鬼の目にも涙 二
今日もまた、吾生が現れることはなかった。
時間的な問題と我を通した後ろめたさで、昨日は吾生に会わず逃げるようにそのまま家に帰ってしまったが、吾生は怒っているだろうか…?しかし鬼の正体を掴むまでは、自ら会いにはいけない。すべてが解決したら、きちんと謝ろう。愛嘉理はそう考えていた。
相変わらず、家には誰もいない。しかし、ポストは昨日来た時のように空になっている。愛嘉理は教師の言う通り、昨日受け取った分も含めて書類をポストに入れて帰ることにした。
受け口が少し小さかったので、紙袋を二つに折って押し込むようにポストに入れた。そして鞄の中からノートを一冊出すと、その端を破って走り書きをする。
「明日もまた来ます。」
それを僅かな隙間からポストに入れると、小雨が頬を叩く中、愛嘉理はその場を後にした。
愛嘉理が届け物を請け負うようになってから、一ヶ月が過ぎようとしていた。七月の上旬、そろそろ梅雨も明ける頃だ。
「あ、人見さん。違うクラスなのに、いつもありがとう。助かるわ。」
「いえ…。」
すっかり慣れた様子で、教師は愛嘉理に笑って見せた。
「あれから、鬼目くんには会えた?」
差し出された紙袋を受け取りながら、愛嘉理は首を横に振った。
あれから毎日足を運んでいるものの、鬼目 涙には出会えていない。しかし相変わらずあの日見た鬼の霊気を感じるので、愛嘉理には今や学校中を騒がせている二つの噂が無関係とは思えなかった。
「彼、どうしてるのかしらね。また学校に来てくれると良いんだけど…。」
「はい。」
「ごめんね、本当はこういうのは担任である私の仕事なのに…。」
流石に毎日任せることに気が引けてきたのか申し訳なさを口にする教師に、愛嘉理は首を横に振る。
「気にしないでください。私が行きたくて行ってるだけなんで…。」
「ありがとう。何かあったら、いつでも言ってね。」
微笑む教師に、愛嘉理も「はい。」と頷いた。
今にも雨を降らせそうな雲の下、目的地に辿り着いた愛嘉理は足を止める。しかし今日もいつもと同じように、何の反応もない。
ポストに書類を入れようとしたその時、背後に気配を感じて愛嘉理はその手を止めた。愛嘉理はゆっくりと振り返り、問い掛ける。
「…もしかして、鬼目くん?」
「君は…!」
目の前のパーカーを着た人物は、紡が怖そうと評したように、威圧感を与える雰囲気を醸していた。浅黒い肌や明るい金髪、更には耳に光る小さな輪の飾りや大柄な体型も関係しているのかもしれない。しかし右の目元にある涙黒子が、その武骨さに儚さを加えている。
「あの、学校の先生に頼まれて届け物をしに来たんだけど…。」
「学校?じゃあ、君は人間なのか?」
驚いて開かれた口からは、特徴的な鋭い八重歯が覗いている。
「え、そうだけど…?隣のクラスの人見 愛嘉理です。」
「そうだったのか、てっきり…。」
目の前の人物は、少し罰が悪そうに頭を掻いた。
「てっきり?」
愛嘉理の言葉に、目の前の人物は慌てて首を横に横に振った。
「いや、何でもない。そう言えば、まだ質問に答えてなかったな。俺が、鬼目 涙だ。毎日来てくれてたのは、君か?」
愛嘉理が頷くと、涙は頭を下げた。
「こんなに遠い場所まで、わざわざ感謝する。」
「いえ…。元気そうで良かった、明日は学校に来れそう?」
その問いに、涙は無言を貫いた。
答えるつもりがないことを察して、愛嘉理は「明日もまた来るね。」と背を向けた。すると、「待て。」という声に呼び止められる。
愛嘉理が振り返ると、声の主は少し訝しむ顔をした。
「同じクラスの者ではないようだが、わざわざ頼まれて来たということは俺に何か用があったんじゃないのか?」
愛嘉理は暫く間を置いて、切り出し方を考えた。
「…今妖山に鬼が出るって噂になってるんだけど、知ってる?」
「いや。」
「そっか。」
表情を変えず短く答える涙に、愛嘉理はぎこちなく微笑んだ。
「その噂が流れ始めた時期と鬼目くんが学校に来なくなった時期が丁度重なってて、皆鬼目くんがその鬼に襲われたんじゃないかって怖がってて…。私がここに来たのはそれが理由だよ。でも、そうじゃなくて安心した。」
それを聞くと、涙は疑いの表情を深めた。
「…本当にそれだけか?」
「え?」
「そんな奉仕の心だけでわざわざここに来たと、俺には思えないんだが。もっと別に、俺に言いたいことがあるんじゃないか?」
逃げ場のなくなった愛嘉理は、困った顔で笑った。
「…ここに来るまでは、何か鬼の手掛かりが掴めればと思ってた。ここに初めて来た時、微かにその噂の鬼と同じ霊気を感じたから尚更そう思ったんだ。でも、実際に会って分かったよ。」
愛嘉理は一つ呼吸を置いて涙の目を見据えると、静かに告げた。
「鬼の正体は、鬼目くんだよね?」
目の前の人物はあの日出会った鬼と同じような耳飾りこそしているものの、鋭い爪や角はないし装いの雰囲気も全く違う。しかし、分かる。愛嘉理には、確信があった。
二人の間を生温い風が吹き抜ける。暫くの沈黙の後、涙は無理して繕ったように不敵に笑って見せた。
「…だったらどうする、逃げなくて良いのか?」
「うん、その必要はないよ。」
愛嘉理は優しい笑みを向けた。その様子が、涙には納得いかないようだった。
「何故だ?この前あんな目に遭っておきながら、何故そう言える?」
「だって襲うつもりなら、もっと先にそうしてるでしょ?そうしないってことは、少なくとも今はそのつもりはないのかなって。」
涙は、少し怯んだように見えた。黙り込む涙に、愛嘉理は言葉を付け加える。
「それに、この間は私を妖と間違えてたんでしょ?私は霊力が強いみたいだから…。」
「…あの時は悪かった。」
心から反省した様子で頭を下げる涙に、愛嘉理は首を横に振る。
「もう全然気にしてないから。でも、あの時思ったんだ。」
「?」
「鬼目くん、泣いてるって。」
「俺が泣いてる?」
「うん。お面を付けてたから顔は見えなかったけど、でもそうじゃなくて心が泣いてる気がして…。何故かは私には分からないけど、ただそう思ったらすごく気になって…。」
「お節介だな。」
ふいっと顔を背ける涙に、愛嘉理は笑った。
「ふふ、そうかもね。でも何か力になれることがあるなら、言って欲しいんだ。」
「君に俺の気持ちは分からない。力になると言うなら、放っておいてくれ。」
涙は、冷たく淡々と言い放った。
「…そっか。でも明日もまた来るから、何か話したくなったら聞かせてね。」
特に落ち込むもなく声を掛ける愛嘉理に、涙はあからさまに敵意を向ける。
「話を聞いてたか?」
「聞いてたよ。だから、来るだけ。届け物を持って来るだけで、私からは何もしない。」
低く唸るように問う涙に、愛嘉理は怯まず笑って見せる。
「分かってると思うが、今日は偶々会っただけだ。明日来ても、俺はいないぞ。」
涙は、挑むように告げた。
「うん、それでも大丈夫。じゃあ、また明日ね。」
こんなに突き放しても屈託のない笑顔をくれる人がいるという事実が、涙には奇跡だった。手を振って去って行く愛嘉理に僅かに口を綻ばせた自分を、涙はまだ知らない。
「鬼目くん、待っててくれたんだね。」
扉の前で座り込む姿を見るなり嬉しそうに走り寄る愛嘉理に、涙は言い訳をするように顔を背けた。
「…ポストに入れられるとサイズが合わなくて取りづらいから、直接受け取ろうと思っただけだ。」
昨日はああ言ったものの、自分にあそこまで食い下がる人物が如何程か、見極めたくなったのだ。それに、遠くからでも感じる人間離れした強大な霊気や赤い瞳も引っ掛かる。
涙は愛嘉理を観察することに決めた。
「そっか、それでも嬉しいよ。」
「ふん…。」
満面の笑みを浮かべる愛嘉理が差し出す書類を、涙は素っ気なく受け取った。
「それじゃあ、また明日。」
「…あ。」
立ち去ろうとする愛嘉理の腕を思い掛けず掴んでいることに気が付いて、涙は戸惑った。
「どうしたの?」
不思議そうに訊ねる愛嘉理の腕を慌てて離すと、涙は困ったように頭を掻いた。
愛嘉理は、前にもこんなことがあったのを思い出した。あの時、腕を掴んだのは吾生だった。その吾生に助けられた自分が、かつての自分と似た物悲しさを纏う少年を助けることはできないだろうか。何か少しでも、力になれることはないだろうか。
愛嘉理は、黙って涙の言葉を待つ。
「いや、その…。せっかく遠くまで来てくれたんだし、良かったら少し上がって行かないか?」
涙の必死な誤魔化しに、愛嘉理は少し戸惑った。
「嬉しいけど、家の人に迷惑にならない?」
「俺は一人暮らしだ。だから、気にすることはない。」
涙は笑った。その笑顔が自分を見ているようで、愛嘉理は居た堪れなくなった。
「そっか…。」
複雑な表情をする愛嘉理に、涙は少し困った顔をした。
薄暗い玄関から短い廊下を通ってリビングに案内された愛嘉理は、その光景に言葉を失った。そこは殺風景、その一言に尽きる。余計な物は、何一つ置かれていない。一人で暮らすには広過ぎるその家は、不自然な程片付いていて全く生活感を感じられなかった。
涙が鬼の正体である事実と言い、愛嘉理は何か深い理由がありそうな気がしたが、それ故に訊ねる気にはなれなかった。
「何も出せなくて申し訳ないが、ゆっくりしてってくれ。」
部屋の明かりを点けて、真ん中に置かれた机の前のソファを二、三回手で払うと、涙はぎこちなく笑った。
「ありがとう。」
そう言って遠慮がちにソファに座る愛嘉理の目に、部屋の隅に無造作に積まれた段ボールの山が映った。
「…鬼目くん、もしかしていつも缶詰ばかり食べてるの?」
「まあな。腹に入るなら、どんな味の物でも同じだ。」
涙は淡々と言った。その言葉が、愛嘉理には信じられなかった。
「そんなことないよ。」
訴えるように身を乗り出す愛嘉理に、涙は少し困ったように笑った。
「…生まれつき味覚がないんだ。」
「え?」
「俺は味を感じない。だから、これで良いんだよ。」
涙の予想外の回答に、愛嘉理は目に見えて狼狽えた。どんな顔をして良いか分からず戸惑う愛嘉理に、涙は優しく言った。
「人見がそんな顔をするな。俺のことだろ?」
「でも…。」
「良いから、気にすんなって。」
「…うん。」
意気消沈して項垂れ続ける愛嘉理に、涙は頭を掻いた。
「悪いな、俺もそんなつもりじゃなかったんだ。」
「そんな、鬼目くんが謝る必要なんてないよ!」
先程とは一転して強い口調で訴える愛嘉理に、涙は思わず笑った。
「ありがとう、人見は優しいな。」
そう言える涙こそ優しいのではないか、と愛嘉理には思えてならなかった。




