第85話 僕らの手を巡ったひと巻きを
「……というわけで、そりゃもう素晴らしい夕食を御馳走になってしまいましたよ。畏れ多いやら恐ろしいやらで緊張もしましたけど、美味しさってある種の魔法みたいで、舌も弾めば心も躍るという幸せな時間でした。変な言い方ですけど、お店出したら大繁盛間違いなしですよ」
元の商売柄だろうか、それとも人柄ゆえのものか、ラウリの語り口調には人を惹きつけ楽しませるところがある。ダニエルは何度目とも知れない笑い声を上げた。茶を共にしているもう一人も嬉しそうに笑っている。彼にしてもラウリの土産話には期待していたのだろうと思い、ダニエルはまた別種の笑みを重ねた。
その人物……年齢にしてクラウス・ユリハルシラを三歳も上回るのだから老人と言うべきか……しかし若者風の衣服をまとってそれがとてもよく似合う彼は、名をヘンリッキという。故あって素性を隠す身の上だが、現状においてはダニエルの重要な仕事仲間だ。そしておしゃべり好きである。
「そんなに美味しかったのかい。俄然誘われちゃうね。羨ましいったらないね」
「ええ、あれじゃヤルッコ隊長がちょっぴり太ってたのも頷けます。勿論のこと、絶品練麺食べ放題ですし、色々な食べ方もありますし」
「ヤルッコ隊長かぁ……私も会ってみたいね。以前の戦争も戦い抜いているのでしょ? 戦士と漬物はよく似ていてね、上手に漬かって熟成されたなら豊饒な旨味を楽しませてくれるものだよ」
「旨味ですかぁ……確かに、食べ出がありそうなお腹をしてたかもです」
ヘンリッキもラウリも身振り手振りで賑やかだ。放っておけば延々と盛り上がり続けることをダニエルは知っている。その勢いのままに仕事ができることも。
「もとよりあの人相風体だ。肉がつけば更にドワーフだろうな」
「そう! 本当にそうなんです。ちょっとありがたい気分にもなりましたよ。何だか一緒に天境山脈で採掘でもしているような……小人のパポロと岩掘りのペリス・オルドムって知ってます?」
「地下世界の寓話だな。小石も積めば山脈となる……地道な努力の大切さを説くものだ」
「私も知っているけれど……うん? 絵面を思い浮かべればいいのかい?」
「そうですそうです。いやまあ、この場合はパポロたる私も髭なんですけどね? 絵物語にしたところで客層が絞られるというか、随分とむさ苦しい鉱山労働物語になっちゃいますけども」
そのおどけ方があんまり愉快だったから、笑い方も少々度を越し、ダニエルは咳き込んでしまった。苦しさを抑えつけて息を吸う。浅く、静かに、少しずつ胸に新鮮な空気を巡らせていく。胸一杯には程遠い物足りなさをもって入れることを止め、ゆっくりと音もなく息を吐いていく。
ダニエルにとって今や必需のものとなった呼吸法だ。これをせずには動くことができず、これをしたところで戦うことはおろか走ることもできない。階段の昇り降りにすら気を使う体である。戦傷でダニエルが失ったものは大きく、二度と再び元の健康を取り戻すことはない。
しかし、それがどうしたというのか。ダニエルはヤルッコの不機嫌顔を思い、次いで凛々しきジキルローザを思い、そして最後には神秘のマルコを思った。ドワーフのような老兵とダークエルフのような副官を従えて、若き英雄はこの時代を力強く動かしている。その様はどこまでも尊い。ダニエルは胸を押さえた。あの死地に槍を胸に受けた時、夢中で掻き抱いたものがある。壮大なる幻炎だ。それは今もダニエルの内側で火勢を増し続けている。どんな困難をも乗り越える勇気を与えてくれる。
慌てているラウリに大丈夫であると目線や仕草で伝え、息を整えることしばし、ダニエルは目元に浮かんだ涙を指先で払った。笑顔でもって言う。
「私はラウリの言に預言の神秘を思うよ。教会の祝福を得られない我らだが、良き幻想には恵まれているのだと気付かされた。マルコの事業が遠い未来に歴史として語られる時、それは我らの知るそれのように聖なる文言に飾られるのではなくて、寓話に近いものとなるのかもしれない」
そう、まるで白狼君のように……言葉には出さずとも確信を胸にして、ダニエルは窓を見やった。
この談話室は南に大きく窓が開けている。正午前の太陽は惜しみなく世界を照らしていて、日差し除けが張り出していなければ室内でも眩しいくらいだが、肌に触れる大気には北方特有の冷たさがある。それがむしろ嬉しい。館の真新しさもあってか、全てが清新な色合いに輝いているようにダニエルには感じられた。
何しろ、町すらが新しいのだ。
ここはサルマント伯爵領とペテリウス伯爵領の境にして前線砦にも近い位置であり、ペテリウス領復興の三年間によって誕生した新町である。北部支流から北側に向かって強化された流通経路が集中しており、北部全体の街道整備の効果とも相まって急速な発展を見せている。物流拠点としての重要性は各領都よりも優っているから、いずれは大町と呼ばれるまでに至るだろう。
そして、北部一侯三伯および龍将軍よりこの町の運営をば任されている人物こそがダニエルなのだ。やるべきことは多く、責任の重大さはこれまでに経験のないほどのものだ。ラウリとヘンリッキの協力は必要不可欠である。むしろ実務的には両名の活躍する部分が大きい。運営責任者の業務としては署名捺印や挨拶回りが多いが、それはしかしダニエルに馴染み深いものだ。ハッキネン護衛団時代と変わらない役どころである。
「良き幻想、とは言い得て妙だね。まさに人類は幻想を共有することでもって大陸を生きているのだよ」
ヘンリッキがニヤリと笑って言う。その眦は吊り上がっていて、ダニエルは早くも苦笑を漏らしたものだ。この老人は夢中になるとその顔つきになる。彼は他に類を見ない分野を長く研究しており、何かしらの切っ掛けを得たならば、時と場合を選ばずにその内容を語りだす癖があった。
「言葉が実際は記号でしかないように、人と人との間柄も本当は虚ろなものだけれど、そこに人は夢を見るから人間関係が生じ、社会が形成され、文化が育まれるのだね。幻想とは人の力だ。何もかもに影響する力だ。大陸には領境なんて線は引かれていなくとも、人はまるで透明な壁のようにそれを想像し、実際に区切られているものとして認識することができる。海の向こうも山の向こうも誰も知らないというのに、ここだけここのみをもって神聖なる世界だと認識することができる。全て幻想のなせる業だね。認識に影響する力だね。素晴らしい。うん、素晴らしいね!」
これも自問自答というものか、膝を叩きなどしてヘンリッキは興奮している。ダニエルはラウリを見た。ラウリもまたダニエルへと顔を向けたところであった。二人して茶杯へと手を伸ばした。
「多数が信ずるところとなった幻想は世界を変える。人類に共通するところの主流幻想……教会の大いなる事業……それは人が生み出したが故に強く人を支配するだろう。使われ方次第では翼とも鎖ともなるけれど……今世界には新しい幻想が生まれている。果たしてどちらが時代の主役となるものか……いや、混ざるのかもしれない……けれどそのためには……」
老人の熱心な呟きを聞きつつ、ダニエルは再び窓へと視線を放った。マルコはどこにいるだろうかと思う。南東の弓張原には北部の大軍が居座っているが、そこにいるのは一侯三伯であってマルコではない。東、今や最後方地であるところのヘルレヴィ領にはパウリーナ、ヴィルマ、ヤルッコがいるが、マルコが後方へ下がる暇などあるわけもない。マルヤランタ侯の詰問を受けたと聞くが、そのまま王都に留まっているはずもない。近くの町には第三王女親衛団が駐屯しているが、そこにいるのはアクセリとオイヴァ、そしてエルヴィでしかない。そこにもマルコはいない。どこにもいない。
火撃の騎兵団はユリハルシラ領のいずこかへ潜伏していて、その所在はダニエルらにすら知らされていないのだ。マルコ、クスター、ジキルローザが一つ所にいるかどうかすら不明だ。あるいはベルトランならば知っているのだろうかと思う。内乱の最前線では闇の中に虚々実々の駆け引きが行われている。マルコは勝利以上の何かを求めている。
「そういえば第二王女の声明が発表されたね」
その言葉がヘンリッキから発せられたから、ダニエルはギョッとしてしまった。弓張原会戦後の混乱を雷雲とするならば、そこから轟くようにして北部陣営へ叩きつけられた書状……即ち第ニ王女マルガレータによる挑発的な降伏勧告状である。この三人茶会の場で出すべき話題ではあった。しかし、他の誰でもなく、ヘンリッキへの配慮が必要だと考えていたのだ。
「書状に曰く、王国の貴き血にも清濁あり。かかる混乱の世を招きたるはかつても今も濁りの血にして王国貴族の汚点たるヒルトゥラ家、帝国に降り異端を信仰するおぞましき血統なり。王位継承順位の上位下位は清き流れの中に決定されるものなれば、北部の主張する正統には一切の価値が無く、それを認めることを前提とした協議には王権の威も無し。恐懼し国土に身を投げ出すべし。汝らはアスリア王国を乱す賊徒である……うん、凄い論調だね。私はいつの間にやら異端信仰者でもあったというのだから。きっとあの子は教会の援助を受けているのだろうね」
怒らず、呆れず、少々の驚きと強い好奇心とをもって老人は語っている。ダニエルはそこにヘンリッキという人物の凄味を見た。ラウリもまた目を見開いている。
彼の名に、彼が世間一般に隠匿しているところの家名を連ねたならば……ヘンリッキ・ヒルトゥラ。
かつてのヒルトゥラ伯爵であり、今は亡き国王ヴィルヘルムに娘を嫁がせた身であり、第三王女パウリーナの祖父である。地位も名誉も何もかもを失い、クラウス・ユリハルシラの密かな援助を受けて紫雲海沿いの寒村に隠れ住んでいた。彼を匿うことは王命であったという。
「他にも、小さなマルガレータはまるで英雄のようにして南部の正義を主張しているね。どこかで聞いたような言葉が並んでいて、それはとても上手に組み立てられているけれど、それが故に作り物めいているよ。あの子は自分の正義は確信していても、南部の正当性についてはあまり考えていないのじゃないかな? もしかしたら内乱の結末に興味がないのかもしれない。それは不思議だね。こうも好戦的な論調なのにね。何でだろう……ふぅむ……むむ……」
誰に対してというでもなく話し続け、ふんふんと頷き、今度は長考に入った。捉えきれない言葉の連続は何度体験しても衝撃的で、ダニエルは出来得る限りの深呼吸をするのだった。何か途方に暮れてしまうのだ。奇才とはこういうものなのだろうかと思う。
「……パウリーナ王女殿下は、祖父似なんですかね?」
「三代に渡って食べ物に特技があることは確かだな。王女殿下は練麺、ハンナマリ様は焼き菓子、そしてヘンリッキ殿は保存食……何故だろう、まとまるようでまとまらない気もする」
「あ、小皿焼きを食べたのですか?」
「先日、妻が持ち帰ってきたのだ。香ばしく味わい深い逸品だった」
パウリーナの母にしてヘンリッキの娘であるところのハンナマリは、国王の喪に服す期間こそ王都に居続けたものの、今年に入ってこの新町へとやってきた。老父ヘンリッキの館で何年振りとも知れない親子暮らしをしているのだ。行政に参加するわけではないのでダニエルはあまり面識もないが、お茶会を好むらしく、王都でも交流があったというアマリアが足しげく通っている。
「やあ、何だかまた食べたくなってきました。小皿焼き。通りで買って帰ろうかな」
「もう少し待てばいい。今もヘンリッキ殿と入れ替わりのようにして館へ伺っているのだ。今日は違う具材の入ったものを頂くのだと言っていたから、恐らくまた持ち帰ってくるだろう」
「あ、道理で……実はさっきから気になってたんですよ」
ラウリはそう言うなり俄かに落ち着のない素振りを始めた。
「妻に何か用事だろうか」
「用事というか……どうせならハッキネン家お揃いのところでと思ってまして」
「それはどういう……どうしてそう身をくねらせるのだ? 厠なら……」
「違いますって。厠と違いますって。ああ、もう、気になり出すと駄目ですね! もともとこういうの我慢できない性質なんですよ、私」
いよいよ挙動不審になってきたラウリの様子に、ヘンリッキすらも思考の旅から戻ってきたようだ。そして彼の視線を追うことでダニエルもまたそれに気づいた。ラウリの鞄である。この茶会の間中、どういうわけか膝に抱えていたものだ。そわそわと奇怪な動きを繰り返すラウリだが、両手だけはしきりに鞄を撫でて他へ動くことがない。
「うん? 巻物かな? マルコ殿からかい?」
「わあっ!? ヘンリッキ殿、いつの間に正気に戻ってたんです!」
「封はされていないようだけれど、巻き紐が妙に豪華だね。羊皮紙の質も良さそうだ。装丁することを前提としているね?」
「どど、どうしてちょっと見ただけでそうもわかるんですか? それに、別に、装丁するもしないも私が決めることじゃないですけどもっ」
またじゃれ合いを始めた二人を見れば笑みも浮かぶ。ダニエルはしばし見物した後、その巻物を見せてくれるよう求めた。マルコからのものならば寸時も置かず読みたいというのが本音である。ラウリはラウリで早く見せたいという衝動を持て余していたようだ。
「しょうがないですねぇ……本当は“三人”揃ったところで披露したかったんですけど」
満面の笑顔で差し出されたその巻物を受け取り、茶卓の上に広げてみたならば……それはダニエルを絶句させる代物であった。呼吸すら忘れ、瞬きも止まって、見入る。見入らないではいられない。
何種類もの筆跡が個性豊かに並んでいた。いや、躍っていたと言うべきか。
最初に目に入ったのはやはりマルコの字だ。彼の字は無駄なくきっちりと整頓されたように並ぶ。その隣で乱暴に書き殴ったような字はクスターだ。所々字が間違っているのだがそれを気にさせない勢いがある。逆の隣には古風で独特な字体が短く書かれている。ジキルローザだ。彼女の字を見るのは初めてだった。三人の文字の下にエルヴィの字もある。読みやすさではマルコのそれに似ているが、端々に可愛さのようなものが漂う筆跡だ。
アクセリは相変わらず洒脱な字を書くものだ。さりげない部分に彼特有の飾り気がある。オイヴァの字は豪快という言葉に尽きる。アクセリの隣なものだから、字というよりは絵にも見えるほどだ。愛嬌を感じさせるのは、馴染み深いラウリの字だ。数字に限って妙やたら商売っ気の抜けない字体になることをダニエルは知っている。
ヤルッコの筆跡には震えがあって、彼の年齢を感じさせる。羊皮紙のそこら辺りが少しでこぼことしているのは苦心の表れだろうか。ヴィルマの字は力強く迷いのない線でもって書かれている。やや筆圧が高いか。その隣には素朴ながら素通りできない迫力の字があって、それを書いた人物が誰かと知ればダニエルも思わず声が出た。パウリーナだ。易々と文を残してはならない人物である。
どれも、誰もが、文言こそ違えども同じ趣旨の短文を記し、記名で終えている。ダニエルは息がつまった。視界が涙でぼやけた。一方でこみ上げる楽しさがって、頬が震え引き攣る。
「これは凄いね。面白いね。私も参加したかったなぁ」
「まあ、今回は古馴染によるものってことで」
「うん、そうだね。どうせなら家名込みで書くべきだろうしねぇ」
「次の機会にはよろしくお願いします。そのためにも仕事を頑張らなくては!」
「うんうん、本当にそうだねぇ」
今春、ダニエルとアマリアの間に生まれた一人の赤子がいる。男の子だ。名前をユリウスという。
ダニエルは親となり、親とは子の健やかなることを願ってやまないのだと知った。出来得ることの全てをやろうと思ったものだ。産着一つ、入浴桶一つも熱心に用意した。幸せになってほしかった。惨めさから遠ざけたかった。しかし大きな制約が立ちはだかって、ダニエルはそれをどうしようもなかった。
教会からの祝福を受けられないのだ。
二年前、アマリアとの結婚についてはそれを得られた。状況がかくも差し迫っていなかったからだ。今となっては同じことが難しい。教会は北部への非難を具体的な行動で示してきている。マルコとパウリーナを貶める言説が聞こえてくる。そんな中にあっては、幼い我が子を教会に連れていくこともできない。仕方がないことではあるし、自らについてならば気にも留めやしない。ところが子については別の思いが胸に湧くのだ。親とは不便なものであると知った。それはあるいは弱さかもしれないと考えていたが。
しかし……ああ……このひと巻きは祝福だった。
どれも、誰もがユリウスに幸多きことを願っている。健やかなる成長を祈念している。輝ける未来を予言している。素晴らしい世界に生きていくのだと……そのために生まれてきたのだと書き記している。寿いでいる。この時代を代表するとダニエルが確信する人々が、未だ予断を許さない混乱の中で、ただユリウスのためだけに筆を取り巻物を巡らせたのだ。
「装丁、するとも……家宝だ……これは。他に……得難い」
訥々となりつつも言葉を発して、ダニエルはそのひと巻きに見入り続けた。
元気な泣き声が聞こえてきていた。新しい時代はこの王国北西の地から始まろうとしていた。




