第三十三話 : 衝突
初めての人目を避ける生活は、想像以上に辛いものだった。
お店に入ることはもちろん、公共施設を使うことも、同じ場所に居続けることも避けなきゃいけない。
どこに仙堂のおじさんの目が光らないとも分からないし、ナツ兄ぃも把握してない情報網に知らず知らず引っかからないとも限らないし。
行動は最小限に、移動は最大限に。
わざと二人バラバラになったり、堂々と街中を歩いたり、変装したり、集団の中にまぎれこんだり。
資金はナツ兄ぃが逃走の初日に充分すぎるほど現金化してあるから心配なし。そのお金で道行く人に食事や衣服を調達してもらったりして万全。衣食住のうちの二つは問題なし。
残る問題は一つ。これが一番大変だった……。
「……こ、この中で、寝るの?」
「イヤならいいぞ。今からでもサヤのとこに――、」
「イヤじゃない、イヤじゃないよっ! ……まぁ、住めば都って言うし……慣れれば案外快適かも……」
「ま、ほんの少し身体を虫に喰われるくらいだ。ちょっと痒くなるけど、そこまで気にすることでもないだろ」
「…………」
それ、女の子からしたら思いっきり気になるとこなんだど……。
不安をいっぱいに詰め込んでの私たちの逃亡生活一日目の寝床となったのは、公園のスミに作ったダンボールハウス。
昨今、人間以外の動物たちは保護のために隔離されていて、虫たちも同様に激減している。それでもこういった不衛生な場所にはいまだにはびこっていたりなんかする。
もちろんその温床となっているのは、こういった場所を住処としているホームレス。そしてとある事情でこの場所に泊まることを余儀なくされた者。つまり、わたしたちとか。
「うぅ、なんかジメジメする……」
結局その日、わたしが眠れたのは朝日が昇ってからだった。
それでも人間の適応力ってのは半端なくて、次の日にはもうそんな環境にも慣れてきたんだから驚きだ。
つい二日前には最高級スイートに泊まってたってのに。
人生は驚きの連続だって誰かが言ってたけど、まさにその通りだと思うよ。
そんな生活も今夜で四日目に突入。
今夜の寝床は廃工場の倉庫。こんな都会の街の中、時代に取り残されたように寂しく佇んだ建物が並んでいる。見た目が不気味なせいか、人の気配がまったくしない。
倉庫の窓からは港を挟んで街の様子が見えた。港沿いの道路を走る車、大きな建物から漏れる光が空をなでる。
ついこないだまで居たあの世界が、ずいぶん遠くの世界のように見えた。
「ねぇナツ兄ぃ。いつまでわたしたち逃げ続けるの?」
慣れてきたとは言っても、さすがにずっとこんな生活を続けるのは勘弁したい。いつまでこの逃亡生活を続けるのかどこまで逃げ続けるのか、明確に把握しとかなきゃモチベーションが続かない。
寝床を作っている最中のナツ兄ぃにそのことを訊ねると、こんな答えが返ってきた。
「こいつの作業が終わるまで。あと三日か四日ってとこだな」
そう言って、ナツ兄ぃは手提げのハードケースからHPCを取り出した。
HPCの画面には何かのプログラムなのか、文字の羅列が猛烈な勢いで並んでは消えてを繰り返している。
その画面には見覚えがある。ナツ兄ぃが毎日していた作業――思いついた仮説をプログラムとして打ち込み、どんな反応を示すかをデータ上で実験するといったものだ。
今頃あのHPCの中では、打ち込んだ仮説を元にあらゆるパターンを用いた実験が行われているんだろう。
「本当なら仙堂さんとこのすげぇ機材でやるはずだったんだけどな。こいつだとどうしても時間がかかっちまうんだよな」
ナツ兄ぃ愛用のHPC。ブーンと言う小さな駆動音が今も必死に働いていることをアピールしてる。
「ねぇ、これって何の実験中なの?」
HPCをコツコツとつつきながら訊いてみる。
この中で行われている実験は、ホテルから逃げ出す前にナツ兄ぃがプログラムしたものだろう。あれから四日、一時も休ませることなく実験は続いている。にも関わらずまだ終了しないのは、このプログラムが相当大きな規模の実験だと言うことだ。
「ああ、こいつは今な、別の世界をのぞいてるんだ」
「はぁ? どういうこと?」
「実はな――、」
その瞬間、時間は止まった。
同時に、身体中の血が凍ったのかと思うくらい、寒気が走る。
ナツ兄ぃの口が、手が、指が、身体全体の動きが、止まってしまったのかと思えるくらいにスローに感じる。
ナツ兄ぃの背後にある窓から見える景色、遠くを走る車やバイクも、空をなでる光でさえも、その動きを殺した。
――何? 何が起こったの?
――違う。今から『何か』が起こるんだ。
――どうする? どうすればいい?
――動け動け動け! とにかくこの場から動け!
一瞬の戸惑い。判断は神速。
そして身体は、脳が出した命令よりも早く、それを為した。
気付いたら、わたしは思い切りナツ兄ぃの身体を突き飛ばしていた。
その反動で背後へと大きく身をよじる。
そして訪れた『それ』はスローモーションの世界の中、異様な渦を描きながら空気を穿つ。
わたしとナツ兄ぃが居た場所を、その空間を、容赦なく貫いた。
そして、時は流れは取り戻す。
「うおっ!」
ナツ兄ぃの声がする。けれど、視線をナツ兄ぃに向けることはできない。そんな余裕はない。
今わたしがしなくちゃいけないことは、空間を穿った『何か』がどこから来たのかを把握すること。そして、第二波からナツ兄ぃを守ること。
「ナツ兄ぃッ! 隠れてッ!」
声と仕草でナツ兄ぃに指示を出す――同時に、視界の中に『何か』が映りこんだ。
渦をまといながら空間を引き裂く『それ』は、わたしの身体を目掛けて直進してくる。
――弾丸を避けるコツはね〜、とにかく動きを予測されないこと〜。
白秋先生の声が頭に降ってきた。
身体の力を一瞬で抜いて、地べたに這うような体勢を取る。
『それ』がわたしの頭上を掠めた。『バスッ』というニブい音が倉庫内に響く。
止まってる場合じゃない。すぐに物陰へ飛び跳ねる。
わたしが這っていたその場所に、爪跡のように三つの穴が穿たれた。
「――っはぁ! はぁ、はぁ……!」
壁に背をもたれて、息を整える。ナツ兄ぃと会話していたのが、遠い昔のことに感じる。
たったの数秒の出来事。何が起こったのか、頭をフル回転させて認識する。
わたしたちは、狙撃されたんだ。あの一瞬だけで、何発も。
身体中から汗が吹き出した。もたれ掛からないと立っていられないくらいに足が震える。
――殺される、殺される……!
あの一瞬、わたしが反応できたのは、あの血も凍るような殺気のおかげだ。あれに反応できていなかったら、わたしはもうこうして立っていられなかったかもしれない。
怖い、怖い、……怖い……!
撃たれるのが怖い! 狙われてるのが怖い! 死ぬのが怖い!
だけど何よりも……ナツ兄ぃのそばに居られなくなるのが怖い!
いやだ……いやだいやだいやだ!
「う、ぐぅ……!」
ナツ兄ぃの苦しげな声がわたしの意識を呼び戻す。
わたしの隠れている場所とは反対方向で、ナツ兄ぃが苦しそうな顔で倒れていた。
「ナツ兄ぃ……? ナツ兄ぃッ! 大丈夫!?」
「だ、大丈夫だ! ちっと足をかすっただけだから!」
ちょっと足をかすった……? まさか、最初の一発目の狙撃で……?
遠めでもわかるくらい、ナツ兄ぃのズボンが赤く染まっているのがわかる。
ナツ兄ぃが、撃たれた。
ナツ兄ぃが、撃たれた?
…………。
「――そっか。ナツ兄ぃ、撃たれたんだ」
身体が震える。だけど、それは恐怖からくる震えなんかじゃない。
それは多分、生まれて初めて覚えた感情のせい。
心の底から湧き上がる憎しみと殺意が、身体の隅々にまで行き渡る。
「お、おい、サン? お前こそ大丈夫か? なんか、目付きおかしいぞ」
「…………」
ナツ兄ぃ、痛かったよね。
あんなに血が出てるんだもん、痛いに決まってるよね。
待っててナツ兄ぃ。すぐ終わるから。
ナツ兄ぃをそんな目に合わせた奴を、すぐに同じ目に遭わせてやるから。
震えは止まった。
手を握る。足を何度か振ってみる。――異常なし。ちゃんと意志通り動かせる。
空気を探る。目を閉じて、わたしとナツ兄ぃ以外の気配を読み取る。――弾丸が向かってきた方向とは違う場所から、何かの気配が倉庫内に入ってきたのがわかった。
目を開く。息はもう整った。自分でも信じられないくらい、力が身体中に湧いてくるのがわかる。
「おい、サン!」
心配そうな顔でナツ兄ぃが叫ぶ。わたしたちを狙った相手が倉庫内に侵入したことを、ナツ兄ぃも察したのかな。
心配しなくても大丈夫だよ、ナツ兄ぃ。
――今すぐ、あいつをボコボコにしてきちゃうから。
気配を振りまきながら、銃を片手に持った黒いスーツの男がやってくる。余裕のつもりなのか、それとも罠のつもりなのか、ほんのりと笑みを浮かべながら真正面からスタスタと歩いてくる。
「サン、逃げろッ! 俺もなんとかするから、今はとにかく逃げるんだ!」
あはは、何言ってんのナツ兄ぃ。なんで逃げなくちゃいけないの?
ナツ兄ぃにあんなことした相手がわざわざ真正面から来てくれたんだよ? ――お礼の一つもしなくちゃ、逆に失礼でしょ?
足の力を抜く。身体の力を抜く。腰をかがめ、深く息を吸う。
「サン! やめろッ! 逃げろーーッ!」
その声をきっかけに、全力で走り出す。
黒スーツの男の顔がニヤリと歪んだ。