④始まりの静寂
余古波麻には、世渡の入口があるという。
だから、そこに行くように言われた時、サキは何か運命のような気さえ、した。
しかし、丘の上、鬱蒼とした森に囲まれたそこは、何も聞こえない世界だった。
音が聞こえた時、それは終わりのはじまり。
森の奥からの呼び声。
集会が終わると、サキはAに連れられ、これからの職場となる保健室に向かった。
そこは、学園長室から離れた本館の西の端の一階、三方を森に囲まれたような、突き出した一角に位置していた。
中に入ると、慣れ親しんだ、消毒液の匂いが鼻を刺した。
見回すと、思っていたより広い、白過ぎるほどの白い空間が広がっていた。
そこに、鍵がかかった薬品棚と、カーテンで仕切られたベッドが2台。脱脂綿やピンセット、ガーゼ、絆創膏などが置かれた処置用のワゴン。
少し離れて、サキが座る机と書棚があった。
(あぁ、なるほど。)
その部屋に入って、すぐ、サキには感じるものがあったが、顔に出す事も、声を上げることもしなかった。
「こちらが、薬品棚の鍵です。言うまでもありませんが、薬品の管理には十分ご注意ください。」
「分かりました、ご案内、ありがとうございます。」
チャリ…と、音を立てて、机の上に鍵を置くと、Aは軽く一礼をして、部屋を出て行った。
(さて、どうしようか。)
声に出さずに考えたのは、部屋のあちこちに置かれたカメラのことだった。
ここに入ってすぐに三箇所、気がついたが、その後、さらに数個あることがわかった。
とはいえ、それら全てを今すぐ外したら、自分を疑えと、そう言っているみたいなものだ。
取り急ぎ、薬品棚を確認するように鍵を開けて、その奥にあるカメラの前に、不自然にならない程度に薬瓶を移動させて、この部屋に来た子どもたちの表情を、映すことが出来ないようにした。
自分を監視したいのなら、それは構わない。
何を知りたいのか、意図は分からないが、ここに来て、何かを話したいと思った、その子どもたちは、守りたい。
後のカメラは、おいおい、偶然を装って、何とかすれば良い。
そう思い、サキはさらに部屋の中を点検するように、その位置と、数を頭に入れ、大体の計画を立てた。
ここは、思っていた以上に、居心地が良くて、そして、その何倍もの恐ろしさが潜んでいる。
サキが感じた、正直な気持ちだった。
ひと通り見て周り、机に座ると、書類立てに置かれた「日誌」の文字が目に入った。
手に取って、開いてみたが、1ページ目から白紙で、前任者からの引継ぎのようなものはなかった。
Fから聞かされたことを思えば、当たり前の事だと思う。
ただ…。そういう人だったからこそ、何かを残しているのではないか?
3段ある机の抽出しを、一つ一つ、開けて、中を確認しながら、サキは、違和感を探した。
そして、見つけた。
上2段は何も入っていなかったが、一番下の段の奥、白紙のカルテの束が入っていて、その奥に小さなささくれのように、一筋の引っかかり。
(あった。)
中にあるカルテを外に出し、全て白紙であることを確認すると、キレイに揃えて、元に戻す。
その時に、その引っかかりを、もう一度、確認した。
間違いない、と思ったが、その直後には、これがトラップである可能性も考えた。
(用心、しなくては…。)
ここは、そういうところなのだ。
Fに自分と同じ血が流れていようと、子どもたちがどんなに、静かであっても、それら全てが正しく、善である訳ではないのだ。
自分はまだ、他所者でしかない。
そのことを強く、言い聞かせ、サキは、日誌の最初のページに、今日の日付けを書き込んだ。
その日の午後、保健室に、最初の訪問者があった。
真っ青な顔をして、女性教師に連れられた、小学校、高学年の女子。
その様子を見て、サキはすぐに状況を理解したが、それをサキが言うより早く、
「初潮のようです。」
と、女教師が乾いた声でそう言った。
「分かりました。あとは、私の方で。先生はお戻りください。」
出来るだけ、感情を出さずに、そう告げると、教師は、舌打ちをするかのような顔を、一瞬だけ見せて、何も言わずに部屋を出て行った。
それを見送り、さらに足音が聞こえなくなったことを確認してから、ゆっくりと女子生徒の方を振り向いた。
「さて、これで少し安心ですね。今、どんな感じですか?お腹、痛い?」
生徒を映すカメラは、さっき潰したので、サキは自分を映しているはずのカメラに背を向け、生徒の肩を抱くようにして、優しくなり過ぎないことに注意して、そう声をかけた。
「あ、あの、わ、わたし…。」
サキの声に弾かられたように、その子の肩が、体全体が震え出し、絞り出すようにそう言うのがやっとで。
そこからは何を言っても、ただ、泣きじゃくるばかりで、まったく会話が成り立たない。
仕方なく、まず角の水場にあった電気ポットでお湯を沸かし、処置をした後、温かい白湯を飲ませた。
同じお湯で湯たんぽを作り、横になった女の子のお腹に乗せる。
白湯を飲んだ頃から、やっと落ち着いてきた彼女は、
「熱くないかしら?少し眠れそう?」
と、尋ねたサキの言葉に、消えそうな声で、
「大丈夫です。ありがとうございます。」
そう答え、ゆっくり、目を閉じた。
その頬に少し、血の気が戻ってきたことを確認して、ベッドを取り巻くカーテンを引いた。
机に戻り、日誌に彼女のことを書いた。
乾いた声と硬い表情をした女教師が、事務的に書いて置いていった「保健室 訪問者票」。
そこに書かれた女の子の名前、「える・K」と書かれたそれと、クラスを書き写し、状況と、処置の内容などを簡単に記す。
(K?ということは…。)
ふと、浮かんだ疑問を確かめようと、席を立ち、薬棚とは別の方にある、カーテンの掛かった棚に鍵を開け、その中から、背表紙に金文字でアルファベットが書かれた数冊の本の一冊を取り出した。
美しく装丁されたその革の表紙を見ても、同じくアルファベットが書かれただけで、何の本かは分からない。
けれど今朝、Fから聞かされたサキには、それが何か分かっていた。
それはここにいる、子供たち、いや、自分も含めて、ここにいる全員の名簿。
この国の民、全てが持つ、籍を持たない、この学園に関わる人々の、唯一の存在証明とも言うべきものだった。
学園長の他には、唯一、保健婦がこれを見ることを許されている、と言われて、その時は、言いようの無い緊張を感じた。
もちろん、この学園にも医師はいる。
ただ、その医師は、常駐ではなく、この学園の出身でも無い、ということだった。
「医者を育てよう、という試みもあったのですよ。
それに相応しい優秀な人材もいたのです。ただ、上手くはいきませんでした。
今も、その試みは続いてはいるのですが…。」
朝の学園長室で聞かされた話を思い出した。
サキも医師になりたい、と思ったことがあった。
しかし、育ててくれた産婆にそれを話した時、頬を張られ、二度とそのような事を考えて、口にしてはいけない、と、強く言われたのだった。
何か、あるのだろう。
ただ、それはサキが考えるべき事ではなかった。
あらためて、革の表紙に目を戻し、試しに、自分の名前を探してみると…、あった。
「S」の章、初めの方に、自分も知らないほどの情報が列記されていた。
(ふうッ。)
と、いつものように声にも、表情にも出さずに、心の中でため息をつき、自分のページは何も読まず、目に入ったはずの、初めて見る父、母の名前さえ、記憶に残すことなく、閉じた。
今さら、知って、どうなるというのだろう。
知る必要はない、と言われ、知ってはいけない、と言い聞かされて、ここまで育ち、生きてきた。
それでも、知りたいと、渇望した時期もあった。
けれど、これで知ることが出来る、と思うと…、不思議なほどに、何の興味もないことに、気がつくのだった。
(ここで、静かに、仕事をこなして、穏やかに、生きていくことだ。)
ここに来ることが決まってからの数ヶ月という時間と、昨日から今日までの、ここに来てからの僅かな時間の中で、サキが辿り着いたことだった。
そうすれば、自分はここにずっといることが出来るはずだった。
同じ血を引くFの元、同じ境遇の、静かな子どもたちに囲まれて。
(子どもたち?)
ふと、さきの中で、引っかかるものがあったが、今はそれに気づかないフリを、自分に対して、そうするのだった。
あらためて、名簿をめくり、今は落ち着いて、カーテンの向こう、ベットで休んでいる女の子、えるのことを確認した。
彼女の名前の欄、そこに書かれていたのは、驚くほどの血統の良さだった。
Kという名前から察した通り、父親はこの国の王族の一員で、母親もニ大公爵家に次ぐ、四大侯爵家の子女だった。
その2人から何故…?と思うことは、ここでは何の意味もない。
そして、驚くべき、と感じたことも、すぐに、ここでは当たり前のことであると、気付くのであった。
ここにいる子どもたちは、みな、同じような出自を持っている。だからこそ、ここにいるのだ。
そして、彼女の涙のわけ、それも、サキには、分かり過ぎるほどのことだった。
初潮をむかえたということ、それは、子を産むことの出来る体になったということ。
彼女の存在を、取るに足らない子どもと、捨て置いた人々に取って、利用価値が高くなったと同時に、危険な存在ともなったのだ。
これからのことを考えて、不安になるのは当たり前のことだった。
と、その時。
サキは窓の外に何かを感じて、顔を上げた。
しかし、窓の外には深い緑の森が広がるだけだった。
窓を開けて、あたりを見回しても、誰も、何も見当たらない。
この部屋の外には、細い通路が通っていたが、そこから窓の中を除くには、窓は高く、足掛かりになるものも無さそうだった。けれど。
何かがこちらを見ているような、その感じが消えず、背筋を強張らせ、眉を顰めて、窓を閉めた。




