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『図書館で出会った御曹司が、私のことになるとちょっとおかしい』   作者: 伊佐波瑞樹


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第148話 水曜日の小さな行き違いと、言葉にして初めて届く気持ち


 水曜日の朝、水瀬彩花は目覚まし時計が鳴る少し前に目を覚ました。窓の向こうには薄い雲が広がっていたものの、東の空には淡い橙色の光が差し始めており、冬の住宅街をゆっくりと朝へ変えていた。布団から出てカーテンを開けると、窓ガラスの冷たさが指先へ伝わり、彩花は肩をすくめながらも、その向こうに広がる穏やかな景色をしばらく眺めていた。


 昨日は文芸部で後輩の相談に乗り、夜には悠真と互いの学校で起きたことを話した。後輩が自分で考えて確認表を整理してくれたことも嬉しかったが、それを悠真に伝えたとき、彼が自分のことのように喜んでくれたことが、今も心に残っている。


 彩花は制服に着替えながら、机の上に置いたスマートフォンへ目を向けた。昨夜のメッセージは、互いに翌日の予定を気遣う言葉で終わっている。特別な約束をしたわけではないけれど、一日の終わりに悠真と言葉を交わす時間が、いつの間にか自分の中で楽しみになっていた。


(今日は水曜日だから、悠真君も学校で忙しいのかな。生徒会のお仕事もあるだろうし、航平君との調べ物も続いてるみたいだよね。私も自分のことをちゃんと頑張って、また何か話せたらいいな)


 そう考えると、胸の奥が少し温かくなった。彩花は鞄の中身を確かめ、教科書と筆記用具、昨日使った小さなメモ帳が入っていることを確認してから、一階へ向かった。


 水瀬家の食卓では、母の紗月が温かいスープを並べ、父の耕助が新聞を畳んでいるところだった。姉の凛花は窓際に置いた小さなメモ帳を眺めていたが、彩花が入ってくると顔を上げ、いつものように明るく挨拶をした。


「おはよう、彩花。今日は午後から少し風が強くなるみたいだよ。帰り道、寒くならないようにね」


「おはよう、お姉ちゃん。そうなんだ。朝はそこまで風がないみたいだけど、帰りは気をつけるね」


 彩花が席へ着くと、紗月が焼きたてのパンを差し出した。温かな香りが食卓へ広がり、窓の外の冷たそうな空気とは対照的に、家の中には落ち着いた朝の時間が流れている。


「文芸部の部誌は、まだ先生の確認待ちなの?」


 紗月に尋ねられ、彩花は頷いた。


「うん。修正記録の確認は少しずつ進んでるけど、全体の最終承認はまだなんだ。だから、今は勝手に原稿を変えないようにしながら、確認できるところを整理してるよ」


「そうなのね。時間がかかると気になるかもしれないけど、丁寧に進めているなら、その時間にも意味があると思うわ」


 母の言葉に、彩花は小さく微笑んだ。自分でも、以前より待つことへの考え方が変わってきたように感じている。結果がすぐに出ないと落ち着かないこともあるが、確認を重ねることで守れるものがあると、文芸部の活動を通して少しずつ分かるようになっていた。


 凛花はその話を聞きながら、手元のメモ帳を閉じた。


「私も植物を選ぶのに、まだ迷ってるんだよね。置く場所も決めきれてないし、焦って買うより、もう少し考えようかなって」


「お姉ちゃん、前からすごく丁寧に調べてるもんね。きっと、育て始めたあとも大切にできると思うよ」


 彩花がそう言うと、凛花は嬉しそうに笑った。


「ありがとう。彩花にそう言ってもらえると、もう少しゆっくり選んでもいいかなって思えるよ」


 家族との会話を終え、彩花は朝食を片づけて玄関へ向かった。紗月に見送られながら外へ出ると、冷たい空気が頬へ触れ、冬の朝らしい澄んだ匂いがした。


 今日も、いつもと同じ通学路を歩く。


 けれど、その道の中には、以前よりも多くの発見があるように感じられた。


     ◇


 彩花が道沿いの蕾を見つけたのは、住宅街を抜ける少し手前だった。昨日と同じ場所に立ち、歩道の端から枝を見上げると、小さな蕾は今日もまだ開いていない。朝日が雲に隠れているためか、昨日より少し落ち着いた色に見えたが、形そのものに大きな変化は確認できなかった。


 彩花は鞄からメモ帳を取り出し、今日の日付を書き込んだ。蕾が開いていないことと、光の当たり方によって見え方が違うことを短く記録してから、もう一度枝へ目を向ける。


(今日もまだ咲いてないね。でも、昨日と同じだからって、何も変わってないとは限らないんだよね。見えないところで少しずつ準備してるのかもしれないし、私もちゃんと見ていきたいな)


 そう考えたところで、彩花はふと、自分の創作ノートに書いている少女のことを思い出した。祖母へ手紙を書こうとしている少女も、庭の小さな変化を見つめながら、自分の気持ちを少しずつ確かめている。今朝の景色をそのまま物語へ書き込む必要はないけれど、少女が庭へ向ける視線を考えるうえで、何か参考になるかもしれない。


 彩花はメモ帳を閉じ、学校へ向かって歩き出した。足元には昨日までの雨の名残がほとんどなく、歩道の表面は乾き始めている。風はまだ穏やかだったが、遠くの街路樹の枝がわずかに揺れているのが見えた。


     ◇


 青葉高校の教室では、朝のホームルームが始まる前から生徒たちの話し声が広がっていた。彩花が席へ着くと、近くの女子生徒が教科書を取り出しながら声をかけてきた。


「水瀬さん、おはよう。昨日の授業のところ、もう一回確認してもいい?」


「おはよう。うん、どこが気になったの?」


 女子生徒はノートを開き、昨日扱った文章の一部分を指さした。彩花は自分のノートを取り出し、先生が説明していた内容を思い出しながら、該当する段落へ目を向けた。


「ここは、前の段落で出てきた言葉とつながってると思うんだ。私も最初は分かりにくかったけど、先生が説明してくれたところを見返したら、少し整理できたよ」


 彩花がそう説明すると、女子生徒は頷きながら自分のノートへ書き込んだ。


「なるほど。水瀬さんって、説明するとき落ち着いてるよね。私、分からないところがあるとすぐ焦っちゃうから、ちょっと羨ましい」


 その言葉に、彩花は少し驚いた。自分では、誰かに説明するときに緊張しているつもりだったからだ。昨日の文芸部でも、後輩へ話す前には少し考える時間が必要だったし、分からないことを聞かれると、今でもすぐには答えられないことがある。


「そんなことないよ。私も、分からないところがあると結構迷うし……。でも、最近は一緒に考えればいいのかなって思うようになったんだ」


 彩花がそう答えると、女子生徒は少し笑った。


「それ、いい考え方だね。私も、すぐ答えが出なくても焦らないようにしてみようかな」


 彩花は頷き、ノートを閉じた。


 誰かから見た自分と、自分が思っている自分は、必ずしも同じではないのかもしれない。そう考えると、少し不思議な気持ちになった。


     ◇


 桜華学園高等部では、悠真が午前中の授業を終え、昼休みに入っていた。窓の外では雲がゆっくり流れ、校庭の木々が風に揺れている。教室には昼食を取る生徒たちの声が広がり、週の半ばらしい落ち着いた空気が流れていた。


 悠真が昼食の準備をしていると、森川航平が近くの席へやってきた。


「悠真、昨日整理した駅前写真の資料なんだけどさ、ちょっと気になることがあるんだ」


 航平はそう言いながら、鞄からノートを取り出した。


「気になること?」


「うん。撮影地点の候補が二つあるだろ。あれ、写真の端に写ってるものを無理に判断しない方がいいって話したじゃん。だから、今度は写真の中心にある建物の並び方だけで、どこまで分かるか整理してみたんだ」


 悠真は興味深そうに頷いた。


「なるほど。端の部分はまだ分からないから、確実に見えているところから考え直したんだね」


「そう。ただ、それでもまだ決め手がないんだよな。建物の並び方が似てる場所はあるけど、写真と地図の年代が違うから、同じ状態だったとは限らないし」


 航平は少し困ったように笑った。


 悠真はノートへ目を向け、整理された項目を確認した。確かに、以前より分かりやすくなっている。けれど、二つの候補のどちらかを選ぶには、まだ情報が足りない。


「でも、こうして分けておくと、次に何を確かめればいいか分かりやすいね。俺も、昨日の資料をもう一度見直してみるよ」


「おう。急がなくていいからな」


 航平はそう言ってノートを閉じた。


 そのあと、少しだけ表情を変えて悠真を見た。


「ところでさ、悠真。最近、何か考え事してること多くない?」


 悠真は少し驚き、顔を上げた。


「そうかな?」


「うん。ぼんやりしてるってわけじゃないんだけど、何か思い出して笑ってることがある気がする」


 航平はからかうような口調ではなく、友人として感じたことをそのまま伝えているようだった。


 悠真は少し考え、穏やかに微笑んだ。


「……そうかもしれない。最近、学校以外の時間にも楽しみなことが増えたからかな」


 航平はその答えを聞き、少し笑った。


「そっか。まあ、楽しみがあるのはいいことだよな」


 悠真は頷いた。


 彩花と話す時間が増えてから、何気ない出来事を思い出すことが多くなった。昨日のメッセージも、土曜日に一緒に見た本も、今朝見上げた冬の空も、どこかで彩花との会話につながっている。


 そのことを航平へ詳しく説明する必要はないと思ったが、友人が自分の変化に気づいてくれたことは、少し嬉しかった。


     ◇


 午後の授業が終わると、彩花は文芸部の部室へ向かった。廊下には放課後の生徒たちの声が広がり、窓の外では風に揺れる木々の枝が見える。朝よりも風が強くなっているようで、校舎の窓ガラスが時折小さく鳴っていた。


 部室へ入ると、佐々木先輩が机の上に資料を広げていた。


「水瀬さん、お疲れさま。今日もよろしくね」


「お疲れさまです。よろしくお願いします」


 彩花は挨拶をして席へ着いた。


 冬の部誌『いつか、ここに』については、先生からの最終承認がまだ届いていない。そのため、今日も印刷へ進むことはできず、部員たちは確認表の整理や記録の見直しを進めることになっていた。


 佐々木先輩は部員たちが集まると、今日の作業について説明した。


「今日は、確認表の内容をもう一度見直して、記録の抜けがないかを確かめます。先生からの最終承認が出るまでは、原稿の内容を勝手に変更しないようにしてください」


 部員たちは頷き、それぞれ資料を手に取った。


 彩花も担当している確認表を開き、変更箇所と確認日が正しく記録されているかを見直し始めた。昨日までの作業で大きな抜けは見つかっていなかったが、複数の人が確認している資料だからこそ、思い込みで進めないように注意する必要がある。


 しばらく作業を続けていると、近くに座っていた後輩が声をかけてきた。


「水瀬先輩、少し相談してもいいですか?」


「うん。どうしたの?」


 後輩は手元の資料を示しながら、少し困ったように眉を寄せた。


「この確認表なんですけど、昨日までに整理したところは大丈夫だと思うんです。でも、別の人が見たときに、ちゃんと分かるかどうか自信がなくて……」


 彩花は資料へ目を向けた。


 記録は丁寧に整理されており、変更箇所や理由も分かりやすく書かれている。けれど、後輩が不安に思っていることも理解できた。


「そうだね。自分では分かってるつもりでも、ほかの人が見たときにどう感じるかは、少し違うこともあるよね」


 彩花はそう言いながら、資料をゆっくり読み返した。


「でも、今の書き方なら、どこを確認したのかは伝わると思うよ。もし心配なら、佐々木先輩にも見てもらって、分かりにくいところがないか聞いてみようか」


 後輩は少し安心したように頷いた。


「ありがとうございます。自分だけで考えてると、どこが分かりにくいのか分からなくなっちゃって」


「うん。私もそういうことあるよ。だから、誰かに見てもらうのって大切なんだと思う」


 彩花がそう答えると、後輩は小さく笑った。


「水瀬先輩でも、そういうことあるんですね」


 その言葉に、彩花は少し驚いた。


「もちろんあるよ。私も、まだ分からないことはたくさんあるから」


 後輩は少し考え、穏やかに微笑んだ。


「なんだか、安心しました」


 彩花はその表情を見て、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 自分が完璧ではないことを伝えることで、相手が安心することもある。


 それは、今まであまり意識していなかったことだった。


     ◇


 同じ頃、桜華学園高等部では、悠真が生徒会の確認作業を終え、資料を片づけていた。今日は特別に大きな議題があるわけではなく、各担当から提出された連絡事項を整理し、必要な確認を進める時間が中心だった。


 悠真が資料をまとめていると、近くで作業していた生徒が声をかけてきた。


「九条君、ちょっといいかな。さっきの連絡事項なんだけど、担当の先生への確認がまだ終わってないところがあるんだ」


 悠真は資料へ目を向け、該当する欄を確かめた。


「うん。そこは確認待ちとして残しておこう。まだ返事が来ていないなら、決定事項として扱わない方がいいと思う」


「分かった。じゃあ、確認が終わるまではそのままにしておくね」


 生徒は頷き、資料を受け取った。


 悠真はその様子を見ながら、少し考えた。


 何かを進めるときには、分かっていることと、まだ確認が必要なことを分けておく。


 それは、駅前写真の調査でも、生徒会の仕事でも同じだった。


 そして、彩花が文芸部で取り組んでいる部誌の確認作業にも、似たところがあるのかもしれない。


 悠真はそのことを思いながら、残りの資料を整理していった。


     ◇


 文芸部の活動が終わる頃、佐々木先輩は部員たちへ声をかけた。


「今日はここまでにしましょう。確認表の整理は進んだけど、先生からの最終承認はまだです。印刷についても、承認が出てから改めて確認します」


 部員たちは頷き、資料を片づけ始めた。


 彩花も自分の担当分を所定の場所へ戻し、鞄を手に取った。


 そのとき、佐々木先輩が近づいてきた。


「水瀬さん、今日も後輩の相談に乗ってくれてありがとう。あの子、少し安心したみたいだったね」


 彩花は少し照れながら頷いた。


「はい。私も、分からないことがあるって話したら、安心してくれたみたいで……。ちょっと意外でした」


 佐々木先輩は穏やかに微笑んだ。


「そういうこともあるよ。先輩だからって、何でも完璧にできる必要はないからね。分からないことを一緒に考えられるのも、大切な力だと思う」


 彩花はその言葉を聞き、静かに頷いた。


 自分が思っている自分と、周囲から見た自分は、少し違うのかもしれない。


 朝、クラスメイトから落ち着いていると言われたことも、今の佐々木先輩の言葉も、彩花にとっては新しい発見だった。


「ありがとうございます。私も、そういう先輩になれたら嬉しいです」


 佐々木先輩は微笑んだ。


「もう少しずつ、そうなってると思うよ」


 彩花はその言葉に少し驚き、頬を赤くしながら頭を下げた。


 部室を出ると、廊下には夕方の光が差し込んでいた。窓の外では風が強くなっており、校庭の木々が大きく揺れている。彩花はコートの襟元を整え、校舎の出口へ向かった。


     ◇


 帰り道、彩花は朝に見た蕾のことを思い出していた。


 風は予報どおり強くなっており、住宅街の角を曲がるたびに冷たい空気が頬へ触れる。彩花はマフラーを整えながら歩き、いつもの蕾が見える場所へ近づいた。


 蕾は、今日もまだ開いていなかった。


 けれど、風に揺れる枝の先で、小さな蕾がしっかりとついているのが見える。


 彩花は歩道の端から静かに眺め、少しだけ微笑んだ。


(今日は風が強いけど、ちゃんと枝についてるんだね。私も、こういう小さな変化を見つけるのが楽しくなってきたな)


 彩花はメモ帳を取り出し、今日の記録へ短い言葉を書き加えた。


 夕方は風が強い。


 蕾は未開花。


 枝が揺れているが、大きな変化は確認できない。


 書き終えると、彩花はメモ帳を閉じた。


 そのとき、ふと悠真へ今日のことを話したくなった。


 学校でクラスメイトから言われたこと。


 文芸部で後輩が安心してくれたこと。


 そして、自分が思っている自分と、周囲から見た自分が少し違うのかもしれないと感じたこと。


 彩花はその気持ちを胸に、家へ向かって歩き出した。


     ◇


 夕方、水瀬家へ帰宅した彩花は、母の紗月へ挨拶をしてから自室へ向かった。制服を着替え、机の上へ鞄を置くと、まず今日の出来事を手帳へ書き留めた。


 朝、クラスメイトから落ち着いていると言われたこと。


 文芸部で後輩が安心してくれたこと。


 佐々木先輩から、完璧でなくても一緒に考えられることが大切だと言われたこと。


 彩花は一つずつ丁寧に記録した。


 そのあと、星模様の創作ノートを開いた。


 祖母へ手紙を書こうとしている少女の物語は、まだ完成していない。けれど、今日の出来事を通して、少女の気持ちについて新しく考えられることがあるように感じた。


(少女も、自分では気づいてないことがあるのかな。おばあちゃんと過ごしていた頃には当たり前だったことが、今になって大切だったって分かることもあるのかもしれない)


 彩花はペンを取り、ノートの余白へ短い文章を書き加えた。


 祖母と庭で過ごしていた時間。


 祖母が何気なく教えてくれたこと。


 そのときには特別だと思わなかった言葉が、今になって少女の中で意味を持ち始める。


 彩花はその流れを考えながら、文章を少し整えていった。


 まだ完成ではない。


 けれど、今日も物語の中に小さな変化が生まれた。


     ◇


 夜、彩花は夕食と入浴を終え、自室で葉模様の日記帳を開いていた。


 今日の出来事を書こうとすると、思い出したいことがいくつも浮かんでくる。


 クラスメイトから言われた言葉。


 後輩が安心してくれた表情。


 佐々木先輩の穏やかな声。


 そして、帰り道で見た風に揺れる蕾。


 彩花は一つずつ丁寧に書き留めた。


『水曜日。今日は、周りの人から見た自分について考えることがあった。クラスメイトから落ち着いていると言われて少し驚いたし、文芸部では後輩が安心してくれた。自分ではまだ分からないことが多いと思っているけど、それでも誰かの役に立てることがあるのかもしれない』


 そこまで書くと、彩花は少しだけペンを止めた。


 今日のことを、悠真にも話したい。


 そう思ったところで、スマートフォンが小さく震えた。


 画面には、悠真からのメッセージが表示されていた。


『彩花さん、こんばんは。今日は学校、どうだった? 俺は生徒会の確認作業をしてから帰ってきたよ』


 彩花は自然と笑顔になった。


『こんばんは、悠真君。今日はね、ちょっと不思議なことがあったの。クラスメイトから落ち着いてるって言われたり、文芸部の後輩が私と話して安心したって言ってくれたりしたんだ』


 送信すると、ほどなくして返事が届いた。


『それは素敵なことだね。彩花さんが丁寧に話を聞いていることが、周りの人にも伝わっているんだと思うよ』


 彩花はその言葉を読み、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 悠真はいつも、自分が気づいていないところを見つけてくれる。


 そのことが嬉しかった。


『ありがとう。でも、自分ではそんなに落ち着いてるつもりがなかったから、ちょっと驚いちゃった』


『そうなんだね。でも、彩花さんは相手の話をちゃんと聞いてから考えることが多いから、周りの人には落ち着いて見えるのかもしれないね』


 彩花はその文章を読み、少し考えた。


 確かに、自分はすぐに答えを出すよりも、一度考えてから話すことが多い。


 それは、緊張しているからでもあるし、間違えたことを伝えたくないからでもある。


 けれど、周りの人には、それが落ち着いているように見えることもあるのかもしれない。


『そういう見方もあるんだね。悠真君に言われると、少し分かる気がする』


『うん。俺も、彩花さんと話していると安心することが多いよ』


 その言葉を読んだ瞬間、彩花は思わずスマートフォンを見つめた。


 悠真も、自分と話していると安心する。


 そのことを、今まで直接聞いたことがあっただろうか。


 彩花は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら、ゆっくりと返信を打った。


『……ありがとう、悠真君。私も、悠真君と話してると安心するよ』


 送信したあと、彩花は少しだけ頬を赤くした。


 自分の気持ちを言葉にするのは、今でも少し照れくさい。


 けれど、伝えなければ分からないこともある。


 今日、周囲の人から自分について教えてもらったように、悠真にも自分の気持ちを少しずつ伝えていきたいと思った。


     ◇


 九条家の自室で、悠真は彩花から届いたメッセージを読み、静かに微笑んでいた。


 彩花も、自分と話していると安心すると言ってくれた。


 その言葉が、胸の奥へ温かく広がっていく。


 悠真は以前から、彩花と話していると自然に肩の力が抜けることがあった。学校では生徒会の仕事を任されることも多く、周囲から落ち着いていると言われることもある。けれど、彩花と話す時間には、何かを完璧にこなそうと意識する必要がないように感じられた。


 自分が好きな本のことを話しても、ハクと過ごした時間を話しても、彩花は丁寧に聞いてくれる。


 そして、分からないことがあれば、無理に知っているふりをせず、一緒に考えてくれる。


 その姿勢が、悠真には心地よかった。


(彩花さんと話していると、俺も自然に自分のことを話せるんだよね。きっと、それが安心するってことなのかな)


 悠真はそう考えながら、スマートフォンを手に取った。


『彩花さん、ありがとう。そう言ってもらえて嬉しいよ。俺も、彩花さんと話す時間を大切に思っているからね』


 送信すると、少し間を置いて返事が届いた。


『うん。私も大切にしたいな』


 悠真はその文章を読み、穏やかに微笑んだ。


 大きな約束を交わしたわけではない。


 けれど、互いの気持ちを少しずつ言葉にできることが、今の二人には大切だった。


     ◇


 彩花は悠真とのやり取りを終えたあと、葉模様の日記帳へ視線を戻した。


 今日の最後に、もう一つ書きたいことがあった。


『夜、悠真君と話して、私も悠真君に安心してもらえていることを知った。嬉しかった。自分では気づかないところを、周りの人が見つけてくれることもあるんだと思った』


 彩花はその文章を読み返し、静かに微笑んだ。


 今日も、特別に大きな出来事があったわけではない。


 けれど、自分について新しく知ることができた。


 そして、悠真が自分と話す時間をどう感じているのかも、少し知ることができた。


 彩花は日記帳を閉じ、机の上へ置いた。


 星模様の創作ノートは、まだ完成していない。


 文芸部の冬の部誌も、先生からの最終承認を待っている。


 借りている小説の幼なじみたちも、まだ再会していない。


 通学路の蕾も、まだ開いていない。


 けれど、どれも少しずつ進んでいる。


 彩花はそのことを思いながら、部屋の明かりを落とした。


     ◇


 同じ頃、悠真も自室で明日の予定を確認していた。


 木曜日には通常の授業があり、生徒会の活動も続く。


 航平と進めている駅前写真の調査についても、今後少しずつ資料を確認していくつもりだった。


 ただし、撮影地点の候補はまだ二つのままで、確かな結論は出ていない。


 悠真は手帳を閉じ、机の上に置いた淡い青色の花模様のカードへ目を向けた。


 彩花から贈られたそのカードには、今も大切な言葉が残っている。


『私の好きなものを、いつも大切にしてくれてありがとう。』


『悠真君と話す時間が、私は好きです。』


 悠真はその言葉を思い出し、静かに微笑んだ。


 今日も、彩花と話す時間があった。


 学校での出来事を伝え合い、互いが相手と話す時間をどう感じているのかを、少しだけ知ることができた。


 その時間が、悠真には嬉しかった。


(彩花さんも、俺と話してると安心するって言ってくれたんだね。これからも、そう思ってもらえるように、自然に話していけたらいいな)


 悠真はカードを元の場所へ戻し、部屋の明かりを消した。


 水曜日の夜は、穏やかに更けていく。


 彩花と悠真は、それぞれの家で今日の出来事を振り返りながら、静かに眠りについた。


 別々の学校で過ごす毎日にも、二人をつなぐ小さな出来事が増えている。


 そして今日もまた、言葉にして初めて届く気持ちが、一つ増えていた。


 その積み重ねが、二人にとって大切な時間になっていた。

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