鬼の目にも涙 一
湿った雨が傘を叩く季節になった。
愛嘉理が教室に入ると、紡と触がその姿に声を掛ける。
「おはよう、愛嘉理!」
「おはよう!」
「そう言えば聞いた?」
愛嘉理が挨拶を返す前に触が乗り出すように声を潜めたので、釣られて愛嘉理も小声で「何を?」と聞き返した。
「妖山の噂。」
青ざめた顔で触が答えると、対照的に愛嘉理は緊張を解いた。
「霊や妖怪が出るって噂なら、もうだいぶ前から聞いてるよ。」
触は激しく首を横に振った。
「ついに本物が出たんだって。」
「本物?」
「そう、鬼を見たって人がいてね。」
紡が頷くと、触は言葉を続けた。
「それも一人や二人じゃないから、もう最近は皆その噂で持ちきりだよ。」
「そうなんだ、全然知らなかった。」
愛嘉理は、特に興味もなさそうに驚いて見せた。
妖山には毎日行っているが、そんな存在に会ったことはない。本当にいるのなら、もうとっくにこの目で見ているはずだ。
そう考えていた愛嘉理に、紡は注意を呼び掛けた。
「愛嘉理も気を付けた方が良いよ。噂によると、その鬼はかなりの殺気を放ってたらしいから。」
「近付くと何されるか分からないよ。」
「う、うん。分かった。」
首を切り落とす仕草をしながら便乗する触に、愛嘉理は戸惑いながら頷いた。
「あれ、もしかして…?」
いつものように神社へ向かう途中、麓の鳥居の傍に見慣れない人影を見付けた愛嘉理は、今朝聞いた噂を思い出した。
片手に大きな刃物を持った人影は愛嘉理に気付きゆっくりと振り向くと、思わず怯んでしまう程の殺気を放ちながら物凄い勢いで向かって来た。
「…!」
愛嘉理は無意識のうちに、首から下げた三日月守りを握り締めた。するとどこからともなく鈴の音が響き、辺りが明るくなる。
眩しさに閉じた目をゆっくりと開くと、そこには五年前のあの日と同じ頼もしい背があった。
「あ、吾生…?」
「愛嘉理、下がってて。」
鬼の面を被った大柄な人影が振り翳した頑丈そうな太刀を三日月の剣で受け止めながら、吾生は言った。鋭い爪の生えた手で太刀を握る相手は、小さな輪の耳飾りを揺らしてすぐに次の一手を繰り出した。それを合図に、二人の剣閃は火花を散らしながら加速していく。
愛嘉理がよく見ると、着物に身を包み身の丈程もある太刀を軽々と振り回す人影のこめかみの辺りからは、鬼のような立派な角が生えていた。妖のような強い霊気を放っている点から考えても、噂の存在に間違いないと愛嘉理は確信した。
しかし強烈な殺気を放ち、外見からは想像もつかない身軽な動作でなおも吾生と撃ち合い続けるその存在の霊気を感じれば感じる程、愛嘉理は何故か物悲しい気分になった。愛嘉理には、その雰囲気に覚えがある。それは、ついこの前までの自分だ。その理由は今の愛嘉理には分からないが、だからこそ気になって仕方がなかった。
暫くすると諦めたのか、鬼のような存在は二人に一瞥をくれて素早い動きでその場から去って行った。
「大丈夫、愛嘉理?」
「うん、私は大丈夫。」
心配そうに振り返る吾生に、愛嘉理は頷いた。
「それより、吾生こそ怪我はない?」
「僕は大丈夫だよ。見ての通り強いから。」
愛嘉理の言葉に吾生は、笑いながら力瘤を作り応えて見せた。
「そっか、良かった…。」
「それより愛嘉理、彼のことを知ってるみたいだね。」
「噂で聞いて…。」
「そっか。それならさっきも見たし分かると思うけど、彼には近付かない方が良い。」
「…うん。」
吾生が真剣な顔でこんなに言うのだから、危険なのだろう。
そう思いつつも、愛嘉理は渋るように目を逸らした。
「彼のことが気になる?」
優しく訊ねる吾生に、愛嘉理は正直に頷いた。
「…何故だかやるせなさを背負ってるような、寂しい感じがするんだ…。」
「愛嘉理は優しいね。だけど、今の彼は冷静じゃない。君のことも、強い霊力のせいで妖と勘違いしてるようだった。残念だけど、今できることはないよ。」
吾生は、愛嘉理の頭にそっと手を乗せた。
「うん、そうだね…。」
口では肯定しながらもそれでも諦めきれない様子の愛嘉理に、吾生は困ったように笑った。
「おはよう、愛嘉理!聞いた?」
翌朝教室に入ると愛嘉理は一瞬、昨日の朝に戻ったかのような錯覚に陥った。
「おはよう。また新しい噂?」
昨日は噂の人物のことを考えて余り眠れなかった愛嘉理は、切れの悪い挨拶をすると目を擦った。
「まあ、そのようなものなんだけど。」
触の期待に応えて、「どうしたの?」と問う愛嘉理。
「隣のクラスの鬼目 涙くん、先月から学校に来てないらしいよ。」
「不登校?」
「うーん、でも別に苛められてた訳じゃなさそうなんだよね。」
紡は両手を広げて、さっぱり分からないと言った様子を見せた。
「普段は物静かだけど話し掛ければ応えてくれるし、そんな感じで皆とも仲良くやってたって、同じクラスの人も言ってたよ…。」
「私も、一度話したことがあるよ。廊下でぶつかって持ち物を落としちゃった時に、一緒に拾ってくれて。怖そうに見えるけど、優しい人だったよ。」
「そっか、急にどうしちゃったんだろうね?」
触の情報も紡の体験談も、その人物が不登校になった理由を教えてくれるものではなかった。三人は腕を組み考えた。
「…そう言えば鬼目くんが学校に来なくなったのって、丁度あの噂が流れ始めた時期と重なってるよね。」
「確かに…。」
閃いたように語る紡に、触も同調する。
「もしかして、鬼に襲われちゃったとか…?」
「そう考える人が大半で、届け物とかも皆行きたがらないみたいなんだよね。」
「そうなんだ、それも何か可哀想な話だね。まあ確かに鬼の話が本当なら怖いのは当たり前だし、仕方ないと言えば仕方ないんだけど。」
「まあね…。」
二人は青ざめた顔をしながら、その後も噂話に花を咲かせた。しかしその横で愛嘉理は、ある一つの決意を固めていた。
放課後、愛嘉理は職員室に向かっていた。
あの鬼の正体について僅かでも掴む手掛かりになる可能性があるのなら、愛嘉理がそれを見過ごすことはできない。たとえ吾生が立ちはだかっても、今の愛嘉理に諦めることは考えられなかった。
職員室の扉を叩くと、丁度愛嘉理が探していた女性が出迎えた。
「あら、確か貴方は隣のクラスの…。」
「人見です。」
「どうしたの、私に何か用?」
愛嘉理より若干背丈のある隣のクラスの担任教師は、赤い瞳に少し怯えていた。ただでさえ自分のクラス内に恐ろしい噂が蔓延しているこの時に、悪い噂そのものである愛嘉理まで相手にしなければならない不幸に、彼女は嫌な汗を手に握った。
愛嘉理はなるべくそういったことを気にしないように、できる限り愛想良く努めた。
「鬼目くんが、最近学校に来てないって聞いて…。」
「そう…。」
「それで、良かったら届け物を私に任せて頂けないかと思って…。」
「あら、良いの?」
教師は一転して、表情を緩めた。
「はい、行かせてください。」
「じゃあ届け物持ってくるから、少しここで待っててくれる?」
「分かりました。」と頷く愛嘉理を残して、教師は足取り軽くその場を去って行った。
「はい、これが届け物。あと、こっちが鬼目くんの家の住所ね。」
教師はすぐに戻って来ると、紙袋に入れられた一週間分程の書類を愛嘉理に手渡した。
「ありがとうございます。」
「こちらこそ。変な噂のせいか皆行きたがらなくて私が行ってたんだけど、貴方が行ってくれるなら助かるわ。今は来月のテストに向けて、私も色々忙しいしね。」
書類を胸に抱える愛嘉理に、先程までとは打って変わって教師は饒舌に語った。その様子から、この人も教師という立場でなければ命を惜しんで行きたくはないのだろう、と愛嘉理には容易に想像ができた。
しかし、愛嘉理はそれを罪とは思わない。火のないところに噂は立たないのだから、火傷を恐れるなら近付かないに越したことはないのだ。いつも悪い噂の主になってしまう愛嘉理だからこそ、そう思った。それはつまり、愛嘉理がその火傷を負う覚悟を決めたことに他ならない。
「じゃあ、頼んだわね。」
そう言い残してそそくさと立ち去る教師に、愛嘉理は一礼した。
じめじめとした雨の中、傘を片手に説明された道を行くと、いつもとは逆側の山に向かっていた。地図によればその手前に、目的地はあるようだ。
学校から一時間程歩いた村の外れ、人気のない道の脇にその家はあった。周りに他の住宅は見当たらず、寂れた一軒家が孤独に立っている様は愛嘉理に哀愁を感じさせずにはいられなかった。
しかしここに辿り着いたことで、愛嘉理の中に疑問が一つ生じる。無理矢理にでも行こうものなら、吾生が現れて止められるかもしれないと覚悟していたからだ。かと言って、近くに吾生を感じる訳でもない。吾生なら、愛嘉理一人を止めることなど容易いはずだ。何か考えがあるのかもしれないが、全く想像がつかない愛嘉理には不思議でならなかった。
しかし、今はそれよりもやるべきことがある。愛嘉理は、顔を上げた。
「…!」
愛嘉理はその場に覚えのある霊気の残り香を僅かに感じて、少し手に汗を握った。
もしかしたら、噂の通りこの家の主はあの鬼に襲われてしまったのかもしれない。しかし、定期的に教師が書類を届けに来ていると言っていたのにポストは空だ。そう考えれば、襲われていない可能性も充分にある。とにかく、確かめてみないことには何も分からない。
雨音以外に何も聞こえない不気味な静寂の中、愛嘉理は意を決してインターホンを鳴らした。
「出ない…。」
三回程繰り返しても中で人が動く気配すら感じなかったので、愛嘉理は今日のところは紙袋を持って引き返すことにした。
翌日もまた、愛嘉理は職員室に向かっていた。
「あら、人見さん。」
目的地に辿り着く前に、見覚えのある顔が愛嘉理を呼んだ。
どうやら愛嘉理に対する警戒心は昨日の一件でかなり薄れたらしく、笑みさえ浮かべる教師の様子に愛嘉理はとりあえずは良かったと安堵した。
「今日も、良かったら届け物を任せて頂けませんか?」
「行って貰えると助かるわ。ちょっと待っててね。」
愛嘉理の頼みを嬉々として受け入れると、教師は昨日と同じように職員室の中へと消えた。
「じゃあ、悪いけどこれお願いね。そう言えば、昨日は鬼目くんに会えた?」
昨日よりだいぶ薄くて軽い紙袋を手渡しながら、教師は愛嘉理に訊ねた。
愛嘉理が「いえ…。」と答えると、教師はその反応を予め知っていたかのように溜め息を吐いた。
「いつ行っても誰も出ないのよ。だから、ポストに入れておくと良いわ。ポストはチェックしてるみたいだから。」
「分かりました。それで、あの…。」
「何かしら?」
「もし良ければ、明日からも任せて頂けませんか?」
「勿論。」
教師が頷くと、愛嘉理は深く頭を下げた。
「ありがとうございます、ではまた明日。」
「ええ、気を付けて帰ってね。」
手を振って見送る教師の元を後にして、愛嘉理は鬼目 涙の自宅へ向かった。




