たまには頑張らないでいい
現れたのは、ロロナ――ではなかった。
扉に背中を預けて面白そうに笑っているのは、何とシェルリヒトだ。
「で、殿下……?」
フローリアがじっと目で追う中、彼はゆったりとした足取りでベッド脇に近付いてくる。その間、青紫色の瞳にはいたずらっぽい光が宿っていた。
彼の手が、ヘッドボードに触れた。
「ロロナ嬢なら、そう言いそうだと思わない?」
小首を傾げて訊ねられれば、咄嗟にロロナの姿を思い浮かべていたフローリアもつい頬を緩めた。
「フ、フフ……確かに。というか、既に一度似たようなことを言われました……」
『何でもかんでも自分の責任と思い込まないで』『私はあなたに背負われるほど弱くない』。
彼女の、手痛いほどの叱咤激励が甦る。
燃えるような赤毛と、とびきり自信に満ちた若葉色の瞳も。強くて前向きで素直な少女は、どこにいたって心を明るく照らしてくれる。
泣き腫らした目のままだったけれど、フローリアは笑うことができた。
ロロナだけでなく、シェルリヒトのおかげもある。彼のさりげない優しさもまた、ふと振り返った時いつもそこにある気がする。
フローリアは感謝の気持ちを込め、彼に合わせた軽口を返した。
「殿下がご乱心になったのかと思いましたが……意外に似てますね」
「だろう? ギルレイドの邸宅を抜け出し、行動を共にした成果だね」
「殿下、ロロナさんを甘く見ない方がいいですよ」
持ち前の行動力と前向きさを発揮して、王太子という大物にも果敢に攻めていきかねないのだから。
フローリアはふと、隣を見上げた。
心に余裕が出て周囲に気を配れるようになると、メルエがずっと心配そうにしていたことに気付く。
コルラッド達が側にいてくれたのにないがしろにしてしまったのも、思いきり泣きわめくところを見せたのも恥ずかしい。
「きっとゼインさんは、あの祝賀会でヴィユセに目を付けられてしまったんでしょう。あれだけ格好よかったのですから、当然のことなのに」
「あー、惚気をどうもと言っておきましょうか」
「取り乱してすみませんでした。メルエさんも、コルラッドさんも」
「大丈夫。我慢はよくない」
コルラッドもメルエも、気にしていないと首を振る。たくさんの弱音や愚痴を、聞かなかったことにしてくれた。
「メルエ殿の言う通りだね。たまには頑張らないで、我慢しないで、取り乱したっていいんだ。君は一度くらい、恥も外聞もなく泣いた方がいい」
シェルリヒトは腰を屈めると、幼子に言い聞かせるよう目線の高さを合わせて続ける。
「泣くのを我慢するのも、人に迷惑をかけたくないという君の優しさなんだろうけれど。甘えて、頼ってもらった方が嬉しいよ。きっとゼインもね」
「殿下……」
おどけて片目をつむった彼の言葉につられるよう、ゼインの面影が浮かんだ。
優しく穏やかな笑顔。時々過保護なところ。狼のようだった真紅の瞳。
勇気をくれる人はたくさんいるけれど、きっと彼は誰よりフローリアを、強くも弱くもする人。
それは、心の一番柔らかいところにいるから。
ヴィユセに聖女の地位や婚約者を奪われても、諦めることができた。はじめから彼女にこそ相応しかったのだと思ったから。
でも、ゼインだけは絶対諦めたくない。
ロロナを好きだと知っても、想うことはやめられなかった。ましてや今回は、そこに彼の意思がないのだ。なおさらヴィユセの思い通りにはさせない。
フローリアは、強い決意をみなぎらせた眼差しをシェルリヒトに向けた。
「――殿下。今のお言葉は本心ですか?」
彼は目を丸くしたあと、楽しそうに応じた。
「もちろん。もっと寄りかかっていいくらいだよ」
シェルリヒトの声は、なぜかとても弾んでいる。そうして、フローリアの黒髪を無意味にくしゃくしゃと掻き混ぜた。
鳥の巣のようにもつれた髪はメルエがすかさず直してくれたけれど、普通に嫌がらせだ。
半眼で睨んでも、ひたすら機嫌がよさそうなシェルリヒトには痛くもかゆくもないらしい。いたずらを思いついた少年のように青紫色の瞳を輝かせながら、満面の笑みで笑う。
「いっそ、頼れる者にとことん頼ればいい。君が声をかければ応じてくれる者は他にもいるだろう?」
彼に促されて頭に浮かんだのは、祖父母と懇意にしていた王宮勤めの剣術師範。偏見のない騎士団長や、人嫌いの魔術師。悪い噂しかない聖女とも親しくしてくれた、優しい人達。
懐かしい。今も元気にしているだろうか。
そう思うと同時に、不義理を働いたことへの後ろめたさも感じる。
急遽ギルレイド領に追放されることが決まり、フローリアは挨拶もできずに王都を離れたのだ。
「で、ですが、みなさんが私を、以前のように受け入れてくださるか……」
「そんな狭量な者達ではないだろう? 相談するにちょうどいい人材もいる」
人嫌いで偏屈な魔術師は、生きものが潜在的に保有している魔力について造形が深い。
ヴィユセが起こしている現象について何か分かるかもしれないし、そうなれば有効な対策も打てるかもしれない。
「とりあえず今はゆっくり休んで、午後にも行動開始だ。客人に問題が発生したということにして、僕も今日の公務を調整してみる」
「え……今日、ですか?」
少々展開が早すぎやしないかと、フローリアは目を白黒させる。そもそもまだシェルリヒトの提案に頷いてすらいないのだが。
そこでコルラッドが、ベッドにいるフローリアを見下ろしながら鼻で笑った。
「それはそうでしょう。スレイン公爵邸侵入計画を実行する日は、もう明日に迫っているのですから。ゼイン様をヴィユセ様から解放するためにも、役立つ情報はいくらあってもいい」
一理ある。一理あるのだが……たまには頑張らないでいいと言ったその口で今すぐ動けと急き立てる、王太子の本質が心底恐ろしいと思った。
あと、日延べをするという選択肢がはじめからないことにも、微妙に傷付いた。
二時間ほど寝て起きたら、本当に魔術師を訪ねることになっていた。体調は回復していたけれど、彼らの実行力に戦かざるを得ない。
昨日のように報告会が終わる頃合いに帰ってくるのではという期待は、コルラッド達の表情を見た瞬間、甘い考えだったことを悟った。
王宮勤めの魔術師は、学術塔に所属している。
王宮の敷地内にある、知を探求する者達であふれ返った場所。
様々な分野の研究者が集まっているだけに、飲食店や洋品店などもあり、ほとんど街の様相になっていた。学術塔という名の街。
権力におもねらない彼らには、王族すら敬意を払うといわれている。
フローリアが親しくしていたのも、天才と評判の人物だった。
「あの……私達の会話がどのようなものでも、呆れを顔に出さないでくださいね」
学術塔の本塔が近付いてきたところで、フローリアはシェルリヒト達に注意をしておく。
「リノハさんは、人嫌いとして有名ですが、決してそんなことはありません。激しい人見知りと言いますか……とにかく、しばらく口を開かないようお願いいたします」
「わ、分かった。気を付けるよ」
シェルリヒトの反応を見る限り脅しになってしまったようだが、これは決して言い過ぎではない。
天才だが人嫌いで偏屈というのは誤情報だが、リノハが変わっていることは確かだ。
それが本名か知らないし、家名があるのかも不明。ただリノハとだけ名乗っており、年齢や性別すら曖昧な人物だった。
受付もなければ使用人もいないので、雑然とした塔をどんどん進んでいく。
「迂闊に何かに触れないでくださいね。何が起こるか分かりませんので」
またもや注意を促し、勝手知ったるリノハの研究室兼住居にたどり着いた。
「リノハさん、フローリアです。開けますよ」
フローリアは、名乗りを上げてすぐに入室する。扉を叩いても気付いてもらえないのだ。
床に落ちたローブの塊が、もぞりと動く。
脱ぎ捨てられたローブと思いきや、人だ。
「あれぇ? フローリア、久しぶりだね」
体を起こしたのは、茶色の髪と茶色の瞳の人物。ほにゃりと緩い笑みを浮かべたリノハだった。
「本当に久しぶりじゃない? 最近姿を見せないからどうしてるのかと思ったよ」
ふにゃりとリノハが放った言葉に、背後で存在感を消している面々が凍り付いたのが分かる。
彼のいう最近、とは半年以上の期間のこと。
そしてそれはフローリアがギルレイド領で暮らしていた期間でもあるのだが……おそらくリノハは王都を離れていたことすら知らないだろう。
聖女失格の烙印を押されたことも、スレイン家から追放されたことも。
リノハは、常にこの学術塔に閉じ籠もっている。つまり、僻地に住んでいる者より世情に疎いということなのだ。
なぜかというと魔術以外に興味がないから。
知を探求する者達であふれ返った学術塔。
……ここは、そういった者達の巣窟でもあった。




