評価ですか?」


「そうだ」


「褒め言葉ではなく?」


「評価だ」


「でしょうね」


 いつもどおりだった。


 褒め言葉未満。


 出荷予定なし。





 それでも、少しだけ胸の奥が変な感じになった。





 褒められたわけではない。


 慰められたのでもない。


 ただ、見ていたと言われた。


 この人は、外からどう見えるかばかりを言う。


 けれど、私が何を見始めたのかも見ている。





 そのことを、私はまだ、どう分類すればよいのか分からなかった。



+

ロッテの帳簿メモ

本日の項目


営業譲渡・商号続用責任

――商法第十七条


営業譲渡とは、店舗や設備を個別に売るだけでなく、在庫、取引先、顧客との関係など、営業として価値を持つものをまとめて譲り渡すことです。


営業を譲り受けた者が、譲渡した者の商号を引き続き使用する場合、原則として、譲渡人の営業によって生じた債務についても弁済責任を負います。


今回なら、アルマーシュ商会が南区店舗の営業を譲り受けたあとも、


ベルモンド商会南区店


の名を使い続ける場合です。


お嬢様向け整理


店舗を取得することと、古い商号を引き継ぐことは分けて考えます。


旧商号を残せば、客だけでなく、旧商会の債権者もその名を見ます。


当事者間の契約書に、


以前の債務は引き継がない


と書くだけでは、外部の債権者に対して責任を免れるとは限りません。


旧商号を続用しながら責任を負わない場合には、責任を負わない旨を遅滞なく登記するか、譲渡人と譲受人の双方から第三者へ通知する必要があります。商法第十七条第二項。


今回は旧商号を使わず、


アルマーシュ商会南区店


として新たに営業します。


ただし、旧商号を使わなくても、何を譲り受けるのかは確認が必要です。


未払金と債権者

賃貸借契約と賃料滞納

従業員給与の未精算分

倉庫保管料

在庫の内容と評価

引き継ぐ契約

顧客台帳と取引先台帳


顧客向けの告知も、新しい営業主体と承継範囲が分かるようにします。


ただし、分かりやすい告知と、商法上の免責手続は別です。


ロッテ補助簿・本日の色分け


「条件さえよければ」というご判断

→ 灰色。条件の確認が必要です。


「ベルモンド商会南区店」の商号を続用する案

→ 朱書き。商号続用責任の入口です。


「客を呼ぶために残した名が、債権者も呼ぶ」

→ 発言内容は青字。本人は灰色です。


「口頭では、通常の仕入債務のみ」

→ 赤字。「通常」の金額も件数も確認できていません。


店舗取得と旧商号の続用を分けて判断

→ 青字。大変よい整理です。


「アルマーシュ商会南区店」として新たに開設

→ 青字。営業主体を明確にします。


顧客向け告知だけで免責できる?

→ 赤字。登記または双方からの通知とは別です。


殿下の「看板の重さを見始めている」

→ 灰色に青字混在。評価が褒め言葉へ接近しました。


本日のひとこと


古い看板は、客だけでなく過去も連れてきます。


店舗を買うときは、場所と在庫だけでなく、債務と商号の扱いも確認してください。


「引き継ぎました」は便利ですが、請求書まで引き継がないようご注意ください。

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