アディショナルタイム第2節「開幕のホイッスル」(前編)
春の朝は、まだ少し冷たい。
七星学園の昇降口には、新学期特有のざわめきが満ちていた。
蓮は靴を履き替えながら、壁に貼り出されたクラス一覧表に目をやった。
2年1組:野中 蓮
文字だけ見れば普通だ。
でも——
拓真の名前は3組。涼子も3組。美鈴も、3組。
(……俺だけか)
去年は近かった。くだらない話をして、昼を一緒に食べて、放課後はゆっくり帰って。
それが当たり前だったのに。
蓮はため息をついて、視線を動かした。
クラス一覧表の隣にある共通掲示板の隅に、白い紙が一枚、貼り付けてあった。
《生徒会役員 新体制のお知らせ》
4月1日付で、以下の者が生徒会長及び副会長を就任する。
[就任]
会長 山本 結衣(高等部3年)
副会長兼総務 望月 柚愛(高等部2年)
[退任・解任]
会長 倉原 ともみ(退任)
副会長 山本 結衣(会長昇格に伴い、解任)
蓮は一度、その紙を読み返した。
(……山本先輩が、会長?)
違和感の正体に気づくまで、少し時間がかかった。
倉原ともみの名前が、どこにもない。
(……先輩、どうしたんだ)
答えは分からないまま、周りの生徒たちはクラス表を確認してそれぞれ流れていく。
誰も、その小さな紙に気づいていないようだった。
蓮はその紙から目を離して、昇降口の先へ歩き出した。
(……新学期、か)
春の光が廊下に差し込んでいる。
去年と同じ校舎。フロアが違えと同じ廊下。
でも——何かが、少しだけ変わっていた。
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1組の教室
2年1組の教室は、昇降口から少し離れた棟にある。
扉を開けると、すでに何人かが席についていた。
知らない顔がほとんど。去年のオタ友の丸山も佐野も、見当たらない。
(……そうか、クラス替えだもんな)
蓮は自分の席札を探しながら、教室を見渡した。
割り当てらたのは窓際の後ろから三番目。悪くない席だった。
荷物を置いて、椅子に腰を下ろす。
(……静かだな)
去年の教室は、朝からオタ友たちのゲームの話で賑やかだった。
今年は——まだ誰も話しかけてこない。
そのとき、隣の席に誰かが座った。
「……野中 蓮、だよな」
低い声だった。
振り返ると、見覚えのない男子が蓮を見ていた。
短く刈り込んだ髪。落ち着いた目つき。
「俺、城島 颯太。去年、蓮のこと遠くから見てたよ」
「……え、俺を?」
「特別参与になったって聞いて。同じクラスになれてよかった」
蓮は少し戸惑った。
(……知られてるのか)
「……別に、大したことじゃないよ」
「そうかな」
城島は窓の外を見ながら言った。
「これまでオタク側の人間が生徒会に絡むなんて、あり得なかったから…よろしくな」
蓮は少し黙った。
(……そうだよな)
「ああ、よろしく」
蓮が言い終えたころにチャイムが鳴った。
ホームルームが始まる。
蓮はノートを開きながら、ふと思った。
(……今年は、どんな年になるんだろ)
窓の外、桜がゆっくりと散っていた。
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3組の教室
2年3組は、昇降口から近い棟にある。
美鈴が教室に入ると、すでに涼子が席についていた。
「美鈴ちゃん! こっちこっち」
涼子が手を振る。席が隣だった。
「よかった、涼子と一緒で」
「ほんとに。野中くんだけ1組だったね」
美鈴は荷物を置きながら、少し笑った。
「うん……なんか、変な感じ」
「分かる」
涼子はノートを出しながら、さらっと続けた。
「でも帰りは一緒に帰れるんだから、いいじゃない」
「……そうだね」
美鈴は窓の外を見た。桜が風に揺れている。
(……蓮くん、今頃どんなクラスなんだろ)
去年は同じ教室にいた。同じ景色を見て、同じ空気を吸って。
それが当たり前だったのに——今日から違う場所にいる。
たったそれだけのことなのに、胸がざわつく。
「美鈴」
涼子の声に、我に返った。
「ん?」
「なんか今日、ぼーっとしてない?」
「……してない、かな」
「してるよ」
涼子はにこっと笑った。それ以上は言わなかった。でも——その目が「分かってるよ」と言っていた。
美鈴は少しだけ頬が熱くなるのを感じて、ノートを開いた。
そのとき、拓真が教室に入ってきた。
「おー、二人とも一緒か。ラッキー」
涼子が振り向く。「拓真も3組だったんだね」
「そ。蓮は?」
「1組」
「あー……まじか」
拓真は自分の席を探しながら、少し眉をひそめた。
「去年のクラスで残ったのって、俺たちだけかな」
三人の間に、少しだけ静かな空気が流れた。
やがてチャイムが鳴った。
拓真は席に着きながら、ぼそっと言った。
「……まあ、昼は一緒に食えるしな」
それだけで、空気が少し緩んだ。
美鈴は小さく笑った。
(……そうだね。昼は一緒に食べられる)
でも——やっぱり、窓の外が気になった。
2部屋先にある、2年1組の教室。
今頃、蓮くんはどんな顔をしてるだろう。
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数日後
昼のチャイムが鳴った瞬間、蓮は気づいた。
(……弁当、忘れた)
机の中。カバンの中。どこにもない。
今朝、玄関に置いてきた記憶が、じわじわと蘇ってくる。
(最悪だ)
購買に行くと、すでに長蛇の列だった。「売り切れ」の札がパンのケースに並んでいる。
食堂を覗くと、満席どころか入口まで人が溢れていた。
(……新学期あるある、か)
仕方なく自販機コーナーへ向かった。
栄養クッキーを二箱と、缶コーヒーを一本。
(……これで凌ぐか)
どこか静かな場所を探しながら廊下を歩いていると、スマホが震えた。
美鈴からだった。
《屋上にいるよ。来れそう?》
蓮は少し止まった。
屋上。一昨年の2学期から解禁されているのは知っている。でも——なんとなく、まだ来たことがなかった。
《行くよ》
短く返した。
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屋上のドアを開けると、春の風がどっと流れ込んできた。
思ったより、広い。そして——明るい。
(……久しぶりだな)
それまでは「使えない場所」だったせいか、どこか特別な感じがした。
「野中くん!」
美鈴が手を振っていた。隣に涼子と拓真。フェンス沿いのベンチに三人並んで座っている。
「久しぶりだな、ここ」
「中2以来?」
拓真が聞く。
「……たぶん」
あの頃は、まだいろんなことがぎりぎりだった。今は——こうして普通に来られる。
(……変わったな)
「野中くん、弁当は?」
美鈴が蓮の手元を見た。栄養クッキーと缶コーヒー。
「……忘れた」
「購買も食堂も?」
「売り切れと満席」
美鈴は少し間を置いてから、弁当箱のふたを開けた。
「……少し、多めに作っちゃって」
にこっと笑う。
「よかったら、食べて」
蓮は一瞬だけ固まった。弁当箱の中には、きっちり二人分はありそうな量が詰まっていた。
(……多めって、これ)
蓮が受け取った瞬間——
「あれ〜?」
涼子がわざとらしく首を傾けた。
「おっかしいな〜。美鈴ちゃん、今日だけ急に多めに作ってきたんだ〜?」
「た、たまたまだよ」
「た〜ま〜た〜ま〜?」
涼子はストローをくるくると回しながら、にっこり笑った。
「でも蓮が弁当忘れること、なんで知ってたのかな〜?」
「知らなかったよ!」
「じゃあなんで二人分あるのかな〜?」
「それは——」
「いや〜〜〜!!」
拓真が空を仰いだ。
「完全にアウトじゃん!!論破されてるじゃん!!」
美鈴の顔が真っ赤になった。
蓮は少し俯いて、小さく息を吐いた。
「……お願いだから、騒がないで」
そして美鈴の方を向いた。
「西村さん、いただきます」
美鈴は真っ赤なまま、小さく頷いた。
「……どうぞ」
拓真が口をへの字にして涼子を見る。
「……完封された」
「されたね」
涼子はストローをくるくると回しながら、満足そうに笑った。
しばらく、四人で食べながら談笑した。
春の風が屋上を通り抜けていく。
下の中庭から、誰かの声が遠くに聞こえた。
蓮は卵焼きを一口食べた。
(……うまい)
栄養クッキーより、だいぶうまかった。
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「そういえば蓮、放課後に生徒会の集まりがあるって知ってる? 講堂だって」
涼子がふと思い出したように言った。
「……ええ?」
蓮は箸を止めた。
「聞いてないけど」
「今さっきアプリ通知が来てたから。特別参与も対象って書いてあったよ」
「……そうなのか」
「ならよかった」
涼子はにこっと笑って、お茶を一口飲んだ。
「?」
蓮は少し首を傾げた。
「なんで涼子がそれを俺に」
「別に」
「別に、って」
「……知らないままだと困るでしょ」
それだけ言って、涼子は弁当に視線を戻した。
蓮はしばらく涼子を見ていたが、答えは返ってこなかった。
(……なんで涼子が気にするんだ)
ふと拓真を見ると、弁当を食べながら窓の外を見ていた。
でも口元が、少しだけ笑っていた。
(……こいつ、何か知ってるな)
「拓真」
「ん?」
「何か知ってるだろ」
「別に」
涼子と同じ答えだった。
蓮は二人を交互に見た。
美鈴は弁当箱を膝に置いたまま、少しだけ笑っていた。
(……俺だけ置いてかれてる)
「……ありがとう、佐藤さん」
「どういたしまして」
涼子はにっこりと笑った。
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放課後の大講堂は、思ったより広かった。
各クラスの委員代表と、各委員会の代表。それに生徒会。
ざっと数えると三十人は超えている。
蓮は後ろの方の席に座りながら、周りをさりげなく見渡した。
知らない顔がほとんどだった。
(……こんなに人がいるのか)
前方のステージに、結衣と柚愛が並んで立っていた。
結衣はいつも通り——落ち着いた顔つき。
少しだけ「会長」の空気がある。
「えー、じゃあ始めますか」
結衣がマイクを持った。
「知ってる人も知らない人もいると思うけど、改めて。
生徒会長の山本結衣です。よろしく」
軽いトーンだった。でも、場がすっと静まった。
「副会長兼総務の望月 柚愛です。
至らない点もあるかと思いますが、精一杯務めます」
柚愛が丁寧に一礼した。整った所作だった。
どこまでも「普通の優等生」という印象。
でも、その「普通」が妙に安心感を持っていた。
(……しっかりしてるな)
結衣が続ける。
「今日は顔合わせがメインなので、一人ずつ自己紹介してもらいます。
名前と所属だけでいいです。じゃ、前から順に」
一人ずつ、淡々と進んでいく。
クラス委員、放送委員、図書委員——。
蓮は半分ぼんやりしながら聞いていた。
(……自分の番、まだか)
そのとき。
「高等部普通科1年3組、風紀委員の柴 田しおんです」
静かな声だった。
蓮は顔を上げた。
短く切り揃えた黒髪。表情はほとんど動いていない。
ただ一礼して、すぐに視線を前に戻した。
結衣の顔が、ほんの一瞬だけ——固まった。
(……?)
気づいた人間がどれだけいたか分からない。でも蓮には見えた。
次の瞬間、結衣はいつもの表情に戻っていた。
「ありがとう。次」
流れは止まらない。
数人が続いて——
「高等部専科2年、生徒会参事の長谷川 カレンです」
明るい声だった。
赤みがかった髪。目が合うと、にこっと笑う。
その笑顔が——どこか、計算されているように見えた。
(……なんか、独特だな)
講堂のあちこちで、男子も女子も少しだけ反応していた。
結衣はカレンの自己紹介が終わった瞬間、もう一度——ほんの少しだけ、表情が動いた。
今度は柚愛も気づいたようだった。
二人の間に、見えない何かが流れた。
(……何かあるな、あの三人)
蓮が考えていると——
「はい、次」
結衣の声。
気づいたら、自分の番だった。
蓮は立ち上がった。
「……高等部普通科2年1組、特別参与の野中 蓮です」
短く一礼した。
座ろうとした瞬間——
「特別参与?」
誰かが小声で言った。
「あ、あの野中 蓮か」
「サッカーの」
「でもオタク側の……」
「え、特別参与ってそういう人でもなれるの?」
ひそひそ声が、微かに広がった。
蓮は聞こえないふりをして席に着いた。
(……まあ、そうなるよな)
耳が少し熱い。
そのとき、前の席から視線を感じた。
カレンだった。
目が合った瞬間、にこっと笑った。
(……なんだ)
蓮は思わず目をそらした。
結衣が咳払いをひとつ。
「はい、次」
流れが戻る。
蓮はそっと息を吐いた。
(……終わった)
でも——カレンの笑顔が、なんとなく頭に残った。
天使みたいな笑顔なのに、どこか——油断できない感じがした。
---
顔合わせが終わり、講堂がざわめき始めた頃。
蓮が席を立とうとすると、前から人影が近づいてきた。
カレンだった。
その後ろに、しおんが無言で立っている。
「野中 蓮さん、でしたっけ?」
カレンが笑顔で言った。
さっきと同じ笑顔。天使みたいな笑顔。
でも——間近で見ると、その目が笑っていないことに気づいた。
「……はい」
蓮は思わず背筋が伸びた。
カレンは特に何かを探るわけでも、圧をかけるわけでもなく、ただ笑顔のまま立っていた。
その「何もしていない」ことが、逆に落ち着かない。
後ろのしおんは一言も喋らない。ただそこにいるだけ。
でもその存在感が、妙に重かった。
「蓮」
背後から声がした。
涼子だった。
蓮の隣に並んで、カレンを見る。
二人の視線が一瞬だけ交わった。
「涼子じゃん。久しぶり」
カレンが笑顔で言う。
「……久しぶり」
涼子の返し方が、いつもと少し違った。
カレンは蓮に視線を戻した。
「今後の活躍を期待しますね。野中特別参与」
一礼。
しおんも無言で一礼した。
そのまま二人は、人混みの中へ消えていった。
蓮はしばらくその背中を見送った。
「……?」
「何だろう、あれ」
「カレンはね」
涼子がため息をつきながら言った。
「ミステリアスな部分があるから」
「ミステリアス、って」
「それ以上でも以下でもないよ」
涼子はそれだけ言って、「帰ろ」と歩き出した。
蓮は少し迷ってから、後に続いた。
(……「特別参与」って呼んだんだよな、あいつ)
名前じゃなくて、肩書きで。
なんとなく、それが引っかかった。




