第72話 命を注がれる者の苦しみを
男は幻覚に苛まれていた。
幻が時の前後も天地の上下も整えず、無数の泡沫のようにして出現と消滅を繰り返していて、酔う。際限なく立ち現れる再現を、己の正体も何もかも判別のつかないままに見せ付けられていて、惑う。追憶というにはあまりにも膨大で、長く、強引なそれらは……どこか敗戦の光景にも似ていて憤ろしい。
敗戦。戦場における敗北。死地へ跳び込みそれを脱しようとする無謀。幾つもの命を支払ってなお開かない活路。皮膚を破られ、肉を削がれ、骨身を晒して……それでも抗い続けることを止めずに駆けた。戦った。戦い抜いた。恨むでもなく憎むでもなく、ただ己の無力を噛み締めて果てた。そういう最後を迎えたはずだ。男は自らの生をそう振り返り、今との違和を覚え、それをもって自分が何者であるかを知ろうと試みた。
思い出せなかった。男は己の名はおろか、見聞きしてきたはずの諸々を秩序だって思い返すこともできない。心に受けた印象だけが余韻のようにあるばかりだ。幾つかの顔が浮かぶ。しかしそれが実体験によるものなのか、強制された幻の中に見たものなのかすらわからない。全てが遠く、意味も価値も判別できない虚空に浮かんでいるかのようだった。
混乱の中、何かの拍子で瞼を開くことに成功した。薄暗い。石造りの荒い壁。低い天井。汚物と黴の臭いが冷気に混じる。男は地下牢を疑った。ここには死と退廃とが淀んでいるように思われた。仰向けに寝ているらしい自分は捕虜か犯罪者か、それとも死体か……男は他人事のように考える。体は動かない。目の前に手を移動させたつもりでも、視界に映るそれはない。実際は指一本動かせていないようだ。あるいは腕が透明なのかもしれない。投げやりにそんなことを思う。
「まさか、な」
声が出せた。口と舌とを動かせるのだ。思えば呼吸もしているわけで、やはり体は存在し、動けないまでも生きていると知れた。それが糸口になったものか、全身の動かし方がするりと思い出された。全体として重く、関節は軋むものの、手足は思うように動いて男を立ち上がらせた。体表をくすぐるのは布の感触だ。ゆったりとした貫頭衣を着ている。他は肌着も靴も何もない。
果たしてそこは牢獄であった。狭く薄汚れた一室である。暗い廊下に面した側は錆びた鉄格子が嵌っている。反対側の壁の天井に近い位置には、手も通らないほどの細い切れ目のような穴があって、青白い光が寒々しく差し込んでいる。石の寝台に寝ていたようだ。隅の壺は排便用か。
ものの試しにと鉄格子に手を掛けたなら、それには施錠などされておらず、見た目通りに金属の悲鳴を上げて開いた。男は背を屈めてそれをくぐる。同じような牢が幾つも連なっているようだ。暗闇の通路の先で僅かに灯火の明かりが漏れていて、小さく揺れ、細かく明滅している。
男はそこに向かって歩いていくより他にどうしようもなかった。何もかもがわからないことは、何もかもがわかっていることと同じで、迷いも不安も生ずる余地がない。誘われるでもなく招かれるでもなく、期待も何もかもないままに、ただそこへと進む。冷たく空虚な歩みだ。
狭く急勾配の階段を昇る。明かりは上からだ。突き当たりにボロボロの扉があり、その向こうに何かがあるに違いなかった。男は無造作に扉を開けた。躊躇う理由すらなかった。
火が燃えていた。暖炉だ。焼べられた薪は少なく、暖炉の大きさからすれば小さい火なのかもしれない。それでも光と熱を発していることには違いなく、男はそのどちらをも感じ取ることができた。灰の匂いも漂っていて、それは数瞬前まで呼吸していたものよりも好ましい。
「目覚めたのか……めでたいことだ」
陰気な声が呟かれて、男は火の前にある塊が人間であることに気付いた。この場の廃れた雰囲気そのものを纏うようにして、薄汚れた衣を重ね着した老人……いや、中年の頃か。肥えてはいるが活力に乏しく、食われることもなく老いた家畜のようだと男は思った。
「名乗れるか?」
問われても答えられるものではなかった。ただ首を横に振る。異様な眼光が向けられている。それは牢獄の通路に見た漏れ明かりにも似ていて、男にとって選択の余地のない唯一のものに感じられた。
「ギリーと名乗れ」
「……俺の名か」
「偽りて潜み、討つ者を意味する言葉だ。お前に相応しかろう」
火が増し、明るさも増して、男は“汚れ衣”が何者であるかを知った。首元に光る聖印を見たのだ。その意味するところは男にも理解できるものだった。
「教会の人間か」
「ほぅ、それはわかるのか。人の常識として根付く教団ということだな。おめでたい話だ」
めでたいとはどういう意味の言葉であったか……男が疑問を持ったところへと投げつけられたものがあった。反射的に手で捕らえて、それが白色の仮面であることに気付く。額、目、鼻までを覆う代物だ。
「半分は酸で焼いた。それでも着けんと人前に出られた顔ではない」
「……お前がやったのか」
「そうだ。死体との区別も難しい有り様だったお前を救ったのも私だ。司教様と呼べ」
言うなり、司教はのそりと動いて別の部屋へと向かった。男は仮面を改めて見下ろし、次いで頼りなげに揺れる火を見やって、そして後を追うことにした。自らの額を触り、その感触の歪さをもって仮面を着けることとする。着け心地は悪くなかった。
続きの部屋には粗末ながら木の卓があった。司教は棚や壺を行き来して何事か用意している。愛想もなく卓上へと置かれたのは食べ物のようだ。男はそれを見て自らの空腹に気付いた。喉も乾いている。しかしそれらを満たしたいという欲求は湧いて来なかった。
「食べろ。必要なものだ。お前を立ち上がらせただけで奇跡は終いよ。生きるには食うことと寝ることが欠かせん。覚えておくのだな」
「生きる……」
「呼吸をする者は生きる者だ。仕事もある。まずは食べろ。何度も言わせるな」
有無を言わさぬ物言いだが納得できるものを含んでいた。乾いたものを手で千切り、硬いものを噛み砕いて、青臭い水で腹へと流し込む。男はその作業を続けながらも司教を観察していた。卓の向かいに座るも自らは飲食をする様子がない。どこを見るでもなく黙り込んでいて、活気も生気も感じられず、食事の音に晒されているばかりだ。
「俺の仕事とは、何だ?」
一息ついたところで、男は問うた。自らの来歴については敢えて聞くまでもなかった。碌でもないに違いない。興味も湧かなかった。
「一人の男を殺すことだ。しかしそれは最終的な結果であって、そこへ至る前にも数百数千を殺さねばならんだろう。あるいは万を超えることもありうる。既に支払われた人数は数え切れんほどだ」
「……そこまでの価値がある男なのか」
「そうだ。あの男を殺すこととは、即ち、時代を殺すことよ」
大仰な言葉は疲れたような吐息とともに吐かれた。司教は大言をもって威圧するつもりなどなく、思う所をただ語ったようだ。男は俄かに奮い立つものがあった。司教の言葉通りならば随分と大きな仕事がこの生には用意されていることになる。我知らず喜びが胸に満ちた。
「手段は軍か」
「とりあえずはな。これから色々を確認していくが、お前には騎兵を駆る才があるはずだ。教会の擁する聖杯騎士団より百騎を与える。まずはこれと共に訓練することでお前の能力を確かめる」
「百騎で……あるいは万を殺せと?」
「早合点するな。拙速に殺せる男ではない。本当の戦いは何年も先のこととなろう」
「俺はそれまで生きられるのか」
「寿命はもつが、討たれて死ぬのならばそれまでだ。何も語らず、何も残さず、醜い首をのみ衆目に晒すこととなるだろう。私の手間を思えば目的を遂げた後に死ね。歴史にも名が残る」
男は腹の底から込み上げてくる衝動を覚えた。頬が引き攣り、喉が鳴り、堪え切れずそれを漏らした。笑ったのだ。笑えて仕方がなかったのだ。
打ち捨てられたかのような牢獄に閉じ込める労すら惜しまれ放置されて、目覚めたならば自らの名も正体も知らぬままに仮面の生を強いられて、その目的が無数の屍を踏み越えた先に稀有の唯一人を殺すことだという。夢現の頭にも染み渡るものがあった。判然としない魂にも轟き渡るものがあった。
「理不尽極まるな!」
吠えたならば、司教もまた答えた。
「……そうでないものをよく知らん、私は」
その言い方が拗ねているようにも聞こえて、男は再び笑う。荒廃と気鬱が支配するかのようなこの場にあって、狂気はむしろ望ましい活力だった。男は飲食物ではなしに理不尽を咀嚼して喜んでいるのだ。己の四肢に力が伝達していくことを感じていた。着慣れた衣服を手に入れた気分だった。
男は確信した。自らの生とは今も昔もこのような理不尽に塗れていたのだ。司教も言っている通り、世界とは大いに道理に合わず在り、人の不都合を当然のものとして動いている。弱き合理などありはしない。強き者が理の道を敷くのみだ。それが真実だ。
「俺は……お前の毒刃なのだな?」
確認したならば、暗い企みの双眸が頷く。
「そうだ。私はお前を用いて歴史に思いも寄らぬ一撃を施し、大いに笑ってから死ぬだろう。さもなくば、お前が作用する未来を確信して笑いながら殺される。いずれにせよ笑顔で命を終えるつもりだ。その意味では、私はお前に仕えるにも等しい。全身全霊をもって毒の刃を届かせてみせる。そのために生きて、そのために死ぬのだ。私も、お前も……一つの時代を道連れにしてな」
司教に悲壮感はなかった。ただ暗黒の情熱が沸々と滾っていた。何が彼をそこまで思い詰めさせたものか……男は未だ覚めやらぬ笑いの衝動を宥めつつ考えたが、人の心など己も含めて易々とわかるものでもなし、奇妙な親近感を覚えただけであった。破滅を望む熱意が心地良く伝わってくる。
遂に笑うことを止めて、男は決断を下した。何もかもがわからなくとも、大いに笑ったのならば、一つきりを思い定めることくらいはできるからだ。男は自らをギリーという名の刃であると承認した。愉快だった。狂い笑った余韻が手の五指にすら甘く残っていて、何かを握り、振るい、戦うことを欲していた。そういう人間であることは知れていた。ならば何をか躊躇うものか。
男は……ギリーは思う。恐らくは戦い破れて死ぬばかりだった自分である。命ぜられたならば殺し殺されることをしよう。その標的は巨大であるほどに喜ばしい。何事であれ馬鹿馬鹿しいのだ。精々大それた事であればいい。為した者が仮面であれ偽名であれ、出来事は歴史に刻まれるだろう。司教の言う通りだと思った。
「めでたい使命だな」
「そうだ。これはめでたい密事なのだ。望むのならば祝福の祈りを捧げよう。お前は聖騎士を率いつつも聖騎士として戦うことはない。戦争に参加したところで栄誉を手にすることはない。全てが偽りだからだ。真の目的を知るは私とお前のみだ。お前を祝福できる者は私を置いて他にいない」
「宜しく頼もう。これでも生まれ立ての心境だ」
跪いたならば、司教はその頭上に手を掲げるのだ。神秘の文言による祈りを瞑目の内に聞きながら、ギリーは己の生が始まる感触を楽しんでいた。つくづくそういう性分の人間らしかった。苦難も忍耐も生きる実感だった。それらに抗い、汲々として己の道を切り開いていく……それはきっと痛快だと信じた。
祈りは終わった。司教は大儀そうに椅子へと戻り、ギリーはそれを見送った。己の年齢も司教の年齢も定かではないが、今ここに生誕の活力を得た己と司教とでは老若の差があるように思われた。どうにもいじけたところが感じられるのだ。懊悩がべっとりと張り付いていて、常に彼を苛んでいるに違いない。それはギリーに哀れを誘った。
だからであろうか。ギリーは自分でも思いがけずその言葉を口にしたのである。
「ありがとう、親父殿。俺の生は充実したものになりそうだ」
反応は絶句だった。肉の付いた顔に目と鼻と口が間の抜けた丸々しさを表している。ギリーは愉快だった。喉奥に笑いを痙攣させていたならば、司教は咳払いなどして不愉快げな声を発したものである。
「私はお前とさして変わらぬ年齢だと思うが、まあ、名付け親ではある。いいだろう。私的には好きに呼ぶがいい。しかし公的には司教様、だ。間違っても……うむ……間違えるなよ?」
司教が忙しなく言い募る様子はギリーの笑みを誘うこと甚だしい。気付かれたものか、フンと鼻を鳴らして司教はそっぽを向いてしまった。八つ当たり気味に食事の片づけを始め、余るほどに力が漲ったものか、煎り豆が十数個も飛び散って床に落ちた。
「承知した。それで、そも親父殿は何という名なのだ?」
「……ヨアキム・ベックだ。聞き覚えはあるか?」
「ない。ないが覚えた。忘れん」
小さな宣言を立ててから、ギリーは床にしゃがみ込んだ。明かりの乏しい中を丁寧に探しまわり、豆の一粒一粒を拾い集めていく。手の平の上に集めきり、埃を払って、立ち上がった。司教は怪訝そうな顔をしてギリーを見ていた。
「勿体無いからな。豆の一粒とて無から生じるものでなし」
当たり前の説明をしたつもりだったが、その反応はお返しとばかりの笑い声だった。ギリーは憮然として一粒を口に放り込み、噛み締めて、飲み下した。滋味が口にも腹にも広がったように思えた。
それはまさに一人の男が誕生した黎明であった。
白仮面のギリー。
精鋭百騎を率いてアスリア王国南部勢力に協力し、第二王女マルガレータの戦術の師となる男の名だ。それは教会の推薦による抜擢で、厳しい調練でもって南部軍勢に機動戦闘の巧妙を伝えていくこととなる。そのことなしには南北の戦いは一方的なものとなったのかもしれない……そう言われるほどに抜群の実力を持った男であった。
しかし、その正体を知る者はいない。
誰に仮面の下を確かめられることもなしに、ギリーは駆け抜けるのである。




