まだ間に合うか…王舎城の喜劇③(死屍に鞭打つ阿闍世)
◆まだ、間に合うか。
王舎城の喜劇③
― 死屍に鞭打つ阿闍世 ―
………
キエフの夜は、
スマホだけが光っていた。
街は停電。
爆撃で電気が落ち、
窓の外は真っ黒。
なのに画面の中だけは、
世界中の怒りでまぶしかった。
ミサイルの映像。
泣いている女の子。
燃える戦車。
「報復しろ」
「倍返しだ」
「絶対に許すな」
大学で文学を教えるレースは、
暗い部屋でその光を見つめとった。
親友のスラフコは前線にいる。
今日も生きとるか分からん。
レースは短く打った。
「生きとる?」
数分後、返信が来た。
「うん。生きとる」
たったそれだけで、
胸が痛うなった。
自分はここでスマホを握っとる。
あいつは、あっちで命を握っとる。
それから数か月後。
スラフコは帰ってきた。
片足を引きずって、
顔色の悪いまま、
まるで半分だけ
戦場から戻ってきたみたいに。
レースは言うた。
「……すまん。
わしは行けんかった」
スラフコは笑った。
でも、その笑いは
軽うなかった。
「謝ることじゃない」
それでも
レースの罪悪感は消えん。
戦場に行かなかった者は、
安全やのうて、
別の地獄を生きるんじゃと、
その時初めて知った。
その晩、二人は
停電した部屋で
ろうそくを挟んで座った。
スマホだけが
青白う光っとる。
そこへ速報が流れた。
「ホルムズ海峡封鎖」
一瞬、部屋の空気が止まった。
続けて別のニュース。
「テキサス州、
金を埋め込んだ
赤い紙幣を発行」
レースは思わず顔を上げた。
「なんじゃ、これ……」
戦争。原油。通貨。報復。
制裁。封鎖。準備。逃避。
全部、別々の話に見えて、
実は一本の線で
つながっとる気がした。
スラフコがぽつりと言うた。
「結局な、同じなんよ」
「何が?」
スラフコはスマホを伏せた。
「恨みじゃ」
レースは黙った。
スラフコは続けた。
「一人がやられる」
「ほいでやり返す」
「やり返された側が、
また倍で返す」
「そのうち誰も
最初を覚えとらん」
「家の中でも同じじゃ」
「国でも同じじゃ」
「海峡を閉めるのも、
結局は同じ心じゃ」
レースは息を呑んだ。
スラフコは暗闇の中で、
静かに笑うた。
「王舎城の話、知っとるか?」
父を憎んだ王子、阿闍世。
自分は正しいと思い、
国を守るつもりで刃を向け、
あとで地獄みたいに後悔した男。
スラフコは言うた。
「人間はな、
悪いことしよう思うて
壊すんじゃない」
「たいていは、
自分は正しい思うて
壊すんじゃ」
「親もそうじゃ」
「子もそうじゃ」
「国もそうじゃ」
レースはスマホを見る。
画面には二つ並んどった。
ひとつは、
ホルムズ海峡の封鎖。
もうひとつは、
赤い紙幣のニュース。
海を閉める者。
金を集める者。
戦う者。
逃げる者。
でも、
その根っこは一つに見えた。
傷ついた心が、
傷ついたまま次へ渡ること。
恨みは相続される。
家庭で。学校で。
SNSで。国家で。
断ち切らんかった恨みは、
最後には家を越え、
国境を越え、
海峡まで閉める。
レースは小さう聞いた。
「ほんなら……
人類は、どうなる」
スラフコはしばらく黙って、
ろうそくの火を見とった。
それから言うた。
「誰か一人でも、
やり返すのをやめん限り」
「滅びに近づく
だけじゃろうな」
部屋は静かじゃった。
停電の夜。
ろうそくの火。
スマホの通知。
遠くの戦争。
目の前の友だち。
全部つながっとった。
スラフコが最後に言うた。
「王舎城の話は、
昔話じゃない」
レースが聞く。
「どこで続いとる?」
スラフコは、
自分の胸を指で
とんとん叩いた。
「ここで」
そして、
スマホの黒い画面を叩いた。
「ここで」
最後に、
窓の外の真っ暗な世界を見た。
「世界中で」
………
★目次
■プロローグ
死んでも父さんを許さない
■第一話 死屍に鞭打つ
― 韋提希の後悔 ―
■第二話 布団の中の怪談
― 阿闍世の呪われた夜 ―
■第三話 お釈迦様に尋ねる旅人
― 身口意の不思議 ―
■第四話 まだ消えていない火
― 王舎城の過去へ戻る ―
(バック・トゥ・ザ ・パスト)
■第五話
生きる意味を探し当てた人
― フランクルの闇と光 ―
■第六話
ハグは過去の恨みを消す
― Любко Дереш
『メデューサの視線』 ―
■第七話 喜劇役者のフランクル
■最終話
王舎城の「ぬりかべ」が
笑った 朝
❥終わりに寄せて
………
■プロローグ
「死んでも父さんを許さない。」
阿闍世は、
布団の暗闇でスマホを握りしめ、
父の骨を叩き砕く想像を
何度も繰り返す。
終わったゲームを、
もう一度壊そうとするみたいに。
外の世界も、
どこか壊れかけていた。
アメリカ、イスラエル、
イスラエル、 そして
湾岸諸国との紛争勃発。
ニュースは
毎晩同じ言葉を繰り返す。
ホルムズ海峡。タンカー。
封鎖。報復。
やがて日本政府は
備蓄原油を
同盟国へ供与すると発表した。
数週間後、
町のガソリンスタンドには
長い列ができた。
「今日は二十リットルまで」
そんな張り紙が風に揺れている。
スーパーでは
トイレットペーパーや米が消え、
SNSには
「買いだめしろ」
「食料危機だ」
「備蓄は国民のものじゃないのか」
という声が流れ続ける。
夜のコンビニの前では
酔った男同士が怒鳴り合う。
強盗事件のニュースも増えた。
街の空気は、
少しずつ暗くなっていった。
そんな世相の中で、
頻婆娑羅の葬儀は
静かに進められていた。
外では世界が
怒りの連鎖で揺れている。
そして、この家の中でも、
別の連鎖が続いている。
8050の家は静かな地獄。
怒鳴り声がたまに響くだけ。
恨みはゆっくり心を腐らせる。
部屋は牢獄になり、
阿闍世は罰を与えているつもりで、
毎日自分自身に鞭を打っている。
それが
「死屍に鞭打つ」
ということ。
死んだ相手にまで
怒り続ける。
壊れたコントローラーを
床に叩きつける。
勝っても負けてもいない。
ただ怒りだけ残る。
仏教ではこれを
**「因果の鎖」**と呼ぶ。
恨みは消えない。
次の恨みを生む。
やがて自分を傷つける。
地獄の始まりだ。
阿闍世は今、
その入口に立っている。
彼は父を、
結局は殺していない。
でも、
毎日のように叫んでいた。
「死ね!死ね!死ね!」
それは、
父に向けた言葉じゃない。
未来の自分に
振り下ろされた鞭だ。
父が死んで、
墓の前で気づいた。
恨みは終わっていなかった。
今度は、自分が
「死屍に鞭打つ者」になった。
外の世界では
国と国が同じことをしている。
やられた。
やり返す。
またやり返される。
その連鎖の先に、
海峡が閉じる。
油が止まる。
街が止まる。
そして人の心も、
少しずつ暗くなる。
それでも――
第二次世界大戦のさなか、
ナチスの強制収容所で
奇跡的に生き残った男がいる。
心理学者
ヴィクトール・フランクル。
彼は、
人が人でなくなる場所を
毎日見ていた。
昨夜まで話していた仲間が、
朝になると
死体の山の中に並ぶ。
フランクルは、こう言った。
「死ぬということは
ゲームオーバーじゃない」
「人生という
長いゲームのセーブポイント
みたいなものだ」
ゲームは終わる。
でも記録は残る。
その人が
どこまで進んだか。
何を選び、
何を残したか。
それは
ちゃんと保存される。
スマホのバッテリーが
0%になる瞬間を
想像してみてほしい。
電源は落ちる。
でも、スマホの中の
写真やメッセージや
記録は消えない。
人生も
それに似ている。
時間は、砂時計の砂のように
上から下へ落ちていく。
上にあった砂はもう戻らない。
でも、下に積もった砂は
そこにずっと残り続ける。
君の人生のハイライト――
笑った日。
戦った日。
愛した日。
全部、消えない。
砂時計が空になったら
君の人生は完結する。
でもそれで終わりじゃない。
新しいステージのスタートだ。
死の手は冷たい闇じゃない。
「おはよう」と
優しく起こす温もりだ。
Z世代の君へ。
スクリーン越しの絶望に
沈んだままでおるな。
生きとる限り、
まだ負けたわけじゃない。
ただ「もうダメだ」と
思い込んで、
布団の中に沈んどるだけじゃ。
可能性いうのは
空気みたいなもんじゃ。
吸えば、動ける。
だから、一つでええ。
ほんの一つでええんじゃ。
歯を磨く。
外に出る。
誰かと笑う。
それだけで、
恨みの流れは変わる。
未来いうのはな、
動いた人のほうにしか
近づいてこん。
今夜も君は布団の闇の中で
スマホの光に顔を
照らされとるかもしれん。
その光は、ときどき
墓の中の灯りみたいに見える。
静かで、冷たくて、
どこにも行けん光じゃ。
でもな。
砂時計の砂はまだ落ちとる。
時間はまだ止まっとらん。
君の人生のハイライトは
まだ下に積もり続けとる。
だから今、選ぶんじゃ。
自分を打つ鞭を
ここで置くか。
それとも、同じことを
繰り返して振り続けるか。
答えは
未来にはない。
答えは
今、この瞬間にしか
ないんじゃよ。
残念ながら、阿闍世は
まだそれが分からん。
今も、父・頻婆娑羅を
心の中で
鞭で打ち続けとる。
さて――
君はどうする?
………
■第一話 死屍に鞭打つ
― 韋提希の後悔
頻婆娑羅が死んだ。
あっけなかった。
昨日まで畑で
土をいじっていた男が、
今日は白い布にくるまれて
横たわっている。
葬式の鐘が止み、
骨壺が棚に置かれる。
近所のジジババが
ヒソヒソ言う。
「おたくの坊ちゃん、
顔出さねえのかい?」
阿闍世は出ない。
部屋は墓場みたいに
静まり返っている。
スマホの青白い光が、
彼の顔をゾンビみたいに
浮かび上がらせる。
エンドレスなゲームのBGM。
通知は鳴らない。
既読もつかない。
外の世界は動いている。
コンビニの蛍光灯。
ちんちん電車の振動。
Z世代の若者が
ゲラゲラ笑う声。
誰も頻婆娑羅の死なんか
気にしない。
世界は平気な顔で
回り続ける。
止まっているのは、
この部屋だけだ。
違うのは一つだけ。
怒鳴る相手が、もういない。
「死ね!」
壁の向こうから、
もう返事はない。
畑帰りのドタドタ足音も、
永遠に沈黙した。
最初の数日は、少し楽だった。
敵が消えた気がしたからだ。
しかし、問題は
そこから始まる。
夜、部屋の空気がねじれる。
誰もいないはずなのに、
気配が這う。
頻婆娑羅は灰になった。
それでも“いる”。
怒りの残渣が、
妖怪みたいに部屋をうろつく。
阿闍世は虚空を叩く。
死屍に鞭打つ。
死んだ相手に怒り続けること。
骨壺は黙っている。
骨は割れない。
怒りは行き場を失い、
Uターンしてくる。
父の顔。
母の顔。
最後に映るのは、
歪んだ自分の顔。
三人で地獄に
落ちるつもりだった。
でも、
地獄は一人用だった。
8050の泥沼で、
親子が互いを
食いちぎってきた。
そして最後に残るのは、
年老いた引きこもり一体。
ゾンビになっているのは
世界じゃない。
自分だ。
怒鳴る相手もいない。
骨を叩く相手もいない。
それでも、
怒りだけは腐らない。
腐るのは、
抱えている心のほうだ。
――その時、韋提希が崩れる。
「間に合わなかった」
夜の家は墓場のようだ。
冷蔵庫のブーンという音だけが
耳を刺す。
阿闍世の部屋から、
また声が漏れる。
「死ね」
韋提希は凍りつく。
死んでも終わらない。
これが「死屍に鞭打つ」と
いうことか、と。
二十五年間、
何を守ってきたのか。
「この子を傷つけないように」
「刺激しないで」
「家族が壊れちゃう」
そう言いながら、
守っていたのは
自分の安心だったのではないか。
頻婆娑羅の愚かさを責め、
息子の弱さを甘やかし、
波風を立てない道を選び続けた。
それを優しさだと思っていた。
でも違った。
それは執着だった。
「家族」という形への。
「壊れない日常」への。
「今さら変われない」
という言い訳への。
もし
――死ぬ一日前でも。
すべてを捨てて、
仏の心を掴めていたら。
「感謝しなさい」と
泣きながらでも
阿闍世に言えていたら。
息子を守る母ではなく、
真実をぶつける母に
なれていたら。
阿闍世は
変わったかもしれない。
引きこもりの鎖は、
どこかで切れたかも
しれない。
だけど、
阿闍世は言わなかった。
感謝をとうとう、
口にしなかった。
死は突然来る。
後悔は、ゆっくり腐る。
やがて韋提希も逝く。
葬式の香が消える。
家は完全な静寂に包まれる。
誰もいない台所。
誰も帰らない玄関。
阿闍世だけが残る。
相変わらず目覚ましはかけない。
朝は来るが、起きない。
いや 、今度は誰も起こさない。
そしてある日、鏡を見る。
そこにいるのは
頻婆娑羅の老いた顔。
韋提希の疲れた目。
それが自分だ。
その瞬間、理解する。
鞭を打っていたのは、
最初から自分だった。
死は冷たい手ではない。
本当に冷たいのは、
「言えなかった一言」が
一生、喉に刺さり続けることだ。
Z世代の君へ。
親がまだ生きているなら、
今日、言え。
「ありがとう」
と。
明日では遅い。
本当に遅い。
死屍に鞭打つ前に、
鞭を置け。
王舎城の喜劇は、
まだ終わっていない。
終わらせるのは
物語じゃない。
君の沈黙だ。
■第二話 布団の中の怪談
― 阿闍世の呪われた夜
夜は深い。
あまりに深すぎて、
音が底へ沈んでいく。
家の中には
冷蔵庫の低い唸りだけが残る。
韋提希はもう寝ている。
家は、ほとんど墓だ。
阿闍世は布団に潜り込む。
この布団は、
昔から変わらない。
父が畑から帰ると、
縁側に干されていた。
泥の匂い。
土の匂い。
太陽の匂い。
しかし今日は違う。
どこかに
湿った匂いが混ざっている。
――骨壺の匂いだ。
阿闍世は顔をしかめる。
「気のせいだ」
布団を頭までかぶる。
布団は暗い。
暗いが、安心できる。
世界から切断された小さな洞窟。
しかし洞窟には
もう一つの呼吸がある。
阿闍世は目を開く。
呼吸。
ゆっくり。
自分の呼吸ではない。
布団の向こう側。
誰かが
静かに息をしている。
阿闍世の心臓が、胸を叩く。
「……誰だ」
答えはない。
しかし布団の布が
ほんの少しだけ沈む。
まるで誰かの腕が
乗ったように。
阿闍世は、動けない。
そのとき。
――ミシ。
廊下が鳴った。
ゆっくり。
重たい足音。
畑帰りの足音。
阿闍世は
その音を知っている。
三十年、聞き続けた音。
父・頻婆娑羅の足音だ。
ミシ。
ミシ。
ドアの前で止まる。
ノックはしない。
父は昔からノックなどしない。
ドアはゆっくり開く。
しかし風も入らない。
誰も入ってこない。
それでも
部屋の空気が変わる。
冷える。
布団の中が突然冷える。
さっきまであった
もう一つの体温が消える。
代わりに、
何か重たいものが
布団の上に乗る。
阿闍世は、息を止める。
布団越しに、
声が落ちてくる。
低い声。
「……寒いな」
阿闍世の体が、硬直する。
それは父の声だった。
畑から帰ると
必ず言っていた言葉。
「寒いな」
阿闍世は、歯を食いしばる。
「死んだんだろ!」
声が震える。
「もう死んだんだろ!」
沈黙。
しかし
布団の上の重さは消えない。
声がまた言う。
「死んだ」
静かな声。
「だから終わりか」
阿闍世の手が震える。
声は続く。
「怒りはどこへ行く」
阿闍世は!
答えられない。
声はさらに近づく。
布団の中へ染み込むように。
「骨は割れない」
阿闍世の頭の奥で何かが軋む。
声は最後にこう言った。
「布団の中は
逃げ場じゃない」
その瞬間。
布団の奥から
別の声が聞こえる。
若い声。
阿闍世の声ではない。
少年の声。
「先生、
続きを書いてください」
阿闍世は凍りつく。
誰の声だ。
声は続く。
「この台本、
まだ終わってないんです」
暗い部屋の隅で
紙がめくれる音がする。
パラ。
パラ。
まるで
誰かが脚本を読んでいる。
阿闍世は
ゆっくり布団から顔を出す。
部屋の隅に
古いノートが落ちている。
見覚えのない演劇の台本。
表紙に震える字が書いてある。
「布団の怪談」
阿闍世の背中を
冷たいものが這う。
その下にもう一行。
「原案」(小泉八雲)
阿闍世は、
声にならない声を出す。
その瞬間。
部屋の天井に
もう一つの影が現れる。
髪の長い外国人の影。
影はゆっくり言う。
「怪談は終わらない」
英語混じりの低い声。
「語る者がいる限り」
影は台本を指さす。
「続きを書け!」
阿闍世の手が勝手に動く。
台本を開く。
そこにはこう書かれている。
「第二幕 王舎城の夜」
その瞬間、家の廊下で
また足音が鳴る。
しかし今度は
一人ではない。
ミシ。
ミシ。
ミシ。
何人もの足音。
家の周りを歩いている。
畑の男。
骨壺の女。
名前を失った怒りたち。
怪談は、もう始まっている。
布団は、その入口だ。
そして台本の最後に
まだ書かれていない一行が
残っている。
そこに
書くべき言葉はただ一つ。
「ありがとう」
もし書けなければ、
この怪談は終わらない。
そして読者も
眠れない夜を迎える。
■第三話 お釈迦様に尋ねる旅人
― 身口意の不思議 ―
古い森の木陰。
風が止まり、葉も動かない。
六十七歳の旅人は膝をつき、
釈迦に頭を下げた。
「師よ。
韋提希の家は地獄です」
「息子は部屋に閉じこも
頻婆娑羅は何も語らず
死んでしまいました」
「もう私も
力を貸せません」
「韋提希は
ただただ泣くだけです」
「この王舎城は、
もう終わりでしょうか?」
釈迦はしばらく黙っていた。
そして静かに言った。
「終わっている家など、
あるはずがない」
「終わらせている心が
あるだけだ。」
旅人は顔を上げた。
釈迦は続けた。
「よく聞け。
燃えている家があるとする。
中には三人いる」
「一人は
『誰が火をつけた』と
怒鳴っている」
「一人は
『静かにしていれば
火は消える』
と祈っている」
「一人は
『どうせ逃げられない』
と布団をかぶっている」
「さて、誰が助かる?」
旅人は答えられなかった。
釈迦は言った。
「最初に外へ走る者だ」
「火の原因を
議論する者でもない。
泣く者でもない。
諦める者でもない」
「立ち上がる者だ。」
旅人は、思わず震えた。
「ですが……」
「阿闍世は
家を出ようとしないのです」
釈迦は、静かに答えた。
「それは両親の心が
弱いからだ」
「家という場所は、
ときどき人を縛る」
「怒りも、悲しみも、
同じ空気の中で
ぐるぐる回り続ける」
釈迦は、少し間をおいた。
「だから、一度
場所を変えるのだ」
「家族の誰でもいい」
「一時間でもいい」
「いつもの場所を離れて
静かなところで
ゆっくり考えてみる」
「それぞれが
自分の居場所を
探してみるのだ」
旅人はうなずいた。
釈迦は、やさしく続けた。
「人はな、一人が動くと
周りが慌てる」
「なぜだ?どうしたんだ?
と騒ぎ始める」
「だが、それでいい」
「流れは、そこから変わる」
そして釈迦は
少しだけ笑って言った。
「人間というのはな、
考えが変わるより先に
場所が変わると心が動く」
「だから最初は
大きな決心はいらん」
「ただ
一歩外に出ればいい」
釈迦の声は柔らかいが、重い。
「もう一つ話そう」
「井戸に落ちた
何人かの男がいる」
「男たちは叫ぶ。
『誰が押したんだ!』
『なぜ俺なんだ!』」
「しかし、水は胸まで来る。
助かる者は一人だけだ」
「どういう者か?」
「叫ぶのをやめ、
壁に手をかける者だ。」
森が静まる。
釈迦は旅人をまっすぐ見た。
「恨みは因果の鎖だ」
「鎖は怒りでは切れない。
慈悲でしか切れない」
「だが覚えておけ」
「頻婆娑羅は、もう変わらぬ。
阿闍世も、自らは変われぬ。
変われるのは、ただ一人」
「母・韋提希だ。」
旅人の喉が鳴る。
「母が変わらねば、
この家は静かに腐る」
「怒鳴る息子、黙る父、
泣く母」
「三人とも
被害者の顔をして、
三人とも加害者に
なっておる」
「8050の泥沼とは、
誰も最初に立ち上がらないこと」
「全員、立ち上がるのが
怖いのじゃ…」
「Z世代の問題点とは、
誰かが変わるのを
待ち続けることじゃ」
釈迦は、最後にこう言った。
「救いというのは、
空から突然降ってくる
奇跡ではない」
「誰か一人が、最初に
立ち上がることから
始まる」
「怖くてもいい。
一歩だけ前に出ればいい」
「その一歩が、
流れを変える」
そして静かに続けた。
「この家で最初に動くのは
母、韋提希だ」
「韋提希が変われば、
阿闍世の心は揺れる」
「揺れれば、固まった心に
小さな隙間ができる」
「隙間ができれば、
そこから光が入る」
「そして、
止まっていた風が、
もう一度この家に戻る」
旅人は
深く頭を下げた。
「では私は
何をすればいいのでしょう」
釈迦は
やさしく微笑んだ。
「真実を恐れるな」
「優しさの仮面で
本当のことを隠すな」
「本当に人を救う言葉は、
ときどき少し痛い」
「だがその痛みが
人を目覚めさせる」
釈迦は
森の奥を見つめながら言った。
「今日、韋提希に
今日の言葉を届けなさい」
「明日では遅い」
「人の心は
今日しか動かない」
旅人は
もう一度深く頭を下げた。
森の奥では
どこかの家の火が
まだ小さく燃えていた。
消えそうで
消えていない火だった。
その火は、まだ人が
生きている証だった。
そして釈迦は
静かにこう言った。
「その火は、どの家にも
まだ残っている。」
■第四話 まだ消えていない火
― 王舎城の過去へ戻る
(バック・トゥ・ザ ・パスト) ―
世界では戦争が続いている。
ウクライナの戦場から、
ベネズエラの緊張へ。
そしてイランへ。
争いは静かに広がり、
怒りは怒りを呼び、
恨みは次の恨みを生む。
人間はなぜ、
同じ輪廻を
何度も繰り返すのだろう。
………
三千年前、森の木陰で
お釈迦様は、
旅人の祖先にこう語った。
「恨みは輪廻する。
しかし、それは
慈悲の光で
断つことができる」
変わる鍵は、
いつも人の心の中にある。
だから今度は、
この話を読者である
君に届けたい。
………
8050の家。
父は老い、
母は耳を塞ぎ、
息子は怒りの中に閉じこもる。
王舎城は崩れかけていた。
それでも
完全には壊れていない。
だから時計の針を
少しだけ過去に戻してみよう。
頻婆娑羅がまだ生きていた頃へ。
命の炎がまだ灯っていた時間へ。
阿闍世は昼間、
ポリテクセンターに通っている。
二ヶ月続いた。
卒業まであと四ヶ月。
父の頭をポカリと叩きながら
「死ね」と言うこともある。
それでも朝になると、
母に起こされ、
父の運転でセンターへ向かう。
それは小さな光だった。
阿闍世は
遠い親戚の旅人と
男同士の約束をしていた。
「冷凍食品会社に就職し、
日本の食卓を守る」
その約束だけが、
阿闍世の細い
蜘蛛の糸だった。
釈迦は旅人に言った。
「鎖は外から
かけられている」
「しかし外すことができるのは
本人だけだ」
「ただし――
その鍵を優しく
渡すことができる人がいる」
「母、韋提希だ」
………
若者の怒りは、
たしかに父の無関心から
始まったのかもしれない。
頻婆娑羅は、
話を聞いてくれない。
見てもくれない。
何をしても
「ふーん」で終わる。
そのうち心の中で
こう思い始める。
「どうせ、父さんは
分かってくれない」
「どうせ、自分なんて
どうでもいいんだ」
その気持ちは
きっと本物だった。
でも――
怒りというのは
不思議なもので、
放っておくと心の中に
保存される。
スマホの写真みたいに
どんどん溜まっていく。
そして気がつくと、
父と戦っているつもりが、
実は自分の頭の中の父と
戦い続けている。
それは終わらない。
なぜなら、
相手は外にいる父ではなく、
自分の心の中に
住みついた父だからだ。
そして一番疲れるのは
その戦いを毎日続けている
自分自身だったりする。
………
ある日、韋提希は
首飾りを床に叩きつけた。
「どうせ私が悪いんでしょ!」
その瞬間、
彼女の中で何かが変わった。
怒りも、悲しみも、
言い合いも、
ずっと同じところを
ぐるぐる回っとった。
韋提希は思った。
「このままじゃ
家の空気は変わらん」
「まず、一番
小さいところから
変えてみよう」
彼女が最初にしたことは
息子を責めないことだった。
「口は災いの元だねえ」
そう言って
阿闍世を歯医者へ連れて行く。
阿闍世は、
不思議そうな顔をした。
「なんで歯医者?」
韋提希は笑った。
「人はな、口から
毒を出すんよ」
「怒りも、悪口も、
全部ここから出る」
「だからまず、
口をきれいにしてみよう」
しかも
息子だけではない。
韋提希は、自分も一緒に
ブラッシングを始めた。
「旅人の小さな体験に
自分も委ねてみよう」
まず口を整える。
言葉を整える。
「毒は口から出るからね」
そして、韋提希は
少し笑って言った。
「スマホの画面は
毎日きれいに拭くのに」
「口の中は、ずっと
掃除せんままじゃろ?」
阿闍世は
思わず吹き出した。
鏡の前で
二人は顔を見合わせる。
「ほら阿闍世、その歯、
ドラキュラみたいじゃ」
久しぶりの笑いじゃった。
ほんの少しの笑いが
家の空気をほんの少し変えた。
それだけで
十分だった。
家の中の流れは、たいてい
そういう小さなことで
動き始める。
………
次に韋提希は
ノートを差し出した。
「書きなさい。
私も書くから」
「最初はチャラ書きでいい。
スイッチが入ったら清書。
写経みたいにね」
「文字を書くというのは、
三千年前の先人に
自分の悩みを
相談することなんだって」
「漢字は三千年の知恵の宝箱」
釈迦も静かに言う。
「漢和辞典に耳を傾けなさい」
「書けば思いは形になり、
心に落ちる」
………
そして三つ目。
韋提希は
笑うことを覚えた。
「阿闍世、今
ゾンビみたいな顔してるよ」
「私の顔も
ドヤ顔全開だわ」
「地獄ではね、
ユーモアが浮き輪になる」
「プカプカ浮きながら
笑って苦しみを
越えればいい」
母が変わったとき、
阿闍世の鎖はほんの少し緩んだ。
一%。
それでいい。
ゼロではないのだから。
釈迦は言う。
「恨みは輪廻する。
しかし断つことができる」
………
釈迦は三つの道を示した。
これを三業という。
・「心」
文字を書くこと。
モヤモヤをインクで流す。
・「口」
歯を磨き、言葉を整える。
・「身(行動)」
ユーモアで浮くこと。
地獄では笑え。
笑いは浮き輪になる。
王舎城はまだ救える。
しかし時間は少ない。
父は老いている。
死は待ってくれない。
………
旅人は、
ゆっくり立ち上がった。
まるで心の中の
タイムマシンを
半年前に戻すように。
森の風が
静かに吹いている。
まだ終わっていない。
父も、母も、
まだ生きている。
この時、阿闍世は
ポリテクセンターに
通っていた。
それは、小さなことだけど
確かな希望だった。
改心の余地は、ほんのわずか。
でも、ゼロではない。
釈迦は静かに言った。
「世界の戦争も、
家庭の争いも…」
「始まりはいつも
一人の心の中にある」
旅人は考えた。
もし恨みが
一人の心から始まるなら。
それを止めるのも
やっぱり
一人から始まるのかもしれない。
口をきれいにする。
言葉を整える。
思っていることを
紙に書き出す。
そして
ときどき笑う。
たったそれだけでも
止まっていた空気は
少しは動く。
恨みの連鎖は
そんな小さなところから
ほどけるのかもしれない。
三千年前の教えなのに、
やることは
意外とシンプルだった。
歯を磨く。書く。笑う。
旅人は思った。
「これなら、
王舎城の家族にも
できるかもしれない」
旅人は、
ゆっくり立ち上がる。
タイムマシンを
半年前に戻した…
「父も母もまだ生きている」
そして釈迦は
最後にこう言った。
「世界の戦争も、家庭の争いも、
その始まりはいつも
自分の心から始まる」
■第5話 生きる意味を探し当てた人
― フランクルの闇と光 ―
君は戦争を知らない世代かもしれない。
僕もそうだよ。
ニュースでは見る。
映画でも見る。
でもどこか遠い話だ。
それより、将来の不安や
人間関係のほうが
ずっと重く感じる夜もある。
「生きる意味って何だろう」
そう思うこともあるかもしれない。
でも――
本当にそんな時代があった。
遠いヨーロッパの凍った大地で、
一人の男が
屍の山の前に立っていた。
ヴィクトル・フランクル。
心理学者だった彼は
ナチスの強制収容所
アウシュヴィッツに送られた。
そこでは毎日、人が死んだ。
凍った地面に
何百という体が積み重なる。
父、母、妻、友人。
彼の愛する人は
すべて灰になった。
死は日常だった。
朝起きて屍を運び、
夜には誰かが倒れる。
しかし、ある日
フランクルは気づいた。
死が奪うものではなく、
残すものに。
愛した記憶。
耐えた苦しみ。
生きた証。
それは消えない。
砂時計の砂が落ちても、
下に積もった砂は残る。
生きた日々は
その人の存在を確定させる。
だから彼は言った。
「生きる意味は
与えられるものではない」
「自分で見つけるものだ」
そして――
その問いは今、
スマホの光の前にいる
君にも向けられている。
多くの人は、
「死」と聞くとこう思う。
暗い。冷たい。痛い。
氷の世界へ落ちていくような、
終わりのない闇。
でも――
収容所で死と向き合い続けた
フランクルは、
まったく違うことを語った。
彼にとって
死は「終わり」ではなかった。
それは、人生の完結だった。
冷たい手ではない。
眠りの終わり。
新しい光の始まり。
フランクルは言った。
「死ぬということは
暖かい手に頭を
撫でてもらうことだ」
もし今、フランクルが
王舎城の部屋を
そっと覗き込んだら
何を思うだろう。
阿闍世の姿を
収容所の囚人たちと
重ねるかもしれない。
でも
――阿闍世は違う。
平和な部屋の中で
自分自身を鎖で縛っている。
フランクルは
きっと静かに思うだろう。
「この男は
屍に鞭を打つ人生を
自分で選んでいる」
まだ生きている父に
言葉の鞭を振るい、
死んだあとまで恨みを引きずる。
「だけど、それは
悲しいほど無駄なことだ」
フランクルは、
収容所で学んだ。
「恨みは、魂を蝕む毒だ」
「死は消滅ではない」
それなのに阿闍世は
それを闇として恐れ、
今日もまた
鞭を振り上げている。
「収容所の人々は
死の中で希望を見つけた」
だけど、
阿闍世は――
「平和な部屋の中で、
自分の絶望を育てている」
………
引きこもりやニート、
8050問題で心を痛めている君へ。
まず、ひとつだけ
忘れないでほしい。
「君の部屋は収容所じゃない」
外の空気も毒じゃない。
君を閉じ込めている檻は
実は、外にはない。
心の中にある。
阿闍世の人生は、少し悲しい。
なぜなら彼は、
まだ生きているのに
心だけ先に
止まってしまっているからだ。
でも――
フランクルはそんな人間を
たくさん見てきた。
絶望のどん底から
立ち上がった人間も。
だから知っている。
「人は、どんな場所からでも
変わることができる」
きっかけは、とても小さい。
意味を外に探すんじゃない。
自分の内側から
少しだけ探してみること。
大丈夫。
君も、今からでいい。
ゆっくりでいい。
ほんの一歩だけ
動いてみよう。
■第六話 王舎城 ― 三つの戦場
― Любко Дереш
『メデューサの視線』 ―
阿闍世にも
仏心はある。
ただ――
それが顔を出すのは
ほんの一瞬だけだった。
………
ある朝、
頻婆娑羅が畑で倒れた。
「父さーん!」
韋提希の叫びが庭に響いた。
その声を聞いて
阿闍世は――
何ヶ月ぶりかで
部屋のドアを開けた。
駆け寄る。
父は畑の土の上に
へたり込んでいた。
額の傷から血が流れている。
阿闍世の胸が
ドクンと鳴った。
「父さん…」
言葉が出ない。
やっと出た声は
怒りではなかった。
小さな子どもの声だった。
「俺のせいか…?」
「俺が頭を殴ったせいか…」
頻婆娑羅は弱く首を振った。
「違う」
「ワシの人生だ」
「ただの油断じゃ」
その言葉は
とても静かだった。
でも――
阿闍世の胸には強く響いた。
もし、この瞬間を
誰かが見ていたら
こう思っただろう。
「ああ」
「ここで
阿闍世の人生は変わる」
恨みの鎖は、ここで切れる。
長い夜は、ここで終わる。
そう見えた。
だが――
人間は不思議だ。
目の前に出口があっても、
そこを通らないことがある。
父の傷が治り、畑の土が乾き、
家の空気が
いつもの重さに戻ると、
阿闍世は
また同じ言葉を吐いた。
「死ね!死ね!死ね!」
それは
父への言葉のようでいて、
本当は――
自分自身を
鞭で打っている言葉だった。
人生は、
奇跡で変わるんじゃない。
変わるチャンスを見逃した数で
少しずつ固まっていく。
………
韋提希から
この話を聞いた旅人は
遠いウクライナの
ある小説を思い出した。
Любко Дереш
『メデューサの視線』
停電した街で
キャンドルの灯りだけを頼りに
書かれた物語だ。
………
四人の幼なじみがいた。
同じ町で育ち
同じ学校に通い
同じように大人になった。
しかし、四十歳の年
戦争が始まる。
フルスケール侵攻。
ニュースの戦争ではない。
本物の戦争だ。
四人のうち
一人だけが前線へ行った。
残りの三人は町に残った。
そしてある日、
その友人が帰ってきた。
ところが、帰ってきたのは
昔の彼ではなかった。
恋人は戦争で死んだ。
彼の目には、血と叫びと闇が
焼きついていた。
停電した部屋で、
四人はキャンドルを囲む。
炎が揺れる。
誰も、言葉を出せない。
やっと一人が言う。
「俺たちは……
何もできなかった」
沈黙が落ちる。
主人公は
友人の目を見られない。
その視線は
あまりにも重かった。
メデューサの目のようだった。
「見た者を
石にしてしまう目」
主人公の頭の中で問いが回る。
「なぜ僕は
戦場に行かなかった?」
「なぜ友人は命をかけて戦い
僕はここで生きている?」
罪悪感が胸の奥でぐるぐる回る。
そのとき、
戦場から帰った友人が
静かに言った。
「君たちは生き残った」
「それでいい」
「俺の分まで
生きてくれ」
その言葉で
主人公は気づく。
「あの視線は
怪物の目ではない」
深すぎる痛みを
映してしまう鏡だった。
………
旅人は思う。
世界には三つの戦場がある。
一つ目は、ウクライナのような
本当の戦場。
二つ目は、王舎城のような
家庭の戦場。
そして三つ目は――
人の心の中にある戦場だ。
阿闍世は、その戦場で
今日も戦っている。
そして今――
君の部屋でも小さな戦争が
続いているかもしれない。
夜。
布団の中。
スマホの光が
顔を照らす。
その光は、まるで
小さな墓の灯りのようだ。
でも
まだ砂は落ちている。
人生の砂時計は
止まっていない。
今、選べ。
恨みの鞭を置くのか。
それとも
振り続けるのか。
答えは
明日ではない。
この画面を
閉じたあとに決まる。
そして――
旅人は静かに気づく。
世界大戦は
国と国のあいだで起こる。
だけど…
「人生の戦争は
たった一人の心から
始まるんだ」
「王舎城は
遠い昔の城ではない」
「今、君がいるその部屋の
名前かもしれない。」
■第七話 喜劇役者のフランクル
引きこもりやニート、
8050問題で苦しんでいる君へ。
阿闍世よ。
ちょっと耳を貸してくれ。
(僕も昔、布団の中で
「死ね!」って
つぶやいてたクチだから
他人事じゃない)
人は人生が
めちゃくちゃに壊れたあと、
どうやって生き直すのか。
その答えを
体で証明し続けた
変なおじいちゃんがいる。
ヴィクトル・フランクル。
アウシュヴィッツで、
父も母も妻も、
全部失った男だ。
普通なら
そこで人生は終わる。
でも、フランクルは
ちょっと変わっていた。
戦争が終わったとき、
人々は言った。
「よかったですね、
生き残れて」
フランクルは
ニヤリと笑った。
「へえ、僕だけ
生き残っちゃったのか」
「これは宇宙の
ブラックジョークだな」
心理学者なのに
そんな言い方をした。
でも実は、
それが彼の発見だった。
人は、苦しみを真面目に
受け止めすぎると壊れる。
だけど笑いに変えると
一歩前に進める。
フランクルは
これを心理療法にした。
名前は「逆説志向」。
たとえば、
人前で手が震える人に
こう言う。
「よし、今日は世界一
震えてみよう」
すると
脳が混乱する。
「あれ?震えちゃ
ダメじゃなかったの?」
その瞬間、
恐怖のループが切れる。
つまり、ユーモアは
心のブレーキなんだ。
……
この話は
ウクライナの小説
『メデューサの視線』にも
よく似ている。
2022年、停電したキエフ。
戦場から帰った友人の目が
主人公を凍らせる。
「なぜお前は
戦場に来なかった?」
罪悪感は
メデューサの視線みたいに
人を石にする。
でも、友人は
怪物じゃなかった。
ただ痛みを映す鏡だった。
フランクルも
同じだった。
家族の屍の山を見て
罪悪感で石になりかけた。
でも、彼はこう決めた。
「よし」
「八十歳過ぎちゃったし
気晴らしにアルプスでも
登るか」
周りの人はあきれた。
「先生、八十歳ですよ?」
フランクルは、肩をすくめた。
「状況は変えられない」
「でも自分は変えられる」
それだけ言って、
杖をつきながら崖を登った。
息が切れる。
足が震える。
でも、彼は笑った。
「この歳で崖から落ちたら
さすがに笑い話になるな」
すると
不思議なことが起きる。
怖さが半分になる。
そしてもう一歩進める。
フランクルは、気づいた。
「意味は考えて
見つかるものじゃない」
「歩いたあとに後ろから
ニヤニヤついてくる」
「それが人生の意味だ」
……
阿闍世よ。
君の人生も
同じかもしれない。
「少しは俺の苦しみ
分かってくれよ」
そう思うよな。
でも、その視線が
君自身を石化させている。
フランクルなら
きっとこう言う。
「僕から見れば…
君の部屋から一歩出るくらい
軽いジョークだよ」
「父さんと風呂でも入って
こう言えばいい」
「背中、洗おうか?」
その瞬間、何かが変わる。
父が理解しなくてもいい。
阿闍世が言った瞬間、
メデューサの視線は
ただの鏡になる。
砂時計の砂は落ち続けている。
でも、君の栄光のハイライトは
まだ積もっている。
今、選べ。
石のまま部屋にいるか。
それとも
八十歳のフランクルみたいに
「よし、今日も一歩、
宇宙のジョークに
付き合ってやるか」
と笑うか。
答えは
簡単だ。
この画面を閉じたあと
君が最初に
何をするかで決まる。
(フランクルは、たぶん
ニヤニヤしながら
君を見てるよ)
■最終話
王舎城の「ぬりかべ」が
笑った朝
外では朝日が障子を
薄く照らし始めていた。
スマホの画面は
いつの間にか
暗くなっている。
通知も止まっている。
阿闍世は黒い画面を見つめ、
ぽつりと言った。
「なんかメデューサって……」
「ほんまは人を石にする
怪物じゃのうて、
石になっとった
本人なんじゃな」
旅人は静かにうなずいた。
そのときだった。
縁側の外で、妙な声がした。
「ぬりー……」
庭の端に、
白い壁みたいなものが
ぬぼーっと立っている。
顔がある。
目が二つ、口が一つ。
間の抜けた、どこか眠そうな顔。
阿闍世は思わず声を上げた。
「なんじゃ、あれ……!」
旅人は腹を抱えて
笑いながら言った。
「人生の行き止まりに、
よく出る妖怪じゃ。
ぬりかべって言うんよ」
ぬりかべは
のっそり首を傾げ、
眠たげな声で言った。
「ぬりー……
邪魔すんなよぉ……」
「25年もここに立たされて、
足も痺れてるんじゃ……」
阿闍世はポカンとした。
この白い壁。
毎日、父の頭を
ポカリポカリ叩きながら、
「少しは俺の苦しみ、
分かってくれよ」
と言っても、
父が目を逸らし、
ノートを忘れ、捨て、
何も変わらない
壁のように感じていたもの。
それが、
こんな間の抜けた顔の
妖怪だったなんて。
阿闍世は吹き出した。
最初は小さく。
次に、腹の底から。
「ははっ……なんじゃこれ……」
「25年も、こんなまぬけな壁に
止められとったんか……!」
ぬりかべはムッとした顔で、
ゆっくり横にずれた。
「ぬりかべぇ……
笑うなよぉ……」
その声があまりにも
間の抜けていて、
阿闍世は床に転がって笑った。
頻婆娑羅が布団の中で笑い、
韋提希は泣きながら笑い、
旅人も腹を抱えて笑う。
地獄の底で出る最初の笑いは、
たいていこんな
間抜けなもんじゃ。
ぬりかべは最後に、
ちょっと寂しそうな顔で
言った。
「ぬりー……お前ら、
ようやく気づいたか……」
「俺はただの壁じゃ。
お前が自分で作った壁じゃ……」
その言葉で、
笑いが止まった。
阿闍世の目から、
涙がこぼれた。
「わしもずっと、
石じゃった……」
「メデューサの視線で
自分を石にして、
このまぬけな
壁のせいにして……」
ぬりかべは
ゆっくり消えていきながら、
最後に小さく言った。
「ぬりかべぇ……
もう邪魔せんから、
もういい加減、行けよ……」
阿闍世は立ち上がった。
朝日が顔を照らす。
「母さん……歯医者、行くか」
韋提希は泣きながら笑う。
頻婆娑羅も布団の中で笑う。
旅人は朝日を見て、
静かに言った。
「世界はまだ
ミサイルの話をしとる」
「でもこの家では、
ただ一つのことが起きた」
「石が、人間に戻った」
阿闍世は最後に小さく笑った。
「なるほどな……
人生ってのは、怖い怪物に
止められとるんじゃない」
「ただの間抜けなぬりかべに、
ビビっとるだけなんじゃ」
そしてその朝――
阿闍世は、
もう一つのことに気づいた。
「自分を石にしていたのは、
メデューサじゃない」
「冗談を言えなくなった、
自分の心だった」
ぬりかべはもういない。
道は開いている。
砂はまだ落ちている。
でも君のハイライトは、
まだ積もっている。
今、笑ってみろ。
その笑いが、
次の光になるよ。
❥終わりに寄せて
Z世代の君へ。
世界は今わりとヤバい。
ミサイル。
戦争。
AI兵器。
ニュースを見とったら
人類終わるんじゃないか
と思う日もある。
でもな。
でも石には弱点がある。
「朝日じゃ」
朝になると、
石はちょっと温まる。
その瞬間、ほんの一ミリ
動けばええ。
本当に怖いのは
メデューサじゃない。
「石になったまま
動かんと決めることじゃ」
君が今日、
ほんの一ミリ動けば
その一ミリぶん
石は人に戻る。
王舎城の物語は
そこで終わるんじゃない。
そこから始まるんよ。




