682手目 怯懦と蛮勇
葦原先輩は、さて、と言って、境内の風景を見やった。
松の葉が風に揺れて、パチパチと鳴っていた。
秋の気配が、一段と深まる。
「私は、吉良くんとの将棋にしましょう」
これには少名くんが、
「なんだなんだ、貴だけ本命局かぁ」
と煽った。
葦原先輩は冷静に、
「うまく指せた一局です」
と冷静に返した。
まあまあ、喧嘩せずに。
いや、喧嘩ってわけでもないか。
盤をもどして、ふたたび初手から始まった。
【先手:葦原貴(S根県) 後手:吉良義伸(K知県)】
先手からの速攻。
私は、
「解説も、3五歩からの開戦を検討してました。高校棋界で流行ってるとか、そういう感じなんですかね?」
と尋ねた。
葦原先輩は、
「たまたまだと思います。解説陣も、攻めから読むことが多いので」
と、偶然の一致を示唆した。
まあ、それもそうか。
ここから一気に銀交換して、2六の飛引き。
【33手目】
葦原先輩は、
「この時点で、先手指しやすいと思います」
と、けっこう積極的な評価をくだした。
出雲さんは、
「ふぅむ、有利不利はともかく、角換わりの先手番で、攻めじゃからのぉ」
と同調した。
少名くんは、
「そうか? 後手からは、角打ちの反撃があるだろ?」
と、やや反発した返しをした。
葦原先輩は、
「私としても懸念材料でしたが、吉良くんはそう打ちませんでした。5二玉で、こちらの対応を見てきました」
と答えた。
結果的に、これがあまりよろしくなかったというオチ。
かといって、少名くんの角打ち案も、先手指しやすい流れに変わりない。
つまり、この時点で後手が悪いってわけ。
吉良くんにしては、稚拙な序盤だった。気合いで押し過ぎたイメージ。
「その後、私のほうにも疑問手が出てしまいました。攻めないといけないところで、3六飛と様子見したのが失着です」
【37手目】
「ここは3三歩と、叩いておく必要がありました」
この説明は、評価値とも一致している。
一転して、互角の状況へ。
さらにもう一度ミスが出て、今度は吉良くんが有利になり始めた。
私は、
「このあたりの流れは、どう感じていましたか?」
と尋ねた。
葦原先輩は、涼やかな表情で、
「そうですね……思惑通りにいったとも、私の錯覚だったとも言えます」
と、難解な返事をした。
私には、意味がわからなかった。
「というのは?」
「評価値的には後手有利かもしれませんが、私視点では、特定の局面に誘導していたつもりでした。4九銀を無理攻めと見ていたのです」
【46手目】
あ~、これね。
私は、
「解説陣でも、意見が分かれてました。御手さんは、成立してる派、相方の安孫子さんは、成立してない派でした。安孫子さんは、あんまり明確に言ってませんでしたけど」
この手については、犬井くんも、よくわかんないって言ってた。
つまり、かなり難解な局面のようなのだ。
出雲さんと少名くんも、しばらく黙って考えた。
先に口をひらいたのは、出雲さんだった。
「ふぅむ、わらわは、成り立っていないように思うが……」
私は理由を尋ねた。
「勘に近い。ようするに、4九銀、4八金、1五角じゃろう? 以下、2八飛、4八角成、同飛、3八金、4九飛、同金は、金がそっぽ過ぎるじゃろうて」
「なるほど……少名さんは、どうですか?」
少名くんは、廊下に寝っ転がり、肘枕をしたかっこうで、盤面をにらんでいた。
「……微妙だな。美伽の言う通りになったとして、後手に手がないのは事実だが、先手にもなくないか?」
葦原先輩は、
「本譜は2二歩、同金、4六歩と伸ばしました」
と教えた。
【55手目】
少名くんは、
「なんか悠長だなあ」
と承服しなかった。
葦原先輩は、その点を認めた。
「そうですね、2二歩、同金に、4五角と浮くほうが良かったです」
【参考図】
うーん……これはこれで、よくわかんない。
私だと、4五角をそもそも考えなさそう。
少名くんは、
「御手は、どう指したらいいって言ってた?」
と、私に訊いた。
メモを確認する。
「えーと……2二歩、同金、4五角です」
「貴と一緒か。で、そっからは?」
「2八飛に1八角打でどうか、っていうコメントでした」
【参考図】
少名くんは、
「あ~、4五角って、そういう手なのか。ま、御手が言うんなら、高校アマレベルだと、これが最善なんじゃね」
と納得した。
そんなもの?
御手っていうひと、かなり信用されてるっぽいね。
葦原先輩は、先を続けた。
「というわけで、4九銀は切れ筋と見たのですが、じっさいには真偽不明です。本譜は、4六歩、4八金、4五歩、3二金、4四歩で、4筋は間に合ったものの、引き続き後手有利の展開になってしまいました」
私は、
「吉良さんも、そう考えていたと思いますか?」
と尋ねた。
「感想戦の雰囲気では、後手良しと思っていなかったのではないでしょうか」
ふむふむ。
このあと、先手も後手も、決め手を欠く展開になった。
4四歩に同歩、2二歩で、後手はこれを取らずに5四歩、2一歩成、5五歩の攻め合いを選択。最善手の応酬、というわけでもなく、次善手以下が続く。
少名くんはこれを見て、
「ザ・アマチュア将棋って感じだなあ」
と毒づいた、と思いきや、
「ま、こういう棋譜は、アマには勉強になるよな」
と、なんだか肯定的な意見を述べた。
葦原先輩は、
「皮肉ですか?」
と静かに尋ねた。
少名くんは、腕枕でごろんと仰向けになって、
「ちげぇよ、じぶんがしそうな失敗は参考になるってだけだ」
と反論した。
んー、そのへんは、私もなんとなくわかる。
美文のまえに、てにをはを直して欲しいみたいな?
いずれにせよ、葦原先輩は再反論せずに、さらに進めた。
「しばらくして、角の使い道ができました」
【69手目】
「この時点では、互角という認識です」
評価値も、このへんで戻ってきていた。
つまり、吉良くんは好機を逸したということだ。
「80手台に入ったところで、私のほうが指しやすいと感じました。具体的には、7三飛と打ったところで、後手玉が危なくなっています」
【83手目】
6二銀と打てるけど、先手は5三銀と捨てて、同銀に6三金だね。
ここからは、葦原先輩が着実に寄せ切った。
100手以内に勝負あり、ということで、吉良くんにとっては不本意な結果に。
私は、
「全体の感想は、いかがですか?」
と、少し勇み足な質問をしてしまった。
葦原先輩は、
「そのまえに、少し補足しておきたいことがあります」
と言って、手をもどした。
「局後、御手さんに教えてもらったのですが、4六歩~4五歩~4四歩の瞬間、後手には5九飛と反撃する手がありました。おそらく、これで後手有利です」
【参考図】
「ただし、感想戦で吉良くんは、この手にまったく触れませんでした。対局中、私はこの手を考慮していたので、吉良くんのほうに見落としがあったのかもしれません。どちらかと言えば、2回目の2二歩で、同金とするほうがよかったどうかを気にしていました。つまり、思考が受け身になっていたということです」
ふむふむ、この説明は、参考になる。
吉良くんの不出来の原因は、前に出られなかったから、と──ん?
「それって、4九銀と矛盾してませんか?」
私の問いに対して、葦原先輩は、いい質問です、と返した。
「4九銀が前のめりだったと、途中で後悔してしまったのでしょうね」
「あー……羹に懲りて膾を吹く、みたいな?」
「それも良い譬えです。実際には、4九銀は成立していた可能性が高いです。適切に読んでいれば、5九飛を発見されて、私の負けだったでしょう。本局の吉良くんは、じぶんの読みに自信が持てなかった、ということなのかもしれません」
私はメモを取りながら、書き方が難しいな、と感じた。
ストレートに書くと、角が立ちそう。
「では、締めの感想をお願いします」
「揺れの多い一局で、対局者としても楽しめた戦いでした。終局も綺麗にまとめられたので、私の実力に照らして、良い棋譜だと思います」
葦原先輩らしい、流暢でさらっとした解説だった。
私は、タブレットを膝のうえに置いた。
「以上で、取材を終わらせていただきます。ありがとうございました」
場所:第10回日日杯 3日目 男子の部 10回戦
先手:葦原 貴
後手:吉良 義伸
戦型:角換わり力戦形
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △3二金 ▲2五歩 △8八角成
▲同 銀 △2二銀 ▲4八銀 △3三銀 ▲3六歩 △6二銀
▲3七銀 △6四歩 ▲6八玉 △6三銀 ▲4六銀 △7四歩
▲5八金右 △7三桂 ▲7八玉 △8四歩 ▲3五歩 △同 歩
▲同 銀 △8五歩 ▲2四歩 △同 歩 ▲同 銀 △同 銀
▲同 飛 △2三歩 ▲2六飛 △5二玉 ▲6八金上 △7二金
▲3六飛 △3三歩 ▲2六飛 △8六歩 ▲同 歩 △同 飛
▲8七歩 △8一飛 ▲5六角 △4九銀 ▲4八金 △1五角
▲2八飛 △4八角成 ▲同 飛 △3八金 ▲4九飛 △同 金
▲2二歩 △同 金 ▲4六歩 △4八金 ▲4五歩 △3二金
▲4四歩 △同 歩 ▲2二歩 △5四歩 ▲2一歩成 △5五歩
▲7四角 △同 銀 ▲5四角 △7七歩 ▲同 銀 △8二飛打
▲8六桂 △6五角 ▲7二角成 △同 飛 ▲7四桂 △8五桂
▲8二銀 △同飛寄 ▲同桂成 △同 飛 ▲7三飛 △6二銀
▲5三銀 △同 銀 ▲6三金 △4三玉 ▲5三金 △3四玉
▲3六銀 △2四歩 ▲3五歩 △2三玉 ▲7一飛成 △7七桂成
▲同 金 △6九銀 ▲同 玉 △8三飛 ▲1一と △5八角
▲7八玉 △3六角成 ▲2一龍 △2二金 ▲1二銀 △1四玉
▲1六銀 △6六桂 ▲8八玉 △1五銀 ▲2二龍 △1六銀
▲1三龍 △2五玉 ▲1六龍 △3五玉 ▲3六龍 △同 玉
▲3七金
まで121手で葦原の勝ち




