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モノカキさんにも! 内省および取材学


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 文章・ストーリー評価!!!

 そして、感想!!!!!!!!!!!


 まことにありがとうございます!

 本当に、嬉しいことです。



 ほんの一言でもいただけると、そこから湧き水のようにいろんな知識があふれ出し、ブレーン・ストーミング(脳内暴風雨)が起こって、じゃあ「次にはこんなことを書いてみよう」という意欲が沸きます。


 ぼくの学生時代の友人に

「あたしたちの思考パターンって、ピンボールみたいじゃない?」

 と言ったひとがいます。


 ぼくの友人は、ある種の天才ばかりで(ある種の変わり者でもありますが)、いわれたときは、

「何いってんだ? こいつ」

 とも思いましたが、今にして思えば、かなり的を射た表現だと思います。


 ある話題がポンと脳内に振ってくる、これがピンボールのボールですね。

 そのボールを弾いてみると、閉じ込められた箱の中で、壁とかバンパーとかターゲットとかフラグとか、もう意図してもしなくても、アチコチにぶち当たる。

 ピンボールって、ターゲットに当てると得点になるんですが、ぼくや友人たちは、頭のなかで

「あ、閃いた」

 とか

「あ、その話題、こう考えたら面白くない?」

 とか、そんな感じでフラグがたっていくんです。


 射的みたいに、狙って的に当ててるわけじゃなくて、突然コロっとでてきたものが四方八方に転がっていって、そこで頭のなかにあった何かにぶち当たって、偶然に発見があったり、発想がふってきたりしたとき、

「うひゃ~~~!」

 と、なります。

「啓蒙」というものでしょうか、もう(くらい=この場合、知的な暗さ)のなかにあったのが、けい(ひらく=このばあい、知的に目を開かせられること)して、目の中に光がスパークします。

 まあ、これが、学問をするうえでの興奮に非常に近いものがありますね。




 さて、ぼくは、学問のプロ(プロフェッサー)というほどのものではないです。

 まして、文章を書くプロ(プロフェッショナル)というほど原稿料ももらえてません。


 だから、学者になる方法も、作家になる方法も、伝えられるほど道を極めてはいないわけであります。


 んじゃ、何を書くつもりなのか。

 いや、ぼくが書きたいことを書くだけですよ、と。

 やりたいことをやってドヤ顔する、というのが、ぼくの学問の理想です。

 で、ついでに、自分がやりたいようにやっただけなのに、他のひとにも良い影響があるなら、もう最っ高! でしょうけどね。

 知っておけば有利になることが、世界中のどこかにいるかもしれないじゃないですか!

 言い訳がましいこと限りないですが、誰かにさえ届けば、唯我知足(ただ、われ、たるをしる)、あんまり高望みはしません。


 ん、少なくとも、目に留まったひとの役にたてるようには頑張らねば。



 さて、そんなわけで、まずは感想にご返礼を申し上げます!

 いろんな意見があって、もう、それだけでぼくはワクワクしました。


 なかなか、考えさせられます。


>馬鹿な頭で考えた結果、まだ「学問の定義」は見つけていないけれど「人生そのもの」といえる。

>また「勉強」とは「学問を考えるための道具」といえる。


 実に鋭利な考察であると思います。

 感想ありがとうございます。


 さて「馬鹿な頭」というのが難しいですねえ。

「馬鹿」というのは、主観的な質的基準による蔑称でありますから、そんなに自分をおとしめなくてもいいと思います。

 基本的にぼくは

「頭が空っぽのほうが、勉強には向いていない可能性が高いが、学問には向いている可能性が高い」

 という考え方をしていますので、この「馬鹿」の意味が「知識が足りない」とか「思考力が足りない」とかいう意味であれば、むしろ羨ましいことでありますね。


 これ、ちょっと今日の話題と関係ある重要ポイントです。

 学問するときは、馬鹿なくらいがちょうど良い!

 ほれ、あれよ「無知の知」といいましてねえ。

「知らない」がなければ「知りたい」はありえない。


 しかも、学問は誰の役にもたたないんだ! って、ぼく前の項で言い張りましたから。

 誰の役にもたたないことを情熱的にやろうと思ったら、馬鹿じゃなきゃ勤まりません。




「学問とは人生そのもの」

 これは個人の観念としては素晴らしいですね。

「生きていくのには、学び続けることが必要だ。人生は学びの連続だ」

 という意識があらわれていて、率直に

「あ~、いい学生になるんだろうなあ」

 と感じてしまうのです。


 が。


 ぼくの考えでは、人生というのは、学問よりも面倒なものです。

 学生のやり方、学問をするうえでの心構え、みたいな文章を、ぼくはこうして書いていますが、大学にいったら「就職しろ」っていうのが人生です。

 んでもって、現代日本では、まず情熱的になれないようなことであろうと、かまわず就職活動しなければなりませんし、高い税金を納めねばなりませんし、うまいこと職にありつけてもやりたくないことをやらされたり、言いたい放題いえば上司に疎まれて窓際においやられて、リストラ候補となって、

「もうやだ、こんな人生」

 みたいなことも普通にありえます。


 何のために大学へいくのか。

 就職のため。

 これが日本の人間の人生になりつつありますからねえ。

 まあ、大学にいって就職を目指さない人生を歩むのもどうかと思いますが。

 せっかく大学にいて、就職しか眼中にないならば、高校卒業してすぐに就職したほうが本来的には効率的だったりします。まあ、給与の上下はありますが。


 学問にわくわくして、それだけに熱中してると、いわゆる「負け組」になったりしてしまう。


 ん~、余談ですが、……「負け組み」あんまり好きな言葉ではないですね、これも後々、おりに触れて書くことになりますが、

「人間を二元論でわける」

 というのはセム系宗教の唯一絶対神だけがやればいいことで、人間が人間を真っ二つに分けてたら正義も平和もありゃしないと思う。なんだい「勝ち組」「負け組」って。むかつくわ~。


 ま、それはさておき。

 人生は、結構、過酷です。

 だから学生、成人まぢか、あるいは成人しながらも、学問にどっぷりひたれる時期に、熱中してやり遂げようとする意欲、努力、そうして得る専門知識、そういうのを経験しながら、人生というものに飛び出して行って欲しいな、と思うのであります。




 もうひとつ、勉強について。

 これも明晰なご意見ですね。


 ぼくは「勉強とは試験攻略あるいは成績もしくは身分や資格獲得のための知的行動」という定義です。


 そして、圧倒的に勉強は苦手です。好きですが苦手です。

 英国数理社という、いわゆる五教科の成績とか、高校のは最底辺で突き進んでおりますからねえ。

 まあ、その分、技家美音体は学年トップを爆走しましたが、……恥ずかしながらちょっとした自慢話です。




 さて、続いてまいりましょうか。

>パスカルの文言は遥夏らしからぬ月並み表現


 うおう、読み込んでくださりありがとうございます。

 感想も本当に感謝です!


 パスカルの文言というのは、前回の「人間は考える葦である」のことですね。


 これ、今回の話題にすごく重要です。

 過去に何者かが為した学問の業績を、おのれの為そうとする学問にうまいこと生かせ!




>デカルト、カント、ニーチェ、アインシュタインも古くなってしまった。

 ともございました。

 たいへんに良い視点と感じられます。


 学問は、ある一定の成果として世に送り出されます。

 そして、長い年月をかけて「真理であるか否か」をずっと他者によって検証されつづけます。


 これは、学問の重要な段階といえるものですねえ。

 本質的には、学問というのは、己を知り、己を作り、己が満足いくようにやればいいのでありますけれども、

「独りよがりに満足していないで、そんなに満足感のあるものなら他のひとにも知らせてくれ」

 ということになるわけです。

 もしくは、学問した人間が

「自分がやってみたらこうなったんだけど、他のひとがやったらどうなの?」

 という更なる探究を目論んで、いろんな人に見てもらうことができるようにするわけです。


 個々人にとっての「真実」が、人間全体に関わる「真理」であるとは限らない。

 学問の終着点は、真理を探究することだとぼくは考えます。


 ゆえに、その終着点のために、たいがいはこんな感じの道程をあゆむことになります。


1、興味があることをみつける。

2、発想、発見する。

3、仮説をたてる。

4、調査、研究、実験、観察、などを経て、仮説の真否を証す。

5、レポート、論文などのかたちにまとめる。

6、学会発表、あるいは、学会誌に論文を送りつける。

7、質疑応答、および議論。

8、7で得られる知見をもとに、さらに精査。


 学問的な有名人は、本人がもはや死んでいたとしても「7」があるということになりますね。

 学問は、信仰とは違います。

「科学的に証明されてる」を安易に信じるのは、まえにも言いましたが、そういう宗教です。

「もはや疑いようもない」という状態になっている学問結果というのは、みなさまが思っているより少ないかもしれません。

 学問は、疑って、疑って、疑いまくって、いろんな人の疑いのまなこを経て、ようやく

「あ、どうやらこれは真理っぽいな」

 という状態になるわけでありますね。


 だから、学問はうまれた瞬間からどんどん古くなっていく。

 年がら年中、議論の的になるような学問結果は、叩かれたり磨かれたりする。

 まるで金属のように、伸びたり光ったりするものも、そこからうまれてくる、と。



 しかれども、だけれども。

 最初っから、何から何まで自分だけのやりかたで学問を貫き通すのは、結構難しいことです。

 というか、無理だと思われます。

 宗教的観念の「色即是空」は信仰のありかたによって充分な価値があることでありますが、

「無から有は生ぜず」

 と学問ではいいましてねえ。 


 ぼくらが生まれる遥か以前に学問しようとした先輩がいるんです。

 先達は「なぜ」「どうやって」「なにを」やったのか、その姿勢や方法や知識を利用しない手はないと考えます。

 学問の入り口にたったとき、まず真似からはじめる。

 絶対、そのほうが手っ取り早い。

 で、その真似をしている最中に

「あ、これは改良できるな」

 とか

「あ、これは間違ってるかもしれないな」

 とかいう発想がでてきたら、それもまた学問のタネになるものと思います。

 そうやって、だんだんとオリジナリティもつけていくと、他の誰にもできないあなたさまだけの学問が完成するわけでありますね。


 ちょっと古典的なことばを引くと

「思いて学ばざれば、すなわちあやうし」

 ですね。

 考えてるだけで、他からの知識や知恵を利用しないのであれば、土台がないところで片足つま先だちしているようなもので、バレエ・ダンサーじゃないんだから、という話であります。


「自分の発見や発想にはこういう土台があるんだぞ」

 と示す。

 その土台にさらに積み重ねるのか、ぶっ壊すのかは、あなたさま次第です。

 学問分野にもよりますが、こうやって土台によく使う諸先輩がたがつくりあげたものを「通説」といいまして、その「通説」の知見は、仮説をたてた直後に一通り頭に叩き込んでおくと、研究のときに楽ができたりもします。

 真理が終着点なのだとしたら、通説は出発点に近いかもしれませんね。

 あ、いや、まあ、それよりも意欲が先ではありますが。


 この意味において、

>先生になってください

 とありますが、少なからず「先に生まれた者」としての資格はすでに、ぼくは有しているっぽいですね~。

 ただ、それほど偉いものではありません。

 知っていることは偉さではない、と思うのです。

 誇りにはできますし、それをもとでに水先案内もできますが、偉さとは本質的には関わりがない。


 ちょっとした世の中の仕組みですが、ぼくはしょっちゅう祭り上げられて、お神輿に乗せられる状態になります。周囲が「こいつ(ぼくのこと)を利用すれば金儲けになるんじゃあるまいか?」ということを考えて、ぼくは年がら年中、先生扱いを受けます。

 そうやって、周囲に「偉いひとだぞ」「すごいひとだぞ」と宣伝して、まとわりついてくる人種がいままで沢山いて、最終的になんでもかんでも責任はぼくが請け負うことになっています。


 これがなかなかの苦痛。

 なので、先生と呼ばれると、ちょっとトラウマがよみがえる部分がありますので、まあ「先に生きてる程度のもの」で尊称としては使わないでいて欲しいと願います。



 さて、続いては!

 いやはや、長文をいただき感激至極でございます。

 しかも、かなりの内容の濃さがあり、面白いご意見でございます。

 感想、ありがとうございました!


>学問ということばを、疑問に思うは、なんか変

>学問を錯覚するのは、学問と似ていても違う、勉強という偏差値のなかにある年代だからこそだと思う


 優れた考察知見ですね。


 これは、言語学的なものの考え方、あるいは、現代の哲学が行う論理式の観点でありますので、その項をたてたときにより詳しく解説することが可能かと思いますが、少なくとも、ぼくは「学問」の定義を四つ持っています。


1、教育活動における、学び、また、問う行動。

2、文献の諳唱、音読などを通して生活行動を規律する古典的な学習方法。

3、知識の習得、あるいは修得。

4、知的な冒険。


 それぞれ定義域がちょっとずつ違います。

 そして、例えば「大学の授業」は学問か否か、といわれると、必ずしも4ではありません。


「大学の授業はこう受けるといいよ」

 みたいなことを語るのが本稿ではなくて、

「大学にいったら、知的な冒険をしてみるといいよ」

 ということを語るのが本稿です、と述べるために、限定したのでありますねえ。


 そして、これはちょっぴり秘密の話。

 この「定義4」は、大学の勉強以外のものごとが多分に含まれます。

 アルバイトだって雑談だって、学問の「定義4」に含まれる可能性がある。


 ぼくの大学生生活を例にすると、ちょっととんでもないことなのですが

「今年も卒業できねえ~、やべえ~」

 と、嘆いている、善良な先輩をカモに

「卒論、代わりにかきましょうか? 原稿料3万くらいで」

 と、興味の範囲にあるものごと、知的に冒険できるものごとであったら、もうがむしゃらでした。


 ……いや、報酬もありがたかったのですが。

 四年制大学で、卒業論文を6回も書いたのはちょっとした自慢でありますね。


 さらに、大学は自分で時間割を作ることがほとんどなので、空き時間を利用して学会に出かけたり、……あと、あやしげ、かつ、18禁な仕事をたくさんこなしたり、雑誌記者をやったり、と、毎日がなにかしら知的な冒険でした。

 ん、若かったですねえ。

 眠らなくても平気でしたからねえ。

 いまや、必要以上に眠くて、……歳ですねえ……。



 ……は!

 いやいや、たそがれてしまいました!

 さて


>私たちは決められている定義に基づいて仮定を繰り返しているだけ


 これは、もはや、すごすぎますね。

 そこまで読み込むほどの文章を書いたつもりはなかったのですが、おそらく思考力がずば抜けているから到達できる部分なのではないかと思われます。


 ある側面で、これは否定できないものと考えます。

 個人的に気になるのは「決めているのは誰か」という視点を持ち込むとどうなるのでしょうね?


 なんとなく、これも言語学的な観点の話題になりそうですので、そのときにもう一度考えましょう。




>私達が必ず直面しなければならない問題であるとは言いがたい


 いやはや、驚嘆ですね~。

 これは、もう、ぼくには否定する材料がありません。


 かなりのマクロ・バイアスがかかっているので、これは議論するまでもなく、真実のひとつとなりえる意見だろうな~、と思います。


 これをちょっと掘り下げますと、今回マナ板に乗せてあります「内省」と深い関わりがありそうだと思うので、ちょっとやってみましょうか。




 人間は、産まれた瞬間から「ひとり」となります。

 全く同じ時間、全く同じ場所、全く同じ遺伝子をもって複数他者として産まれる人はいませんねえ。

 さらに、成長と発達を経て、人はどんどん個性的にばらけて、全く同じ過去を持った人はいなくなっていきます。


「咳をしてもひとり」

 という、無季自由律の俳句がありますが、人間は脳みその中身が他の動物と比べたらほぼ空っぽのような状態で産まれますので、経験や環境の差で、圧倒的に孤独で個性的になっていきます。


 こうして、別々な経験を持った「人間」は、目の前に「問題」があると経験から得てきたことを無意識に使って、なんとかしようとします。

 この「自分だけが経験したこと」を、無意識ではなく意識して、できるだけ客観的に観察することを「内省」といいます。


 で、いま、ぼくが内省してみると、学問をしなくとも、立派な人間だというひとは何人も思いつきますし、あるいは、学問は勉強の続きだと捉えていても、何らの問題もなく世の中を渡っているひとも幾人も思い浮かびます。


 が。

 明らかな捉え間違いをして

「あんとき必死になっていれば」

 と、あとになって言い出すひとは圧倒的に多い。


 あるいは、ぼくに卒論を依頼してきたひとは、学問に不向きなのに

「卒業しなければならないから」

 という理由で留年しているひとでありました。


 もしくは、高校の成績が優秀で、高校では「すげえ逸材」として一目置いていた同級生が、学問と勉強を混同しつづけたためにあっという間に退学してしまったりしました。


 せっかく、学問に便利な場所にいくのに、学問を意識できなかった、というのは、人生に大きな汚点を残すことになりかねない、ということなのでしょうねえ。




 ぼくは、もと教師でありますから、教え子たちによく訊いたものです。

「大学になにしにいくの?」


「医者になるため」

「人の役にたてるようになるため」


 うむ、我が教え子たちながら、なんと立派なことか!

 しかし、本稿を書くきっかけとなった生徒の答えは

「先生、私は、わくわくしにいくんです!」

 というものでありました。


 ワケが分からなくて、すごく鮮明に覚えています。


 が、実際いって、これが全てじゃなかろうか。


 新しいことをする、新しい環境へいく。

 それは、恐怖もありましょうけれど、その恐怖すらも、興奮の隠し味のようで。

 そして、わくわくし続けていれば、……要するにモチベーションが持続するならば、

「やってやるぜ!」

 という気概のままでいるならば!

 自然と根性も沸くし、能動的になるし、自分がなにもので、なにをしたいのか、分かるきっかけがたくさんあって、人生そのものにも良い傾向を与えてくれるのではなかろうか。


 まあ、結局のところ、人生それぞれです。

 現在は占い師のぼくですから、人間が抱える問題は様々だと感じます。

 が、これも古典、易経のことばですが

「類は友を集む」

 というものがありますね。

 心理学的には

「こいつ、なにか面白いことやらかしそうだな」

 という気配がある人間のところに、ひとは自然と集まると考えられるのですが、ともかく、新しいことをしよう、新しい環境へ行こうとするとき、バイタリティをもっていくと、全く違う経験のもとに個性を宿した自分とは違う「人間」に触れ合うことができて、ぼくにはそれが快感だったりします。


 快、不快、という無意識の判断は、案外、あてになるものです。

 まあ、かなりの個人尺度ですので、万人にはあてはまらないこともありますが、動物的本能(=無意識)は、種の生き方から来るような気がしますものでね。




 さて、次の話題にいきましょうか。 


>勉強と学問の違いを理解していないと、学問の定義について論じるのは難しい


 う~ん、そっか……。

 と、この文章を読んだときに、ちょっと悩みました。


 違いがあることは確かなのだけれど、理解するレベルは、R15だと厳しいものでありましょうか。

 ぼくにとっては、どちらも面白いポジティブなものなのです。

 いや、勉強、本当に苦手なんですが。


 高校生はすでに勉強と学問の違いについて経験していると考えます。


「数学」は「算数の続き」では、なかったのではないでしょうか?

 ぜひ内省してみてくださいませ。


 もうひとつ。

 歴史の教科書にあると思うのですが

「天はひとの上にひとを作らず、ひとの下にひとを作らず、といへり」

 というカタカナの文章、読んだことないでしょうか?

 もしかして、ほとんどの教科書から消えていたりしたら、……イヤだなあ。


 このひとこと、学問と勉強の違いを雄弁に語っています。

 これは、一万円札のあのかたが、まだ日本に「定義2」の学問しかなかったときに、

「本当の学問は、こういうためのものなんだぞ」

 と示した珠玉のひとことです。

 これに関連させて、もうひとつ「国立国会図書館」という日本の国立図書館のロビーの一番目立つところに、こんな言葉があります。

「真理が我らを自由にする」


 小学校、中学校、高校、というのは、受動的学習で運営されますので、そりゃ~、もう、自由もへったくれもない勉強になりがちで、学問機会がほとんどありません。

 10年ほどまえから「総合的学習の時間」という、学問に近いもの、能動的な知的活動をとりいれた授業を試みたようですが、……まあ、ね。

 ごく一般的な生徒が「成績の役にたたない」「興味がもてない」「与えられた課題」で「調査、研究、観察、実験の環境が整わない」状況下、やる気が起きるかどうかというのは甚だ疑問ですねえ。


「知りたいことを知ること」

「斬新で面白いことを発見、発想すること」

 学問は、そういう自己満足をやるわけですから、自分が主役になって、自分でものごとを動かすという経験をする機会になると思うのです。


 教育基本法、第一条の部分に「自主的精神に満ちた」人格の形成を目指して教育しなきゃだめよ、となっているのですが、なかなか生徒を主体にしたような、能動的に学習する態度を育成していくのは難しいもののようでございます。


 だから「勉強」は悪者扱いされますが、試験とか成績とか、ひとから実力を試されるのは、それはそれで面白くて、ぼくは好きですねえ。


 ……いや、マゾとかいうな?





 今回、マナ板に乗せておりますのは「内省」と「取材学」。

 いやはや、前置きが長いようでいて、実はあちこちにそのエッセンスを染みこませたつもりですが、どうでしょうか?


 まず、内省について。「ないせい」と読みます。


 これは、頭の中のピンボールであり、自分の経験を観察するということであります。


 例えば、ですが、

「昔『魔法円から魔女は空へと飛び立った』という童話をきいた覚えがある」

 みたいな感じで、記憶や普段の行動を引きずりだすわけです。

 これは、原典を覚えていなかったり、自分自身だけの極めて個人的なことだったりすることもありますねえ。

 で、この現象を観察して、どう着想するのか。


「ぼくは記号論的に考えれば、魔法円とはヘリポートのサークルと同じものではないかと仮説をたてた」

 というように「自分で考えてみる」という行動をします。


 過去の自分の体験などを通して

「ああ、もしかしたら!」

「こう考えたら……!」

「こういう見方をすると?」

 と、いじくってみるんです。

 自分がなぜそれを内省しながら見つけることができたのかを考えると、あなたさまの人生にそれなりに意味があることだから思い出せたのでありましょうし、その思い出した事象が自分の興味のある知識で説明がつけられそうだとなったら、もうしめたものです。


 これが内省、自分自身を省みる、できるだけ客観的に、自分自身の周辺と経験を観察する。

 うまくすれば、そこから発見や発想がでてきます。

 興味があることだから覚えていた、思い出せた、ということですからね。


 説明可能なトラウマも同じですよ。

「これがイヤなのはなぜだろう」

 と、考えると、あなたさまの人生になんらかの意味があったから、です。

 そこに興味をはらって、こういうことなんだ、と言い切れれば、学問は最初の段階がクリアできます。


「ぼくはタマネギが嫌いだ」

「しかし、6歳までは食べていた記憶がある」

「しかし、その年に高熱を出して入院して以来だ、タマネギが嫌いになったのは」

「その入院した病院の病院食に、ほぼ半分にしか切られていないタマネギ入りのナポリタン・スパゲッティを食べたのだった」

「単なる高熱であったが、本能的に生死の境のように、脳がインプットしたのかもしれない」

「ゆえにタマネギの臭いをかぐと、本能的に生死の境を感じるのかもしれない」

「病院の匂いとともに、タマネギの臭いが混じって、本能が嫌悪するのではないか」


 こうやって、内省したら、仮説がぽろり。

「幼少期、死にそうな目にあったときに食べる、クセのある食べ物は、以後の人生において、嫌いな食べ物になると仮説がたてられる」

 みたいに。


 なんでもないようなこと。

 でも、自分だけじゃなく、他のひともそうかもしれない。

 こうやって、内省するだけで仮説が思い浮かぶと、一気に学問が進んでいきます。


 これは、実は、小説を書くときにも使えます。

 学問と小説だと、少々、アプローチが違いますが、内省して気にかかるテーマをみつけると、一気に筆が進んだりするものです。


 ちなみに、学問と小説の違いは、主たるテーマを見つけたときの表現ですね。

 学問の場合は、テーマをより抽象化、一般化、誰にでも通用するのではないかと思われる状態にもっていく。

 小説の場合は、テーマをより具体化、虚構でも作り物でもいいから、こういうことがあって、これこれで、とストーリーを描くことによって、テーマを明かさないのに読者にテーマが伝わる状態にもっていくものであると考えます。

 ちょっと違いますが、似てる部分もあります。

 小説のジャンルには「純文学」というものがありますが、これは本格的に学問と似ていて、作家に確固とした突き進むべきテーマがあって、それが描写的に表現されたものとなります。そのテーマが伝わっていないらしい、とする純文学の作家は、学問屋と同じように、他者の意見を取り入れたりして描写を変更したり、ということをやります。


 いずれにしても、学問のきっかけは内省をうまくつかえば、自分自身の半径2メートル半くらいで見つけることが可能なものであったりします。

 が、さきほども言いましたが「思いて学ばざれば、すなわちあやうし」でございます。

「頭が痛くなった日の翌日は、必ず白髪の鼻毛がはえているのが見つかる! 頭痛と鼻毛には関係があるかもしれない!」

 とかやって、超個人的な経験をもとに論理を組み立てようとすると、無理が生じます。


 そこで、内省のもうひとつの役割を考えることにいたしましょ。

 内省は、仮説を構築するためだけのものではありませんでねえ。


 いま「頭痛は、白髪鼻毛の原因である」という仮説があります。

 それは、内省を通して、関係性があるかもしれないと記憶のなかから掘り起こした研究課題ですね。

 この仮説が、ほんとうに正しいのか、ほんとうは超個人的なことであり関連性はないのか、どちらかに決着づけたいわけであります。

 そこで、自分の頭のなかを引っ掻き回し「頭痛経験」と「白髪鼻毛の発生経験」を、思い出せる限りすべてひきだします。

 自分の体験だけでなく、自分の過去が見聞きしたことも含めて、できるだけたくさんです。

「そういや、昨日の夜、いとこのヨっちゃんが頭痛いっていってたな」

「そういや、三年前、モトカノとデート中、カプチーノを飲む彼女の鼻から白髪の鼻毛が飛び出してたな。それを指摘したから別れたんだっけ?」

 と、もう、のべつくまなく、芋づるのように、エイやこら掘り出してくださいませ。

「でも、今日のヨっちゃん、白髪鼻毛、でてなかったなあ」

「あ、そういやあの伝説のデートの前の日、モトカノ熱出して寝込んだな」

 と、関連性を肯定しそうなことや、否定しそうなことまで思い出せればグッドです。


 こうやって、

「似た事例がある」「仮説が肯定されそうな情報だ」

 というのを集めれば、

「ほらね、やっぱ頭痛が原因で白髪鼻毛になるんじゃん!」

 とドヤ顔できるわけでありますね。


 で、

「どうやら仮説が否定されそうな事例だ」

 というのも集めます。

 どうせ、学問をすれば、ゆくゆく議論をしていかなきゃならない。

 だから、その議論の場で他者にツッコミを入れられるまえに、自分自身で議論する、疑う。

 否定的な意見があるだろうとして、それについて合理的に解釈しておきます。

「これは仮説が否定される事例だけれども、例外中の例外といえるだろう」

 とか、

「これは仮説を一見否定している事実にみえるけれども、本質的には仮説を立証している事例だ」

 とか、なんとかしてやりくりするわけです。

 否定をかいくぐることができれば、その仮説は「真」であって、仮説が証されるわけでありますね。


 もちろん、逆に

「仮説を否定する情報のほうが圧倒的に多い」

 かつ

「その否定をくつがえす合理的な説明がつかない」

 となれば、仮説は「否」であり、仮説の逆証明がされることとなります。

 つまり

「頭痛と白髪鼻毛の発生とは関係性がない」

 ということが、立証されたこととなり、これはこれで立派な成果です。


 詳しくは論理学の項をたてたときに細かく説明できると思いますが、仮説の真偽を調べるときには「逆の視点」からとらえて、その「逆の視点」を否定することで仮説を証かすというやりかたがあります。

 だから、否定には否定の、ちゃんとした意味があります。

 ……まあ、上記の白髪鼻毛に関しては「頭痛との関連性がない」ことが分かっただけで、原因不明のままですから、不完全燃焼にはなりますけれど。


 内省はこのように扱います。

 ちゃんと客観的に観察できているのであれば、自分の経験は重要なデータのひとつになりうる。


 ぼくの、このむちゃくちゃな文章を例にあげるのも気が引けますが、

「学問とは冒険である」

 という、ぼくなりの意見を貫き通すために、要所要所に内省データを盛り込んでいます。


 前回の「学問にワクワクしてくれ」では、たとえば、

「ONE PIECE」(ちなみにウォーターセブンの回想場面)

「まおゆう」

「ハリー・ポッター」(ちなみにダンブルドアとハーマイオニー)

「ご近所物語」

「封神演義」

「風の谷のナウシカ」

「幻想水滸伝」

 などの読書(まんがを読書に含めていいのか疑問ですが)や視聴、ゲームを経験した影響が多分に含まれています。

 ほかにも、原典を忘れたけれども、いつ経験したか忘れたけれども、ピンボールのフラグのように自分のなかに大事なこととして置いてあったさまざまなことが、ビンビン反応を示しているわけでありますね。


 つまり、内省とは、自分自身の経験を材料として、仮説を立証するためにも使える、と。

 小説を書こうとするときにも、テーマがあってもなくても、とにかく自分の経験をまず材料にできる、と、ぼくはそう考えます。




 ただ、内省は、自分が忘れてしまったことはどうにもしようがありません。

 その瞬間には興味がなかったから忘却してしまうのでしょうけれど。

 だから、内省だけでなにかやろうというと、そうとうにいろんなことに普段から興味があって、

「絶対に忘れられない思い出にするんだ」

 と、頭の中にありとあらゆることを潜ませているひとでないとちょっと難しい。

 さらに、経験していないことは、どうにもなりません。

 経験しちまえばいいだけですが、時間的に無理、行動として奇異に見られる可能性がある、法律に触れる、年齢を遡れるわけではない、などなど、さまざまな障害がありますので、なかなかそれも難しいかもしれません。


 そんなわけで、取材をします。

 内省は自分自身の内側を取材源にしているだけなので、やることは基本的に同じです。


 必ずしも「取材」というのは「インタビュー」や「ロケハン」だけをいうわけではありません。


 いうなれば、やりたいことをやるための材料集め!

 これこそが真の取材であります。

 まあ、実質「取材学」という分野はなくて、本来ならば「取材論」とか「ジャーナリズム論」とかいうところのものですが、そのままズバリ「取材学」加藤秀俊:1975という本がありまして、これは大学に入ったら即効で読んで欲しい一冊だったりします。

 文章を書くときの、ぼくの座右の書のひとつです。


 さて、人文学に関しては、取材はかなり肝になりますねえ。

 社会科学と自然科学に関しても、それなりに重要ですが、こちらは「取材」というよりか「調査、研究、実験、観察」と、意味合いに応じてそれぞれことばを使い分けていることが多いですね。


 いずれにしても、仮説を立証するためのデータ、情報をみつけること、であります。


 人文学では、このデータや情報のほとんどが「諸先輩の意見」になります。

 自然科学では、……う~ん、2年生くらいまでにこの方法は完全にマスターして、21世紀の論文が読みこなせるくらいまでしておきたいものですが、ちょっと膨大すぎる部分もあるので、ねえ……。


「この先生はこの年にこう言ってるよ」

「この先輩はこの雑誌でこう言ってるよ」

 というふうに、自分のだしたい意見、自分の発掘した仮説に、賛同していそうな意見を見つけるのでありますね。

 ほとんど、文献探索です。

 ここに「通説」もみつけることができましょうし、また「通説なんかクソくらえじゃ!」と言っている先輩もいるかもしれません。

 とにかく、自分が言いたいことを傍証してくれる、否定してくれる、近いテーマを持って、論文や書籍を残しているひとをみつけ、それを徹底的に調べるということをいたしますのです。

 できるだけたくさん。いろんな角度の見方を発見します。


 内省と似てますでしょ?

 見つかった材料は、無批判に受け入れるのではなく、自分なりに解釈して、合理的に使っていく必要がありますが、そうやって仮説を鍛え上げるんですね。

 そして、そうやって

「このひとの意見を取り入れましたよ」

 ということを示すために、論文を作るときには「参考文献一覧」とか「引用文献一覧」とかがついています。

「随分まえの論文のようだけど、このひとは、さらに昔の論文を読んでこれを書いたんだな」

 と、それだけで終わりじゃなくて。


 その「参考文献」。

 もしかしたら、自分の学問にも生かせる意見があるかもしれないので、いま自分が参考にしようとしている文献が参考にした文献、そいつらも手当たり次第に見つけます。


 これ、学生とかじゃないとなかなかできないです。

 一般的な社会人になると、図書館にいりびたっていると気の毒な目でみられますし。

 そもそも、そんな時間、なかなか作れませんし。

 だいたい、大学の図書館のように、見つけたい文献がすぐ見つかるような一般人向けの図書館は、それほどたくさんありませんし。

 大学という環境には「大学図書館」という、人生を少なくとも2回経験しないと自分の専門分野ですら読みきれないというほどの資料を持った組織があります。

 これを利用しない手はないですね。


 ただ、あくまで、文献探索というのは「こちらが訊きたいことを書いてくれている」ものではなくて「自分の仮説には全くかかわりのないことも著者が勝手気ままにかいている」という可能性があります。

「これはこういうことですか?」と尋ねられる相手ならば、インタビューができますけれど、その文献を書いた人が外国に住んでいたり、すでに死んでいたりしたら、インタビューはなかなかに難しいものでしょう。

 うまい具合に自分の仮説に役にたつ情報ばかりではない、直接訊くことも無理っぽい。

 こういうとき「取材」は、いよいよ「調査・研究・観察・実験」というものになっていきます。


 これらは、要するに

「パンがないならばブリオッシュを食べたらいいのに」

 ……もとい!

「誰かが作った情報やデータがないならば、自分で作ってしまえばいいのさ!」

 ということ。


 やりかたは学問分野によって様々です。

 アンケートをとったり、薬効植物に超音波をあててみたり、異性の写真を見せてどんな反応を示すのか人間観察したり、顕微鏡で星をみたり、望遠鏡で微生物をながめたり、二酸化炭素濃度を毎日決まった時間に測ったり……、エトセトラ。

 自分の考えがあっているのか、間違っているのか。

 それを確かめるには、どういう情報が必要で、どういう動作をすればいいのか。

 これが取材のなかでも別格扱いをうける「調査・研究・観察・実験」、情報やデータですら自分の力で作り出してしまう部分です。


 あ、作り出す、といっても、学問では虚構はキンモツです。

 嘘の情報データはやめましょう。


 と、いうか、たいがい論文のカタチにするときに

「ほかの誰がやっても同じ程度の結果がでる」

 ほうが、疑われないしツッコミもいれられないわけで。


 どういう取材をしましたよ、ということは明記すべきものなのでありますね。

 文献探索でも「参考文献一覧」みたいなものを論文にくっつけなきゃならないのと同様。

「調査・研究・観察・実験」であっても、

「こういうやりかたですから、夜露苦死!」

 と、のちにその論文を読んで疑いをもった人が、同じやり方をできるようにしておくのであります。


「日本人8億人を対象に、2008年、8月~9月にかけて、下記のごとくアンケートを行いました」

 わ~、すご~い! それだけたくさんアンケートとったら、かなりアテになるデータだね。

 ……って、日本人、そんなにいたっけ?

 と……いうようなことになりませんように。


 もうひとつ、これらデータですが「客観的事実」という厄介な概念を含んでいます。

 これも詳しくはのちの項にまわさせてください。


 ともかく、材料を集め、あるいは、材料を作るときは、できるだけ客観的に、というのが大切。

「他の誰かが同じ事をやるかもしれない」ということを想定したときに、主観的な材料だと困るんです。

 主観的、ということは、超個人的なことかもしれないですから。


 たとえば、ケータイ電話の各社のサイズについて興味をもって調べたとして

「現代のケータイ電話は、おおむね手の平サイズです」

 では、おいいぃぃぃ、となるわけです。

「おおむね」って何センチの誤差まで含むんだ?

「手の平サイズ」って人によって大きさ違くね?


 もうひとつたとえば、ペットボトルのお茶の香りの比較をしてみたとして

「A社は鼻息が荒くなってはじめて微かに香り、B社は口の中でふんわりと香り、C社は無臭だけと後味にほんのり香りがあったような気がしなくもないような感じの雰囲気が否定できないといって過言ではないかと思われます」

 とかやったら、おいいぃぃぃ、となりますよね。

 おまえの鼻が馬鹿になってたのかもしれねーじゃん?

 どんだけC社はあいまいなんだよ!?


 というわけで、主観というのはアテにならない部分が多い。

 内省も、あまりやりすぎるとこのドツボにはまることがございますねえ。


 主観というのは感覚的尺度なのです。

「大きいハンバーグ」

 と6歳児が言ったとして、18歳の健康な肉食系男子がそれを見て同じ尺度になれるかどうか。

「いや~、おまえには大きくても、おれにはちっせえよぉ」

 ということになるかもしれない。

「うお、マジか、むしろ大きいじゃなくて巨大だな、こりゃ」

 ということになるかもしれない。


 これじゃダメだわさ。

 では、こうすると……?


「横18センチ、縦8センチ、高さ4センチ、重さ、生の状態で380グラム」

 と6歳児が言ったとして、18歳の健康な肉食系男子がそれを測ってみたら

「いいや、高さが0.7センチ違う」

 とか、

「確かにそのとおりだ」

 とか、ようやく同じ尺度で、そのハンバーグを観察できるようになりますねえ!


 つまり、感覚的尺度では、ある人にとってはそうでも、別の人にとってはそうではない可能性がある。

 対して、数値的尺度、ある一定のルールに基づいた単位で物を語ると、別の人にとって真偽を確かめることができる客観性を持ってくる。

 情報データ、とは、このように、できうるかぎり数値的尺度へと変換してしまうほうが望ましい。

 それがダメなら、事実を主観を交えず間違いなく誤解なきように記述するしかない。




 これが、取材。

 自分がやりたいようにやってドヤ顔するために、やれるだけのことをやること。

 誰にも文句がつけられない、くらいに、徹底的に材料を集めること。




 実は、この情報収集とデータ化は、就職して社会にでると、仕事として有効に活用できるものであったりもします。

 なので、学問の入り口で、まず取材の心得をとこの項を書かせていただきました。




 ……とはいえ。

 話を学問に限って、また繰り返しですが「学問に王道なし」です。

 文句がつけられないようにやっても、文句はつけてもらったほうがよほどいい。


「学問の辞書に『絶対』と『一番いい』はない」

 ということばがありまして。


 情熱こめて「絶対的な真理だ!」と論文を書き上げても、

「詰めが甘いな、おまえのマニキュアはチョコレートでできてんじゃねーの?」

 というくらい簡単にひっくり返されることだって、よくあります。

 むしろ、そうじゃないと困りますねえ……。

 おまえらの目はフシ穴なのか!? それともオレの論文に興味がねーのか!?

 どっちなんだ、はっきりしろ、こるぁ!

 という気分になります。


 自分の知見も、他人だろうと先輩だろうと「絶対」ではない。

 いや「絶対こうに違いない」と思い込んで学問を始めるのは大事ですが。

 そして、世界の半分以上は思い込みでできていることも否定はしませんが。


 真理という終着点は、ひとりではたどり着けないものでしょう。

 いろんな疑いの目を経て、だんだんと普遍的になったり衰退していったりするのでしょう。


 もしも、絶対的な自信をもって、ドヤ顔で学問成果を学会に出せるのならば、反対意見や質疑応答やツッコミは「自分の理論を否定するもの」ではなく、他山の石というやつです。

 精々、自分自身を磨くために活用するためのもの。ないと困るのはこういうわけです。


 自他共にみとめる、ぼくこと「あげあしとりのなっちゃん」は、議論が大好きでありまして、とある学会で大論戦を繰り広げ

「なんか、きみに『ちょっといいですか』と言われると、いつのまにか、まんまと墓穴を掘らされている気分になるなぁ」

 と、とある老教授に、あっはっは、と鼻で笑われたものです。


 論破してやろう、というつもりではなく。

 他の人の意見が、自分の血になって湧き上がる感覚。

 別の角度からものを見られて、自分自身を試される高揚感。




 ときおり、小説を書き、ときおり、学問をすると、この感覚がたまらなく愛しいのです。

 誰かに何かを言ってもらえる、それが、さらなるぼくを作る材料になっていく……。

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