第73話 命を解かれる者の悲しみを
男は夢幻にたゆたっていた。
幻が静かながら止め処なくやって来る様は、永遠に海を目指す大河のようで、沈黙を誘う。来し方を再びに味わう芳醇は繰り返す度に新しく心を動かし、己がどのような人間であったのかを教わり諭されるかのようで、言葉もない。追想もまた寄せては返す波のようなものだろうか……男はなす術もなく受け止めるばかりだった。
突如として大きな場面がやってきた。
血の色に染まる天地に戦士たちの怒号と悲鳴とが轟いている。地をどよめかす軍靴と馬蹄はその全てが迫り来るものだ。男は甲冑を着込んで馬上にあり、絶望と恐怖をひしひしと感じていた。
その時だ。味方の一騎が近寄ってくるなり、男の外套をむんずと掴んで剥ぎ取った。問答無用の振る舞いだった。更には十数騎へと声を掛けて敗北の波の最中へと駆け出さんとしている。男は待てと言った。
「止めてくださいますな。私は一人の弟として征くのです。兄に多くの責務を押し付け、兄から多くの財物を掠め取り、兄を褒めそやしながらも兄の権威の一切に敬意を払って来なかった弟ですが、これで他の誰よりも兄の幸せを願っておりましてな。この外套は最後の我儘として頂戴いたします。いい羽織り心地です、これは」
輝く笑顔を鉄の面覆いで隠してしまって、その騎士は駆け去っていく。敵を一撃した後に方向を転じたが、それは多くの敵を引き付けたようで、男へと迫る波は明らかに勢いを減じた。周囲が男を促し、男は馬首を転じて駆けた。弟を死地に残して駆けた。暮れなずむ赤色を背に夜へと向けて……敗戦の行禍原から逃げ去ったのだ。
それはまさに夜の始まりだった。そこから全てが失われていった。
敵の猛攻があちらこちらで味方を打ち砕いていく。村は焼かれ、町は奪われ、野には誇りの旗が踏み潰された。何人も何人も殺されていった。村人が、町人が、兵士が、騎士が、貴族が……剣と槍の暴虐に屠られた中には、男の妻子も含まれていた。それでも男は生き残った。死ぬことは許されていなかった。
「もうね、凄い勢いだからね。闇雲に兵をぶつけたところで逆効果というか……ちょっと奇策が必要だと思うんだよね。そうでもしないと時間を稼ぐこともできやしないよ」
負け疲れ逃げ汚れた天幕の中で男にそう語った者がいた。大貴族の内の一人であり、敵軍は次に彼の領地へと攻め込むものと見られていた。
「降伏してみようと思うんだ。ほら、剣の試合の時に見せたやつだよ。武器捨てて抱きついて、無下にできなくさせちゃうんだ。あちらもそろそろ拠点が欲しいところだろうし、そりゃもう歓待してさ……え? あはは、大丈夫大丈夫、名誉とか誇りとかって一番大切なものじゃないしね」
くすぐったそうに笑って、その大貴族は敵国へと頭を垂れに出向いた。屈辱の汚泥の中に這いつくばり、汚臭のするそれを啜るような行為だ。敵は彼を嗤い辱め、味方は彼を血眼になって罵った。真意を知るのは男と男の腹心がいるばかりだった。
「貴重なる時間を用いまして、戦力を整えました。寄せ集めですから勝てはしませんが、東西に広く遅滞戦術を展開しようと思います。更なる時間を稼げましょう」
その腹心が決然として言ったのは、男がいよいよ南へと逃げ行かんとする頃であった。若かりし頃からの主従関係で、共に学び共に戦ってきた。互いに家族の多くを失った身で、男には娘二人しか残らず、腹心には妻と娘一人しか残らなかった。心情も似ていた。家族を護りたいと願いつつもそれを口に出来ない立場だった。
「南部で反攻の軍を組織してください。国軍の再編成も勿論ですが、貴族の私兵を全て集め、民からも義勇兵を募ると良いでしょう。また、教会から内々に協力の打診が来ていますが、それはどうも奇跡の瑞光に関するもののようです。伝説に謳われる勇者の顕現があるのかもしれません。この期に及んでしまえば、そんな伝説すらが貴重です」
男には選択の余地がなかった。言われるがままに行動した。南部に苦心して国軍を再編し、貴族たちに覚悟を強いて、民の中の勇気を形振り構わずに糾合した。一つの朝夕がどれほどの献身と犠牲の元に得られたものかを理解していた。己の在ることがいかなる義務と責任によるものかを弁えていた。
そして奇跡が起きた。
「僕はこの国を救いたい。どんな敵もやっつけて、皆の笑顔を取り戻したい」
その青年と対面した時、男はそこに尋常ならざる何かを確信したものだ。彼が笑えば周囲も笑い、彼が悲しめば周囲もまた悲しむ。ただの一人にしてその場の最大多数であるかのように影響する在り様はおよそ人の尋常を超えていた。
「戦争はよくないことだと思います。悲しいことだと思います。けど、争わないと護れなくて、抗わないと踏みにじられるなら……もう戦わなくちゃ。僕は聖杯騎士団を率いて真っ先に駆けます。けど、僕だけじゃきっと勝てない。皆の力を貸してください。僕らならきっときっと勝てるはずです」
誰もが彼に心を奪われた。彼が戦うと言ったから奮い立ち、彼が勝利を約束したから勇み立った。特戦軍が編成される運びとなり、貴族たちが挙ってそれに参加を表明した。そんな様子を眺めやりながら、男は独り北へと思いを馳せていた。疾うに失った諸々があった。既に戦っている者たちがいた。奇跡とは悲惨の中に生じるものらしかった。
「勇者は強い。しかし若さとは危うさでもございます。私がそれを補いましょう」
古参の近衛騎士は男にそう話し、その言葉のままに働いた。事実、勇者の活躍は冒険的であり絵物語の如きものだった。勝てないだろう戦いに勝ち、戦えないだろう頻度で戦い、思いも寄らない危機に陥ったり思いがけず助かったりした。男は伝説に聞く神剣を連想した。それは持ち主の手を離れ自動的に敵を追うという。勇者の戦いは戦果こそ凄まじいものの、酔わぬ者に心労を強いるものだった。
酔った者たちはいよいよ狂喜し、大いに勇躍して敵へと挑みかかっていった。その猛烈さに男は目を見張ったものだ。戦争は激化した。戦線は後退から拮抗へ、拮抗から前進へと推移して、奪われた土地を取り戻す感動により反攻の勢いは増すばかりとなった。その猛勢の中心には勇者がいた。
だから、男は気付くのが遅れた。栄光と躍進の陰に隠れるようにして徹底した仕事をする一軍があった。義勇軍を中心としたその軍は戦争の混乱をそのままに結集したような在り様で、良く言えばしぶとく逞しい者たちの集団であり、悪く言えばあぶれ者の掃き溜めのようだった。
しかし強い。しかも安定していた。いかなる局面に投入されても失敗をしないのだ。戦場においては優勢であれ劣勢であれ攻防の要所で堅実な働きを見せ、後方においては輸送と補給の各種業務に貢献し、全ての任務を確実に遂行していく。危険に怯まず、戦果に拘らず、自軍の被害を最小限にして味方の損害を減じていく。その軍は勇者を筆頭とする軍勢の短所をよく補っていた。
それが皮肉にも、勇者の至らざるところを浮き彫りにしていく。
男は思う。勇者は良くも悪くも素朴で感情的な人物であった。そんな彼を取り巻く者たちに権力者や実力者が多く混じっていたことが、勇者の行動に強く影響していたに違いない。総じて好戦的であった。苦境にあってはそれが良い方向へ作用したものだが、戦線を押し戻す段にまでなると風向きが変わってくる。全体との連携を欠いた戦いが頻発し、局所の勝利が全体の損失に繋がることも幾度となく生じた。
華々しい勝利と輝かしい戦果を求める余裕が生まれたからだ。男はそこに幼さを見出す。戦争は名誉と言う名の果実を競い食む駆け比べではない。死者は己の屍の上を走る者を祝福したりはしない。敵も味方も個々別個に思惑をもって生きていて、勝者の栄誉のために用意された役者でも何でもない。
勇者は空回りをするようになっていって……そして初めて敗北した。敵の術中に嵌り、多くの貴族や聖騎士が命を落とした。その中には男の信頼する近衛騎士も含まれていて、勇者を逃すべく自らを犠牲にした戦いぶりは後に「勇者と三人の騎士」の一人として謳われることとなった。
男は勇者を諌めたいと思った。しかしできなかった。どんなにか言葉を選び、飾ったところで、勇者にとってそれは叱責であった。敗れ滅びかけていた者の増長であり、傲慢であり、不信心であった。勇者は意地になったらしかった。無謀が常のものとなり、無茶が必勝の手段か何かと勘違いされた。
そして、あの男が台頭する。陰の存在が表舞台に躍り出る。
サロモン。商人から義勇兵に志願した者は、戦いの中でハハトの家名を名乗る将軍へと成り上がった。そのことを非難した者は少ない。彼と彼の軍は必要不可欠の存在となっていたからだ。
その統率力は曲者揃いの軍を完全に統御して精鋭たらしめた。騎兵を重視し、戦ったならば驚くべき速度で敵軍を崩壊させる。勇者の軍が精彩を欠けば欠くほどに、評価を下げれば下げるほどに、サロモンの軍はまさに勇躍して戦果を積み重ねていった。男はそこに凄みを見出す。偶然が排されていた。幸運が当てにされていなかった。全ての無駄を省いて合理が貫かれていた。
サロモンは勇者の成功も失敗も受け止めていたように男は思う。あるいは見極めていたのかもしれない。しかし勇者の方はまるで逆に、サロモンのことも自らのことも見失っていったのではないだろうか。塞ぎこむようになり、信仰の絆で結ばれているはずの聖杯騎士団とも距離が生じてしまった。声の大きな貴族ばかりが多く周囲に残ることとなった。
男は勇者と話したいと願ったが、拒絶されてしまった。片やサロモンは男と会うことに興味がなかった。その差が何かを物語る。勝ちつつあるのにも関わらず、男は不安が増していくことを感じていた。
予感は当たる。
未曾有の大勝利は勇者の戦死を伴った。大規模作戦の一翼を担っていたはずの勇者は、聖杯騎士団とも離れ、ただ特戦軍のみを率いて突出した。それはいつにも増して乱暴な行動だった。そしてそれを助けられる位置にいた友軍は惜しくも間に合わず、敵は殲滅すれども勇者の救命は叶わなかった。
サロモンの軍だった。いかなる状況においても最善の結果を生んできた軍である。敵の主力を掃滅する大戦果を挙げた一方で、その初めての失敗として、勇者を死なせてしまったのだ。男はそこに歴史が歪む音を聞いたように思った。獣の悲鳴のようだったと記憶している。
戦争を終えるためにはサロモンの刑死が必要となった。
彼の功績は忘れ去られ、彼の罪と罰とが叫ばれた。貴族や教会、果ては実の娘からも糾弾の声が届いた。男は困惑した。誰も彼もが酔い狂っているように思えた。奇妙な熱気が渦を巻いていて息苦しかった。男は恐怖した。しかしそれは皆人も同様だったのかもしれない。誰もが誰かを怖がっていた。すんなりと平和な日常へと戻れる者はいなかった。余りにも強く吹き荒れた暴力の風……その中心にあって最も恐れられていたのがサロモンだったのかもしれない。
炎が立ち昇った。
王城の高きから男はそれを見た。とてつもないものに映った。一人の英雄を狂喜して焼き殺す狂気。一人一人の手にこびり付いた残虐を神の名の下に集約し、祝祭として歌い踊る惨忍と悪虐。男は心の底から恐れた。人の世の罪深きに慄いた。己の国の野蛮さに震えた。何よりも人心の荒廃に涙した。火刑の夜の風景に乾ききった荒野を幻視した。酷い世界だった。まったく酷い世界だった。
「願わくば、火の夜の明けたその先に、美しい風景の在らんことを」
サロモンが最後に呟いたとされるその言葉を、男は己の魂に刻み込んで忘れまいと誓った。鎖に巻かれ、煙火に巻かれた英雄の願いだった。身命も名誉も何もかもを差し出し、その全てを奪われ踏み躙られることを甘受した者の望みだった。醜悪でおぞましい風景の中に焼かれ、苦しみ、それでも恨み言ではなしに希望を口にしたというのならば……その者こそが真に勇気ある者であり、人間の奇跡だったのではないだろうか。男は畏れた。朝の風景の寒々しさに嗚咽を漏らした。
その時、男には三人の娘がいた。
上の二人は戦乱の中に生き延びた子であり、下の一人は戦後に生まれた子である。男は彼女らのためにも豊かさを創出しなければならなかった。それは長く険しい道程であった。清濁を選り好む余裕などなく、妥協が更なる妥協を生み忍耐が更なる忍耐を生んだ。荒野に人の営みを育むことは容易な戦いではなかったのだ。それでも男は己の責務から逃げなかった。いつか美しい眺望を得るその時まで休むわけにはいかなかった。
「その通り、休んでも憩うてもなりませぬ」
最後の妻となった女性は毅然として言い放ったものだ。末の子の母であり、敵国に降伏した大貴族の娘であるところの女性だ。他の誰よりも醒めた目で世界を見ていた。
「お前様の戦いは平時に久しく続くもの。安らぐことも躊躇うこともなく、存分に戦い抜かれることです。私はそれを見届けましょう。父に代わり、母に代わり、あの魔人にすら代わって、お前様とお前様の国の行く末を眺め続けましょう。託され担わされた仕事の成り行きを……その成否を見極めましょう」
男は思う。どうであったかと。どう見られ、どう評価されたかと。何故ならば彼の戦いは今まさに終わろうとしているからだ。繰り返される波の如き夢幻の意味とはそれだ。
命が尽きようとしているのだ。
男には既に四肢の感覚はおろか体の自覚などない。意識は夢現をたゆたうばかりで時間の経過もわかりはしない。ただ避けがたく戻りがたく命の費えようとする気配を察するのみだ。それでもなお気に掛かることがあって、それが男の意識を拡散させずに留めている。
火の色の旗は掲げられたのだろうか。
男の腹心が教えてくれた現実がある。荒野には人の生活が戻るも、そこには以前にない色が濃く混じっていて歪みを生じ、火の夜の明けた風景としては耐え難いほどに腐臭を発している。それを正す時間は男に残されておらず、また、正すよりも先に新たな戦乱が西より押し寄せてきた。男の仕事は無惨な結末を迎えようとしていた。
しかし男は知る。奇跡とはそんな時節に訪れるものであると。
火が再び現れた。今の風景に誰よりも憤るに違いない男が舞い戻ったという。火炎の中に黒色に終わったはずのあの男が、時を越え姿を変えて……まるで奇跡のようにして軍の先頭に再来し、新たな朝を迎えるべく働いているという。不思議極まるその話は慰めのための偽りではない。腹心の言葉には確かな熱があって動けぬ男をも暖めた。涙が溶けてこぼれた。久しく流していなかった。
ああ……彼の者が再び戦う様子を見たい。その旗の征く先を見たい。
男は希求しつつも、己にその資格がないこともまた弁えていた。彼は不充分な仕事を残して去り行く運命にあり、もはや美しい風景を目にする幸せなど得られはしない。誰に評されずともわかっていた。男は弱かったのである。大軍を率いてあの行禍原に大敗した日に判決は下っていたのだ。その後の日々は責務にしがみ付きつつそれに押し潰されないよう歯を食いしばるものでしかなかった。男は己の至らざるところを誰よりも知り、それを恥じ、それから逃げることも叶わずに生きてきたのだ。
それでも男は、最後に願わないではいられない。
彼の者に勝利を。新しい朝よ、美しく在れ。どうか。どうか。
熱さが感じられた。男はそれを涙であると自覚できたから、悲しさの内に一抹の喜びを持ち抱くことができた。冷たく乾いた己の体にも新しい火の一欠けらが宿っていた……そう確信できたから。
野に黄散花が咲く麗らかな春の日、遂にその時が訪れる。
アスリア王国国王ヴィルヘルム、崩御。
静かな静かな終わり方だった。しかしそれは時代をどよめかせ、内乱を過激化させた節目として歴史に刻まれる。朝は遠く、火熱は未だ鎮まる時を迎えていなかったのである。




