第三十四話 : 二度目の別れ(1)
それはまるでそよ風みたいに、私の頬をそっと撫でていった。
髪がなびく。風に含まれてる匂いが、鼻をかすめる。
でもそれはそよ風なんかじゃなくて、嵐のように凶暴で雷みたいに心を恐怖に蝕むもの。
耳を通り越して頭の中にまで轟音が響く。撫でられた頬は火傷したみたいに熱い。含まれる匂いは焦げ臭い。火薬の匂いだ。
――危なかった。もう少しで撃たれるとこだった!
一つでも向こうの攻撃が当たればもうそこでおしまい。ゲームオーバー。そうなったら、あいつにナツ兄ぃの受けた痛みの報復なんてできっこない。
あいつはナツ兄ぃを殺そうとしたんだ。
許せない、許せない……!
ボコボコにするだけじゃ物足りない、土下座させてでも謝らせる!
「はぁッ!」
頬をかすめた暴力的な渦は体勢を整えることを許してくれない。だけど、この程度なら……!
左手を床に着き、仮の軸足を確保する。低姿勢のまま、地を這うように蹴りを放つ!
それは相手の足を払い、ニヤニヤと笑みを浮かべるそのムカつく顔を地べたに這いつくばらせる――はずだった。
「こりゃ驚いた。やっぱりお嬢ちゃんは素晴らしいな。こんなに弾丸をムダ使いさせられたのは久しぶりだ」
軽々と後ろに跳んで蹴りを避けるその表情には、相変わらずのムカつく笑顔。さらにはそんな軽口まで飛び出るのは、自分が圧倒的に有利だと思い込んでるから。
……ムカつく、ムカつくこいつ!
「動きが速過ぎて予測がつかない。予測がつかないから的を絞れない。そうこうしているうちに間合いを詰められ、飛んでくんのは弾丸じゃなく針のようにするどい蹴りの嵐。いや、大したもんだ。その若さでそこまで動けるとはねぇ」
「…………」
「そんな猛者をくぐり抜けて、さらには野郎を一匹仕留めないといけない、か。難儀な話だ。援護される前に、いっそのこと手負いの獲物から先にトドメを刺しておこうかねぇ」
「……ッ!」
ヘラヘラとした口から出たその言葉が、導火線に火を付けた。
間合いは三歩半。そんなの、一瞬で詰められる! ――そう思わされたのが、罠だった。
動き出そうと蹴り足に力を込めた瞬間、相手の手が消えた。
「――うわあぁッ!」
「ほお」
衝撃と熱が脇腹を抉る。肉を削ぎ取られる感覚が、感電したみたいに体中に走り回る。それが痛みに変換されないのは、脳内麻薬のせいかな。その割には妙に落ち着いてるのがなんだか矛盾。
そんなのんきな思考を終了させたのは、錆の付いたコンテナの箱。
真っ直ぐに黒スーツの男のもとへ跳ぼうとした瞬間、あいつは今まで見せたことのないスピードでこちらに銃口を向けた。
咄嗟に斜めに方向を変えたけど、おかげで思い切りコンテナに激突。でも頭は冷えた。って言うか、ゾッとした。
あいつ、わざとわたしを挑発したんだ……!
自分に向かってくるように、的を絞るために……!
咄嗟に目の前の壁を蹴り昇る。体中がサビだらけだけど、気にしてる場合じゃない。
認識が甘かった……、わたしが今相手しているのは、本物だ……!
その気になれば、いつでもわたしたちを殺せる力を持ってる、本物の強者。
それなのに、わざわざあんなに気配を振りまいて位置を知らせてるんだ。それはなんで?
――そんなの決まってる。楽しんでるんだ。
あいつは、わたしとの殺し合いを楽しんでるんだ。必死に抵抗する羊を追い詰める狼のように、じわじわと獲物を追い込んでいく。そして、トドメを刺す瞬間を今か今かと待ち構えているんだ。あのニヤケ面が何よりの証拠。
だけど悲観してる場合じゃない。今が最高のチャンスだ。
あいつはわたしの力を侮っている。銃の扱いなら白秋先生に仕込まれてるんだ。ある程度なら軌道は予測できるし、銃口と肩先の筋肉の動きさえ捉えていれば、簡単には撃たれはしない。
白秋先生の言葉が頭に降って来る。
『銃撃戦はね〜、先に相手を撃つか、先に相手を飲んでしまえば勝負ありなの〜』
……相変わらず緊張感のないしゃべり方だよね、先生。だけど、おかげで落ち着くよ。
コンテナの裏側に降りて軽く一息。気配は今、コンテナを回り込むようにこちら側に向かって歩いてくる。
今までのところ被弾数ゼロ。脇腹を軽くかすった程度。動きには支障なし。
つまり、相手はわたしを捉えきれてない。
「……いける」
さっきの攻撃を避けきれたわたしなら、相手の攻撃をほぼ完全に凌ぎきれる。
問題は、こっちにまったく武器がないこと。この倉庫の中にはいくつか棒切れは転がってるけど、役に立つとは思えない。むしろジャマだ。
――なら、やっぱり。
「おじょ〜うちゃん、あまりおじさんを待たせすぎちゃあダメだよ。うっかり手元が狂って、あっちの野郎の方を撃っちゃうかもよ〜」
「待たせるつもりなんかないよ、おじさん」
「お?」
コンテナを回り込んで、相手の正面に立つ。
右側には倉庫の壁面。逃げ場も隠れる場所もなし。左側にはコンテナ。昇れるくらいの高さだけど、ある程度の助走がないと無理っぽい。
正面には黒スーツの男。右手に銃。左手はポケットの中。銃口は地面に向いている。
「……獲物が目の前に出てきたってのにずいぶん余裕だね、おじさん」
「おじさんは女の子には優しいからね。特に、強い女の子にはね。お嬢ちゃんほどの相手に巡りあえるのは、ここ数年で一度もないんでねえ。楽しくってしょうがない」
ニヤケ面が醜く歪む。……あんなに汚くて怖い笑顔、初めて見た。
銃口はまだ地面に向いたまま。男はユラユラ揺れながら嬉しそうに笑ってる。
男との距離は約十歩。最速で間合いを詰めたとしても、絶対に二、三発は撃たれるはず。
――でも、たどり着いてみせる。
覚悟を決める。拳を固め、貫くように相手を見据える。
殺すくらいの覚悟でいかなきゃ、あいつには届かない。
「お、うおお、うはははは! それだ、それだよお嬢ちゃん!」
突然、男がくねくねと身悶え始めた。
月明かり以外には何の灯りもない倉庫の中、異様なくらい白い歯が浮かび上がって見えるくらい、口元を歪めながら男は笑ってる。
うわ、なに、気持ち悪っ……!
「そのまっすぐな殺意! 『殺す』という負の感情でありながら神々しい程の純粋さ! いいぞ、いいぞお!」
スキップをするように、男はこちらへやってくる。
気持ち悪い笑顔の男がトントン跳ねながら、わたしを殺すためにこっちに向かってくる。その姿があまりに不気味すぎて、思わず後ずさりそうになる。
でも、下がっちゃダメだ……!
相手の異様さに飲まれちゃその時点で負けだ。どんなに不気味だって、異様だって、私は下がっちゃいけない……!
「いいぞお、その目だ! 光が強ければ強い程『影』は濃さを増してゆく! 俺の存在を! もっと濃くしてくれえ!」
黒スーツの男はよだれを垂らしながら嬉しそうに跳ねてくる。
うわあ、くじけそう……。気でも触れてんのこのおっさん?
でもあっちから近寄ってきてくれるなら好都合、しかもあんな無造作に跳ねてくるなら的もぶれやすいはず。
拳を握りしめる。汗がこめかみへ流れていく。
距離はあと六歩半。本気のわたしなら、二歩で詰められる。
「何言ってんのか知んないけど、お望みなら照らしてあげる。仰向けにブッ倒して、月の灯りを浴びてみるってのはどう? ロマンチックでしょ」
「ハハッ! いい案だが、一人じゃちょいとつまんないねぇ。お嬢ちゃんも一緒に添い寝しながらってのはどうだい?」
「遠慮しとく。わたし、冒険するのは好きだけど、ゴミ山に足突っ込むほど物好きでもないんだ」
「……しょうがないねぇ。生きているうちにゴミ山を気に入ってほしかったが、死んでからでもいいか」
緊張の糸を体中に張り巡らせる。細く、鋭く、切らさないように、全身に巻きつかせる。
男が着地する。また跳ねた。
その瞬間、地を這うようにわたしは跳んだ。
低く低く、地面と平行になるように。
男の右手が消えた。速過ぎて銃口が見えない。
相手の肩先がかすかに動いた。
両手で地面を弾いて身体を右回転。
後方から着弾の音。
右足が地に着き、回転していた視界が標的を見定める。
発砲で銃口が跳ね上がってるのが見える。――チャンスは今しかないッ!
「ヤアアァッ!!」
気合と共に間合いを詰める。
もう手を伸ばせば届く距離。左手が相手の右腕を捕らえた。
捕らえた右手の先、銃口が上を向く。驚愕の表情が眼前に浮かぶ。
――この一撃で終わらせる!
ギリギリと引き金をしぼり続けたわたしの武器、右掌底。
距離は充分。角度もバッチリ。相手の脳を揺らすように、まっすぐに、捻りながら、――打ち抜く!
「こりゃあ、ヤバイねぇ」
男の放ったその言葉が理解できたのは、完全に掌底を打ち抜いてからだった。
想像通りの軌跡を描いて、想像通りの手応えで、わたしの攻撃は見事にクリーンヒットした。
なのに一つだけ想像と違ったのは、男が地べたに這っていないこと。
突進の勢いがなくなって振り返ってみると、想像した通りの男の倒れてる姿なんてどこにもない。手応えがまだこの手に残ってるくらい確かな感触があったのに、なんで倒れてないの?
こいつ、まさか不死身とか? 痛みを感じないとか?
「……ああ、……これだ、この感じだ……」
うわ、なんか遠く見ながらボソボソ言ってる!
わかった、あいつ脳震盪のせいで意識がトんでるんだ。その証拠に、銃は持ってるけど引き金に指がかかってないし。
一撃で倒せないなら、何発だってお見舞してやる!
今の状態なら反撃なんてできやしない、さっきのよりももっとデカい奴ブッ放してやる!
「ヤアアァッ!」
再度突進。今度こそ、仕留める!
男がゆっくりとこちらに振り向く。目は虚ろ。銃口は下を向いたまま。相変わらず左手はポケットの中。完全に無防備、格好の餌食!
今度は一撃なんて生温い攻撃じゃない、倒れる暇もないくらいに叩きのめしてやる!
確信を持って、まっすぐに突進する。今のわたしには、男が地べたに倒れている数秒後の未来しか見えていなかった。
無防備なのは、格好の餌食だったのは、わたしの方だったというのに。
「――サンッ!!」
不意にナツ兄ぃの声がした。同時に、衝撃が身体を突き抜ける。
――あれ? 衝撃って、なんでわたしの方に衝撃がきてんの? だって、あんな無防備な奴相手に撃たれるわけないのに。
撃たれるわけないのに――
「ぐ、うぅ……!」
うめき声が聴こえる。わたしの声じゃない。あの男の声でもない。
うめき声の主と衝撃の正体は、足を撃たれて動けないはずのナツ兄ぃだった。
「ナツ兄ぃ? え、え? なんで? なんで……?」
目の前にはナツ兄ぃの顔。ナツ兄ぃにのしかかられて、わたしは地面に押し付けられていた。
なんで? 意味わかんない。なんで?
だって、倒れてるのはあいつのはずなのに。なんでナツ兄ぃとわたしが倒れてるの? なんでナツ兄ぃが、こんなに苦しそうな顔してるの?
なんで、なんで?
「ぐ、……だ、大丈夫か、サン?」
わかんない、わかんない――
何が起こったの? 誰か教えてよ、あの瞬間、何が起こったのか、教えてよ。
「ほお、大したナイト様だねぇ。身を挺してお姫様を守りますか。いや感心ものだ。拍手喝采。観客がいないのが残念だねぇ」
声の方向に振り向く。首をコキコキと動かしながら黒スーツの男が立っている。ニヤニヤと薄ら笑いを浮かべて、銃口は下を向いたままで、左手はポケットに入ったままで――
その瞬間、やっと理解できた。
そうか、あそこだ。あそこから、あいつは攻撃してきたんだ。
左手が入ったポケット。そこに、穴が一つ空いていた。
……隠し銃だ!
ずっと左手をポケットに突っ込んだままだったのは、余裕を見せるためじゃなかったんだ……!
わたしを油断させるため、左手に注意を向けさせないため、そして、優位に立っていると慢心したわたしを一息に墜落させるために……!
――ダメ、だ。わたしは、この男には、勝てない……。
『サンちゃんは守るための戦いがしたいのよね〜? だったら一つ、すっごい極意を教えてあげる〜』
白秋先生の言葉が降ってくる。
それは、今のわたしにとって一番痛い言葉。一番、しなくてはならなかったこと。
『守るためにはね〜、負けなければいいの。それってつまり、勝たなくていいの。守りたい人の安全が確保できたら、すたこらさっさと逃げること。サンちゃんは目的達成できて、敵ちゃんは悔しがる。ほ〜ら、すごい極意でしょ?』
……先生、わたし、バカだ。
目的を見失ってた。敵を倒すことだけ考えてた。
白秋先生に一番最初に言われてたのに……。『理由のために目的を見失うな』って、一番最初に教わったことだったのに……!
ナツ兄ぃが撃たれたからって怒りにまかせて突進して、そのあげくに守りたい人に守られて、傷を負わせて……!
……バカだ、バカだわたし……!
「ごめん……、ごめん、ナツ兄ぃ! わたし、わたし……!」
「――サン」
ナツ兄ぃの手がわたしの肩を掴む。それで初めて自分が震えているのがわかった。
視界が歪む。涙が溢れるのを止められない。
ナツ兄ぃを守らなくちゃいけないのに。ナツ兄ぃの力にならなくちゃいけないのに。
くそ、くそ! どこまで役立たずなんだわたしは!
「サン、落ち着け。……いいか、今からきっかり五秒後に、目を閉じろ」
……え?
ナツ兄ぃ、今、なんて……?
「そんじゃ、行ってくる」
そう言って、ナツ兄ぃはわたしの肩から手を離した。
涙で歪む視界に、苦しそうなナツ兄ぃの表情が少しだけ見えて、すぐに見えなくなった。
「くっ……!」
押し殺した悲鳴が耳に届く。地を蹴る音がその後に続く。
「な……! なぜまだ動けるんだ!」
「グッ、あ、はは、……ハハハハッ! 」
黒スーツの慌てた声と共に、ナツ兄ぃの笑い声が響く。あまりにも今の状況に不似合いなその陽気な笑い声は、場の時間を一瞬止めた。
倉庫中に響き渡る笑い声の中に、『キン』と、何かの金属音が混じった。
「アッハハハッ! ……この至近距離なら、まぶたを閉じてもムダだぜ」
「よ、よせ!」
「……さぁ、アンタのお望みの……光だ」
あの言葉からきっちり五秒後――、
強烈な光の渦が、倉庫から一切の暗闇を掻き消した。




