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小宮探偵事務所の日常  作者: 蒼 小夜
プロローグ
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プロローグ


朝の商店街は、まだゆっくり目を覚ましている。


白い光の中、パン屋が立て看板を出し、向かいの八百屋では店先に段ボール箱が並べられていく。つむぎ橋から綿倉駅へと続く大通りを歩く人も、次第に増えてくる。


電車が到着し、駅から人が何人か出てくる。

この駅は住宅街に近く、近隣の駅のベッドタウンとなっているため、朝は乗る人より降りる人の方が圧倒的に少ない。


今、駅から出てきた数人の中に、スーツではないがラフでもない、いわゆるオフィスカジュアルに身を包んだ、20代後半の細身の男性がいた。


彼の名前は、篠原という。


篠原は一瞬、光の眩しさに眼鏡の奥の目を細めて、商店街へ向かって歩き始めた。


この大通り沿い一帯の商店街は「つむぎ橋商店街」と呼ばれている。さほど大きくはないが、朝や夕方は、それなりに人が行き交う程度の活気はある。


篠原は、商店街の中程にある、先程開いたばかりのパン屋に立ち寄った。クロワッサンを一つ買い、元来た道を少しだけ戻る。


老夫婦が営む小さな不動産屋。

その二階へ続く、古びてはいるが、きちんと掃除された狭い外階段。


篠原はそれを上った先の扉の前で立ち止まった。ごく普通の扉には、

「小宮探偵事務所」

と書いてある金属のプレートが掛かっている。


篠原は小さな鈴がついた鍵をさして回した。

かちゃりと小気味の良い音が階段に響く。


篠原は鍵を鞄にしまって扉を開けた。玄関でスリッパに履き替えると、中へ入る。

大きな窓にかかったレースのカーテン越しに、朝の光が柔らかく入る室内。


誰もいない。

聞こえるのは、水槽を流れる水の音と、時計の針が静かに時を刻む音だけ。

けれど、篠原にはその静けさが心地よく感じられた。


窓を少し開けると、レースのカーテンがふわりと膨らんで、風が部屋をひと回りした。

観葉植物の葉が揺れ、小さな水槽では魚たちがゆっくり泳ぎ始める。

水槽には餌を入れない。それは彼の上司の仕事。仕事と言うか……趣味だから。


そういえば、昨日は餌を入れようと覗き込んだ瞬間に、ろ過装置の水がはねて、びっくりしていたっけ。

篠原は、その光景をふと思い浮かべて口元を緩めた。眼鏡の奥の無表情だった目が、柔らかくなる。


次に、篠原は給湯室へ向かい、お湯を沸かす。

こちらは、篠原の仕事でもあり、趣味でもあった。

コーヒーミルを手に取り、豆を選ぶ。


豆を挽く音が、小さく部屋に響き始めた頃、それに合わせるかのように階段を上る軽やかな足音が聞こえた。


扉が開く音。

篠原は、給湯室から顔を出した。


「まひろさん、おはようございます。」


入ってきた女性……まひろに声をかける。


「おはよ。」


まひろは、薄暗い階段から明るい室内に入ったからか、一瞬目を細めて目を擦った。栗色のボブが揺れる。


ベージュのパンツスーツ。ジャケットをきちんと着てはいるが、袖が若干余っている。


彼女は靴を脱ぎ、自分のお気に入りのスリッパに履き替えようとして、ちょっとバランスを崩してよろける。けれど、何事もなかったように鞄を肩に掛け直して、事務机へ向かった。


篠原はその一連の流れを目撃してしまった。

思わず口元が緩んだが、慌てて表情を戻すと、コーヒーの入ったピンクのマグカップを持つ。


そして、昨日の調査報告書を、トントンと揃えてファイルボックスへ入れているまひろの机に、コトリとマグカップを置いた。


「どうぞ」


まだ少し眠そうな声で「ありがと」というまひろに、篠原はコーヒーと一緒に持ってきた紙袋を見せる。


「朝ごはんは?」


聞くと、まひろはそっと彼の目を見上げた。


「……食べた。」


まひろがいつもギリギリまで寝ていて、朝食を食べないで出てくるのは日常茶飯事だ。

食べたというのは嘘だろうな、と思いながら、篠原は素知らぬふりで少し首をかしげる。


「本当ですか?」


まひろは黙ったまま、ほんの少し視線を逸らした。


その仕草が、嘘をついていますと物語っていることをわかっているのだろうか。


篠原はふっと息をついた。


「仕方ないですね」と笑いながら、まひろの手の上に小さな紙袋を置く。


「クロワッサンです。」

「……ありがとう。」


観念したのか、礼を言って紙袋を受け取り、そこから取り出したクロワッサンを一口かじると、まひろの口元が少しだけ緩む。


「おいし。」


篠原は、今日も仕事をひとつ完了させたと、うなずいた。


まひろはその様子をちらっと見て、呟くように言った。


「…篠原。」

「はい、なんですか?」

「ん、いや……今日こそ、怒られるかと思った。」


まひろはばつが悪そうに目をそらしている。

篠原は、ふっと笑うと「いまさらですよ」と言って、給湯室へ入っていった。


篠原が自分のマグカップを持って戻ってくると、まひろは、クロワッサンをかじりながら、レースカーテン越しに商店街を眺めていた。


篠原もその隣に立ち、まひろの視線を何気なく追ってみる。


犬の散歩をする夫婦が通る。

パン屋から出てきた客が彼らと知り合いだったのか、立ち話を始める。

パン屋の隣の日用品屋がシャッターを開け、その立ち話に加わる。

遅刻しそうな高校生が走っていく。

リュックを背負った大学生風の男性が、スマートフォンをいじりながら歩いていく。


「……平和だね。」


まひろが小さくつぶやいた。


「何も無いのは、いいことですね。」


篠原は頷く。


それからしばらく、どちらも話さずにコーヒーを飲んでいた。

でも、不思議と居心地は悪くなく、むしろ穏やかな時間だった。


コーヒーカップを机に置いたまひろが、レースカーテンを少し開けて窓に顔をちかづける。


「なにかあったんですか?」


篠原もその上から同じように窓の外を覗き込んで、「あ」と声を上げた。


商店街の植え込みの陰から、小さな三毛猫が二匹、顔を出していた。


まひろの目が、ふっと細くなる。


「……かわいい。」


篠原も小さく笑う。


「まだ小さいですね。生まれたばかりでしょうか。」


まひろは子猫から目を離さないまま頷く。

しばらくその場で遊んでいた子猫たちは、また植え込みの中へ入っていった。

まひろは名残惜しそうに窓から離れる。


篠原はまひろが置いたカップを見た。コーヒーはもう残っていない。


「もう一杯、淹れますか。」


まひろは少し考えてから、小さく笑う。


「うん。」


そのとき、事務所の電話のベルが鳴った。まひろが受話器を耳にあてる。


「はい、小宮探偵事務所です。」


篠原は、まひろの声を聞きながら、給湯室へ向かった。


「はい。ご無沙汰してます。……ええ、おかげさまで……はい……え?」


明るい声で返事をしていたまひろの声が、一転、訝しげに曇った。



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