14手目 夜が微笑むとき
「さあ、化け猫、どうするッ!」
吉良くんの啖呵に、キャット・アイは猫耳をピクピクさせた。
どういう仕組みなのよ。
「1、2、3、4、5、6、7、8、9」
「よ、4七と」
えぇ? これにはギャラリーがざわつく。
キャット・アイ、脳内将棋盤が事故ってるんじゃないの?
吉良くんもチャンスとみたのか、5八金とすぐに龍を取った。
「6二金だニャ!」
ふたたびギャラリーがざわめく。
「あの化け猫、なにか勘違いしているのではないか?」
と神崎さん。聞こえない程度の小声だったけど、キャット・アイは彼女を睨んだ。
「外野は黙ってなさいッ!」
吉良くんも首をかしげながら、4七銀として、と金を払った。
先手玉、完全に安泰。
キャット・アイはピンと人差し指を立てて、次の指し手を宣言する。
「8四香」
ん? 玉じゃなくて角を狙った?
「3五桂だ」
「そいつは読み切りだよッ! 8六角ッ!」
6六玉、4二金。これまた見事な手順で、金を逃げ切った。
2一龍、8七桂成、2三桂成、3四銀、3一飛。
それでも吉良くんのほうが良さそうだ。
「4一歩」
「3四飛成」
キャット・アイは、するどい犬歯をのぞかせて微笑んだ。
「8八成桂」
「これで点数が足りたニャ」
点数? ……あ、入玉を目指してるってことか。
吉良くんもそれに気づいて、やや険しい表情。
「チッ……先に入玉するか。4四香」
5二金左、4一龍、5一歩。
「掛かったなッ! 7五銀ッ!」
これは痛打。角銀交換で、またまたキャット・アイの点数が足りなくなった。
「ぐ、ぐニャ……」
同角、同歩、8九成桂、5六玉。
このまま入玉して大駒を温存すれば、吉良くんの勝ちだ。
「入玉はさせないよッ! 2八角ッ!」
4六角、1七角成、2四角、9九成桂。
いくらなんでも、ここから入玉阻止はムリでしょう。
4二成香、5三金直、1三角成。
「4四歩ッ!」
一瞬、悪あがきかと思った。でも、同歩は同金で、入玉がいきなり怪しくなる。
吉良くんもそれは分かっているから、4六銀左と上がって厚くした。
4五歩、同銀に、キャット・アイは4四銀と重ねる。
急所の猫パンチみたいな手で、吉良くんは進退に窮した。
「しまった……進路を塞いじまった……」
吉良くんは、体勢の立て直しを要求された。すぐに20秒を切る。
「1、2、3、4、5、6、7、8、9」
「5四歩ッ!」
5五香、4六玉、5八香成、5三歩成、5五金、3六玉。
「ニャッハッハ! 大駒ゲット! 4五銀ッ!」
キャット・アイ、執念の大駒入手。勝敗が一気に分からなくなった。
「1、2、3、4、5、6、7、8、9」
「に、2五玉」
3四銀で、キャット・アイは龍を入手した。
同玉、5三馬、4三金、6四馬、3三玉、3七飛、2二玉。
先手、入玉完了。さすがにこの王様を寄せるのは不可能だ。
4七飛成、5三歩。
「9四歩ッ!」
キャット・アイも、完全に入玉を目指し始めた。
9九成桂で香車を取ったのが、なんだかんだで利いてきている。
4四歩、9三玉、5一成香、7六銀(いいところに置いた)、5二歩成、同金。
いやあ……これは……後手玉を寄せるのはムリっぽい……。
5二同龍、8七香成、7二龍、8四玉、8一龍、8五銀打、9一龍。
後手は、歩の枚数で小駒をかなり稼いでいた。
吉良くんは、点数を割らせるように指しているけれど、6四馬が強い。
4六歩、7九香、7七桂、8八歩、同成香、8六歩、7五玉、8五歩。
ん? 意外と突っ込めてない?
吉良くん、絶妙の差し回しで、自陣へのトライを防いだ。
「しつこいやつだニャア……7九成香」
8八銀、8六香、7九銀、6九桂成、7八金、7九成桂。
パズルみたいな金銀のやり取りで、私は頭が混乱する。
「1、2、3、4、5、6」
「同金」
6八銀、同金、同成香。ストッパーの駒がなくなった。
「チッ、9四龍」
「6七銀成ッ! これで確定だよッ!」
「そこまでだッ!」
突然の大声に、対局が中断した。
ふりかえると、香宗我部くんだった。
「ふたりとも、そこまでだ。どうみても持将棋だろう」
吉良くんは、まだ指せると言った。だが、香宗我部くんは相手にしない。
「キャット・アイ、引き分けの場合は、もちろん盤を諦めるんだろうな?」
香宗我部くんの質問に、キャット・アイは困惑の表情を浮かべた。
「それは……」
「挑戦状には、『勝ったらもらう』と書いてあったぞ? 持将棋は引き分けだ」
キャット・アイは、ムムムと唸って、地団駄を踏む。
「くっそお……引き分けだニャ」
さすがの吉良くんも空気を読んで、続行を求めなかった。
キャット・アイは上半身を半回転させて、その勢いで私たちを指差した。
「覚えてろ。次は、わんころみたいに、クゥーンと鳴かせてやるからな」
なんだか可愛らしい捨て台詞をのこして、キャット・アイは飛び立った。
猛スピードで校舎の壁をよじ登る。
神崎さんが追いかけようとしたけれど、これも大谷さんに押しとどめられた。
「猫さんたちに監視されています」
私たちは威嚇する猫に囲まれたまま、キャット・アイの後ろ姿を見送った。
月の綺麗な晩のことだった。
○
。
.
「いやあ、とんでもない事件だったわ」
キャンプ用の折り畳み椅子に座りながら、私は安堵のタメ息を漏らした。麦わら帽子が風に飛ばないよう、念のため軽く押さえておく。
ここはN国市。磯前さんが住んでいるところ。キャット・アイを撃退した私たちは、弟の桂太と一緒に、彼女から釣りを教わっていた。防波堤に釣り竿を並べて、ぼんやりと糸を垂れている。磯前さんみたいなテクニックはないから、じっと待つ作戦だ。
「姉ちゃん、待ってるだけじゃ釣れないよ」
となりに立っている桂太は、リールを巻きながら魚と格闘していた。
そのうち水面が跳ねて、すらっとした魚がつり上がる。
桂太は満足げに針をはずし、クーラーボックスへ放り込んだ。
「裏見は、どうしたんだ? さっきから釣れてないぞ?」
ルアーを巧みに動かしながら、磯前さんが尋ねてきた。
私はなんと答えてよいやら、すこしばかり頭を悩ませる。
「あの猫女、だれだったのかな、と思って」
「それはあたしも気になるけどさ、調べようがなくない?」
磯前さんは、なんとも正論で返してくる。私は空を見上げた。今日もいい天気だ。水平線には入道雲が出て、それにじっと目を注ぐ。すると、いろんな形にみえてくる。そのうちのひとつが、猫の耳に似ていた。私の疑問は、ふたたびそこへと立ち返った。
将棋がめちゃくちゃ強くて、身体能力が異常に高い女性でしょ……日本に、何人もいないと思うんだけど……アスリート+アマ強豪なんて、そんなに……。
「あんまり深刻に考えないほうがいいよ。吉良の面子は立ったし、将棋盤も盗まれなかったんだから。なにより、怪我人が出なくて万々歳さ」
磯前さんの言う通りだ。深刻に考えても、しょうがないのかもしれない。
だけど、胸のざわめきが、かすかに残ってしまう。なぜだろう。
「あ、そうそう、注文の品、ちゃんと買ってきたぞ」
磯前さんは竿を立てかけて、クーラーボックスを開けた。それは、魚を入れるのとは別物で、暑気払いの飲み物が入っていた。そのなかに、緑色のラベルが貼られた、なんとも簡素なジュース瓶があった。
「それが、メロンサイダー?」
「N国の特産品だよ。飲む?」
私はよろこんで、おごってもらうことにした。
キャップを開けると、メロンの香りが漂う。まずはひとくち。
「さっぱりしてるわね」
「お土産に持って帰る?」
持って帰りたいのはやまやまだけど、瓶ジュースはさすがに運べない。
「それなら、あたしが箱を送ってやるよ。届け先さえ教えてくれれば」
「え? そこまでしてもらっていいの?」
「もちろん、料金は取るけどね」
私と磯前さんは、一本当たりの値段と送料を計算した。
一箱はムリだけど、みんなで分ければいいかな、という結論に至る。
ついでに、ほかのお土産も全部送ってもらうことにした。
「なんだか、いろいろしてもらって悪いわね。出会ったばかりなのに」
「人付き合いって、そういうものだろ? 長さの問題じゃないさ」
達観したことを言ってくれる。そこへ、桂太が笑いながら話しかけてきた。
「なになに? 女の友情ってやつ?」
桂太のひたいに、磯前さんはデコピンを喰らわせる。
「社交性だよ、社交性。分かる?」
「いたた……年下にデコピン喰らわせるのが社交性なの?」
「まったく、口の減らないやつだね……ん?」
磯前さんは、私の竿に目をやった。
「なんか、掛かってるよ」
私はあわてて、ロッドを引っ張った。とても重たい感触。
釣り経験のない私でも、大物が掛かったのは理解できた。
「手伝うぞ」
磯前さんに協力してもらって、獲物と悪戦苦闘する。
ふたりで頑張っていると、水面にひらべったい魚が浮かんできた。
「な、なにこれ?」
「アカエイだッ! 桂太、タモ持ってこいッ!」
それは、ひらひらと泳ぎながら、こちらに近づいてくる。
桂太は慎重にタモを海へ入れて、なんとか引き上げることができた。
ヌメヌメしたエイが、防波堤のコンクリートのうえで跳ねた。
「外道だね」
と桂太。
「ちょっと、私は外道じゃないわよ」
「普通は狙わない魚って意味だよ」
なるほど、エイを釣るつもりはなかった。
「と言っても、これは美味いぞ。みそ汁にするといい」
こうして私たちは、午後一杯を海で遊んだ。
途中から、神崎さんたちも合流して、水遊びのために着替えた。神崎さんは、ショートのデニムパンツに白いTシャツ。大谷さんは、上下ともに緑のビキニ。私も、持ってきた新品の水着にチェンジした。セパレートの青で、そのうえにラッシュガードとフリルパンツを羽織っておく。完璧。
「ビーチバレーやらない?」
磯前さんの提案。私たちは了承する。
「よかろう、拙者も参戦する」
「では、しぃちゃんと組みますね」
ほんと仲いいわね、このふたり。
「じゃあ、あたしは裏見とかな」
「男性陣は? 観てるだけ?」
と桂太。磯前さんは、順番に回そうと提案した。
「おい、桂太、目隠し将棋やろうぜ」
と吉良くん。将棋バカだ。捨神くんと同類。
香宗我部くんに審判を任せて、私たちはコートの左右に散った。
「それでは、じゃんけんしてください」
磯前さんと大谷さんが、じゃんけん。大谷さんの勝ち。
大谷さんはボールを左手に持って、アンダーサーブの構え。
「それでは、参ります」
バシンと大きな音を立てて、強烈な球が飛んできた。
私はかろうじてサーブ。磯前さんがあげて、私は思いっきりアタックした。
「そうはさせませんッ!」
パシーン
弾かれたッ!? なんでッ!?
大谷さんから神崎さんにボールが渡って、反撃アタックを喰らう。
これはさすがに取れない。砂浜にボールが沈んだ。ピーッと笛が吹かれた。
「大谷・神崎チーム、先制」
うぅん、おかしい。
「大谷さん、変な能力を使ってない?」
私は念のため確認する。神崎さんの前例があるから、用心するに越したことはない。
「実は拙僧、ソフトボール部のピッチャーです」
衝撃の新事実。
「そういう裏見さんこそ、なかなか動きがよろしいようで」
「裏見殿は、元陸上部らしいからな」
くッ、ここにいる全員、体育会系か。将棋要素は、どこいったのよ。
「サーブ権が移行します。磯前・裏見チーム、どうぞ」
こうなったら、全力で行く。
私はアンダーサーブして、敵陣に打ち込んだ。
大谷さんがレシーブして、神崎さんに回す。
「破ッ!」
剣道で鍛えた腕から繰り出されるアタック。
磯前さんがこれをなんとか塞き止めて、私に回した。
「とりゃッ!」
鋭角スパイク。ボールが砂地に突き刺さる。
「むむ……やるな」
どんなもんよ。私は磯前さんとタッチして、持ち場へもどった。
それからの私たちは、壮絶な打ち込み合いで、真夏の太陽を満喫した。
「ハァ……ハァ……負けちゃった……」
私はその場にへたりこむ。
「どうだ、拙者たちのコンビネーションは」
「南無三」
くぅ、接戦だったんだけどなあ。現役運動部員には勝てないか。
私たちは交代でビーチバレーをして、海で泳いだり、アイスクリームを食べたりと、高校生らしいことをいっぱいした。いよいよ陽が沈む頃になって、解散を決める。
「裏見は、いつ四国を発つんだ?」
釣り道具をバイクにくくりつけながら、磯前さんが尋ねた。
「月曜日の早朝よ。K川に寄って、そのままK戸入りする予定」
「K戸? 関西も旅行するのか?」
私は松平から、なにかのパーティーに呼ばれたことを伝えた。
「ああ、一之宮のとこか」
「知ってるの?」
「近隣の知り合いを集めて、毎年夏にイベントを開催してるって聞いたことがある。身内だけだから、あたしは呼ばれたことないけどね。結構、すごいらしいよ」
おっと、これは期待が持てそう。
「残りの二日間も、四国を楽しんでくれよな」
磯前さんはヘルメットをかぶって、エンジンを入れた。
ピッと二本指で挨拶し、一直線に走り去る。私は手を振りながら、それを見送った。
「姉ちゃん、俺たちも帰ろうよ」
「そうね」
私と桂太は、太平洋の大きな夕日を見ながら、帰路についた。
場所:K知市王手町高校のグラウンド
先手:吉良 義伸
後手:怪盗キャット・アイ
戦型:後手ゴキゲン中飛車
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △5四歩 ▲2五歩 △5二飛
▲4八銀 △5五歩 ▲6八玉 △3三角 ▲3六歩 △4二銀
▲3七銀 △5三銀 ▲4六銀 △4四銀 ▲7八玉 △6二玉
▲5八金右 △7二玉 ▲6八銀 △8二玉 ▲3七桂 △7二銀
▲1六歩 △5一角 ▲5六歩 △同 歩 ▲4五銀 △3三銀
▲2四歩 △同 歩 ▲3五歩 △同 歩 ▲2六飛 △4二角
▲5六飛 △同 飛 ▲同 銀 △3六飛 ▲5七銀 △3七飛成
▲3四歩 △4四銀 ▲2三飛 △5二金左 ▲2一飛成 △2八龍
▲4六歩 △6四角 ▲3三歩成 △1九龍 ▲4三と △同 金
▲5二歩 △8四香 ▲7九桂 △4二角 ▲4五歩 △3三銀
▲1一龍 △3六歩 ▲4一龍 △3七歩成 ▲6二香 △9五桂
▲6一香成 △8七桂成 ▲同 桂 △同香成 ▲同 玉 △6九龍
▲6二成香 △6一金 ▲同成香 △5八龍 ▲6二成香 △9五桂
▲7七玉 △6一金 ▲6八金 △4七と ▲5八金 △6二金
▲4七銀 △8四香 ▲3五桂 △8六角 ▲6六玉 △4二金
▲2一龍 △8七桂成 ▲2三桂成 △3四銀 ▲3一飛 △4一歩
▲3四飛成 △8八成桂 ▲4四香 △5二金左 ▲4一龍 △5一歩
▲7五銀 △同 角 ▲同 歩 △8九成桂 ▲5六玉 △2八角
▲4六角 △1七角成 ▲2四角 △9九成桂 ▲4二香成 △5三金直
▲1三角成 △4四歩 ▲4六銀左 △4五歩 ▲同 銀 △4四銀
▲5四歩 △5五香 ▲4六玉 △5八香成 ▲5三歩成 △5五金
▲3六玉 △4五銀 ▲2五玉 △3四銀 ▲同 玉 △5三馬
▲4三金 △6四馬 ▲3三玉 △3七飛 ▲2二玉 △4七飛成
▲5三歩 △9四歩 ▲4四歩 △9三玉 ▲5一成香 △7六銀
▲5二歩成 △同 金 ▲同 龍 △8七香成 ▲7二龍 △8四玉
▲8一龍 △8五銀打 ▲9一龍 △4六歩 ▲7九香 △7七桂
▲8八歩 △同成香 ▲8六歩 △7五玉 ▲8五歩 △7九成香
▲8八銀 △8六香 ▲7九銀 △6九桂成 ▲7八金 △7九成桂
▲同 金 △6八銀 ▲同 金 △同成香 ▲9四龍 △6七銀成
まで174手で持将棋




