第86話 風雨の混迷に誇り高く在れ
男子の本懐とは何か。それは愛する者を護り、意義ある仕事を為し、己という人間がこの世界に存在することを高らかに謳い上げることではあるまいか。
「私は……今のところいい調子である!」
ルーカス・ユリハルシラは目を開けるのも困難な風雨の中に宣言し、鼻から色々を吸ってしまって激しくむせた。よろめいて手を伸ばすも、それは虚空を掴むばかりで、危うく転げそうになった。両脚でふんばる。場所が場所だ。仮設砦の見張り台である。外側へ落ちれば助からないかもしれない。
「……か! 若! 何をやってるんですか! 中にお入りください!」
「おお、卿も見張るか? 独りでは寂しかったところだ!」
賑やかな自然の音響を掻き分けるようにして叫び、やって来たのは、この砦におけるルーカスの副官である。若くして優秀な男であり、ユリハルシラ領軍重騎兵隊の中でも強者十指の内に入る。ルーカスとは他人ということもなく、又従兄だ。年中行事以外には面識もなかったが。
「ところで、今、馬鹿って言わなかったか?」
「何を馬鹿な! そして馬鹿なことはお止めください! この天候で砦を攻める馬鹿などおりましょうか!」
「ず、随分と馬鹿馬鹿言うのだな……しかし、悪天候ゆえに安全という考えはどうかな!」
「お考えには確かにその通りと申し上げておきましょう。しかし見えるのですか? この雨風でどこまで遠くを見えているのですか? 足元も怪しかろうと言わざるを得ません。そもそも斥候は複数騎放っているのです。信じて待つのも指揮官の仕事ですよ!」
「むぅ……それはそうだな。とても納得した」
「それは何よりです。しかしもう一つ申し上げねばなりません。病気にならないことも仕事ですよ! まったく、いい歳をして!」
首根っこを掴まれるようにして、ルーカスは補強扉の内側へと戻ったものである。仮設とはいえ砦の中は途端に温く、息が漏れた。冬の風はどれだけ人に緊張を強いているものか。そしてルーカスは北へと思いを馳せるのだ。姉は息災だろうか。義兄は元気だろうか。小さな甥っ子は暖かにしているだろうか、と。
会いたいが会える状況ではない。王国内乱は出口の見えない混戦の様相を呈してきていた。
南部勢力は盟主をアハマニエミ侯からマルガレータ王女へと交代した。建前はともかく、実質的には王族が大貴族を率いて北部全体へと宣戦を布告した形である。弓張原会戦の勝敗はおろか会戦に先立ち結ばれた協定の類の一切も無効であるとし、新王クリスティアンの即位式を執り行うべく王都への道を清めよと各地へ檄文を放っている。そしてそれは思わぬ形で戦火の拡大を招いた。
南部各地で義勇軍が組織されたのである。それは民が鋤鍬から槍に持ち替えたというような類ではない。軍組織として人員も装備も充実したものであることがすぐにわかった。軍が湧いたとすら感じられる現象は、二つの要因をもってその理由を説明することができる。
一つに、マルガレータだ。
長く貧民救済事業に力を入れてきた彼女は、王国の民に広く慕われている。彼女率いる騎兵集団の凶行を思えばその声望など地に落ちそうなものだが、南部においてそれは北部側の自作自演行為として流布されているらしい。むしろ北部はそうまでもしても南部を徹底的に攻め立てるつもりなのだと悪し様に言われている。その夜の当事者たるルーカスは、憤ることを超えてしまって、ただ恐ろしく思ったものだ。真実とは無力である。人は見たいものを見て生きるものらしい。魅力的な偶像が用意されたならば尚更なのだろう。
それを演出し、多額の資金を援助した存在がある。二つ目の要因であるところの教会だ。今やマルガレータは神聖な使命を帯びた英雄のようにして扱われている。それは南部で急速に流行りはじめた歌を聞けば明らかだ。
おお、彼女の目を見よ。
決然として困難に立ち向かう者の勇気の眼差しを。
暗黒の嵐は吹き荒れて、聖なる王女は臥せり隠れた。
勇敢なる戦士が必要なのだ。
おお、彼女の目を見よ。
荘厳にして信仰に身を捧ぐ者の光輝の眼差しを。
暗黒の嵐は吹き荒れて、無辜の民衆は凍え怯えた。
正統の新王が必要なのだ。
いざ立ち上がれ、勇気を胸に英雄の壮挙へ参加するのだ。
いざ立ち向かえ、正義を胸に暴虐の賊徒を駆逐するのだ。
この素晴らしき世界のために。この美しき世界のために。
行軍歌にしては哀愁があり、賛美歌にしては暴力的なそれは、つまるところマルガレータを英雄とするための扇動歌であるとルーカスは考える。教会で奏でられているのだから教会の製作なのだろう。マルガレータを悲劇の王女将軍として讃え、南部の民に決起することを促しているのだ。
「……ふん、可愛らしいユリウスを祝福しないで、何が正義か!」
「何です、若、藪から棒に。さっさとお召し物を着替えてください。甲冑も自分で拭くのですよ?」
「わかっているとも。それより湯の用意を。そろそろ雨中を駆けた者たちが戻るはずだ」
「それは……飲むので?」
「馬鹿な、冷えた体を拭わせるためだ。口に入れるほうは酒と肉を用意してあるだろう。暖炉の火も薪を多めにな」
「御見それいたしました。その通りに差配しましょう」
駆け去る副官の背を見送って、ルーカスは鼻息一つ、身支度を急いだ。ユリハルシラ領とカリサルミ領との西の境を警戒するこの仮設砦は、この冬、攻撃拠点であり防御拠点でもある。東龍河東岸から弓張原を経てこの砦へと至る戦線は小規模戦闘の頻発するところとなっているからだ。
少ないところでは一班数騎の斥候同士が、多いところでも一個中隊二百五十人程度が方々で小競り合いを繰り返している。その戦場は時にユリハルシラ領内であり、時にカリサルミ領内である。大軍の駐屯する弓張原においてはむしろそれは少なく、ルーカスが雨中にも目を光らせるこの西境において遭遇戦は盛況だ。双方とも踏み込みは浅く被害は少ないが、出撃頻度は高いからとても忙しい。
瀬踏みと見るべきか。それともそれ自体が目的と見るべきなのか。
いずれにせよこの砦付近においても兵馬の移動は日常の風景と化した。把握している最大数の脅威としては領境南側に駐屯するカリサルミ領軍三千がそれであり、やや東に逸れてエテラマキ領軍二千にも注意を払っている。砦にはユリハルシラ領軍四千五百が駐屯しているし、東の太賀丘陵の辺りでは剣角騎士団が警戒している。正規の兵数としては北部が優勢のようにも思えるが、しかしそこへ南部義勇軍が加わるから難しくなる。
義勇軍の練度はそこそこに高い。伝え聞いた弓張原会戦における南部領軍の有り様を思えば、どうしてその兵力を会戦の場に投入しなかったのかと疑問に思うほどだ。そしてその理由は単純明快である。傭兵だからだ。義勇軍という体裁で幾つも誕生した小規模軍は、そのことごとくが中核に傭兵の存在がある。会戦の事前協定ではその利用を禁止されたところの戦力だ。
そこにも教会の影響がある。三年間の経済封鎖で財政の疲弊している南部にとって、大規模の傭兵雇い入れなどかくも早急になし得ることではない。その費用を負担したのも教会であろうし、そもそもこれほどの数の傭兵団が王国に駐留していたとは考えにくいから、人員についても教会の影響が疑われる。聖杯島経由の人員輸送だ。まだ疑惑だが、エベリア帝国から相当数の傭兵が流入している恐れがある。
「ふん、何をか恐れるものか。正義は、我に、あり!」
甲冑を力強く拭いながら、ルーカスは鼻息も荒く独り宣言する。
「我が領民を、襲っておいて、何が悲劇か! 王位継承について、文句があるなら!」
十分に水気を払いきって、断言する。
「国王存命の内に言えばよかったのだ! そもそも継承権を放棄したならば政治の舞台から勇退すべし。声だけ大きな王族など治世の邪魔でしかないぞ。全く」
お前もそう思うだろ、と甲冑に話しかけて、ルーカスはうむと頷いた。己の誇りに自問自答し、納得したからだ。少年の頃には剣にこそ誇りが宿ると思っていた。今は違う。甲冑だ。勇気を体現し命を守護する鎧にこそ己の誇りを託している。どんなにか気高く戦ったところで命を投げ出してしまっては後に悲しみを残すのだと知ったからだ。
ダニエル・ハッキネンという尊敬すべき義兄が、身をもってそれをルーカスに教えてくれた。
帝国軍との雌雄を決する大会戦において義兄はユリハルシラ領軍を率いて敵軍を崩した。父クラウスの名代として、その大任を雄々しく果たしたのだ。しかし戦場の死神がその鎌の先に義兄を引っ掛けた。敗軍の死兵に襲われたのだ。目撃した者は義兄の死を確信したという。槍を打ち払われ、無防備となった胸に敵の槍が突き立てられた。十分に致命傷であったし、落馬したならば馬蹄に踏み砕かれてもいただろう。
しかし、義兄は馬上に踏みとどまった。槍を捨て、鞍に掴まり、馬に拍車を当てて命運を引き伸ばしたのだ。それを敵に背を向ける行為と見たものはいなかった。必死と言うべきか、それとも決死と言うべきか……為す術もなく死へ落ちんとしたその瞬間に、義兄は生の岸へと全身全霊の跳躍を決行したのだ。
そして生還した。だからこそ最愛の姉アマリアは幸せな結婚ができた。あの愛くるしきユリウスがこの世に生まれてきてくれた。全ては生への執着が招いた幸福だ。義兄が生きていてこそのものだ。
「よぉし……うむうむぅ……いよぉし!」
その身に鋼の甲冑を鎧ったならば、たちまちの内に心が高揚してくる。騎士の魂とでも言うべきものが胸を高鳴らせる。戦外套も新たにして階下の詰め所へ降りたならば、ユリハルシラ領軍の精兵たちが思い思いに寛いでいる。どの顔にも静かな闘志が見受けられるように思う。
「諸卿、雨の見張り台に上がる時は心せよ。存外に濡れる。甲冑は脱いでいったほうがいいようだ」
堂々と報告したならば、そりゃあそうですよと笑い声が連続した。
「ふぅむ、誰もが経験したことであったか。しかし今この時からは私も卿らと同様の経験者だぞ。この砦にあと半年もいればどれだけの経験を積めるものか……不謹慎かもしれないが、私は楽しみだ」
そう言って、ルーカスは脳裏に一人の英雄の姿を思い浮かべた。己の同年齢にも関わらず、義兄も父も誰も彼も匹敵することの叶わない男……龍将軍マルコ・ハハトを。
ルーカスは彼をよく知らない。面識はあるし、その活躍のほども驚嘆する思いで聞き知っている。しかし彼という人物の全体像を把握するには至っていないと感じていた。底が知れないと言えばそれまでだが、もとより他人の全てを理解できるはずもなし、ルーカスが気に掛かるのはそこではない。
本音が見えないのだ。
義兄が馬上の会話で垣間見せたように、父が書斎に篭る姿で示していたように、人は誰しもその身の根幹のところに情熱を抱えていてそれを隠し切れるものではない。何かの折に、ふとした隙に、周囲へその魂の光彩を煌かせて生きていくのだ。伝えようとして伝えるものではない。零れ見えて察せられるものだ。その輝きは強い意志があれば強く、大きな使命があれば大きく光る。
そう考えるルーカスだから、マルコ・ハハトがわからない。輝いてはいるのかもしれない。強くも大きくもあるのかもしれない。しかしそれらは整い過ぎて、ルーカスには光として感じられないのだ。本音本気の光とはもっと切実さがあるはずだから。
「私にはまだ見えないだけなのか……それとも、隠されているものか……」
不信感があるわけではない。彼の活躍なしには王国の存続すら危ういとルーカスは考えている。しかし、だからこそ不思議だった。そこまでの影響力を持つ人物が、本当の思いを、情熱を発揮しきらないままにかくも活躍できるものなのだろうか。あるいは全力を出し切ることは大局において美徳ではないのだろうか。
「また若は、そんなところでご立派に立ち尽くしてしまって、どうしたのですか」
「おお、湯は用意できたか? 少し私も使いたい。手拭い一絞りで事足りるのだが」
「ほら、言わんこっちゃないですよ。体の内側からも温めますか?」
「酒はいらない。それには及ばない。ただ顔を拭いたくなったのだ。卿の言う立派な顔をしていたら少し引き攣った。私にはまだ早かったらしい」
「寒かったからですよ。すぐにお持ちします」
再び副官を見送って、ルーカスは詰め所の壁際まで歩を進めた。板窓を僅かに上げて外の様子を窺う。風は強く雨も横殴りだ。この季節にしては珍しい天候のように思う。大気の乱れは人の世の乱れに原因のあるものだろうか。内乱という見苦しい争いを止めよ、疾く鎮まれと、神が雨を矢のようにして国を射ってでもいるのだろうか。
「ふん、神ならば大きく世界を見て欲しいものだ。大らかに人を見届けてほしいものだ。全くな」
板窓を閉める。勇ましき男たちと共に斥候の帰ることを待つ。勇猛なるかな、ユリハルシラ領軍よと心中に歌う。だいたい説教くさいのだ、南部の流行歌は……ルーカスは獰猛な気分になって頬を歪めた。戦時の歌とはもっと勇壮であればいい。堂々と戦うために。終わりの頃には悲壮に歌えばいい。粛々と戦を止めるために。中途半端な理屈はどこか汚らわしいとすらルーカスは思うのだ。
ルーカスは素朴に思う。ユリウスの頬をつんつんとしたいと。
だからルーカスは迷うことなく戦う。ここにユリハルシラ家の嫡子として働くのだ。本懐だった。
「ほら、手拭いです。顔が引き攣っていますよ?」
「何を馬鹿な、これは笑っているのだ。しかし手拭いをありがとう。とても気持ちいい」
顔を拭う。まだまだ戦い続けることができる。ルーカスの戦意は未だ衰えるところがなかった。




